微光
――コン、コン。
控えめながらもはっきりとしたノックが、室内の空気を揺らした。
「エリスお嬢様。クラウスでございます。どうかなさいましたでしょうか」
クラウスは公爵家に長年仕える執事長。
その穏やかな物腰と知的な働きぶりで、公爵家を陰から支え続けてきた人物だ。
年を重ねてもなお背筋は真っ直ぐに伸び、白手袋をはめた手の仕草までが隙なく、まさに「執事」を体現した存在だった。
おそらく、先ほどのサラの声を聞きつけて駆けつけたのだろう。
扉の向こうで返事がないのを訝しんだのか、クラウスは「……お嬢様? 失礼いたします」と告げ、少し強引に部屋へ入ってきた。
「エリスお嬢様、いったい何が……。もしよろしければ、このクラウスにお聞かせいただけませんか」
にこやかにそう言いながらも、サラを一瞥すると低い声で言葉をかける。
「君は、もう下がってよい」
先ほどまでの穏やかさとは打って変わって、冷えた声音。
それは主君を立てるための行動にも見えたが、同時に侍女を庇うような気配もあった。
クラウスの態度を見て、エリスは悟った。
――これは、完全に誤解されているわね。
彼の目に映っているのは、床に膝をつき、今にも泣きそうな顔で主人を見上げる侍女と、癇癪持ちのワガママ令嬢。
その構図では、今までの評判も相まって誰が見ても「エリスが加害者で、侍女が被害者」としか思えないだろう。
「……はい」
サラは顔を俯け、絶望したような声を洩らした。退出しようと身を翻す。
「待って!」
――このままじゃ、誤解が解けない。
私はもう、以前の私とは違うのに!
その声に、サラがはっと顔を上げて振り返った。
「クラウス。彼女は悪くないわ」
エリスは真っ直ぐに執事を見据え、はっきりとそう告げた。
「それより……髪とドレスを整え直したいの。今のままでは、とても人前に出られないわ」
姿見に映る自分を見て、思わず肩を落とす。
淡い色合いのドレス、きつく巻かれたツインテール、濃すぎる紅。どれもこれも、自分を安っぽく見せるばかりだった。
「それと……」エリスは視線を巡らせ、部屋の調度品を見回した。
「この部屋そのものも、どうにかしたいの。一式変えてもらうことはできる?」
「お嬢様…それは……」
クラウスは少し眉をゆがめた。
今の彼はきっと、湯水のようにお金を使う私を窘めようとしているのだろう。
以前の私は彼の言葉など耳に入らず、むしろ小言が多くて避けようとしていたくらいだった。
今考えれば、あの言動も彼なりに私を案じ、良き淑女となれるよう必死に導こうとしてくれていたのだ。
私を見捨てず、傍にいてくれた存在に今更ながら気づき、視界がにじみそうになる。
「勘違いしないでほしいの。すべてを新しく買い直してほしいわけではないわ。
今のこの部屋はあまりにも華美すぎて落ち着きがないから、もっとシンプルなものにしてほしいの。
屋敷のどこかに使われていない家具はないかしら?」
その言葉にクラウスは目を見開く。無理もない。
以前のエリスであれば「もっと豪華に、新しいものを」と言うのが当然だった。
(……見栄のために飾り立てることに、もう何の意味もないのよ。あの日の豪華なドレスや装飾品の数々は、私を縛る檻のように思えたのだから。)
クラウスは少しだけためらってから口を開いた。
「奥様のお部屋が、亡くなられてからもそのまま残されております。旦那様が強く望まれたことで、定期的に手入れもしておりますゆえ、家具はまだ十分に使えましょう」
「……お母様のお部屋」
胸の奥に、不意に熱いものが広がった。
「ただ、旦那様の許可が必要になるかと。」
「そうね。お父様に許可をいただくわ」
エリスは小さく頷く。
だが、問題はそれだけではなかった。
クローゼットを開くと、中には色とりどりのドレスが並んでいたが――どれも今のエリスには華美すぎて、落ち着きのないものばかり。
「……どれを選んでも、結局は同じことね」
思わずため息をつくと、執事長が控えめに口を開いた。
「……実は、亡き奥様が生前、お嬢様のために数着のドレスをお見立てになっておられました」
エリスは振り返る。
「……お母様が?」
「はい。お嬢様が小さな頃から成長された後まで、どの年齢でもお召しいただけるようにと、様々なサイズで仕立てさせておられたのです。流行の移り変わりを気にされ、随分と悩まれておりましたが……それでも最後には、『どうしても残したい』と」
耳に届く言葉に、胸が締めつけられる。
そんな話、今まで一度も聞いたことがなかった。
「……知らなかったわ。私、何も……」
声が震える。知ろうとしなかった自分が、今になって恥ずかしくてたまらなかった。
「以前、お見せしたことがございます。しかし……お気に召さないとおっしゃられて……」
クラウスの声は言いにくそうに途切れた。
その言葉が、刃のように心に突き刺さる。
(あのときの私は、お母様の想いさえ退けていたのね)
「…ひとまず、そのドレスを持ってきてちょうだい」
エリスは深く息をつき、静かにそう告げた。