問題解決の指南
ある問題に直面した時、僕らはそれを解決するか、もしくは解決しないかの何れかを選ぶことができる。
解決する事を選んだ場合は、まずその問題が果たして自分にとって本当に『問題』であるのかを考えなければならない。
即ち、その問題が自身の知識や経験不足によって引き起こされた錯覚ではない、という事を確認しなければならない。
問題と自身の間に因果関係を見出さなければならないのである。
『朝ごはんにパンを食べている人間は犯罪者だ』
これは言わずと知れたジョオクの一つである。
とある警察組織にて行われた調査によると、刑務所に収監された犯罪者について、収監される直接的な発端となった事件当日の朝、ほぼ全員がパンを食べていたという。
故に朝ごはんにパンを食べるべきではない、犯罪者になってしまうぞ、と。
当然、ある程度の理性を兼ね備えた僕らなら、これが荒唐無稽も甚だしい事実無根の与太話である事を確信できる。
何故なら……
馬鹿馬鹿しい……説明することすらも愚かしい…………
こういった僕らの正常に機能した認識は、問題を真に『問題』たらしめる。
ここで漸く僕らは、問題を解決するという手段を得るのだ。
さて、ここからが大事である。
僕らはその『問題』を解決すべく、最大化を図らなければならない。
最大化とは、『問題』を解決する為であれば、その他如何なる不利益をも被ってみせる、という決意を意味する。
例えば、何かを欲する事が問題であるならば、解決するために自身の持ちうるお金や、時間をはじめとする如何なるリソオスをも使い果たしてみせるという事である。
こうした過程を経て僕らは問題を解決する。
今述べた論理は一聴、最大化を図っても尚問題を解決できないのであれば、それはその人自身の怠慢であるという風に取られかねない。
しかし、僕が言いたい事はそういう事ではない。
僕の言いたいのは、
「そんなことはみんなとっくのとうにやっている」という事だ。
つまり、『問題』に直面した状態の人間は、それ即ち自然な状態であるという事が言いたいのだ。
僕が君たちに説くのは、現状肯定の哲学である。
生存の過程に於いて、僕らはその時々における自身の経験や知識に基づいた最善の選択を取ってきたはずだ。
今思うと一見合理的でなかった若き日の言動も、その時々の自分にとってみれば最善の選択であったのだ。
今僕らが悩んでいるように、あの当時の僕らも思い悩んでいたのである。
あの時ああしていれば…
あの時あんなことをしなければ…
そういった懊悩も全て自分自身の一部だと思って抱きしめながら生きてほしいのだ。
話は膨らみに膨らみもはや原型を留めていないが話題を戻そう。
次はそもそも問題を解決しない事である。
……………そう怯えることはない。
前者はつらつらと『大』長話になってしまったがこちらはそうではない。
ただその問題を認識しないようにする事である。
え?ただそれだけ?
と、思った読者は正しい。
つまり、こちらの選択肢はとても楽だ。
そんな問題なんて見ないふりをすればいい。
解決なんてしなくとも僕は生きていけるんだ、と。
でも僕は身勝手極まりないが、どこか君たちに解決する選択肢を選ぶよう求めている気がする。
そうやって悩み、考え、悶え苦しんで、
挫けそうになっても周りを見れば沢山の人が手を差し伸べていて、
諦めきれなくて最後の最後までみっともなく足掻き続ける。
僕はそんな過程に、人の輝きを見たい。
まぁ、解決しない選択肢はその後からでも遅くないような気はしている。
ところでしかし、前述したような半ば滑稽の象徴たるような暴理がこの世の中を跋扈しているのは事実に他ならない。
僕らはそれらをあたかも『問題』であるかのように思い込み、艱難辛苦の沼に溺れているのである。
一体何がそうさせているのか…
僕らはそんな誤った認識を教育の中で培うのである。
あの閉鎖的な学校という空間で、僕らは逃げることを許されず、それを解決する事を強要されるのである。
この場合に於ける逃げるとは、決して『問題』からの逃避を意味しない。
誰か、赤の他人が勝手に規定した見せかけだけの問題、これからの逃避を意味する。
する必要のない事をみんなで共有し、それを規範とする秩序の構築
それが僕らの住まう社会である。
そんな問題を僕らは不条理と呼ぶのかもしれない。
ともすれば、読者の中には僕自身の解決策を知りたがる人がいるかもしれない。
お前は一体どうしているんだ?
お前はどっちを選んでいるんだ?、と。
僕の論理に照らすと、真の『問題』は僕らの知性や経験に由来するのである。
分かりやすい話、僕らは何故失うのかというと、それ以前に何かを所有している状態があるからだ。
悩むのはそれに相当する知性故、苦しむのは過去の恍惚故……
といった具合に『問題』は所構わず発生する。
何かを求めるから僕らは苦しむのである。
なれば、何も求めなければいい。
そうして僕は知らず知らずの内、自らの首を掌で覆っていたのである。