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第一話 ビラコチャの神殿(1)

時は1774年のペルー。

スペイン人によってインカ帝国が侵略され、約200年の時が経っていた。

そのペルーの南部高原に、かつてのインカ帝国の旧都クスコがある。

そのクスコの南方140キロほどの所に、この物語の最初の舞台となるティンタ郡がある。

この郡は南北に180キロ、東西に90キロほどの広さで、美しい谷を中心に、肥沃な農地が発達している。

この郡の人口は約2万だが、その大部分はインカ族の末裔であり、スペイン人から「インディオ」と呼ばれる人々であった。


コイユール(インカの言葉であるケチュア語で女性の名:「星」を意味する)は、集落から離れた山道の高台に立ち、この谷の背後に広がる美しく清冽な山々をまぶしそうにみつめた。

はるかに連なるコルディエラ山脈の霊峰がそびえ立ち、その頂きには白い雪がまだ厚く残っている

季節はまもなく初夏になるが、アンデスの高地の空気は冷たく、そして、とても澄んでいた。

このあたりの気候はアンデスの中でも、特に厳しく、寒いのである。


コイユールは涼しげな目元をした、今年12歳になる少女だった。

青銅色に見えるその褐色の肌の色は、彼女がインカ族の末裔であることを示していた。

つややかな長い黒髪を三つ網にして、首の前に垂らしている。

色とりどりの刺繍の入った長いスカートは、この地域の一般的な平民の普段着である。

スカートと黒髪が、まだ冷たい初夏の風にパタパタと音を立ててなびいている。


やっと谷の氷が解け始め、緑の草が芽吹くこの時を待っていた。

山を見やっていた、その黒い澄んだ瞳を前方の道に戻して、少女は再び人気のない山道を歩きはじめた。

「急がないと、夕日の時間に間に合わなくなってしまう…」

一人呟くと、小走りに道を登っていく。

集落を出て、もう1時間以上は山道を進んできただろうか。

高地の薄い空気の中では、息が少し苦しくなってくる。

しかし、この谷で生まれ育ったコイユールは、それほど苦にすることもなく、身軽な足取りで先を急いだ。

 

はるか谷の下には、ビルカマユ川が青く輝きながら蛇行し、流れている。

このビルカマユ川は、やがてマチュ・ピチュの傍らを通り、はるか彼方の海に注いでいく。

少し傾きはじめた太陽の光が川面に反射して、黄金色に輝いている。

遠く、山鳥の声が響いていた。



この付近で特記すべきことは、ビラコチャの神殿があることである。

ビラコチャ神はケチュア語で「創造主」を意味する。

アンデス地帯で古くから信仰されてきた神であり、インカ最大の神でもあった。

インカの初代皇帝はビラコチャ神の御子であるとも言い伝えられていた。


コイユールが目指したのは、このインカ最高神の神殿である。

スペイン人に侵略された後はインカの人々はキリスト教への改宗をせまられ、表立ったビラコチャ神への信仰は続けられなくなっていた。

かつては様々な聖なる儀式が執り行われたインカの精神的なシンボルでもあったこの神殿も、今は山中にひっそりと眠るようにたたずんでいる。

しかし、インカの人々の魂の中には、今もビラコチャ神への熱い信仰心が確固として生きていた。


このインカ最高の神、創造主ビラコチャに捧げられた神殿を見るたびに、コイユールの心は、往年のインカ帝国の栄光を想って熱くなった。

征服下の時代に生まれたコイユールにとって、それは想像するしかないものであったが、この神殿に訪れるたび、祖先の記憶が甦ってくるような感覚になるのだった。

物心ついてからというもの、毎年、雪解けを待って、誰よりも早くこのビラコチャ神殿を訪れることが習慣のようになっていた。


そして、神殿は今年も静かにそこにあった。

神殿の基底部は、蟻一匹通さないほどの精緻な石組みでしっかりと支えられていた。

太い堂々とした石組みの柱を備えた堅固な建造物は、厳かな雰囲気に包まれている。

夕暮れ時の黄金色の光に照らし出されるその神殿は、ひときわ美しいことをコイユールは知っていた。

凛とした冷たい風に吹かれ、西日に照らし出された人気のない神殿は、長い漆黒の影をひき、人をよせつけない神秘的な威光を放っている。


神殿から少し離れた場所で足を止め、コイユールはその雰囲気に思わず息をひそめた。

犯しがたい神聖さと、インカの祖先の熱い魂が、体の奥底から湧き上がってくるような感覚にとらわれる。


その時、神殿の柱の陰でふいに人影が動いた。

コイユールは、はっと息を呑んで、反射的に草かげに身をかくした。

(誰かいる?!)


人影はゆっくりと柱の横を通って、人気のない神殿内から一歩外へ踏み出してきた。

そして、人影は神殿の柱に片手を添えたまま、はるか山の端に沈もうとしている太陽の方を眺めやった。

西に傾いた黄金色の太陽の光は、雪を頂いた山頂を染め上げながら、ひときわまばゆく輝いた。

その瞬間、そこにいる人物の姿がくっきりと照らし出された。


それは、凛々しい風貌のインカ族と思われる男性であった。

そのひきしまった肢体に巻きつけられた黒ビロードのマントが、風に翻っている。

帯をしめた腰のあたりまである長い黒髪も、日暮と共に冷気を増した風の中に舞っていた。

膝と靴のあたりにある金の留め金が、陽光を反射して、鋭い光を放つ。


端正な横顔に西日が降り注ぎ、その瞳が金色に反射しているのが遠くからもわかる。

切れ長の目もとには力がみなぎり、光を受けて、まるで炎が燃えているようだ。

それは激しく、情熱と怒りに満ちているようにも見え、しかし、どこか悲哀を帯びていた。

日が西にさらに傾くにつれて、朱色が増し、その人影をいっそう染め上げていく。

まるで全身が黄金色に燃え上がっているようだった。


コイユールは目をこすった。

心臓の鼓動が高く鳴り響いている。

幻覚を見ているのかもしれない。

一度、ギュッと目をつぶって、頭を振り、そして、ゆっくりと目を開けた。

そして、さきほどの人影の方にもう一度目をやった。


そこには、誰もいなかった。

ただ、上空を一羽のコンドルが高く飛び去っていった。

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