第二話 召喚の女神
爽やかな風が頬を撫でる。その感覚に気がつければ、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
「なんだ、これは……?」
何故だか立ったままの視線で目が覚めたカルア、そんな彼の視界に広がるのは見渡す限りの草原だ。
多少の雲が散らばる青い空と、地平の果てまで広がる緑の草原。
「気がつきましたか?」
凛とした声が背後から響いた。
反射的に跳び退き、振り返る。
「そう身構えないでください。私は貴方に危害を加えるつもりはありませんから」
諭すような柔らかい口調でそう言うのは、息を呑むほど美しい傾国の美女だ。確かに整った顔立ちは、しかしどこか作り物といった感じがした。
当然、そんな不気味な女を見て警戒しない筈もなく──
「アンタ、何者だ?」
「信じて貰えるか分かりませんが、私は女神の一柱です」
その言葉にカルアは目を細める。周囲の景色から確かに現実ではないと思ってはいたが、夢にしてはタチが悪い。──尤も、あの悪魔が住まう悪夢と比べれば天地の差があるのだが。
「なるほど。そうなると、俺は漸く死ねたのか」
皮肉を込めてそう言えば、彼女もまた自身が初対面で嫌われていることが理解出来たのだろう。困ったような表情を浮かべながらも、しかし優しげな口調で諭すように言葉を紡ぐ。
「いいえ。確かに致命傷に近い傷を負いましたが、貴方は生きています」
「では、ここは何ですか? あの世じゃないとすれば、夢か何か?」
「敬語を使う必要ありませんよ。貴方の話しやすい言葉使いで構いません。
それと貴方に分かりやすく言えば、ここは精神世界のようなものです。ここでは肉体的な痛みも遮断出来ます」
「通りで、あれだけこっ酷くやられたと言うのに痛みがない訳だ」
女神を名乗る女の言葉に頷くと、カルアは再び疑問を投げかけた。
「まぁ、死んでいないならいい。何も変わらぬこと」
ため息混じりのそう溢せば、殺意の籠る視線を女へと向ける。
「それで、アンタの話しが事実だとして俺に何の用だ? 何のしが無いただの殺し屋に、女神様が態々接触する意味が分からない」
さっさと本題に入ろうとする彼の言葉を耳にして、女神と名乗った女が深刻そうな表情を浮かべた。
「単刀直入に申し上げれば、貴方にはある世界を救って欲しいのです……」
「……拒否権は……?」
女神ともあろう者が縋るような眼差しでそう言うも、それを耳にしたカルアは露骨に顔を顰めて問い返す。
「……そ、そうですか。私達の方も無理強いは出来ないのでそう言われれば引き下がる他ありませんが、もう少し考えてはくれませんか?」
「何の説明もなくそう言われれば誰でも断るだろう。そもそも、そんなことをしても俺にメリットはない」
「確かにいきなり過ぎましたが、始めに単刀直入に申し上げると言った通りです。まだ状況に頭が追いついていない混乱した状態で、回りくどいことを言って、それを理解出来ますか?」
確かに無理だろう。それぐらいならもう何の飾りもなく単刀直入に言われたほうが有難い。
「確かに、そうかも知れない。しかしさっきも言ったが、いざ受けるにしても俺に何のメリットがある?」
「まず貴方の期待に報いられるかは分かりませんが、もし成功した暁にはどんな願いも叶えましょう」
「それこそ胡散臭い……。いや、終わった後のことを考える以前に俺はノーリスクでその世界で生きていけるのか?」
「はっきり申し上げれば、無理です」
そうなればリスクとリターンがあまりに釣り合わない。そんな状態で誰がこんなことを受けると言うのか。
「考えて欲しい、と言ったな?」
自分でも驚くほど冷えた言葉は連なる。悪魔と対峙した時ですらもう少しまともな言葉遣いであっただろうに、何故かこの女神を前にすると酷く冷めた気持ちになる。
「ええ」
「それなら、こちら思案するのに必要な情報を開示するのがそちらの義務では無いのか?」
「尤もです。知りたいことがあれば、なんでも聞いてください」
ふーっと一つ息を吐き出すと、頭の中を整理する。もし本当にそちらの世界へ行くとして、何を知っておくべきか。
「まず第一に、そっちの世界は危険なのか?」
「ええ。少なくとも、貴方のいた地域よりは遥かに」
「もし、そっちで死んだ場合どうなる?」
「私達の力が及ぶ範囲にいれば蘇らせることも可能ですが、基本的には不可能だと思ってください」
「つまり、死ねばそれで終わり、だと? 元の世界にも帰れない?」
「ええ。その認識で間違いありません」
反射的に舌打ちをして頭を抑え、唸った。
あまりにリスクが大き過ぎる……が、あの悪夢を見た数日後にこれなのだ。当然無関係だと切って捨てることは出来ず、何よりも彼女達のことや悪魔との契約もある。
「一つ聞いていいか?」
「一つと言わずいくらでも」
「何故、俺を選んだ。何よりも世界を救う者を探していると言うのであれば、俺以上の適任はいくらでもいるはずだ」」
「いくつか理由はありますね。幼い頃から暗殺術を叩き込まれている貴方はまず基礎としての能力が高く、その上で他者の為に自身の時間を使うことを惜しまないからです」
その言葉を受けて目を細める。確かに友人の為に自身の勉強時間を削って彼等の勉強を見てやったこともあった。
小さな頃から人よりも能力に優れていると言う自覚があり、それを誰かのために使うことを嫌と感じたことは殆どない。
──しかし現実はどうだろうか……
得た力は殺しに使い、最後には善も悪もなくただ殺す為に殺してきたのだ。彼のどこに、そんな善良な志があると言うのだろうか。
「確かにその理由では不満に思うかも知れませんね。ですが、貴方を選別した決定的な理由はそんなことではありません」
訝しげに眉を顰める彼の前で、女神と名乗る女が柔らかく微笑む。
「貴方には、執念があるから……」
「…………執念?」
「ええ、執念です。時に精神は肉体能力を凌駕します」
何を言っているのか分からない。そう、問い返す間もなく、女神が立て続けに言葉を募る。
「貴方の幼馴染」
「……っ!?」
思わず目を見開いた。──いや、女神なら知っているのも当然だろうか。
そして、夢の悪魔とのやり取りがここに繋がっていことも──
「もし貴方が望むのなら、一つだけ報酬を前払い致しましょう」
「彼女は、どこにいる?」
罠だと知りながら、しかし聞かずに入られなかった。報酬の前払いとはつまり、それを受け取るのならそれ相応の成果が求められる。
彼女のことを聞けば、もうカルアは女神に協力する他ないのだ。──否、初めから断ることなど出来ない。
──それを分かって俺を選別したか……
「彼女は、これから貴方に向かってもらう世界にいます」
「それは事実か?」
「ええ。彼女はあの日の夕方、貴方と別れたその直後に神隠しにあったのです」
「どう言うことだ? いや、それを俺が信じるとでも?」
「信じるか信じないかは貴方の自由です。ただ一つだけいることは、今まで元いた世界で彼女の行方が分かりましたか?」
「…………」
「簡潔に述べれば、事故によってあちらの世界へと飛ばされてしまったのです。本来であればそんなことが起こらないようにするのが我々の仕事であり、万が一そうなっても連れ戻します」
「だが、出来なかった。何故……?」
立て続けに質問するカルアに嫌な顔一つせず、女神は淡々と答える。
「それこそが私が貴方に求めることです。あちらの世界へ対しては、我々の干渉能力が及ばないのです。
つまり、あちらの世界に飛ばされてしまった彼女を回収することも出来ないままなのです」
申し訳なさそうにそう伝える女神を、しかし何故だか責める気にはならなかった。何よりもそんなことに意味などないのだから。
「その世界のどこにいるかも、分からないのか?」
「貴方達の世界なら、誰がどこにいるのか一目瞭然です。しかし先も言った通り、あっちの世界には我々の力が届かないのですよ。言ってしまえば目隠しをしている状態と同じです」
だから、カルアを送りつけると言うわけだ。
「貴方があちらの世界を救い、我々とあちらの世界との繋がりを作ってくれれば我々の力も及ぶ。そうなれば、彼女を見つけ出すことも容易です。もちろん、貴方が直接探してもいいのですよ」
女神の言葉を聞き、カルアが黙り込む。果たしてそれが最善なのだろうか。──否、それしかないのだ。
「それで、俺がアンタ達の為に動いてくれると思った訳か?」
「厚かましながら、そうです」
そうだろう。そうでなくてはおかしい。
何のメリットもなくそんな危険な依頼を受けるのは相当なお人好しか、馬鹿だけだ。
──どちらにせよ。まともな奴じゃない……
「俺もそうなのかも知れないな」
ポツリとそう零すと、カルアは芝の上に腰を下ろした。彼自身もまた、悪魔に魂を売るような馬鹿なのだから。
「一応聞くが、途中でリタイアは可能か?」
「貴方が望むなら可能です。ですがあそこは私達の力が殆ど届かない世界なので、リタイアしたいと思っても私達と接触が取れるまではできません。
それと貴方が元の世界に戻った際は、傷を完治させた上で貴方の家まで送りましょう」
つまるところリタイアしたいと思ってもすぐには無理だと言うことだ。
「ちなみに聞きたいことなどがあった時、俺から望めば接触は可能か?」
「ええ、可能です。ですが、これもやはり……」
そう、うまくはいかないようだ。
「なるほど、何か物資のようなモノは支給させるのか?」
「貴方が望むのなら出来うる限り用意しましょう。もし接触が取れれば、後からいくらでも」
「それは助かるな。ちなみに、金銭のあたりもか?」
「ええ。ですが、そちらに関してはお金の回りに害が出ない範囲でしか支給出来ませんが……。それに私が貴方に与えるのは本物と同じ、しかし確かな偽札です」
確かに、金をいくらでも使っていいと言われて好き勝手にばら撒けばロクなことにはならない。その上、偽札ともなれば尚更だろう。
──とは言え、不自由することはないか……
「世界を救うと言うが、本当に俺にそれだけの能力があるか?」
「肉体的な能力はこちらで引き上げます」
「……具体的には、どれぐらい?」
「より運動に適した構造に作り替え、頭の回転も上がります。人間として最高レベルのスペックになるかと」
──なるほど、肉体的なパフォーマンスは飛躍的に上がると言うわけか……
「身体に負担がかかりますが、あちら側の言語は頭にインプットしておきます」
「助かる、が後遺症とかないよな?」
「数日頭痛が続くくらいかと……」
まぁ、いいだろう。それ以上に言語で不自由しては始まらないと、頭痛ぐらいなら受け入れるしかない。
「他にもあちら側に世界に魔法などの法術が存在しています。使い方は同じようにインプットしておきますが、一度に入れられる量には限界があるので入れられるのは基本的なことだけになってしまいます」
「魔法、が使えるとは言うが……回数制限とはどうなる」
確かに使えれば強力な手札だろう。しかし、それでもどれだけ使えるかによって使い勝手は大きく変わるものだ。
「安心してください。そちらのスペックは可能な限り高くしてあるので、消費の激しい魔法を連発するとかで無ければ枯渇することはないかと……勿論、基礎的な魔法はおろかそれなりに上級の魔法程度ならいくら使っても大丈夫です」
「ちなみに枯渇するとどうなる?」
「ただ枯渇するだけなら、酷い疲れを感じるでしょう。場合によっては、体力を使い果たした時のように動けなくなる可能性も……。ですが、最悪の場合は生命活動に必要なエネルギーも失った場合は、死にます」
「どれぐらい使えばそうなるか分かるのか?」
「それは経験あるのみです。感覚的に覚えるしかありませんが、貴方に与えるスペックなら一部の禁術でも無ければ死ぬほど力を失うなんてことにはならない筈です」
──なるほど、普通に使っている分には死ぬことはおろか、力尽きることも無いのか……
──ひとまず使い過ぎによる問題は無いと見ていいだろう……
その後、一通りの説明が終わり、立ち上がろうとしたカルアに女神が待ったをかけた。
「最後にいくつか注意事項を。まず一つ目、世界に送り込む異世界人は貴方以外にも多数います。基本的には互いに協力し合って欲しいところですが、逆に危害を加えてくる者もいます。
貴方達の地力は同じなので勝負を分けるのは互いの技術と経験になります。基本的には無理に戦わず逃げてしまって構いません。その後、私達に報告していただければ、その者が手の届く範囲に入った時に回収いたします」
「回収した奴はどうなる?」
「記憶を抹消して元の世界に強制送還致します」
それと、と彼女が指を立てる。
「リタイアが可能と言いましたが、その時点で次の方々の利益ななる情報などの功績があれば、それに応じた報酬をお支払い致しましょう」
「随分と素晴らしい制度を設けてくれる」
世界を救い切れなかった場合、完全に手ぶらになることはないようだ。
「それと、一人……決して手を出してはいけない相手がいます」
そう女神が言うと共に、目の前に映し出された画像。
それは白髪の少女。まだ幼さの残る彼女の顔立ちは理想的なまでに整ったおり、身の毛もよだつほどの美貌に思わず顔を顰めた。
だが、そんなことは些細な問題に過ぎない。──何故なら、彼女こそが悪夢の中に座する彼の悪魔が抱き抱えていた天使だっのだから。
「彼女は私達以上の存在です。つまるところ、我々の手に負えない存在であり、当然ながらそんな私達が力を与えた程度の存在である貴方達ではどうしようもありません」
「彼女の何が危険なんだ?」
知らない体を装って彼女へ質問を投げかける。現に、悪魔からはあの少女に関する一切の情報を貰えていなかのだから。
「上げればキリがないので、どうしてもと言うのら詳しいことはまた別の機会にお話しいたします。ですが、決して彼女の視界には入ってはいけません……いえ、自分の視界にも入れないようにしてください。可能であれば互いの意識にも入らないように──」
「……そこまで、か」
「ええ。簡単に説明してしまえば、彼女は自力で複数の世界を行き来できます。その上で、それぞれの世界に存在する法則にも捉われず、我々以上の影響力を持っています」
悪魔の不親切さに些か腹が立ちながらも、彼の話しを踏まえた上で彼女を敵視する女神を目の当たりにすれば、疑念を抱くのは当然のことだ。
「最後に一つ聞きたい」
「はい?」
「何故、アンタらは世界に干渉する。放っておいても世界は回る筈だろう?」
「確かにその通りですね。ですが、貴方の世界の人間は、自然を放置しますか? 人間界と自然界が切っても切り離せないように、私達の関係も同じなのですよ」
そうか、と頷くと瞳を閉じる。そうして何度か深呼吸を繰り返すと、
「彼女の件で何か分れば必ず教えてくれ……これが、俺がアンタ等に力を貸す唯一の条件だ」
「必ず……」
ふーっと息を吐き出し、そうして腹を括る。
「時間を食い過ぎたな。やってくれ」
「ええ。どうか、ご無事で……」
彼の言葉に従って、女神が転移術を起動させる。次の瞬間、視界がホワイトアウトし、身体が浮遊感に包まれた。
疑似的な五感が失われ、代わりに肉体から感じるはっきりとした五感が機能し始める。そうして暗い視界の中で感じたのは、強い砂の匂いだった。