36--ボケッとするな、前例なき者!
「ん? 何があったの、師匠?」
「逃げるのじゃ! ボケッとするな、前例なき者!」
俺は飛び起き、ストレリチアを起こして半分眠ったままのゴブラを頭の上にポンと置いた。
「お前たち、走るのじゃ!」
アンサイの叫び声が響く。俺たちは訳もわからず走り始めた。じゃないとアンサイの声で耳がやられてしまいそうだったからだ。
「アンサイ、何が起きたんだ? 安全なはずじゃなかったのか?」
俺はアンサイに尋ねた。
遠吠えにこだまするように、別のところからも遠吠えが聞こえ始めた。
「安全ではない! 逃げなければならん!」
俺の首に巻きつきアンサイは声を上げた。
「ゾーンを超えて地繋精霊の声が届くことはない!」
「と言うことは、この遠吠えは地繋精霊のものではないってことね」
ストレリチアの言葉からは恐怖心のようなものが滲み出ていた。
アンサイが後ろをくるりと振り返り、周囲を見渡した。
「その通りじゃ! 最悪なことに、その精霊は我々の近くにいるぞ!」
遠吠えが遠吠えを呼ぶ。その声がどんどんと近くになっているのはわかっていた。
「アンサイ、俺たちは追いかけられてるのか?」
アンサイは一瞬躊躇した。
「どうやら、我々は有望者の持つ精霊に追いかけられているようじゃ」
「え、いきなりそれ? どうやって地繋精霊じゃないってわかるんだ──」
「やつらはこんなことはしないからじゃ」
俺の質問に畳みかけるようにアンサイは言った。
「あと、この遠吠え──この者の『分析』によると、その音波に何か知らぬものを感じる。これは死の領域に住まう精霊のものではない」
「師匠、それは継承精霊ってことでは……?」
「この者もそう踏んでおる! 継承精霊のヴィシュアはそこいらの精霊のものとは違うからの!」
「なんだってんだ、くそう」
俺の心の声が思わず漏れた。
「そいつらはどうやって俺たちの居場所がわかったんだ? なんで俺たちを追いかけるんだ?」
「この者に理由はわからん、だが狼のような精霊は『追跡』スキルのようなものを持つことがある」
「あーもう! 絶対持ってるでしょ! 犬に追いかけられてる獲物みたいなもんじゃん──」
「待て! そこは走っちゃいかん──左に寄れ、思いっきり左じゃ──」
警告も時すでに遅しだった。全速力で走っている俺たちを止めることなんてできっこない。それでも急ブレーキをかけ、なぜアンサイが急に方向を変えたかったのか。理由は目の前にあった。
俺たちは新しいゾーンへと足を踏み入れてしまっていたのだ。
そのゾーンの光は青みを帯びていた。光にはすぐに慣れたけれど、ストレリチアと俺は立っていられなくなった。あたりを見回すと、俺たちがいたゾーンと変わらず鬱蒼とした森が続いていたが、ここには青いキノコが生息している──その背の高さは街灯ほどあり、青い光を放ち、その軸には濃い青の斑点がポツポツとあった。漂う空気は重苦しく息をするのもやっと──足にもまるで足かせがつけられているのではないかと思うほどに重くなった。
「わ──我々が入ってはならないゾーンに入ってしまった!」
アンサイは叫んだ。
「這いつくばってでも戻るのじゃ! どうにもできんなら引きずり出す覚悟でやれ!」
ものすごい力で大地へと俺の頭が引き込まれそうになるものも、俺は必死で抵抗していた。ストレリチアを見ると、その状況は俺よりひどく、俺の方へと必死で手を伸ばしているのが見えた。すると突然目を見開き、咳を始め、そのすぐ後に体が宙へと浮いた。腹の下から黒い泡が立ち、それが彼女の体を浮かび上がらせていた。何が起こっているのか理解するのに時間はかからなかった──
「くそ! あの泡がストレリチアの腹を押し潰そうとしてやがる! 重力のせいで威力も増してる!」
ストレリチアの体は泡に包みこまれ、まるで飲み込まれてしまったようだった。手をどうにかして俺の方へ伸ばそうとしても──黒い泡へと押し潰される一方だった。
「前例なき者! 早くストレリチアの手を、でないと死ぬぞ!」
俺は白蛇宇賀を抜き、ストレリチアへ向けてムチのように伸ばした。白蛇宇賀はストレリチアの腕に絡み付いた。
「持ち手のところから牙を出せるはずじゃ!」
白蛇宇賀には剣の部分を保護する「クロスガード」と呼ばれる部分がない。それが幸いして牙が動きそうだ。俺はムチの部分をつかみ、体中の力を振り絞って膝を付き立ち上がった。胸の真ん中に白蛇宇賀の柄を向けた。
「牙、飛べ!」
15個の牙が柄から飛び出した。俺にも激しくぶち当たり、来た道の方へと俺をぶっ飛ばした。俺と同じように、ストレリチアの体も高速に回転する牙のおかげで来た道の方へと動いた。作戦勝ちだ。
(ゾンビドラゴンとの戦いで学んだことを忘れちゃなんかいないぜ──この牙が動くのは自らの動きのみ。他のどんなものの影響も受けないからな)
配置した牙は俺を3メートルほど後ろに吹っ飛ばしてくれた。何が起ころうとも俺の牙なら間違いなく動いてくれる。けれど、腹に打ち込まれる時の感覚だけは変わらないな──相変わらず吐きそうになる。
作戦が功を奏し、俺は元いたゾーンに戻ったのを感じた。すぐに牙を呼び戻すと、俺は地面に叩き付けられ、そのまま木に衝突した。俺の後ろで飛んでいたストレリチアをムチのしなる部分で捕まえると、車が突進するごとく俺の元に飛んできた。その勢いで俺は尻もちを付いてしまったが、腕を伸ばして彼女を受け止めた。衝撃は凄かったが、どうにか彼女を抱き留めることができた。
「ストレリチア、大丈夫か?」
ストレリチアは三回咳き込んだが、俺を見つめうなずいた。
「大丈夫よ、ありがとう!」
そう言うと俺の腕の中から飛び出し、しっかりと自分の足で立ってみせた。ストレリチアは腕で俺をつかみ、立ち上がらせてくれた。
「早く! ここから逃げないと!」
俺はゴブラがいなくなっていないか、自分の頭をトントンと叩き確認した。俺の合図に反応して、ゴブラもうなずく。
「さあ、逃げるぞ!」
吠える声が激しくなっていく中、俺たちは走った。
「今回はすまなかった! 次はこの者がちゃんと指揮を取ってやるからな!」
「アンサイ、心配すんなって! いっぺんにあれこれやるのは大変だろ!」
俺たちはアンサイの感覚に従い、ゾーンとゾーンの中間地点へと逃げ込んだ。あっちのやばい方へ足を踏み入れないように気をつけてはいたが、不運にも圧倒的に不利なのは俺たちだった。
再び吠える声が聞こえ始めた──
「嘘だろ」
俺は右の方を見た。
「悪夢か?」
右手からやってきたのは──赤い目をした猟犬だった。木の間から飛び出し、幻からできあがっているような壁を超えてくる──犬が越えると壁はゆらりと揺らめいた。その揺れを俺は見たことがある──
その犬は、俺たちが入ってはならないゾーンから出てきたのだ。
俺の目に飛び込んできたと同時に白蛇宇賀に手を伸ばしたが、間に合わなかった。犬は俺の肩にのしかかり、その力で俺は地面に倒されてしまったのだ。犬に噛みつかれないようにと手で口を押さえ込み、襲われないように抵抗し続けた。なんとしてでも止めなければ、首を噛まれたら終わりだ。
アンサイは叫んだ。
「前例なき者!」
アンサイは犬に噛みつき始めたが、覆われている毛のせいか何度噛んでもビクともしなかった。
犬の息は地獄の風のように熱かった──。噛みつかれてはいけない、その思いで犬にギリギリと爪を立て抵抗した。俺の手が首にかかると犬は堰を切ったように空気を貪り始め、よだれをダラダラと流し始めた。
「くっそぉ!」
ストレリチアを探すとすぐそこにいたが、足がすくんでしまって動かないようだった。
「ストレリチア!」
俺はストレリチアに助けを求めた。
「わ──わた──私──」
「ストレリチア! 助けてくれ!」
そう叫び、俺ははたと嫌な予感に襲われた。
(もしもストレリチアがこのまま俺を助けなければ……彼女は自由になれる、ってことか?)
そういうことか。ここで俺を犬の餌にしてしまえば、一丁上がりだ。
(アホ!)
俺はストレリチアを見るのを止め、犬をどうにかすることだけに集中した。
(考えるな、何も考えるな──)
「ブ、ブレア! 私、フレマイェルダを召喚できないの!」
膝をガタガタと震わせ、息を上がらせながらストレリチアが言った。
「ヴィシュアが足りないの! どうしたらいいの!」
ストレリチアは俺を見捨てようなんてしていなかった──なす術がなく、どうしていいのかわからないでいただけだったのだ。それならそれで、この状況をどうにかするまでだ!
「ストレリチア、フレマイェルダを全力で使おうとするな! 必要最低限の力で使うんだ!」
「で──でも──でも、どうやったらいいのか──」
「ストレリチア!」
俺はうなるように叫んだ。
「君が必要なんだ! 助けてくれ!」
ストレリチアは腹をくくったような一声を出し、彼女の試用剣を抜いた。
俺は腹の底から声を上げた。
「やってみるんだ!」
ストレリチアの気合いの一声が響き、その後、彼女がこちらに向かって走ってくる音が聞こえた。
(何かをつかみ取るんだ、ストレリチア──なんだっていいからつかむんだ!)
すべては一瞬の出来事だった。赤い閃光が走り、俺の上に犬の頭がドサッと落ちてきた。残された体が倒れると、そこらじゅうの温度が上がったようになった。
俺の手はまだ犬の頭を抱えていた。辺りを見回すと、俺の横には見慣れたブーツがあった──ストレリチアのブーツだ。視線を上にあげると、あまりの衝撃からか動けないでいるストレリチアがいた。その手には剣が握られていが、形は試用剣ではなかった。剣はまるで燃え盛るような炎のような形をしていたのだ。彼女もその剣をまじまじと見つめていた。
「こ、こ、これは……フレマイェルダの剣……」
ストレリチアは呆然としていた。
どうやら、犬の頭を抱えた男を助けている余裕なんて微塵もないらしい。
「しょうがねぇなぁ」
俺はぶつくさ言いながら犬の頭を放り投げた。
「アンサイ、大丈夫だったか?」
俺はアンサイの頭をなでた。
「大丈夫じゃ……もう案ずることはない」
「あっ! 手伝うわ!」
ストレリチアはやっとで気づいたようだった。さっきと同じように、俺の腕をつかみ、引っ張り上げてくれた。
「ごめんなさいね」
俺の顔の代わりに足を見ながらそう言った。
「体中から熱が出たみたいになって、クラクラしちゃって」
ストレリチアは心の底からすまなそうにしているようだった。その唇は震えていた。彼女の右手には──まだ、あの炎のような剣が握られていた。
俺はふーっと息を吐き、首を振った。ストレリチアの肩に手を置くと顔を上げたので、俺は彼女に向かって満面の笑みを向けた。
「すごいな、やったじゃん」
「え、ええ、ありがとう」
そう言った彼女の顔は、これまで見たことがないくらいの笑顔をしていた。その表情からも安堵感が伝わってきた。しかし、そう言った後に突然しゃがみ込んでしまった。
「ストレリチア!」
膝を立てて座り込んでいるストレリチアの息は絶え絶えになっていた。ストレリチアを助けようと俺もしゃがみ込んだ。
「どうした、大丈夫か!」
そう声をかけると俺の方に抱き寄せた。彼女はまるで火のように熱くなっていた──少したじろいでしまったが、何も言わないでいた。
「前例なき者、今は追手を止めることができたが、ここに止まっているのは賢いとは言えん。早くどこかに移動しなければならんぞ!」
周囲を見回すと、追手の精霊はどこかへいなくなったようだった。
「あれは死んだ。だが一にも二にも移動じゃ、頼む。もしも追跡できる精霊を持つ有望者がいれば、我々は本当にまずい状況にあるぞ!」
「よっしゃ!」
俺は気合いを込めて声を出し、ストレリチアを支えて一緒に立ち上がった。
「ストレリチア、疲れてるのはわかってるけど今はそんなこと言ってられないんだ。一緒に走るぞ」
「私──頑張るわ」
そう言う彼女の目には燃えるような意志が宿っていた。
俺たちはゆっくりと走り始めた。ストレリチアの腕は俺の背中に、俺は彼女の腰をしっかりと支えていた。
「剣で俺を攻撃すんなよ!」
俺は疲れを感じつつも笑顔を見せた。
「そんなこと思いもしなかったわよ!」
すると彼女が、悪ガキみたいに笑いながら言い返してきた。
俺たちはフリンジワイルドの奥へ走り続け、どうにか難を逃れた。