96 ありえない
試合前、俺達のチームテントにいたのは秋音ただ1人だった。竜胆との会話を終えた後、直接この場へと足を運んだため、もしかするとあいつらが俺のことを待っているのではないかと不安になる。
「秋音、他の奴らは?」
「まだ…来ていないんです。」
不安そうに下を向く秋音。
あいつらが集合場所に集まっていたのは秋音も確認していたはず。しかし、秋音はコーチ兼マネージャーとして仕事を果たすために早くベンチ入りしていた。
「呼びにいくか。」
「はい…。」
俺と秋音がベンチを離れて集合場所であるピロティエリアへと向かった。しかし、その場に彼らの荷物はあれどその姿はなかった。
「いませんね…。」
俺は言葉が出てこなかった。よぎるのは毒島の下卑た笑み。奴らが何かをしたに違いない。
「秋音…試合開始まであと何分?」
「5分です…。」
秋音はコーチとしてベンチに、そして俺は少なくとも1人で選手としてコートに立っていなくてはならない。
「仕方ない…。今は戻って試合の準備をしよう。」
彼らの身の安全を不安に思いながらも、俺と秋音は試合が行われるグラウンドへと戻った。
「選手達は…清原先生に連絡して探していただきます!巡さんは…1人ででも試合に出場してください!」
「あぁ。もちろんだ。」
こうして俺はたった1人でグラウンドに立つことになった。
ーー
「あれ?結局巡1人で出てるんだ。」
試合開始の笛が吹かれる少し前、ベンチに夏波が現れた。
「小岩井さん。」
「久しぶりだね…宝院さん。」
夏波はニコリと笑って秋音の隣に座った。秋音は少し夏波との距離をあけて座り直した。
「…何か、ご用ですか?」
「ご用って…ただの応援だよ。ダメだった?」
夏波の言葉に間髪入れずに答える秋音。
「我々のチームのベンチです。関係者以外は立ち入り禁止です!」
「え〜厳しい〜…。」
どうとも捉えることなく、適当にあしらってその場に残り続ける夏波。
「で?他にもメンバーいたじゃん。秀川君とか、ゴウジンとか。あの子達はどうしたの?」
「…先ほどまではいたんです…でも…」
急にいなくなったことを告げる前に、3年生チームのメンバー達の間で笑いが巻き起こった。
「…おそらく毒島先輩達に何かをされて…今は行方がわからないんです。」
「まずいじゃん…!誰か探しにいってるの…?」
「私と巡さんは最低限ここにいないといけませんので…清原先生が…」
不安な気持ちのまま秋音はつぶやいた。
「1人!?見つからないよそんなの!私も先輩や同期の子達に頼んでみる…!」
願ってもいない申し出に驚く秋音。
「ありがたいですけど…どうしてそこまで?」
「え?それは…巡が好きだから…かな?」
なんの恥ずかしげもなくそう言い放つ夏波。その言葉に少し気圧されながらも、自分のその意思を示さないといけないと躍起になる秋音。
「…そんなの…私もです…。」
恥ずかしくなり目線を逸らしてしまう秋音。
「だったら…わかるでしょう?」
ニヤリと笑ってスマホを取り出す夏波。そのまま電話をして女子サッカー部の皆に呼びかけてくれた。
「よし。これでオッケー。すぐ見つかるといいけど…。」
「…ありがとうございます…。」
秋音のお礼に対し、そっぽを向く夏波。
「別に…宝院さんのためじゃないよ。」
少し恥ずかしくなったのか、夏波は視線をグラウンドへと戻して口を開いた。
「でも、この状況なら…まず間違いなく巡が勝てるはずだね。」
「はい…。願ってもない状況ではあります。ですが…」
「うん。巡はあくまでも11人でのサッカーをしたいって思ってるんだろうね。」
自分と同じ…もしくはそれ以上に巡のことを理解している夏波に対し、秋音の胸は少しざわついた。
「それに…彼らがルールに則って試合を進行してくれるかは分かりません。審判も…買収されている可能性があります。」
当然の可能性を口にした。
「どうしてなんだろうね。先輩達が抜けたら…勝手に部活動は消滅するのに。どうしてこうまでしてわざわざ自分の手で潰そうとするんだろ?」
「それが…わからないんです。」
本当に疑問なのだ。毒島という少年にこの試合をするメリットは…限りなくゼロに違い。
「ま、関係ないか。どうせ巡が勝つんだしね。」
「はい。それだけは揺るがないでしょうね。」
ものすごい自信を持って太鼓判を押す2人。それほどまでに巡は優れた選手に昇華していた。
「それにしても…すごいギャラリーだね。」
本日の試合を観戦するために集まってきていたギャラリー達がグラウンド前や教室の窓から声を出していた。
「えぇ。まさかこれほどまで観客がいるとは。」
巡が言っていた静かにこの場を収める…という条件をクリアするのはかなり難しそうだと秋音は1人考えていた。
「みんな好きなんだよきっと。」
夏波は嬉しそうに笑って秋音の方を向いた。
「サッカーがさ。」
秋音は「そうだと嬉しいですね…。」と微笑みを返してすぐにコートへと視線を戻すのだった。
ーー
「おいおい…あの1年、1人で勝負する気かよ?」
「話になんねーぞ!おいっ!」
教室の窓からヤジを飛ばす生徒達。ヒソヒソと何かを隠すように話しながらコートを眺める女子生徒達。僕…『竜胆 幻』はいつも通り机に座って、ひっそりと試合会場を眺めていた。
「…仁界君。」
いつも読んでいたサッカーの戦術書はバラバラになってもうなくなってしまった。でも、あれはすでに頭に入り切っているから問題はない。
「どうして…仁界君が1人で?」
いつもは冷静に練習を観察していたのだが、この時ばかりは僕も目を疑った。僕の親友である衛里…どころか、仁界君以外のメンバーがそこには誰1人としていなかったのだ。
「あの子可哀想〜。」
「あんなヤンキーみたいな人たちに、1人で勝てるわけないよね…」
「そうそう…そんな漫画みたいなことあるわけないよ。面白くなさそうだし、カフェでも行く?」
そんな会話をする女子達を尻目に、今度ばかりは僕も立ち上がって窓からしっかりとコートを眺めた。
「まさか…毒島先輩に…。」
僕は気付かぬうちに教室を飛び出して、走り出していた。1人で…たった1人で勝てるわけがない…。サッカーは11人でやるスポーツだ。
「僕が…助けてあげなきゃ…っ!」
まだ少しだけ疼く左足を庇いながら、全速力で階段を駆け降りる。1人よりは…まだ2人の方がマシだ。
「なんでこんなに遠いんだよ…っ!」
僕の教室は玄関から最も遠い位置にある。こんな状況になるとは思いもしなかったが、今はそれがすごく憎い。1点…いいや、せめて2点以内に抑えててくれたら…!
「きっと大丈夫…大丈夫だ…っ!」
彼は…仁界君は…サッカーをやらなきゃいけない人間だ。彼がもし負けて…サッカーを辞めるなんてことになったら…
「急げ…!」
全速力で廊下を走り切り、なんとか玄関まで辿り着いた。すぐに靴を履き替えて、勢いよく走り出す。試合が行われているグラウンドへ一目散に向かう。
「1人でなんて、勝てっこない…。」
念の為に持ってきていたスパイクを取り出し、いつでも試合に出られるよう手に持って走り出す。僕の左足でなら…きっとまだ君を救えるはずだ!
走りながら、先ほど聞こえてきた女子生徒達の話を思い出す。現実的にありえない。根性でどうにかなる問題じゃあない。
「漫画みたいな…理不尽な上手さなんてありえない!」
現実は無惨だ。数の暴力に逆らえるはずがないんだ。たとえどれだけ上手くて、どれだけスタミナがあって…どれだけテクニックや頭脳があっても…!
「たった1人で…勝てるはずがないんだ…!」
僕が…そうだったように…。
「1人は…辛いよ…」
後者の角を曲がってグラウンドへ辿り着く。しかし…僕はそこで驚きの光景を目にすることになる。
「そんな…」
そういえば気が付かなかった。学校全体が騒がしく盛り上がっていたはずなのに、その声が一切聞こえなくなっていたことに。
「…『ありえない』よ…君は、一体…」
それは興味が失せたことによる静寂ではない。ありえない…非現実的な光景を目の前にして唖然としている人々がもたらす…恐怖からくる静寂。
その恐怖を…静寂を助長するかのように、誰かが弾く怪しげなピアノの音色だけが…グラウンドまで聞こえてくる。
「何者なんだ…?」
点数板に見える数字は『2-0』。ちょうど仁界君が2点目を決めて自陣へと戻る瞬間に僕はグラウンドへ到着した。
「はは…。」
自然と漏れた薄い笑いと共に、その日僕は…サッカーにおける『絶対』を目の当たりにすることになるのだった。