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第三話 反乱前夜(11)

その時だった。

役人たちの背後から鋭い声が聞こえた。

「おやめなさい!」

それは、凛と響く女性の声だった。


役人たちはコイユールに掴みかかったまま、背後を振り返った。

コイユールも、ハッとして前方を見る。

そこには、一人のインカ族の女性が、役人たちを射竦めるような厳しい眼差しで立っていた。

コイユールは目を見張った。


その険しい表情にもかかわらず、まるで絵の中から抜け出てきたような、本当に、この世のものとは思えぬほどの麗しい女性がそこにいたのだ。

男性を凌ぐほどのすらりとした長身に、ほっそりとした、それでいて、しなやかな手足。

首は見たこともないほど細く、その上には、とうていインカ族とは思えぬ洗練された美しい顔があった。


高貴で繊細な目鼻立ち、しかし、その眼差しには毅然とした強さと、凛々しさが漲っていた。

いかなる悪行も許さない、そんな強い正義と信念に貫かれた瞳の色である。

とても女性的でありながら、一方で、非常に男性的な印象をも与える。

髪は流れるように長い黒髪で、それを背後に垂らし、一つにまとめて結んでいる。

その耳元には、インカ風の華やかな黄金のイヤリングが輝いていた。

そして、質の良い布地で仕立てられた、ただし、決して華美ではない西洋風の上品なロングドレスを纏っている。

年の頃は、20代半ばくらいだろうか。

褐色の肌も青銅色に輝くようで、そのあまりに美しくも凛々しい姿は、まるで戦の女神のブロンズ像がこの世に甦ったかのようだった。


さすがのスペイン人の役人たちも、そのインカ族の女性の気高い美しさに目を奪われて、暫し言葉もなく息を呑んでいた。

その女性は、まるで見下ろすようにして、役人たちに険しく厳しい声音で言った。

「その娘さんをお放しなさい」

一つ一つの言葉に、力と魂が宿っているように、きっぱりとよく響く。

役人たちは、かなり気圧された様子になっていた。


しかし、簡単に引き下がるわけにはいかぬとばかり、それでも相当頑張って虚勢を張っているというのがわかったが、なんとか言い返してきた。

「なんだ、お前は…!!

余計な口出しをすると、お前も一緒にしょっぴくぞ!」

しかし、その声には既に自信のなさが滲みはじめている。


美しい女性は、目を細めながら冷ややかにその役人を一瞥した。

「どのような事情があれ、そのように若い娘を傷つけ、幼い子どもを脅すなど、許されることではない。

ましてや、その娘のことも、何か証拠がおありなのですか?

いい加減なことで逮捕などしようものなら、あなた方の罪も問われますよ」

彼女は自国語であるケチュア語を愛しむように、毅然と澱みないケチュア語で語ると、コイユールの手首を掴んでいる役人の方に近づいてきた。


何気ない動きの一つ一つさえ、優美である。

そして、「お放しなさい!」と、最後通告を突きつけるかのごとくの気迫で、氷のように役人を睨みつけた。

役人の手が、力を吸い取られたかのように、コイユールの手首からはずれる。

役人は怯えを必死で隠すように、そのインカ族の美女を憎々し気に見やった。

「おまえ、何者だ…」


女性は、まるでナイフの刃のような冷ややかな眼差しで役人を見下ろしたまま言った。

「私は、ミカエラ・バスティーダス。

この地のカシーケ(領主)、トゥパク・アマルの妻です」

役人たちは、さっと顔を青くした。

そして、そそくさとその場を離れながら、それでも「次は、これですむと思うなよ!」と捨てゼリフを吐き、急ぎ足で消えていった。


驚いたのはスペイン人の役人だけではなかった。

コイユールもその場に固まっていた。

(トゥパク・アマル様の、奥様…?!)

一方、コイユールの背後から険しい眼差しで事の流れを見守っていた少年は、役人が立ち去るとすぐさま彼女の背後から飛び出し、その美しい女性の方に走り寄った。

「母上!!」

トゥパク・アマルの妻と名乗ったその女性、ミカエラは、少年をしっかりと胸に抱いた。

「フェルナンド、心配しましたよ。

お買い物の途中で勝手に離れてはいけないと、あれほど言っておいたでしょう」

それは、息子の身を心から案じる優しい母親の声だった。


それから、茫然自失しているコイユールの方に向き、ミカエラは声の調子を和らげて話しかけた。

「大丈夫ですか?」

コイユールは、息を吸い込んでから、やっと頷いた。

「怪我をしていますよ」

ミカエラは心配そうに、コイユールの額を見た。


コイユールの額からはまだ血が流れ続けており、頬を伝って肩のあたりに血の雫が滴っている。

コイユールは慌ててハンカチで額を押さえた。

そして、深く頭を下げた。

「助けてくださって、どうもありがとうございました」

本当は、少年の怪我のことなど説明しなければならぬことがいろいろあったが、何かひどく動揺していて、言葉にすることができなかった。


そんなコイユールをミカエラは静かな眼差しで見つめ、それから、涼やかに微笑みながら諭すように言った。

「お気をつけなさい。

どんな無法なこともやりかねない者たちだから」

そして、その美しい女性は少年の手をしっかりと握り、露店への道を戻っていった。



さて、ここで再び、話をトゥパク・アマルの反乱計画に戻そう。

首府リマでの、あのモスコーソ司祭との目通りによって、この植民地の圧政は単に代官レベルの非道によるものではなく、この国の統治機構の頂点に立つ者たちの意図もが絡むものであることを、もはやトゥパク・アマルは明確に認識せざるを得なかった。

トゥパク・アマルの訴えを副王に口添えするとのモスコーソ司祭の口約束も、所詮はあの場凌ぎのものにすぎなかった。

敵は単に末端の代官だけではない。

真の敵は、もっとこの国の中枢にいる絶対的権力者たちなのだ。


それは受け入れたくない現実だった。

そして、それは、トゥパク・アマルに最後の手段の選択を突きつけてくる現実でもあった。

いよいよその計画を実行せざるを得ない局面に、刻々と近づいていたのだった。


だが…――と、トゥパク・アマルは心の奥で呟いた。

最後に、あと一つ、やっておかねばならぬことがある。


トゥパク・アマルは自らのこれまでの軌跡を振り返った。

これまで、幾多の人々に会い、直接交渉に踏み切ってきただろうか。

反乱軍に同盟者として加わってもらうためのインカ族の者たちは当然だが、スペイン側の重要人物とも会うべき人間とは会ってきた。

末端の代官はもちろん、植民地巡察官アレッチェ、そして、この国最高の司祭モスコーソにも会った。


トゥパク・アマルは、水を打ったように静まり返った自室で、目を閉じた。

じっと自らの心の声に耳を傾けてみる。

残される相手は…――それは、この植民地最高の権力者、副王ハウレギ、その人である。

しかし、さすがに副王との目通りなど、一介のインディオのカシーケ(領主)に許されようはずもなかった。


トゥパク・アマルは、目を見開いた。

そして、立ち上がった。

決意を秘めた表情で、書斎に向かう。

彼とて、いやでも多くの流血を免れぬ反乱行為など、真実は望んではいなかった。

尊い命を一つでも失うこと、奪うこと、そのようなことは、真の意味での彼の信念に合致することではなかったのである。


トゥパク・アマルは、机上の燭台に蝋燭を灯した。

蝋燭の炎が不安定に揺れる。

そのおぼつかない光が、トゥパク・アマルの瞳をも揺らした。


彼はペンを握った。

そして、自らの心の奥底から湧き起こる言葉を一つも漏らさず聴き取るかのように、全神経を集中させながら、紙にペンを走らせはじめた。

それは、まさしく副王ハウレギ宛ての嘆願書であった。


以下は、歴史上の資料として残る、真にトゥパク・アマル自身の手による嘆願書の引用(抜粋)である。

いかなる創作よりも、彼の渾身の思いが伝わってくるため、そのままここにご紹介したい。

これは、1777年12月に副王ハウレギ宛てに提出された、トゥパク・アマル自身の手になる本物の嘆願書の内容である。


『寛大なる王陛下に謹んで申し上げます。

王陛下の御意図の中には、他でもなく、インカ族の者たちの妥当な扱いと保護の問題があるかと存じます。

ミタ(強制移住労働)に関して申しますならば、鉱山の採掘、貴金属の抽出にも増して重要なことは、王陛下の御慈悲が行われることであります。

わたしが申すまでもなく、もしインカ族の者が死に絶えてしまった暁には、もはや鉱山で働き、貴金属を抽出する者もなくなってしまいましょう。

そうなってしまえば、幾ばくかの貴金属の生産すら、もはやかなわぬこととなりましょう。


王陛下、あなた様はインカ族の民の窮状をご存知でしょうか。

鉱山での強制労働を言い渡されたインカ族の者たちは、二度と故郷へ戻らぬために、つまり、死ぬために、故郷の家を売り、家財を売って旅立っていくのであります。

インカ族の者たちは、故郷への思いも、これまで大切にしてきた家財その他への愛着も、可愛がってきた家畜たちへの情も、すべてを犠牲にして、強制労働を言い渡された鉱山へと向かうため、その僅かな旅費を捻出するために、それらを売り払い、旅立っていくのであります。

妻と共に、息子と共に、あるいはただ一人、インカ族の民は故郷を捨てて強制労働へと旅立って参ります。

そして、コルディエラ山脈の谷と高原の難路2百里の道を歩みはじめるのです。

鉱山へと向かう道中が過酷であるとすれば、強制労働の期間を終えた帰路の道は、疲労と貧困のために、さらに難儀であります。

もっとも、普通は、帰路につける前に、二度と帰れぬ死路に旅立っておりますので、帰路に苦しむこともないわけですが。


それほどの状況が、永きに渡り続いているのであります。

王陛下、このような状況がこれ以上続いてはなりますまい。

何卒、その高貴な御配慮と御慈悲の下さらんことを、伏してお願い申し上げます』


この書面では、当初からトゥパク・アマル自身が最も心を痛めてきたことの一つ、あの鉱山でのミタ(強制移住労働)の改善が中心的に訴えられている。

すべてのことを一度に訴えることは、もはや望めなかったのだ。

せめて、最悪の部分から改善を求めていくしかなかった。


この嘆願書に対する副王の出方によって、最終手段に打って出る!

…――トゥパク・アマルは決意を秘めた、しかし、揺れる眼差しで、机上の不安定な蝋燭の光を見つめた。


◆◇◆ご案内◆◇◆

当サイトでは、本館サイト(HP)で連載中の作品を、順次、掲載しております。

実際の物語は、既に反乱中期以降まで進んでおり、そちらの内容は本館サイトに掲載済みです。

先をお読みになりたい方、ご興味のおありの方は、下記のサイトまでどうぞ!


『コンドルの系譜 〜インカの魂の物語〜』 (by 風とケーナ)

http://homepage2.nifty.com/taiyoutotsuki/nakabyoushi%201.htm (本館)

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