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母の日

作者: 佐藤瑞枝
掲載日:2022/09/03

1.春樹


 目が覚めたら、掛布団が床に半分落ちていて、暖房のいらない季節になったんだな、とぼくは思った。スマホの画面をタッチし、日付を確認する。

 五月九日、九時四十三分。

 この部屋に閉じこもって一年が過ぎた。トイレとシャワー以外、ぼくが部屋の外へ出ることはない。

それは、高校の入学式の日に起きた。体育館に並んでいると、斜めうしろにいた女子グループがちらちらとぼくの方を見て笑っていた。自分の顔に何かついているのだろうか。トイレに駆け込み鏡をのぞいた。どこも変なところはなかったけれど、絶対にどこかおかしいところがあるはずだと思って、何度も顔を洗ったり、手櫛で髪を整えたりした。そうしているうちに、最初がどうだったのか、どこを直したのかもわからなくなった。あきらめてトイレから出ようとすると、激しい動悸に見舞われ、ぼくはその場から動けなくなった。

 最終下刻を過ぎ、やっとの思いで帰りのバスに乗った。乗客がみんなぼくを見て笑っているような気がして、またしても動悸が止まらなくなった。その日、どうやって家までたどり着いたのかぼくには記憶がない。

 以来、ぼくは学校へ行けていない。朝起き上がろうとすると、頭痛やめまいがやってきた。母さんとは、毎朝学校へ行く、行かないでけんかになった。


 「せっかくがんばって合格したんだから」

 「行ってみれば大丈夫かもしれないでしょう」


 母さんは何度もそう言って、ぼくの部屋の扉をたたいた。父さんは、力ずくでぼくを玄関の外へ引きずり出そうとした。けれど、ぼくが全身で抵抗すると、父さんは「もう知らん」と言って手をはなし、それ以来ぼくに何も言わなくなった。


 「もう無理して学校に行かなくてもいいから」


 扉越しに母さんの声を聞いた日、ぼくは心底ほっとした。


 扉をあけると、いつも通りの朝食が並んでいた。目玉焼きにソーセージ。バターをぬったトースト。小さなサラダも添えてある。ずっと部屋にこもっているからほとんどおなかはすかないけれど、最近はできるだけ食べるようにしている。残さず食べたとき、トレイをさげにくる母さんの足取りが軽いことに気づいたから。

 カーテンを閉め切ったうす暗い部屋で、スマホを見ながら朝食を食べる。


 『まだ間に合う。母の日特集』


 画面に赤い文字が浮かび上がった。誰からも来ないLINEに紛れ込んだ通販サイトの広告だった。


 そうか。母の日が近いのか。


 母の日が正確にいつかわからないまま画面をタップすると、鮮やかな色の商品が画面を埋め尽くした。人気ナンバーワン。一万五千個販売。メッセージカードつき。配送料無料。最短お届けなど売り文句もついている。


 母さんに何かプレゼントしたい。


 衝撃的にそう思った。学校への行かず、部屋にひきこもっているぼくをひたすら待ち続けている母さん。ぼくの、唯一の味方。

 母さんは、どんなものがほしいのだろう。指でスクロールしながら商品を見ていく。さくらんぼ、紅茶、ロールケーキ、口紅、スカーフ、時計。ありとあらゆるものが載っていた。けれど、ぼくは母さんが好きなものを何ひとつ思い浮かべることができなかった。


 「やっぱ、カーネーションなのかな」


 ありきたりだと思いながらも無難な選択肢に行きついて、ほとんどお金をもっていないことに気づく。子供の頃から小遣いをためていた貯金箱や机の引き出しの中からなんとかかき集めて千三百二十円になった。

 これで買えるカーネーションはあるだろうか。花束やアレンジメントはほとんど三千円からで千円台で買えるものはなかなか見つからなかった。やっと見つけても送料八百円とカッコ書きされていたりして手が届かなかった。見ていた通販サイトをいったん離れて、ほかのサイトを検索した。十分以上検索して、「いちりん」というページにたどりついた。花を一輪ずつ販売している店のようだった。その中に、赤いカーネーションを見つけた。送料込みで千円。これなら買える。迷わずカートに入れた。


 「商品はお振り込み完了後の発送になります。振込先は△△銀行〇〇支店…」


 どうしよう。支払いのことまで考えていなかった。振り込まないといけないということは、どこかのATMに行かなければならないということだ。一年以上ここから出たことがないぼくが、外へ出かけるなんて到底できそうになかった。

 カーテンを少しだけ開けておそるおそる外をのぞいた。眩しい光に目がくらんで、ぼくは何度もまばたきをした。向かい家のおばさんが隣のおばさんとしゃべっている。その横を女子高生がふたり並んで通りすぎて行った。一瞬、女子高生のひとりに見られた気がした。迂闊だった。ぼくはあわててカーテンを閉めた。おさまっていた動悸がまたはじまってしまった。

 スマホのカメラを自分に向けて、顔をうつしてみた。伸び放題の髪。口の周りに生えた髭もだいぶ濃くなっている。久しぶりに自分の顔を見たぼくは、部屋にこもっているあいだに獣みたいになっていたことにショックだった。こんな顔じゃ、絶対に外になんか出られない。

 そうだ。マスク。マスクがあればいい。入試のときにつけていたものがどこかに残っているはずだ。たんすの中をひっかきまわして、マスクを一枚だけ見つけた。マスクをつけ、ニット帽を深くかぶると顔の大部分が隠れ落ち着いた。

 昼間は明るすぎた。出かけるのは夜に決めた。


 父さんも母さんも寝静まった深夜にぼくはそっと部屋を抜け出した。下駄箱からスニーカーを出して足を入れた。スニーカーの内側はひんやりと冷たく、しばらく履いていなかったせいで自分のじゃないみたいな感じがした。

 夜の空気ははりつめていて、大きく息をしただけでパリンと壊れてしまいそうだった。コツコツと歩く人の足音がものすごく大きく聞こえたし、すれ違うバイクの音に心臓を突き破られるかと思った。

 真っ暗な夜の町で、煌々と明かりのついたコンビニを見つけたとき、ぼくは少しだけほっとした。今までずっと明るい場所を忌み嫌って、薄暗い部屋に閉じこもっていたぼくがそんな風に思うなんて不思議だった。駐車場には車が止まっていた。こんな夜中に買い物に来る人がいることに驚いた。

 車の横で、数人がたむろしていた。車止めに、食べ物や飲み物が散らかっていた。


 「よう、春樹じゃん」


 そのうちの一人にいきなり名前を呼ばれて、ぼくは心臓が止まるかと思った。太一だった。金髪とピアスが夜の闇に光っていた。マスクをして、帽子をかぶっているのになぜぼくだとわかったのだろう。太一は中学の同級生だ。中学の頃から悪い連中とつきあっているとうわさになっていた。関わりたくなかった。目をつむり、素通りして店に入ろうとすると、太一の方から近づいてきて肩がぶつかった。


 「返事くらいしろよ。何してるんだって聞いてんだよ」

 「それともおれたちの仲間になるってか」

 

 ぼくを見下ろしている太一の目は白く濁っていて、ぼくはおそろしくて足がすくみ、どうしたらいいかわからなかった。


2.母


 入学式の日に、いったい何があったというのだろう。春樹はその日をきっかけに学校へ行けなくなってしまった。どうしてこんなことになってしまったのか理由がわからなかった。頑張って入った第一志望校だったし、親子で何度も見学して決めた学校だった。それなのに、たった一日行ったきり通えなくなってしまったのだ。正樹は、自分の息子を「やる気がない」、「怠けている」と決めつけて関わろうとしない。

 きっと何かがあったのだ。希望に満ち溢れていた春樹の胸を打ち砕いてしまった何か。わたしはそれが知りたかった。


 いじめ。


 その三文字が頭からはなれなかった。


 学校に五日目の欠席の連絡をしたとき、担任の野中は言った。

 「お母さんも毎朝大変でしょうから、春樹くんが来られるようになったときに連絡くださればいいですよ」

 あんまりではないか。生徒のことを心配するのが教師ではないのか。それなのに、登校するまで連絡するなとはどういうことだろう。

 

 「あの、息子は誰かにいじめられていたのではないでしょうか」

 

 ずっと気になっていたことを思い切って口にした。入学式の日、きっと学校で何かあったはずだ。真実が知りたかった。けれど、野中の返事はわたしが期待したものではなかった。


 「入学式のたった一日だけでいじめが起きたとは考えにくいです。高校生活がはじまって、きっと緊張しているのでしょう」

「それは、先生がそう考えていらっしゃるということでしょうか」

「いえ、これは学校としての見立てです」


 見放された気がした。もう春樹を守ってやれるのはわたししかいない。そう思った。


 「もう無理して学校に行かなくてもいいから」


 春樹の部屋の前に立ち、声をかけた。わたしだけが、春樹の味方だ。


 朝、部屋の前に朝食を置く。春樹がシャワーやトイレに行っているすきに部屋に入り、シーツやまくらカバーをとりかえた。不潔なひきこもりにはさせたくなかった。髪を切ってやりたいが、こればかりは仕方がない。今はじっと春樹を待つ時だ。部屋でゲームばかりしているようだが、親の目の届かないところで非行に走るより家にいてくれるほうがよっぽど安心ではないか。そう思うようにした。

 目玉焼きにソーセージ。バターをぬったトーストは春樹の好物だ。野菜不足にならないようサラダも添える。一日じゅう部屋の中ばかりで過ごしているのだから、どうしたって運動不足になる。春樹には、できるだけ身体にいいものを食べさせてやりたかった。食欲のなかった春樹が、この頃は残さず食べてくれるようになった。そんなときは、うれしくて、部屋の前から台所まで思わず小走りしてしまう。

 このまま春樹が元気になっても、春樹が望むなら学校へ行かなくてもいいと思う。勉強なら家でだってできるし、通信教育で高卒の認定をとることだってできる。あの有名な発明家のエジソンだって、学校へ行かず家で勉強したのではなかったか。春樹だって。どこへも行かなくていい。この家だけが春樹の居場所だ。そう思っていたのに。


 朝、玄関に春樹の靴が出ていた。どこかへ出かけたのだろうか。夜のうちに? 血の気が引いた。まさか悪い友達にでも誘われているのではないだろうか。ゲームをしているだけかと思っていたが、まさか携帯で誰かとやりとりをしていたのだろうか。

 正樹に相談してみようか。だめだ。あの人は頭ごなしに春樹を叱るだけだ。夜中に家を抜け出していく春樹を思うと夜も眠れなくなった。寝室の明かりを消してからも、息をひそめて春樹の部屋に耳をすませた。トラブルに巻き込まれているのなら、力になってやりたい。今すぐ部屋に押し入って、春樹と話がしたい。けれど、そんなことをしたら、春樹のことを信じていないことになる。どんな時も息子を信じてやるのが親としての務めではないのか。

 こうして見守っているうちにトラブルが大きくなってしまったらと思うと眠れぬ夜が続いた。それでも毎朝同じ時間に起きて春樹のために朝食を作った。部屋の前に置かれた皿が空っぽになっているとほっとした。大丈夫。春樹はきっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせた。


 日曜日はよく晴れて、わたしはベランダで洗濯物を干していた。家の前に宅配便のバンが止まった。ドライバーが降りて荷台から小さな箱を取り出すと、うちに向かってやってきた。呼び鈴が鳴って玄関に出ると、荷物はわたし宛てだった。

 送り主に、春樹の名前が書いてあった。何かの間違いではないだろうかと思いながら、箱を開けると、赤いカーネーションが目に飛び込んできた。もう一度宛名を確認した。自分宛だ。そして、送り主の名前も。今日が母の日だったこと思い出した。

箱から取り出し、ガラスの一輪挿しに生けると、カーネーションはごくごくと水を飲み、大きく伸びをしたように見えた。同時に、眠れない日を過ごして重くなっていたわたしの身体が嘘みたいに軽く感じた。悪い友達と付き合っているかもしれないと少しでも息子を疑った自分を反省した。春樹は大丈夫だ。今はただ時間が必要なだけだ。

 春樹にもカーネーションを見せてやりたかった。さんざん考えて、わたしは洗面所に飾った。ここなら、春樹がやってきたときに目にするだろう。


3.春樹、再び


 あの日、太一に絡まれそうになったぼくを助けてくれたのは、コンビニのおじさんだった。

 

 「関係ないだろ。用があるんだ」

 

 そう言って、店に入ろうとしたぼくに太一が足をかけてきた。転んだぼくの背中に太一の靴が押し付けられる。もうだめだ、と思った瞬間だった。


 「君たち、何してるんだ」


 店の中からおじさんが出てきて叫んだ。その声に、太一たちはあっけなく退散した。おじさんは、ぼくが立ち上がるのを手伝ってくれた。


 「飲むかい?」

 そう言って、紙コップにあたたかいココアを淹れてくれた。


 ぼくがプレゼントしたカーネーションを母さんは洗面所に飾っていた。あの日、深夜のコンビニに出かけたことは、母さんには内緒だ。きっと気づいていないと思う。

 あいかわらず、母さんは毎朝ぼくの部屋の前に朝食を置いてくれる。

 目玉焼きにソーセージ。バターをぬったトーストに、サラダ。

 スマホを片手に食べようとして、ふと思い立った。スマホを伏せてデスクに置き、カーテンを少しだけ開けた。ぼくの部屋に光が差し込んで、小学生らしい子供たちの声が重なって聞こえた。

 ぼくの一日がはじまった。


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