1 プロローグ
観客の声援。
カメラ越しにもわかる選手達の熱量。必死にボールを追いかけ、追いつき、奪い合い、蹴る。
実況に解説…熱狂的な俺たち視聴者。
きっとその試合に関わった日本人全てが沸いた。
その日、日本はサッカー大国である『ドイツ』、そして『スペイン』に快勝を遂げたのだ。
『ワールドカップ』…。それは4年に一度の大舞台。選ばれたものしか立つことが許されず、その中でさらに選ばれた11人とベンチの選手だけがトロフィーを手にできる…そんなサッカー世界一を決める大会だ。
ワールドカップでは、初めに4つの国でできたグループが複数ある『予選のリーグ戦』を行う。4チーム総当たりで試合をし、勝利なら勝ち点3。引き分けなら1。敗北すれば0を獲得する。全3試合を行い、勝ち点の高いチーム順に順位が決められる。
そしてこの予選リーグの勝ち点で上位2位に入った国が後の『決勝トーナメント』に勝ち残る仕組みだ。
FIFAランキング20位の日本は、14位のドイツ、10位のスペイン、そして32位のコスタリカの3チームと同じ、地獄のグループに振り分けられていた。
強豪ドイツ、スペイン。格下ながら前回大会快進撃を見せたコスタリカ。当然、世界の予想では『ドイツ』、『スペイン』の強豪2国が安定のリーグ突破。そんなアウェイな状況で、日本は2勝することを強いられていた。
初戦…日本は、格上でありFIFAランキングで1位を獲得した事もあるドイツとぶつかった。伝統と新世代…その奇跡の融合により、強力なチームとなって立ちはだかったドイツ代表。対する日本代表は防戦一方だった。
そして前半のうちに…相手にペナルティキックを与えてしまい、予想通り1点を取られてしまう日本。1-0ドイツ勝ち越しで迎えた後半。予想通り…下馬票通り…やはりドイツには勝てないだろう。せめて引き分けで終わってくれ…少なくとも俺は妥協を願い応援していた。
その願いが通じたのか、後半半ば…サイド攻撃でドイツ陣内を切り崩し、ゴール前にクロス。キーパーが弾いたこぼれ球を、日本の若きエース『安藤』選手が流し込んで同点ゴール。
立て続けに、逆転の2点目を決めた日本。そのまま後半を戦い切り、予想だにしなかった逆転勝利。俺はこの時、すでに奇跡を感じていた。あの輝く舞台で自分も活躍したいという願望に至極かられた。今年の日本は何かが違う。全てを跳ね除けて勝利した日本代表に、皆が期待を寄せた。
2回戦、本来であれば唯一勝機がある格下のコスタリカ代表が相手だった。
結果だけ言うと…日本は1-0でコスタリカに敗北した。
油断していたわけでも、格上を倒して調子に乗っていた焼けでもなかった。だがなぜか…何故だか日本は敗北した。
前半から余裕のない試合をしていた。小さなミスが目立ち、相手の勢いに飲まれたのかもしれない。あの状況で何が起きていたのか、それはピッチに立つ選手、そして監督しかわからないだろう。
だが、その敗北を快く受け入れてくれる国民ではなかった。
格上のドイツを下し、大層な期待を置かれていた日本代表。その上、相手は唯一勝機があったコスタリカ…。決して弱くはない。だが、勝つならこの試合…そう皆が考えていた試合だった。
だから国民の掌は一瞬で返った。
負けた日本代表に批判の声を浴びせ、「やはり」…「結局」…。そんなマイナスな言葉をたくさん並べた。皆心ではわかっている。選手は全力でやっているのだ。批判してはいけない。だが、もうすぐ掴めそうだった勝利が手元からすり抜けていく…そんなもどかしい感覚に、サポーターの皆が…そして何より選手達がとらわれていた。
この大会の優勝候補であり、日本がドイツに勝利を遂げるその裏…『コスタリカVSスペイン』において7-0という大勝を遂げたスペインに勝利…少なくとも引き分けで試合を終えなくてはならない状況に追い詰められていた。
多くのサポーター…ファン達は難しい試合になると想像していた。負けても何もおかしくない相手だと理解していた。しかし、選手も監督も…心の中の闘志を燃やし続けていた。
「次勝てばいい。」
そんな簡単に片付けられる相手ではなかった。世界はそんなに甘くないとサポーターもファンも、皆が理解していた。しかし、そんな中誰よりもその厳しさを知る選手達、監督は…諦めていなかったのだ。
奇跡を信じて…切れかけた首の皮をなんとか繋ぎ止めるため挑んだスペイン戦。苦しい戦いになることはわかっていた。そんな中全てをかけて…日本のプライドをかけて、日本代表11人は立ち上がった。
試合開始…。
試合を通して日本は防御体制をとっていた。相手を自陣に誘き寄せ、ボールを奪取してからの一瞬のカウンター。それが日本の作戦だった。しかし、その作戦を凌駕する世界の高い壁が日本に迫る。
前半半ば…サイドからふわりとあげられたクロスボール。そのクロスボールに激しく迫り合う日本代表達。しかし、誰もそのボールに頭が届かなかった。唯一届いたのは…スペイン代表のFW。
ものすごい威力のヘディングで叩きつけられたボールをキーパーが止められるはずもなく…。あえなく日本ゴールに吸い込まれていった。日本サポーター、ファン達は気を落とす。もちろん俺もその1人。予想通りの展開に飽き飽きしながらテレビを見ていた。むしろこれから何点決められるのか…それを恐れていた。
だが、この時俺は何かを感じ取った。消えることのない日本代表の闘志を感じとった。彼らの目はまだ決して死んでいない。つかむべき勝利を真っ直ぐに見据えている。
なんとかスペインの猛攻を防ぎ切った日本。1-0という最小限のダメージで抑え後半を迎える。この時のハーフタイム。俺はなんの根拠もなく呟いていた。周りに座り、全てを諦め肩を落とす仲間達を視界に入れることなく、俺は一言呟いていた。
「これは…あるかもしれない。」
そんな一言…誰も気に留めなかった。皆あり得ないと馬鹿にして手に持っていたスマホに視線を落とした。
そして日本の奇跡が始まったのだ。
後半開始直後、やはり同点弾を決めたのは日本のエース『安藤』選手。彼のミドルシュートがスペインゴールに炸裂したのだ。その一点は、日本を勢いづかせるのに完璧なゴールだった。
そして奇跡は続く。
2点目の逆転弾はすぐにスペインゴールのネットを揺らした。
右サイドから放たれたシュート性のクロス。ゴールラインを割ったかと思われたそのボールはなんと1mmライン上に残っていたのだ。それをギリギリで折り返した左サイドの選手。それを諦めずに詰めていた日本選手が押し込んだのだ。
そしてそのまま2-1で日本が勝利。
圧倒的な強さを誇るスペインを下したのだ。
ドイツに勝ち、コスタリカに負け…絶望のどん底で1番の強敵であるスペインに勝利。映画化されてもおかしくないようなシンデレラカーブで、なんと日本は予選リーグ1位通過を果たした。
誰もが心の中では勝てないと思っていた。
そんな下馬票を跳ね除け、日本代表は今まさに奇跡の勝利を遂げたのだ。
周りで騒ぐ大学の仲間達。お酒で酔っていた事もあり、皆抱き合い周辺住民のことなど一切気にも止めずに騒ぎまくっていた。
「やったな、お前の言った通りになった。」
「あぁ。」
友人に肩を叩かれた俺。しかし、この時の俺に的確な返答をするほどの余裕はなかった。適当な返事をした後、テレビ画面に釘付けとなり固まる。
快挙…奇跡…最高の勝利…。
いや。どんな言葉を使っても、この時の俺の衝撃は形容しきれない。小学生で初めて新幹線を見た時、中学で初めて東京スカイツリーを見た時、大学で初めて飛行機に乗った時…そのどの瞬間より、俺はこの瞬間にとんでもない衝撃を受けていた。
抱き合う選手達。
泣き騒ぐサポーター。
熱狂的な実況者。
その全てが舞台を引き立てる。
「どうしたんだよ、『仁界』?」
放心状態のまま…目を開けたまま…ただその輝くステージを見続ける。仲間に肩を叩かれた事も、名前を呼ばれたことにも気づかず…ただただ俺は思った。
『俺もこの場に立ちたい。』
この時…俺、しがない大学4年生『仁界 廻』は自分の将来の夢を固めた。あの場に…ワールドカップの場に立つという夢を。
ーー
しかし現実は厳しかった。
2年間の大学院生活を全てサッカーに費やし、技術だけでなく、フィジカル、IQなども高めながら成長を重ねていった。
初めて社会人入団テストを受けたのは24の時だ。しかしこの時、若手の活力に押され活躍できずに終わった。
それからも努力を重ねた。
就職せずにフリーターとして、昼はサッカーの研究をしながらアルバイト、帰ってからはトレーニング。そんな日々を続けた。目標は30歳でワールドカップに立つこと。それが最後のチャンスだと踏んでいる。
しかし、未だにチームに所属することすらできていない。
毎年行われる入団テスト。俺は色々なチームに自分を売り込んだ。しかし、現実は非情で誰も俺を見てはくれなかった。加えて、歳だけは取り続け選手としてのピークをどんどん過ぎていく。
親からの心配の目もあった。
好きなことをしていい。そうは言っていたが、今のところ俺はそんな両親に何も返すことができていない。夢を追いかける代償は大きかった。
「これが…最後の挑戦。」
そんな日々を送り続け、29歳…俺は最後の挑戦に出た。
しかし、この時の日本サッカーは衰退の一途を辿っていた。全ては、『若者を起用する』という突如現れた風潮によるものである。
たしかに若者を起用するのは重要だ。しかし、ベテランとの融合があくまで相乗的な効果をもたらすのであって、若者だけでチームを作ることが直接的な国の成長にはつながらない。
それは、代表監督もしっかり理解していたはずだ。だが上からの圧力、国民からの非難の声に逆らえず、現在に至る。
そんな中、29歳で試験を受けにきた俺を見て担当のコーチが笑った。
「君はこの歳で…働きもせずにこのテストを?」
嫌味ったらしく口角を上げるコーチ。
それでも俺は表情1つ変えることなく彼らの瞳を見つめる。
「あのねぇ…現代サッカー理解してる?今は若手が第一なわけ。君みたいな老いぼれに期待なんてしていないんだよ。」
あまりにもひどい言葉だった。流石に他のコーチ達がその憎たらしいコーチを止めた。俺も今にもその顔を殴ろうとしていた拳を押さえる。
「まぁまぁ『多賀』さん。僕は好きですよ、諦めないその精神。」
「うるさい『小室』!俺はここを任されてんだ!あんま口答えしてっと…もごごっ…ごご…っ!?」
どうやら憎たらしいあのコーチは多賀という名前だそうだ。いつか見返してやるとここに誓った。
そして優しそうな小室コーチは多賀の口を手で塞ぐ。
「ごめんね。仁界君だっけ。ちゃんと正当に評価するから、ぜひ全力でプレーしてほしい。」
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
俺はその様子を見、小室コーチの言葉を聞いて頷いた。これが最後のチャンス。自分にとってこの環境が圧倒的なまでの向かい風であることはすでに知っている。それでも俺はこの時、全力で、誰よりも走り、誰よりも躍動した。そんな自信があった。
「それじゃあ結果発表していきますね。」
入団テストの結果通知は後日であることが多いが、このチームはその場で決めてしまうらしい。
「…さん。以上22名。合格おめでとう。」
選ばれた22人に対し、拍手が送られる。そしてこの時俺は、拍手を送る側だった。結局今回も選ばれなかったのだ。
「それじゃあ皆さん、今日はありがとう。また合格者には後日色々書類送りますので、お待ちください。じゃあ解散です。」
小室コーチはテキパキと工程を進め、合格者不合格者を含めた多くの選手達がその場を去っていった。
俺はこの時、最後のチャンスを逃したショックと自分の実力の無さに嫌気がさしていた。額を涙が伝い、拳を強く握りしめる。俺の最後の挑戦は幕を閉じた。ワガママを言っていられる歳はとうに過ぎた。俺は…選ばれなかったんだ。
「仁界君。ごめんね君を選んであげられなくて。」
最後までその場に残り涙を流す俺に、小室コーチは手を差し伸べてくれた。
「いいえ。後悔はないです。」
これを機に…就活をしよう。新卒でも転職でもないけど、きっと誰かが雇ってくれるはずだ。だから、就活を頑張ってみよう。
「君はどうしてこの歳になるまでサッカーにこだわっているの?叶えたい夢があるのかい?」
「ワールドカップに…出たいです。」
俺の言葉を聞いた小室コーチは目を丸くして驚く。それもそうだろう。衰退しつつある日本サッカー界…加えて若者を優先しがちなこの風潮の中、その向かい風の中真っ向から扉を開いてやろうとしてるんだ。
「笑いますか?」
「い、いや…。驚いた。むしろ嬉しいくらいだ。君のような情熱を持った選手が1人でも代表にいたら、今の日本はこんな風になっていなかった。そう思う。」
そう言って優しく笑う小室コーチ。決して馬鹿にした嘲笑ではなく、敬意を込めた微笑みだった。
「でも、君のその夢は…叶わない。きっとこれからずっと。」
俺の肩に手を乗せるコーチ。
「君があと10年早く、ここに来ていたら僕は選手として君を迎え入れていた。」
そうだ。俺はサッカーに憧れるのが…あの輝くステージに憧れるのが…
「少し遅過ぎた。君は生まれる時代を間違えたのかもしれない。」
俺は力強く拳を握る。どうしようもない…抗いようのない現実に、屈することしかできない真実に、覆ることのない事実に俺は苦渋を飲むことしかできなかった。
「だから…」
「お前うちでコーチになれ。」
小室コーチの言葉を遮って俺を指差したのは、先程まで俺を毛嫌いしていた多賀だった。
「ぇ?」
俺はその言葉に一瞬戸惑った。
「多賀さん。いいとこ取りは止めてください。彼は僕が見つけた逸材だ。」
俺が…逸材?
目の前で繰り広げられる会話についていけず、俺は立ち尽くす。いつのまにか握った拳を開いていた。
「そういうことで…仁界君。正式に君にオファーを出す。うちでコーチとして働いてくれないかい?」
差し出された手。俺はそれを握るのを躊躇する。あくまで俺の夢は…ワールドカップでの優勝だ。ここで選手としてのキャリアを閉じてしまうことは…それを達成できないということ。
だが、どちらにせよ選手としてこの試験は合格できなかった。就職先を見つけられたと考えたら…いい選択肢なのだろうか?
「俺は…。」
「どうして仁界君なのか…。簡単だ。君の戦術眼に類い稀なるものを感じた。試合中の的確な指示、体は追いついていないが、やろうとしているプレーの次元が明らかに他の選手とは違った。」
ここまで…トレーニングに加えて様々な戦術を頭に叩き込んできた。体が追いついていないのはわかっていた。だからこそ導き出した俺の新しい戦い方だった。それを今、理解してもらえた。そしてコーチとして誘われている。その手を握らない理由はなかった。
「俺は…やっぱり…」
それでもすぐにその手を握れなかった。諦めきれないあの輝くステージ。観客の声援に、選手達の叫び声…俺の目標はあの高みだった。
「君の夢を聞いて確信したよ。君はコーチになるべきだ。そしてのちに…夢に見たワールドカップの舞台に立つ…『監督』としてね。」
監督…。
「君は選手としては走り始めるのが遅かったけど、指導者としてならまだ十分に未来がある。むしろ早いくらいだ。ここから積み上げて…ワールドカップに立とうじゃないか。監督として…ね。」
俺は無意識にその手を握っていた。あの時感じた…輝くステージ。あそこまでの道のりがはっきりと見えた気がした。新しい始まりを見つけた…あの感動が蘇ってくる。
「よろしくね。仁界君。期待しているよ。」
「…はい。ありがとうございます。全力で…取り組みます。」
ここから、俺の人生の第二ステージが始まった。