藍の追憶
エドムンド・フォン・リュミエールは、王家に仕える数多の公爵家の中でも、
とりわけ影響力を誇る名門三公爵家のひとつ――リュミエール公爵家の当主である。
夜空を思わせる濃藍の髪に、歳を重ねても衰えを知らぬ端正な顔立ち。
その立ち居振る舞いは常に冷静沈着で、清廉な印象を人々に与えていた。
まさにリュミエール家の名にふさわしい人格者、と社交界でも広く知られる存在であった。
同時に彼はまた、社交界随一の愛妻家としても有名だった。
その彼が、この世で最も愛した妻を亡くしたとき――
リュミエール家は勢いを失い、衰退の道をたどるのではと囁かれた。
だがエドムンドは、決して人前で悲嘆に暮れる姿を見せなかった。
公務にも社交にも毅然と臨み、職務を滞らせることなく果たし続けたのだ。
その姿に、家臣や同輩たちは「心配は杞憂だった」と安堵したほどである。
しかし、後妻を迎えることはなく――
彼はただひたすらに、公爵家の力をさらに強固なものへと押し上げていった。
その裏には、亡き妻マリアンヌを偲び、愛娘エリスを溺愛する私的な顔があった。
屋敷の中で、エリスが欲するものは何でも与え、彼女の我儘を笑顔で受け入れる。
その様子に落胆する者もいたが、エドムンドは公務において誰よりも成果を上げ、周囲に不満を言わせないほどの力でねじ伏せてきたのである。
だが、彼が娘を溺愛するのは、妻の面影を重ねていたからではなかった。
――マリアンヌの葬儀の日。
幼いエリスは一粒の涙さえ流さなかった。
その小さな背中が、母を失った罪を背負い込むかのようにエドムンドには映った。
母を死に追いやったのは自分だ――
そう語るかのような光の映らない瞳。
葬式後しばらくの時が経ち、まるで自ら罰を望むかのように我儘を言い、無茶をするようになった。
エドムンドには、その行為の裏にある悲しみが痛いほどわかっていた。
だが――そんな状況の娘に罰など与えられるはずがなかった。
罰してしまえば、その罪悪感を一生拭えなくなってしまう。
「そうではない。エリス……お前は愛されて生まれてきたのだ」
「お前が生まれてきてくれて、本当に良かったのだ」
その思いを伝えたくて、彼女の要望に応え続け、安心させようと努めた。
今でも正しい選択なのかは分からない。
だが、父としての愛情がそうさせたのだった。
そして今日もまた、早朝から膨大な書類を裁き、各地からの報告に目を通していたとき――
部屋の扉を叩く音が聞こえた。
まだ朝食には少し早い時刻である。
「…入れ。」
重厚感のある扉から姿を現したのは執事長のクラウスだった。
「旦那様」
深々と一礼したのち、クラウスは穏やかな声で口を開いた。
「お嬢様より、直々にお呼びがございました」
「……エリスが?」
思わず手を止め、エドムンドは顔を上げる。
クラウスは小さく頷き、言葉を選ぶように続けた。
「はい。本日のお嬢様は、いつもと様子が異なっておられます。
朝早くよりご自ら身支度を整え、まるで――」
そこでクラウスの言葉は途切れた。
少し悩んだ素振りを見せたクラウスは言葉を紡ぐ。
「…旦那様直々に伺っていただいたほうが良いかと」
「そなたがいうのならそうするが…ともかく用件を先に教えてくれ」
「室内の調度品を変えたいとのお話かと」
「……家具を変えたいと、そう言ったのか」
「左様にございます」
エドムンドは眉を寄せ、わずかに瞼を伏せる。
贅を尽くしたあの部屋に不満などあるはずがない。
だが――きっと彼女にとっては、そういうことではないのだ。
「クラウス…そなたには苦労をかけるな」
「とんでもございません。私の務めですゆえ」
クラウスの返答は簡潔だったが、その声には確かな忠誠と、主への慈愛が滲んでいた。
エドムンドは椅子から立ち上がり、濃藍の髪を揺らしながら窓辺へ歩み寄った。
朝日が射し込む光の中、その横顔には厳しさと優しさが同居していた。
「……だが、呼ばれているのであれば、私が行かぬわけにもいくまい」
エドムンドは上着を整え、扉へ向かって歩き出した。
クラウスに案内されるまま部屋へ足を踏み入れたエドムンドは、息を呑んだ。
そこにいたのは、ただの幼い娘ではない。瑠璃色のドレスに身を包み、静かに立ち尽くす姿は――亡き妻の面影を宿していた。
エドムンドの胸に、忘れかけていた記憶が次々と蘇る。優しく微笑む最愛の人。産声を上げたばかりの小さな命を抱く腕の温もり。
驚きと戸惑いと、胸を焼くような喜びが一度に押し寄せ、息が詰まる。
「お父様……お願いがございますの」
エリスの声音は澄み切っていて、どこまでも穏やかだった。
その眼差しに射すくめられ、エドムンドは何も言えず、ただ立ち尽くすしかなかった。
頬を伝う雫に気づいたとき、自分の口からこぼれた名を止められなかった。
「……マリアンヌ」
と。