とある雑誌記者の突撃取材の代償 8
そして、次に俺が目覚めた瞬間、全身を貫くような冷たさが襲いかかった。
バシャンッ!!
「おい、新人! いい加減に起きろ! 仕事だぞ! いつまでも寝てんじゃねぇ!」
怒鳴り声と共に、冷たい海水が顔面にぶちまけられた肌に刺さるような冷たさ。飛び上がり、肺に入り込んだ塩水で、むせ返る。
「うわぁぁぁ! げほっ、げほっ……うえっぷ! なんだよ、冷てぇ! ……あんただれだ?」
咳き込みながら目をこすり、ぼやけた視界をどうにか晴らす。目の前には、日焼けした肌に無精髭、古びた作業着を着た50代くらいの男が仁王立ちしていた。鋭い目つきで俺を睨みつけ、手には空のバケツを握っている。
「やっと目を覚ましやがったか! いいか! 一度しか言わねぇからちゃんと聞きやがれよ!」
男はまるで雷鳴のような怒鳴り声を張り上げながら、俺の顔めがけて鋭く指を突きつけた。
「まず、俺のことは増田船長と呼べ! そして、今日からお前はこの船の船員だ! 本当はお前なんか使いたくなかったが、恩人の佳代子さんのご家族の詠美ちゃんに頼まれてな。性根の腐ったお前を俺の元で馬車馬のように働かせて、その根性を叩き直せってな。だから仕方なくお前をこき使うことにしたってわけだ!」
俺は怒鳴り声を聞きながら、鼻に潮の香りが染み込み、口の中の海水のしょっぱさで、意識がだんだんはっきりしてきた。立ち上がって辺りを見渡すと、そこは見渡す限り海しか見えない場所だった。
波の音に混じって、どこかで縄が軋む音が聞こえる。潮風が強く吹き、どこからか魚臭さが漂ってきた。
波が静かに揺れ、遠くにかすかな水平線が見えるだけ。自分がこんなところまで連れて来られたことに唖然とした。
(はぁ!? ここ、何処だよ!? 俺、何でこんなところにいるんだ!?)
冷たい風が頬を叩き、体が思わず震える。混乱と動揺を隠し切れず、ただその場に立ち尽くす俺。そんな様子を見て、増田船長は呆れたように肩をすくめ、さらに信じられない事実を口にした。
「ったく、呆れるぜ。お前がこの船に乗せられてからもう丸二日、ぐっすり寝てたんだよ。で、今どこにいるかというと、ちょうど太平洋のど真ん中だな」
「はぁ!? 太平洋!? 何で俺はそんなとこに連れて来られなきゃいけないんだよ!」
「お前がここに連れて来られた訳か? おっと、忘れるところだったぜ」
増田船長はそう言うと、ふと何かを思い出したように胸ポケットを探り、しわくちゃの封筒を取り出した。軽く船の揺れに足を取られながらも、それを俺に差し出す。
「お前が目を覚ましたらこの封筒を渡すようにって、お前をこの船まで連れてきた頭に角の生えた嬢ちゃんから頼まれてたんだ。ほら、受け取れ」
俺は明らかに嫌な予感を感じながらも渋々封筒を受け取り、中身を確認すると、一枚の手紙と賠償金が書かれた請求書の二枚の紙が入っていた。
まず、渡された手紙の内容を要約すると以下の通りだった。俺の悪事が会社にバレてクビになったこと。それから、賠償金を返済するまで二十四時間死ぬ気で働けという命令。そして、利子として漁から戻るたびに魚を送れ――そんなふざけた内容だった。
「ふざけやがって……、それで賠償金の金額は……はぁっ!? 三億っ!」
さらに、二枚目の賠償金のぶっとんだ金額を見て思わず叫ぶ。
「……ああ、その賠償金の金額についてか? 嬢ちゃんから聞いてるぜ。何でもお前を船まで転移させて連れてきた手間賃も含まれてるとさ」
「転移!? あいつはそんなことまで出来たのか!?」
(……じゃあ、あの時に俺を山の中に移動させられた謎の霧もあいつのしわざだったのか……)
アラクネよりも本当に怒らせてはいけないのはあいつだったのかと思い知りながら、全身から冷や汗を流して後悔して、再び賠償金の書かれた請求書に視線を向け、金額を見て呟く。
「……三億か、一体何年かかっちまうんだ……」
俺が呟きながら絶望していると、増田船長が顎に手を当て、しばらく考えてから答えた。
「そうだな……お前が真面目に、きっちり仕事をすれば――だいたい三年とちょっとだな。 それぞれの海域の底に一つずつダンジョンが出てきて、海にも水棲の魔物も現れるようになったぶん、危険手当が付くからな。一応忠告しておくが、間違っても船から身を乗り出すなよ。お前が魔物に襲われても知らんからな」
増田船長はサラッと恐ろしいことを告げて、足元に落ちていた漁に使う魚をぶつ切りにした餌を拾うと海に向かって適当に放り投げる。すると、その餌に食いつくように水棲の魔物が群がるようにして集まり、水しぶきが上がる。その光景を見て、もし自分が万が一船から落ちた時のことを想像するとゾッとする。
「おい! この船は魔物に襲われても大丈夫なのか!? 沈んだりしないよな!」
俺はビクビクしながら増田船長に恐る恐る尋ねる。
「はぁ、大丈夫なわけないだろ。襲われたら一瞬で全員海の藻屑だ。だが、心配するな、そうならないように俺の嫁とその仲間が守ってくれてるからよ。おい! マリナ!」
増田船長が海に向かって大きな声で呼びかけると、海から凄い勢いで飛び出してきたのは、上半身が女性で下半身が魚の姿をした美しい魔物だった。彼女は空中でくるりと一回転すると、船の縁に腰を掛けるように着地し、増田船長に首を傾げながら尋ねた。
「どうしたの、あなた? 何か用?」
(マーメイド!? いるとは聞いたことがあるが、まさか本物を目にするとは……)
水棲の魔物については、まだ謎が多く、調査自体が難しいため進展が遅れていた。しかし、マーメイドのように人間に友好的な魔物については、少しずつ解明が進み、それが一時期ニュースにもなった。その影響で、マーメイドのような美しい姿を持つ魔物を一目見ようと、無謀にも海に向かう一般人や密猟者が後を絶たなくなった。その結果、現在では国による厳しい規制が敷かれ、彼らの存在は秘匿されていたのだ。
「すまねぇなマリナ。さっき目覚めた新入りにこの船がどうして無事でいられるか説明してるところなんだわ」
「あら、やっと目が覚めたの? 随分寝坊助ね。はぁい、新入りさん。私はマリナって言うの、貴方のことは、貴方をこの船に連れて来た魔物の子から大体の事情は聴いてるわ。精々仕事をサボらずに必死に働いてくださいね~」
そう、俺に話している途中で、彼女の背後からサンマのような見た目で、口にギザギザの歯を持つ魔物が海面から飛び出し、彼女に向かって襲いかかってきた。しかし、彼女は振り向きもせず、その魔物を簡単に片手で掴み取ると、もう片方の手を手刀のように構え、俺に見せつけるように目の前で簡単に魚の頭を切り落として後ろに放り投げた。
「……さもないと、今襲ってきた魔物のように、魚の餌にするからね」
そして、含みのある冷たい笑顔を浮かべながら、冷徹な低い声で脅され、本当に魚の餌にされるんじゃないかという恐怖が俺を襲った。
「は、はい! 死ぬ気で働かせていただきます!」
そうして、賠償金の返済が終わるまで、何年も増田船長とマリナさんによる俺の性格矯正の日々が始まった。それはまさに地獄だった。
「おい、山口! 何だその紐の結び方は! そんなんじゃすぐにほどけちまうだろうが!」
ある時は、増田船長に尻を蹴られながら、きちんとした紐の縛り方を覚えるまで何度も結び直しをさせられた。半泣きで作業を繰り返した日もある。
「あら、山口さん、仕事をなめているんですか? 冷たい海水で目を覚ましてもらいましょうか」
またある時は、寝ぼけて作業していた俺を見たマリナさんに、容赦なく海に放り込まれた。そこには、鋭い歯と冷たい目を持つ、全長三メートルのサメに似た魔物が待ち構えていて、食われる直前まで放置され、命の危機にさらされたこともあった。
それ以外にも、他の乗組員や船を守るマリナさんの仲間である魔物たちに厳しく監視されながら、賠償金を払い終えるまで、俺は容赦なく働かされる日々を送ることになるのだった。




