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第三話 反乱前夜(5)

今、トゥパク・アマルの眼前には、広大な美しい湖が広がっていた。

標高3800メートルという世界で一番高所にある湖、ティティカカ湖である。

世界にも数少ない古代湖のひとつでもある。

湖には、葦でできたウロス島をはじめとして、太陽の島、月の島など41の大小の島々が点在し、かつて太陽の島には黄金で飾られた神殿がそびえ輝いていた。

言うまでも無く、それらの黄金はずいぶん昔にスペイン人によってすべて持ち去られていたのだが。


トゥパク・アマルは号令をかけ、商隊に休息を命じた。

空気の薄い高所を進んできたため、商隊員たちにも、ラバたちにも、十分な休息が必要だった。


トゥパク・アマルは湖岸に降り立ち、午後の陽光に輝く紺碧の湖面を眺めた。

この湖には、インカ帝国の創始者マンコカパクが降り立ったという伝説が伝えられている。

確かに、広大な湖面に青い空が鏡のように映り、その様子は神秘と幻想に満ちている。


トゥパク・アマルは、その神秘的な美しさに心を奪われた。

空気が非常に澄んでいるため湖や空の青さがいっそう増し、その自然美はとうてい言葉では言い尽くせぬものだった。

まるで湖に吸いこまれそうな錯覚にとらわれる。

高所にある湖面を吹き渡る風は身を切るように冷たかったが、彼にはむしろその冷たさが心地よかった。

長い黒髪が風の中に舞っている。


光を受け、風を切り、神秘の湖岸に立つその姿を、商隊員たちは、正確には商隊員を装った護衛官たちだが、息を詰めて見守った。

彼らの目に、そのトゥパク・アマルの姿はインカ皇帝の降臨さながらに見えていたことだろう。


父祖発祥の地とされるその伝説の湖に心を奪われたようなトゥパク・アマルの傍に、いつもの側近ビルカパサがゆっくり近づいた。

「トゥパク・アマル様、そろそろ出立いたしましょう。

この辺りの道は、日が落ちると危険です」

トゥパク・アマルも我に返って、同意した。

今回の旅路は長く、危険を伴うものだった。

このティティカカ湖の周辺は、トゥパク・アマルの領地があるペルー副王領のはずれであり、むしろ、隣接するラ・プラタ副王領に属する地域であった。

この18世紀の時代、あまりに広大なかつてのインカ帝国は、スペイン人によって幾つかの副王領に分割統治されていた。


トゥパク・アマルらのいる「ペルー副王領(首府リマ)」のほか、「ラ・プラタ副王領(首府ブエノス・アイレス)」、「新グラナダ副王領(首府ボゴター)」があった。

スペイン人の圧制に苦しんでいたのは、トゥパク・アマルらのいるペルー副王領のインカ族の人々だけではなかったのだ。

他の副王領でも、無数のインカ族の人々が、そして、混血児や黒人たちが、あるいは、当地生まれの白人が、スペイン渡来の白人たちによって苦しめられていた。

トゥパク・アマルはそれらの地域の人々にも、当然ながら目を向けていた。

それ故、今回の旅は、ラ・プラタ副王領のインカ族に対して影響力をもつ猛将フリアン・アパサに会うことが目的だった。

アパサも表向きはトゥパク・アマルと同様に商売を行っており、コカや服地などを商って遠方までしばしば旅をし、インカ族の間で顔も広かった。


この時、トゥパク・アマルはこのアパサなる人物との面識はまだなかったが、彼のこの地域での影響力を考慮すると、手を携えるべき重要な人物には違いなかった。

アパサの協力を得られれば、このラ・プラタ副王領で苦しむ人々を救済するための大きな要となるはずだ。

それにしても、アパサに関する噂は、その評価が非常にまちまちであった。

アパサの右に出る将はいないと絶賛する者もいれば、卑しく、ずるく、獰猛な人間であるという悪評判もあった。


フリアン・アパサ…――果たして、いかなる人物なのか。

トゥパク・アマルは、間もなく会えるであろうその人物に思いを馳せた。

アパサは、この神秘のティティカカ湖周辺の部落に住んでいた。

トゥパク・アマル率いる商隊はティティカカ湖を出立し、アパサの屋敷のあるシカシカの部落への道を進み始めた。


実は、この地域界隈は、かつてのインカ帝国に征服された地域でもあった。

この辺りは、もともとインカ以前プレインカの巨石建築や多数の土器で有名なティアワナコ文明を築いた誇り高い民族の地であり、実際、この時代に至っても、彼らにとってはかつての征服者であったインカの人間を好意的に思わぬ者も少なくはなかった。

そういう意味では、トゥパク・アマルにとって、この地域の民は、スペイン人とはまた別の次元で難しい相手でもあった。


ティティカカ湖からシカシカへの道は、さきほどの神々しい雰囲気とはうって変わって、うら寂しい様相に変わっていた。

人気の無い荒涼たる高原を一本の乾いた道が貫き、やや低くなった土地に稀に耕地が見えるほかは、トーラという木本の植物か、イチュという固い草本の植物が生えているくらいで、実に淋しい。

しかも、プレインカ時代に作られたとおぼしき、土のチュルパ(家形の墳墓)が所々に林立しているのが見え、商隊員の心をいっそう、うら悲しい気持ちにさせていた。

次第に夕闇が迫ってくる。

人気のない道を、100頭ほどのラバと50人ほどの商隊員は整然と列を成し、悄然と進んでいった。


トゥパク・アマルは予測できない奇襲に備えて警護の目を光らせるよう指示をし、実際、ビルカパサをはじめ隊員たちの眼光は険しくなっていた。

トゥパク・アマルは馬を降り、懐からオンダ(投石器)を出して肩にかけた。


その時だった。

ふいに草陰から黒い影が幾つも飛び出してきたかと見えた途端、トゥパク・アマルらの商隊を50〜60人の褐色の男たちが取り囲んだ。

ビルカパサが素早くトゥパク・アマルの前に身を投げ出し、敵襲に構える。

商隊員を装っていた護衛官たちも、トゥパク・アマルを守るように円陣を組み、オンダの紐に手をかけて敵の動きに眼を光らせた。

両集団の間に強い緊張感が走り、無言の睨みあいの瞬間が流れた。


トゥパク・アマルは鋭い視線で、相手方の一団をざっと眺めた。

褐色の兵ばかり、いずれも、インカ族と思われた。

先方もトゥパク・アマルの動きに、まんじりともせず、険しい視線を投げている。

自分のいかなる能動的な動きも、相手を刺激することになるだろう。


トゥパク・アマルはその身を動かさぬよう慎重に肩だけ動かし、オンダを地面に捨てた。

ゴトリと鈍い音がして、彼のオンダが地面に落ちる。

敵方のみならず、味方の護衛も息を呑んだ。


しかし、確かに、その瞬間、場の空気が微かに緩んだ。

その機を逃さず、トゥパク・アマルは平常通りの口調で名乗った。

「わたしは、ペルー副王領ティンタ郡のカシーケ、トゥパク・アマルだ。

シカシカの集落へ商用で向かっている」

トゥパク・アマルが言い終わるか否かという間に、突如、彼の前に戦斧が投げこまれた。

それは、インカ族が武器として用いる、いかつい戦用の斧であった。

即座にビルカパサが身を翻し、斧が投げられてきた方向に向かって右手にオンダの石を掲げ、左手で紐の端を握り締めた。

いつでも振り切る姿勢である。

ビルカパサの目が、鷲のように険しく光った。


「待て」

トゥパク・アマルはビルカパサを片手で制し、戦斧を投げた主の方向を鋭い目で見据えた。

彼は警戒しつつも、冷静な頭で状況を分析していた。

相手は戦斧で切りかかってきたのではなく、投げてよこしてきたのだ。

その意味は?

恐らく、挑発か…――。

少なくとも、即座に命を奪おうという意図ではないらしい。

トゥパク・アマルはビルカパサを制した手でさらに彼を横にどかせ、自分の正面を敵の前に開いた。

そして、身構えながらも慎重に身を屈め、戦斧を手に取った。

ずっしりとした重量感が手に伝わってくる。


斧はインカ族にとってオンダと並ぶ代表的な武器の一つである。

アンデス一帯はその地形柄、山岳戦が多く、接近戦に有効な戦斧や棍棒の類が発達してきた。

戦斧は一般の斧よりも刃が鋭く、重く、片手で扱える代物ではない。

が、敵方の集団の中から一人の男が、戦斧を軽々と片手で握りながら一歩前に進み出た。

身長は中位で、筋骨隆々たる、20代半ばと見えるインカ族の男である。

服装はいかにも原住民的で頓着ない薄汚れた伝統的な貫頭衣を着ているが、その目は小さいながらも深く窪み、活動性と意志の強さが漲っていた。

一方で、その相貌には、復讐心に憑かれたような獰猛さがうかがえ、危険な野獣をも連想させる。


その男は不遜な態度で、トゥパク・アマルを見据えた。

そして、不気味に笑った。

「おまえが、トゥパク・アマルか」

トゥパク・アマルを呼び捨てにされたことで、再びビルカパサが肩をいからせ、身を乗り出した。

トゥパク・アマルは再度ビルカパサを制し、「そうだ」と、やや目を細めながら応えた。


「俺は、フリアン・アパサ。

今夜の客人をお迎えにあがった」

そして、再び不遜に笑う。

トゥパク・アマルも、やや冷ややかな眼差しに変わった。

「これはこれは、アパサ殿でしたか」

難しい相手だと予想はしていたがここまでとは、と内心苦笑した。


「トゥパク・アマル、おまえの腕が知りたい!

他の話はそれからだ」

アパサは単刀直入に言い放った。

それは、いきなりの戦斧での果し合いの申し出だった。

しかも、アパサはインカ族の中でも名の知れた猛将である。

さすがのトゥパク・アマルも不意をつかれた思いがしたが、断って事がすみそうな状況ではなかった。


「何を申されるか、アパサ殿、このお方は…!」と目を血走らせ、アパサの方に猛全と挑みかからんばかりのビルカパサをまた制して、トゥパク・アマルは戦斧をゆっくり構えた。

30代にさしかかったとはいえ、トゥパク・アマル自身も腕に覚えのある武者である。

アパサの眼差しは不遜ではあったが、ひどく真剣でもあることを、トゥパク・アマルは見逃さなかった。

この先、命運を共にする相手として足る人物か、見極めんとの考えであろう。

このようなやり方が、人を見定める際のアパサ流なのに違いあるまい。

ここは受けて立つのが筋であろう。

しかも、上手く事を運べれば、かつての征服者インカへの復讐心に燃えるアパサの心を開くことにもつながるかもしれない。


トゥパク・アマルは横目で地形を確認した。

幸い、トーラの密集する林が近くにある。

彼は今にも噛み付いてきそうなアパサを見た。

猛将ときこえの高いその男の腕を、自ら見定めてみたい衝動も湧いてくる。

「わかった。

申し出に応じよう」

トゥパク・アマルの答えに、ビルカパサは驚愕してトゥパク・アマルに向き直った。

普段冷静なビルカパサでも、さすがに動揺を隠せないらしかった。

「トゥパク・アマル様!

このようなところでお命を危険に晒すなど、あなた様らしくありませぬ!

あのような者の挑発に乗られては…――」

周りの護衛兵もビルカパサに同意し、トゥパク・アマルを口々に制した。


トゥパク・アマルは「大丈夫だ」と言って上着を脱ぎ捨て、ビルカパサや兵が止めるのをかきわけアパサの前に歩み出た。

アパサはニヤリと笑って、トゥパク・アマルを見た。

その目はやはり不遜ではあったが、先ほどとは少し色が変わり、無謀な申し出を受け入れた眼前の男、トゥパク・アマルへの肯定的な色合いが多少なりとも混ざっていた。

トゥパク・アマルは、その目の色の変化に応えるように、彼自身もアパサへの礼を目で送った。


「誰も手出しをするな!!」

アパサは言い放つと、いきなり片手で握った戦斧を振り下ろしてきた。

トゥパク・アマルは素早く背後に飛んだ。

アパサの振り下ろした斧から生じた衝撃波は、まるで地面をえぐるような激しさでトゥパク・アマルの足元を揺るがした。

トゥパク・アマルは敏捷にアパサの右後方に走った。

それは、先ほど確認したトーラの林のある方向だった。


「逃げる気か!」

アパサが再びトゥパク・アマルめがけて斧を振り下ろす。

地面の岩が激しい音を立てて粉砕された。

トゥパク・アマルは再び俊敏に斧をかわし、トーラ林の方向へとさらに移動した。

アパサは繰り返しトゥパク・アマルめがけて鈍器を振り下ろす。

トゥパク・アマルは敢えて、ぎりぎりまでアパサの斧をひきつけた。

それ故、アパサの斧には必要以上に力が入り、空を切って、地面へのめりこんだ。


アパサの斧をかわしながら、トゥパク・アマルは敵の斧使いの特性を冷静に分析した。

斧は重い鈍器である。

斧は一撃の破壊力は大きいが、攻撃が遅いこと、及び、体力を消耗しやすいという欠点がある。

鈍器であるが故に凶悪なのだが、空振りの時間的ロスもかなり大きい。

アパサは片手で戦斧を振るうほどの怪力だった。

しかし、それ故、力に頼っていた。

速さと機動性の面では、トゥパク・アマルの方が勝っていた。

トゥパク・アマルはアパサの攻撃を俊敏にかわし、消耗戦に出た。

しかし、アパサの体力は並大抵ではなく、しかも、トゥパク・アマルほどでないにしろ、並外れたスピードももっていた。


野獣のごとく獰猛に挑みかかってくるにもにもかかわらず、アパサのその身のこなしは、どこか華麗で美しくさえある。

しかも、アパサはその怪力ゆえ、斧の連打を軽々と行えた。

否、単なる怪力なのではない。

心身共に極限まで鍛え上げられているからこそ、成し得る技なのだ。

トゥパク・アマルはアパサの刃をかわしながらも、その男の腕に感服していた。

これだけの腕をもっている者は、そうはいまい。

この男が「猛将」と謳われるのは、誇張や偽りではないらしい。


そのままトゥパク・アマルはトーラの林の中に走り込んだ。

斧は強力だが、障害物が密集した状況では使えない。

トーラの木をなぎ倒し、斧を縦横無尽に振るいながら、アパサはトゥパク・アマルを繰り返し襲った。

が、もはや木々が邪魔をして、その威力は落ちていた。

アパサは、林に至るまでにトゥパク・アマルを仕留められなかったことを悔やんだ。

トゥパク・アマルは、とにかく身のこなしも足も不気味に速かった。

肩で息をしながら、アパサは苦笑した。

額から頬を汗が伝う。


その時だった。

アパサの斧をかわし、トーラの中を走るトゥパク・アマルがピタリと動きを止めた。

もともと長身のトゥパク・アマルの姿が、アパサの目には己に覆いかぶさる黒い影のごとくに見えた次の瞬間、トゥパク・アマルはそのまま斧を両手で右に振り上げ、アパサの首めがけていかずちのごとく振り下ろしてきた。

あまりにも瞬間的な出来事だったが、さすがにアパサは俊敏に身をこなし、振り下ろされる斧を自らの斧で受け留めた…――。


そのはずだった。

が、トゥパク・アマルは、アパサの首めがけて右上から振り下ろすかと見えたその戦斧を瞬時に左に振りきり、そのままゆっくりとアパサの左足めがけて振り下ろした。

アパサの宙空に構えた腕は虚しく空を切り、トゥパク・アマルの振り下ろした斧は、しかし、振り下ろすというよりも、ゆっくりとアパサの左足に当たった。


斧が「入る」というより「当たった」という程度だったが、互いに譲らぬ攻防戦の中で、それはトゥパク・アマルにとって有利なものだった。

恐らく、トゥパク・アマルは敢えてゆっくりと当てた程度に留めたのだが、アパサの体はそのまま地に沈んでいった。

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