13 偉大な保護者達
少し時間が経ち、夕方の少し冷たい風が頬に吹き付ける。俺は身震いをしながら目を覚ました。目を覚ますと広々とした県総の全部が見渡せる。下を向くと足が震えてしまいそうになる程高い。
うっかり寝てしまっていたのか…こんなにも危険な場所で。
そんな中…
「ちょっと!邪魔しないで!」
「そっちこそ!僕が先に登ってたんだから!」
下の方から二つの声が聞こえてくる。1つは学校で、もう1つはトレセンで…どちらもよく聞く声だった。そしてその声の主である2人の女の子が俺と同じ東京タワー型のジャンブルジムの頂点を目指してよじ登ってきていた。しかし、2人とも何かを競っているみたいで互いに互いを邪魔しあっており、進みが遅い。そして危険だ。
俺はその2人の隣を通りすぎるように下へと降りる。
「あっ!仁界君…!」
「おい!巡!?」
なぜかすれ違いざま名前を呼ばれたが、俺はすぐにトレーニングに戻るために反応せずに1番下まで降りた。
それからしばらく陽射と夏波のいがみあいは続き、俺はトレーニングを終えてストレッチをしていた。
そんな中、元気に野原を駆け回る2人の少女の保護者が俺の後方に現れた。1人は渡辺コーチ。そしてもう1人は夏波の母だ。
「君は本当にストイックだね。少しくらい遊んでもいいのに。」
ニコニコと笑いながら、優しい声でそう声をかけてくる渡辺コーチ。夏波の母は駆け回る2人の姿を見て楽しそうに微笑んでいた。
「このトレーニングが俺にとって遊びみたいなものなんですよ。」
俺は軽く返事をしてそのままストレッチ続ける。
「芝生は慣れないかい?」
渡辺コーチは俺の隣に座り込み、俺の悩みの核心をついてきた。まさしく彼の言う通りで、今日の俺は100%のプレイができていなかった。あまりに的を射た質問に俺は黙り込む。
「まぁ君の場合、それでも十分すぎるほど活躍していたけどね。県トレレベルには収まらない才能だよ。」
どこか遠くの方を見ながら渡辺コーチは言葉を続けた。
「そしてそれは…彼女、『小岩井 夏波』も同じ。なんだか僕には荷が重いよ。」
それを母の隣で言っていいのか…?と疑問に思い、振り向くとそこにはすでに小岩井の母はおらず、楽しそうにはしゃぐ夏波に怪我をしないよう声をかけに行っていた。
「こんなことまだ小学5年生の君に話すのもなんだけど、少し聞いてくれるかい?」
コーチの重々しい雰囲気に俺は静かに頷くことしかできなかった。
「彼女…小岩井が初めてうちのトレセンに来たのは一年前。小岩井が4年生の時だ。女子トレセンで少しトラブルがあったこと…そして女子トレセンでは相手にならないほどの才能を小岩井が持っていたこと…その2つが小岩井がうちに来た大きな理由だね。」
確か去年はそれでも北信越まで上り詰めている。男子に混じってそのレベルであれば、確かに女子トレセンでは少し相手を探すことになりそうだ。
「類い稀なる才能を持っていた彼女は、すぐに北信越トレセンの舞台にまで進んだ。正直実力的には十分だったし、連携も取れていた。それでもやっぱり、唯一の女子選手だ。男子達の輪を乱す原因になってしまった。」
それはそうだろう。ましてや夏波は誰の目から見ても、『可愛い』と評価されるほどの少女だ。それでも渡辺コーチ達はその問題を無しにしてしまうほどの才能を夏波に見出していたのだろう。
「ある日、1人の男子選手がこんなことを言い始めた。『夏波は女子で、特別に選抜に選ばれている』…とね。」
俺は黙ってその言葉の続きを聞いた。
「地区トレセン、県トレセンあたりはそんな事が囁かれてしまうような危惧があった。でも北信越まで進んでいる子達からそんな言葉が出てきた時、僕はすごく悲しかったよ。君達が選ばれてきたこの舞台は…そんなに簡単に上がれる場所なのかってね。」
努力ができる者は、努力をしている者の努力の度合いがわかる。例えばうちの学校の猪山みたいに。猪山も選抜に選ばれると言うことの敷居の高さを理解しているということだ。
「そのたった1人の口から出た言葉はすぐに広がっていった。また1人…また1人…自分が努力をしたくないという免罪符に小岩井を使う選手が増えてきたんだ。あの時は悲しかったよ。みんなの目が死んでいたんだ。」
昔監督をしていた時、俺も同じように選手達の目を死なせてしまったことがある。あれは堪えるし…もう見たくもない。でも俺は何も言わない。あれは結局自分1人で乗り越えないと前に進めない心の病に近いもなだから。
「そしてみるみる蓄積されていたそんな負の感情が、ある時爆発した。それがナショナルトレセンの選考会の時だ。僕らの北信越トレセンからは10人…その候補に挙げられていた。もちろん小岩井もいたし、他には葛西や田畑もいたね。」
確か田畑はナショナルトレセンでスタメンだったと聞いている。しかし、葛西はナショナルにはあがれていない…。
「詳しい状況は僕も見ていたわけじゃないからわからないんだけど…どうやら僕ら北信越トレセンのメンバーが何人か、悪ふざけ…のつもりで小岩井を囲んで着替えられなくしたんだ。去年はまだ女子用の更衣室が用意されていなかったから、小岩井だけが着替えられず、選考会に遅刻した。」
なるほどな。選考会への遅刻は厳禁。もちろん渡辺コーチなら寛容かもしれないが、去年の監督は確か…物事に厳しい『犬飼』監督だった記憶がある。何事もなく許される…という事はないと考えられる。
「小岩井は選考会に参加させてもらえず…ずっとコートサイドで走り込み…。僕は悔しかった。あれほどの才能が…サッカー以外の要因で失われるということが…。そして何より、サッカーを冒涜するような他の選手達の行為が…。」
歯を食いしばり、拳を握る渡辺コーチ。
「小岩井に嫌がらせをした3人の選手は、後々それが発覚して…もう選考会には来られなくなった。本当に…馬鹿な子達だ。」
来られなくなった…という事は、葛西は少なくともその頃はまだ夏波の嫌がらせに関与していなかったことになる。俺は少しそれが気になり、コーチの話の腰を折った。
「あの、葛西さんは…。」
俺の言葉にコーチは間髪入れずに答えてくれた。しかし、その顔には少し寂しそうな表情が見てとれる。
「葛西…?あぁ、もしかしてもう知っているのかな…今、葛西が小岩井に執拗に嫌がらせをしてること。」
俺は小さく頷く。
「あいつは不器用な奴でね…。根はすごくいいやつなんだ。サッカーが心の底から好きで、曲がったことが嫌い。そして正義感も責任感も強い。ただ…自分の感情の表し方が下手なんだ。」
下手…か。たしかにプレーからはサッカーに対する愚直な気持ちが汲み取れたけど、それじゃあなぜ、練習前に小岩井に対して嫌がらせをしていたんだ?
「それこそ葛西は去年、今の君のようなポジションにいたような気がするよ。小岩井とはいいライバル関係で、小岩井も葛西に対しては心を開いていたと思う。」
意外だな。俺は単純にそう思った。
「だから葛西は真っ先に、小岩井に嫌がらせをしていたやつを殴った。3人ともね。葛西はそれを暴力沙汰と監督に捉えられ、トレセンに選ばれる事はなかった…。能力的には十分だったんだけどね。」
「殴っちゃダメだろ…。」
話を聞いていて歯痒くなった俺は、1人でにそう呟いていた。暴力はいけない。わかっていても止められないほどに夏波の事を考えていたという証拠だ。それじゃあなぜ…
「ハハハっ…そうだよね。君ならそうしないだろな。でも、あいつらはまだ子供で…どちらかといえば君や春ちゃんが大人すぎるんだけなんだけどね。」
渡辺コーチは「だからこそ…」と続ける。
「彼は彼なりの方法で、小岩井をこのトレセンから追い出そうとしてるんだ。ここにいたら危険だとか…お前には無理だ…とか…そういうマイナスな事を小岩井に言うと嫌われちゃうからね。」
「それであんな事を…。子供といえど馬鹿すぎでしょう。」
俺は堪えきれずそうこぼした。
「葛西は自分を曲げられない子だから、きっと怖いっていうか…恥ずかしいんだろうね。一度小岩井にとっての悪になった身からすれば、正義に戻るのが…ね。」
正直に、「お前がこのチームでやっていくのは難しい」と告げるのはたしかに辛いし、心が痛む。それで葛西はその言葉を隠しながら夏波をこのチームから追い出す方法を思案した。
「だからもしよかったらあいつとも仲良くしてやってくれ。本当にサッカーが好きないいやつなんだ。」
そう言って渡辺コーチは笑った。
「そうですね…考えておきます。」
俺は視線を自分の足に戻し、ストレッチを再開した。子供ながらに考えた結果…葛西は夏波を諦めさせる方法をとった。それが1番波風立たず…安全で安定な方法だったのかもしれない。夏波の意思を考慮しないのであれば…な。
「疲れたぁ…!」
「もう動けない…。」
俺が足を伸ばしていると、陽射と夏波が近づいてきて目の前でばたりと座り込んだ。2人とも肩で息をしており、相当体力を消耗しているようだ。
「なんで仁界君は…はぁ…はぁ…そんな…余裕なわけ…っ!?」
「まぁ…はぁ…巡は…いつも走り込んで…はぁ…るからなぁ…。」
倒れる2人の後ろでそれぞれの保護者が微笑ましそうに2人を見ていた。
「なんかスッキリしたみたいだね。夏波。」
「はるちゃんも。気が済んだかな。」
夏波はコクコクと頷き、陽射は「うん…。」と一言呟いた。
「じゃあ帰ろうか。仁界はどうする?家まで送ろうか?」
ストレッチが終わり立ち上がった俺の背中に、渡辺コーチがそう提案を投げかけてくれた。
そしてなぜか、先ほどまで倒れ込んでいた陽射が元気よさそうに立ち上がった。
「そうだね!それがいいよ!仁界君は私が送ってあげる!」
「まぁ僕の車なんだけどね。」
不服そうに頭をかく渡辺コーチに、隣に立っていた夏波の母から声がかかった。
「お忙しいでしょうし、今回は私が送っていきますよ?」
そして今度はその言葉に反応し、倒れ込んでいた夏波が元気よく飛び上がった。
「たしかにそうだよね!コーチ忙しいもんね!ね!?」
同意を求められる渡辺コーチ。「あはは…まぁ…。」と頭をかきながら曖昧な返事をするが、後ろから陽射に背中をつねられていた。
「それで…」
そんな陽射が渡辺コーチの背中から顔を出し、そう呟く。
「結局…」
夏波は母の隣でそう言葉を放つ。
「「どっちの車に乗るの…!?」」
夏波と陽射…その両方の声が重なり、俺は突如究極っぽい2択を迫られることになった。わくわくはらはらとした様子で俺の方に視線を向けてくる2人。俺がどう答えようか迷っていると…
「巡〜?」
遠くから聞き慣れた声が聞こえてきた。俺、そして夏波と陽射がその声の方向を向いた。そこにいたのは、こちらに向かって歩いてくる1人の女性。隣には小学生くらいの女の子が並んでいた。
「母さん…。」
俺は小さく呟き、さらに面倒臭くなりそうな予感にどっと疲れが込み上げてくる。早く帰りたいんだけど…。
「珍しく帰りが遅いと思って来てみれば…もしかして友達と遊んでたの…!?」
奇跡を目の当たりにしたかのような言い方。そして無意識に強調されていた『友達』という言葉に俺は胸を刺される。
確かに…俺は子供でありながら一度も友達らしい友達を母に紹介していない。放課後はトレーニングをしているし、もしかするとその面で心配をかけてしまっていたのだろうか。
「あ、すみません私ったら。はじめまして…仁界巡の母です。こちらは妹の『円』です。」
俺の周りにいた2人の保護者の姿を見て、母さんとそして妹の円は頭を下げた。その行動に対して渡辺コーチと夏波の母も、返すように頭を下げる。
「これはどうも…!県トレセンの監督をさせてもらってます…『渡辺』です…。こっちは姪の『春風』です…!」
渡辺コーチはそう言って陽射の肩に手を置いた。
「はじめまして、この子…夏波の母の小岩井です。ってなんか文章変ですね…。」
自分の発した言葉に違和感を覚えたのか、首を傾げる夏波の母。「大丈夫、伝わりましたよ。」とそれに対して俺の母は一言、微笑みながら呟いた。
「いつもお世話になっています。監督さん。そして小岩井さんも。」
母さんは2人の保護者に対して頭を下げた。そして夏波と陽射の頭をそれぞれ撫でながら、言葉を並べた。
「ぜひこれからも巡と仲良くしてあげてね。」
そして母は改まって、この場にいる全員に向けて言葉を発する。その言葉に俺は安堵し、胸を撫で下ろすことになる。
「お会いして間もないですけど、もう夕方ですし帰りましょうか。」
俺の母は静かに笑って呟いた。それに対し、夏波の母と渡辺コーチが返事をし、その場は解散となる…はずだった。
「…遊ぶ…。」
しかし、母の袖を引っ張り、『遊ぶ』と言い張り始めた娘がそこには1人。俺の妹である。
「もう遅いでしょ。お父さんに怒られるよ?」
「…ちょっとだけだから…!」
俺を見て育った円は同年代では大人びている。しかし、こう言うところはまだ子供の部分が見て取れて可愛いものである。
「仕方ない…かな。あのバルーンは目の毒だったね…。」
そう言って、駐車場に向かっていた母は踵を返した。
「すみません。娘が遊びたいと聞かないので、少しだけ遊ばせてから帰りますね。」
俺はその言葉に表情を歪ませる。早く帰りたいと切に願っていたのだが、母が来てしまった以上1人で走って帰るわけにもいかない。必然的に俺はその場で待つことになる。もしくは…
「わかりました。またお会いしましょう。」
途中まで隣を歩いていた夏波の母さんは、そう言って駐車場に向かっていった。
「巡…またな。」
「おう。」
帰り際、夏波から投げかけられた言葉に返事をし、俺は母さんの後を追った。
それからは、疲れた体で円と公園を駆け回ると言う地獄のトレーニングが続き、予期せぬ運動に心も体もひさしぶりに疲れ切ってしまった…。
「母って…偉大だな…。」
妹の背を追いかけながら、俺はそんな事をふと呟いていた。