第二話 ソレはいつでもそこにいる
「血が好きか?」
いつか、誰かに聞かれた言葉。──それがいつだか思い出せない。
しかし目の前にある光景がその言葉だけを思い出させた。
「クソ……!」
別に正義を振り翳すつもりない。今更、どの面を下げて正義などと口に出来るだろうか。
それでも、眼前にあるソレを見て何も感じない筈もなく……思わず吐き捨てるように悪態つき、それでも腹の底から湧き上がるような暗い感情が言う。
──こんなことが許されるのか……
否、断じて否だ。──決して許されない、許してはいけない。
バラバラに破壊された肢体。
あるいは、辱められた亡骸。
それは死を冒涜する行為だ。
きっと人はそれを偽善と言うだろう。
──それでもいい……
一つ目を閉じると、踵を返して来た道を戻る。死者を辱めてた者と鉢合わせないように、死姦を繰り返す異常者から逃げるように──
こんな世界だ。何でもありと事前に言われていて、今更何を驚く必要があるのか。
──だというのに、その足取りは異様に重く感じられた。
「おお? 何だ、お前も終わったのか?」
開始地点に戻る途中、見てしまった。──目を逸らそうにも、もう遅くて……能面のように固まった表情のまま、ただそれを見下ろしている。
「…………何を、しているんだ?」
男が女に重なっている。──死んだ女に、男が劣情をぶつける様を……。まるであり得ないものでも見たような目で、だからこそ見たままの光景を理解出来なかった。──否、理解したくなかったのだ。
「あぁん?」
明らかに必要人数以上を手にかけて、また食い散らかした一人少女を……殺す度に愉悦に染まった表情で彼女の顔に斧を振り下ろす。
何度も何度も、ただ屍を破壊することを愉しむ男をカルアはただただ嫌悪した。
繰り返し繰り返し、死者を辱め、陵辱の限りを尽くす冒涜者に憎悪をも抱いた。
畜生にも劣る行為。
人道を外れた所業。
「見りゃわかるだろう。死んだヤツをどうしようと勝手だろう」
──違う……
それだけは断言出来た。人は死ねばそれで終わりで、死者に口無しだ。
死者をどれほど辱めようとも、彼等にそれを払拭する手段はなく……だからこそ、何よりも尊いものではないのだろうか。
──死姦か……
ゆるりと立ち上がり、手の中の少女をまるで何でもないように放り投げる。
死者へ対する尊厳をまるで何とも思っていないような冒涜者。その言動に体の芯から冷え込むような暗い感情が込み上げる。
「──っ!?」
その中でカルアが思わず、息を呑む。男がカルアへと意識が向いた瞬間、屍の影から一つの人影が飛び出しのたのだ。
「おせぇ!」
斧を振り抜き、しかし彼女は超反応でそれを掻い潜ると男の腹に細く長く削り出したガラス片を突き刺す。
間髪入れずに男が斧を振り下ろし、それは少女の腕を掠めて人影は躱す。──間髪入れずに更に深く彼女は男の懐へと飛び込むと、足裏にて男の腹に刺さったガラス片を蹴り込んだ。
「グフ……」
苦しげに呻き、男の体が後方へと弾かれた。直後、その斧が彼の手から離れて少女の肩へと食い込む。
「今のは、効いたぜ……」
「そうかい? こっちからすれば、今の仕留められなかったのは想定外だけどね」
そう言う声にはよく聞き覚えがあって、ハッとして目を凝らせばボロボロの体で立つ魔女の姿があった。
「分からないな」
対峙する魔女ではなく、それはカルアから発せられた言葉。
「何故、死者を辱めるようなことをする?」
表情一つ変えずそう答えるも、自分でもゾッとするほどその声は冷え込んでいた。
──怒っているのか。あるいは、悲しんでいるのか。そのどれとも取れぬような声に感じた。
「別に理解を求めちゃいないさ」
肩を竦めるように、それでいて世の中の全てを嘲るような笑みを浮かべた。
「俺は俺のやりたいようにやる。死ねば物言わぬ骸だ」
「だから、好きにしていいと?」
カルアの言葉に、冒涜者は喉を鳴らして嗤う。
「逆に聞く。誰の許可がいるんだ?」
死者に口無し。死ねばそれは物言わぬ骸で、ただの肉の塊に過ぎない。──そんなこと、カルアが一番よくわかっていることではないか。
「アンタは、人の尊厳を何だと思っているんだ?」
「ハッ! 尊厳だと? その辺に打ち捨てられたモノに貴様は敬意を示すのか?」
──そうだ。屍など所詮はその辺に打ち捨てられた肉の塊。
それをどうこうしようとも何も変わらない。決して死者が蘇る訳でもなく、そんなもの慰めにもならない。
「……だから、辱めるのか?」
耳鳴りだろうか。ずっと鳴り止まない雑音が脳裏に響いている。
それはまるで囁きに聞こえて、彼の暗い感情に呼応してはっきりと聞こえるような気がした。
「辱める? それは貴様の主観だろう?」
「…………そう、か…………」
悪魔が囁く。──その声に応えるように手を顔に置き、暗い笑い声が腹の底から湧き出す。
魂の底から感情が冷めていくのを感じた。
激情すら消え失せて、ただあるのは嫌悪。
──もう、十分だ……
「最後に、一つだけ聞く」
そう言って、ゆるりと刀を構えたカルアが魔女を背に立つ。まるで魔女を守るよに立ち塞がるカルアに、男が初めて不機嫌そうな顔を見せた。
「おいおい。そいつは、どう言う了見だ?」
「単純明快。俺は……貴様の敵だ」
ドス黒い激情が腹の中で渦巻いて、それが脈打つ度に耳元で悪魔が囁く。
──少女達を辱めた冒涜者を叩き潰せ、と……
──魔女を傷つけた獣を決して許すな、と……
ゆるりと背後に立つ魔女を確認する。外傷はそれなりに目立つが、意外と元気そうだった。
「無事、か?」
「そりゃ、ね。──それに、この傷は彼から受けたモノじゃない」
声が出しづらい気がするが、あまり深く考えることはないだろう。それよりも彼女の安否が確認できたのなら十分だ。
「なら、いい。アンタはここを離れろ」
「……ああ、そうだね」
カルアの言うことに大人しく従う魔女が遠ざる気配を背後に、男は刀を鞘から抜く。
「いいのか? 勇者同士の殺しは御法度だろ?」
「死者に口無しだ。貴様がよく知ることだろう」
刀を構え、ゆるりと一歩踏み出すカルアへ男が警告を落とす。それを無視して、カルアの口角が彼の意思に反して釣り上がった。
──まったく……
何故、こんなことになっているのか。
こんなことをしている場合ではない。
彼女を探し出す目的がありながら、どうしてそれ以上のリスクを背負うとしているのか自分でも理解出来なかった。
──いや、だからこそか……
「一応、参考までに聞きたい。貴様にも何か目的があってこっちの世界に来ているのだろう? どうしてこんなことをする?」
「ハッ! くだらねぇ質問だ。永延と世界を彷徨い、何も見当たらないまま、女神共の戯言に付き合ってられると思うか? ──それじゃ、つまらねぇだろ!」
思わず笑い出す程くだらない答えだった。
同情の余地もない、実にくだらない答え。
「くっ、クク……。そうか……それなら、もう言うことはない」
腹の底から湧き上がるような暗い笑い声。それに倣うように脳裏に響く悪魔の囁きはより鮮明さを増し、抗うことなく激情に身を委ねる。
「さぁ、死んでくれ」
焼けつくような痛みを瞳に感じて、そのまま足を踏み出す。バチバチと黒電は弾けて、手に持つ刀は闇色に染まる。
刹那、閃光が走る。躱したかと思ったのも束の間、カルアの頬から血飛沫が舞う。
「魔法は、封じられている筈だが?」
「危惧だな。丁度同じことを思ったところだ」
これが勇者。強力な封魔の陣すらも意味はなく、世界最高峰の化け物が衝突する。
次に動いたのはやはり狂人。身の毛もよだつような笑みを貼り付けて、距離を詰める。
その動きに合わせて、刀を振り下ろして……しかし、分かっているのか寸前のところで急停止。振り終わりを狙って剣を突き出し、無理のない姿勢で躱す。
しかし変則的な刃は途中で曲がったかと思うような奇怪な動きを見せ、またしてもカルアの肌一枚を切り裂く。
──奇妙な技だ……
返す刀で横一文字。それを刀で受け止め、しかしまるで何事も無かったかのように狂人の剣が受けをすり抜ける。
「──っ!?」
視界の端に映る血飛沫と黒い影。辛うじて腕を差し込むことで急所への一撃は避けたものの、左腕の肘から先を失った。
「甘いな……」
直後、雷霆が爆ぜた。黒い雷が両者の間を打ち抜き、暗い街を白く照らし出す。身を蝕むような痛みを振り払うように背筋を伸ばし、ゆるりと赤い瞳が狂人を見遣る。
──なんだぁ、そりゃあ……
傷付いた身体は治りが悪く、それよりも目が引かれるのは黒い男の姿。整った顔からはまるで感情が抜け落ちたようで──にも拘らず、男からは得も言えぬ凄みを感じた。
殺気でもなく、威圧感もない。──では、この不安感は何から来るものだろうか。
「…………」
油断なく魔剣を構え、黒い男を見遣る。先程まで暗く黒かった瞳が、片方だけとは言え今や熱せられた鉄のように赫く赫いている。
何か変化があった。怒りによって覚醒した……と見るには、あまりにも落ち着きすぎている。
能面を張り付けたような無表情で油断なくこちら見下ろして、黒髪の男が傲慢なほど緩慢な動きで刀を構えた。
一見すれば下段にも似た脇構え。しかし左手は刀を握らずダラリと下げて、半身に構えたまま片方の目だけで相手を見ている。
無手の左半身を前に出した見たこともない独特な構え。──隙はない。いや、一流であるのならどんな形であれ隙を見せることはない。
それは独特な構えであっても同じ。ただ歩いているだけでも隙を感じさせないような超一流が、目の前の敵を認識してそちらへと意識を向けているのだ。
どうして迂闊に攻め入れられようか。
「…………」
暫くの睨み合い。黒い男の全身から迸る黒電が時々火花を飛ばすだけで、それ以上の変化はない。
硬直状態が続くこと暫く、最初に動いたのは黒い男。ゆっくりと手首を回し、片手だけで構えた刀の位置を変え……そうして地面と水平に構える。
瞬間、男の重心が落ちる。──気がつけばその姿は掻き消えて、しかし見失ってはいない。
狙うのは最短、半身のまま踏み込み体を反転……身体ごと回転させた下からの切り上げ、大きく後ろへと回避、逃げ遅れた衣類の一部を切り裂いて跳ね上がる斬撃。
──二発目……!
切り上げた自身の斬撃を潜るように前へと飛び出す黒影。右手だけで左下からの切り上げ……頭上にかかった右腕をそのまま更に深く踏み込む。
そこは剣の間合いよりもなお奥……二段目も斬撃が飛んでくると踏んでいた彼の反応が遅れた。黒い男が狙うのは左の肘……胴を狙うかと思われたそれは、肘打ちにしては高い位置にある眉間を狙った。
重心を落とし、眉間を狙ったそれを額で受ける。頭が割れるような衝撃が脳天を貫き、それでも意識を刈り取るには至らない。
「くそォ……」
しかしそこで、男は自身の判断を呪う。気がつけば黒髪の男は額を突いた反動を使って腕を跳ね上げ、それは既に頭上で待機していた刀へと追いつく。
上段の構え、両の手で握られた刀……熱せられた鉄のような右瞳が怪しく光る。地面を割るほどの踏み込みと震脚、身体の芯にまで響くような衝撃の後に放たれたのようは落雷の如き斬撃だ。
──否、それは比喩もなく落雷だった。男が刀を両手で握りと同時に刀身に落ちた黒き雷。
白い光が辺りを照らし出し、踏み込みを兼ねた震脚が雷霆と化して爆ぜる。間もなく振り下ろされるのは滅びの落雷。
苦し紛れに受けた魔剣は粉々に吹き飛び、それでもなお殺し切れぬ威力をそのまま地面を撃ち抜く。大地に走る蜘蛛の巣状の稲光。
──しかし、男の姿はそこにはなかった。
「……しくったか……」
振り下ろした刀身を中心に蜘蛛の巣状に地面を割った雷撃。それを下ろす視界の片方が機能してないことなど意に介さず、ゆるりと気配を追って遠くの空を見上げる。
崩れかけた建物の上、全身の肌がひび割れた男が立っていた。とても無事とは言い難い姿でありながらも……何よりも目を見張るのは、傷口から立ち昇る赤い光と禍々しい紋様
「黒い雷。傷の治りも遅ぇ」
全身の傷口が脈打つように赤く明滅。──と、同時に感じるのとは途方もないほどの力の奔流。
禁術の一つ、術者への負担を度外視した強烈な自己強化。
「面白ぇ、面白ぇ! あぁん!? 最高じゃねェか!!」
魔剣を再召喚、両の手を広げて男は全身を震わせて笑う。死を目の前にして、狂気的に顔を歪ませて嗤っていた。
「なぁ、オイッ! 殺し合いはこうでなくちゃなァ!!」
死が目の前にある。その危機感に男は高揚して、どこまでも楽しげに身体を揺らす。
「あぁ、痛い痛い! 久しぶりの感覚だ! いいなぁ、いいぜ!! まだまだ、愉しませてくれよォ!!」
刹那、男の姿が掻き消える。いち早く反応したはずのカルアもまた、辛うじてその姿を捉えたのは自身の血飛沫越しだ。
「おおッ! なんだァ!? やっぱッ、そっちの目ェは見えてねェのか!?」
右から迫る男の姿がうまく捉えられない。右目が見えていないと言う自覚はなかった。──否、彼ですらも気がつかなかったことを、あの狂人はその動きから察していたのだ。
「おせェ! おせェ!!」
獣のような猛攻、行き着く暇もない連撃。数段速度を上げたはずのカルアすらも追い付けない速さ。
苦し紛れに雷の壁を張ろうとも気がつけば男は背後にいて、強烈な蹴りがその身体を穿つ。
「…………っ!!」
血を吐きながら立ち上がり、耳鳴りに混ざって聞こえる悪魔の囁きを意図的に無視する。
禁術による強烈な自己強化、他の使徒がどうしてあの男に敵わない理由がわかった。
──敵わない訳だ……
直撃を避けたとは言え、あれだけの傷を負ってなおも攻撃力は上がる。その狂気的な言動に怖気付き、竦んでしまえばあとは早い。
「…………」
身体の上に重なる瓦礫を押し上げるように身体を持ち上げ、ゆっくりと息を吐き出す。嫌なほど頭は澄んでいて、あれだけ燃え盛っていた怒りの感情は嘘のように引いていた。
それでも何故だから腹の奥に燻るような暗い感情がある。身の内、そのずっと奥の方……ドス黒い激情が戸愚呂を巻いて渦巻くような嫌な感覚。
悪魔の囁きが先程よりも大きさを増して、くつくつと喉の奥から暗い感情が湧き上がって来るのを感じる。
更に力を込めて身体の上に重なる瓦礫を押し上げ、間もなくそれは音を立てて周囲と崩れ落ちた。
視界を塞ぐものがなくなり、その目に映るのは死者を冒涜する狂人。先程まで死角だったはずの瞳から垂れるナニカが生暖かく頬を濡らし、ゆるりと擡げた刀から影が立ち昇る。
「嗚呼、人でなしには相応しい相手だ」
ゆるりと赫く赫く瞳が男を見遣り、ただそれだけで彼の周囲にある景色が色褪せていく。
チリチリと何かに焼かれるように、景色はゆっくりと灰燼と化して周囲には黒い灰が舞う。
「なんだァ?」
その中心に立つ男もまたその身体に広がる焼け跡を見て眉を顰めた。
「何をしやがった?」
男の身体から急速に力が失われていき、このままではすぐに禁術も解けるだろう。無論ら勘いい奴はそれをいち早く察してか、素早く距離を詰めようと駆け出す。
同時に繰り出すのは先程と同じ震脚。地面を割るような踏み込みと同時に、亀裂から噴き出す黒い炎が触れる全てを燼滅する。
「──っ!?」
初見とは言え肌でその危険性を感じ取ったのか、男は間合いを詰めるのを諦めて大袈裟なほど距離を取る。
しかしそれも束の間で、吹き出した黒炎が弱まれば瞬く間に距離を潰し──直前、もう一度踏み込む。
「は……?」
一度弱まった炎がもう一度吹き出して、危うく男の体を掠める。それでも危機回避能力は目を見張るものがあり、肌を僅かに焼きながらもほぼ完璧に回避して見せた。
「クソが……!!」
だが、それで安全だとは思わない。ゆるりとカルアが瞳を向ければ、一向に回復しない身体が更に爛れていく。
視界に映る限り赫く赫くに蝕まれ、近づこうにも黒炎を纏った震脚がある。
──いやに頭が冷えている……
腹の中では未だに激情が渦巻いていると言うのに、その頭は絶対零度に至るまでに冷え切っていた。どうすれば男を追い詰められるか、確実に潰すのにはどうすればいいか。
ただそれだけを淡々と考え、確実性の高い行動を選択する。責めるのも不可能だと悟ったのか背を向けた男、素早く刀に黒雷を這わせて薙ぎ払う。
防御不可能の横凪を男は跳躍して躱す。しかしそれも読んで更に身体を捻ると、大きく力を消耗して刀を握り込む。
「なッ……!?」
驚愕に目を見開いた男の頭上、白い線が走る。外したとカルアが悟ると同時に地面へと降り立つ男……直後、目を見開いた彼の眼前に広がるのは一定の高さに切り揃えられた周囲の建物。
右を見ても、左を見ても両断させれた建物が土埃を立てて地面に落ちる。薄暗く冷たい月明かりの下、浮かび上がるのは上下に両断された世界の断片。
何の影響か、誰の仕業か……まるで世界が上下に分断されたような錯覚すらも覚える光景に、ただただ恐怖した。
──これじゃ、ダメだ……
周囲の建物を上下に切り揃えた。周りの気配から他の者が被弾しない高さを狙っての斬撃だったが、僅かに高さがズレたようだ。
結果、狂人を両断するに至らず、景色を二分割するに止まる。それでも想像を絶する威力を目にしてなお、なんの感慨も抱かないのは何故だろうか。
「次で、終いにしよう」
一歩、前へと出る。もう目の前の男に笑みはなく、ただ油断なくカルアを見据えていた。
遊戯場として用意された街並みは失われて、そこにあるのは強大な化け物が衝突した破壊の跡。
「くっ、ククッ……」
もう笑う余裕もない……そう思った男が、喉を鳴らして堪えきれずに口角を吊り上げた。
「くははははっ!! こんなことは初めてだ!!」
初めての感覚、これが恐怖なのだろう。それを見に染みて感じて、一度は背を向けて敗走を選んだと言うのに何故だか……否、だからこそだろう。
腹の奥から湧き上がる興奮そのまま、口を歪めて嗤う。止まることを知らない高揚に心躍らせて、死を目前としながらもソレは尚も愉しげであった。
「そうか! 死ぬのか!? 俺はッ、ここで!! お前が、殺してくれるのか!?」
先まで笑みに見えていたそれは決して違う。あれは追い詰められた獣が見える獰猛な感情……笑みに似せて、男は獣が牙を向く様子を真似ていた。
「…………」
カルアは答えない……口を開いたが、言葉が出てこなかったのだ。かける言葉が無いわけではない、ただ声帯を奪われたように声が出せないのだ。
「ああッ! そうか、そうかッ!! そいつァ、いいッ!!」
それでも男には十分だったのだろう。あるいは、最初っから言葉など要らなかったのかも知れない。
今もカルアの視界で蝕まれながら、男は前のめりに牙を向く。
再衝突はどちらともなく行われた。
突撃する男を近づかせまいと黒炎を纏った震脚。しかし奴は身を焼きながらその中を突っ切り、カルアの眼前にまで迫る。
炎で視界を奪われればカルアの瞳による侵蝕は受けない。炎に焼かれることにはなるが、離れていても持続的にダメージを受け続けるのなら前へと出る戦法なのだろう。
雷を壁を張ろうとして、しかし上手く使えない。辛うじて顕れたのは薄い黒電で……無論、そんなことで男を止められるはずもない。
──クソッ、もう力が少ない……
──それに、この眼が原因か……
カルアも惜しみなく禁術を連発し続けた上、その眼も膨大な力を消費し続けている。更に性質の悪いことに、彼の眼は自身の術も蝕むようだ。
「ガァ……!!」
このままでは先に力尽きると、遅すぎる気付きに焦燥の影が差す。先程まで異様に冷静だった頭が沸騰するように熱く、男の動きがうまく捉えられない。
冷静な判断力を欠いたことにすらも気が付かず、剣戟に持ち込む。しかし身体能力の差は寂然として残っていて、肉体の損傷により幾分か動きが鈍くなってもカルアよりは十分に速い。
彼の視界に入っている限り持続的に侵蝕を受け続けるが、同時にカルア自身も想定以上の速度で消耗していく。
このままでは不味いと感じていながらも邪眼の能力を切る方法がわからない。最悪、このまま生命活動に必要な力まで奪われて絶命するかも知れない。
考えばキリがなく、自由に邪眼を切り替えることが出来たところで、もしそれが無ければ彼は距離を取る。
安全圏から判断力のカルアを嬲り殺しにするだろう。幸いとも言うべきか、カルアが邪眼の切り替えは出来ないことは相手からその選択を奪うことになった。
カルアが以前として邪眼を消さないのなら、彼が絶命するまで瞳に蝕まれ続け、何も出来ないまま死ぬくらならせめて一糸報いよう。その覚悟で飛び込み、決死の力を持って短期決戦に持ち込んだのだろう。
狂人が邪眼に蝕まれて死ぬか。
カルアが力尽きて地に伏すか。
もう叫ぶ力もなく、ただ夥しい数の剣戟が互いの鎬を削り、辺りへと飛ぶ斬撃の跡が瞬く間に増えていく。
相手に術を使う隙など繰り出される斬撃の嵐。剣を、その柄を、時には体術を使って息つく間もなく攻撃を繰り出す。
距離取ろうと間合いを測り、元々暗殺者であったカルアは接近戦での撃ち合いには弱い。距離を取って必殺の一撃を探るべきだと、しかし相手は当然ようにそれを許さない。
それでも出来ることはないかと、連撃の中で隙を見ては炎雷を纏った一撃を繰り出す。迸る黒い火の粉はそれだけで男の身体を更に蝕む。
「──っ!?」
そうして間もなく、変化が現れる。甲高い音を立てて魔剣が砕け、両者の目が見開かれた。
動いたのは同時だ。距離を取ろうとする男へ追い縋り、刀を振り抜く──その直前、地面から吹き出した無数の結晶槍がカルアを貫き、その身体を天へと掲げる。
──嗚呼、しくじった……
どうして追いかけてしまったのか。
焦っていた、好機だと思ったのだ。
カルアもまた間合いを外して、大技を打ち込めば良かったのだ。もう相手にはそれを防ぐ手立てはなかったはずで、カルアが追い詰められていた間合いを向こうから外してくれたではないか。
──あるいは、それも誘いだったのか……
──いや、それはないな……
あの時、奴にそんな余裕はなかった。距離を取ればカルアの独壇場だと知りながら、武器を失った反動で反射的に間合いから出ようとしてしまったのだろう。
そこで追いかけたのはカルアのミス。あまつさえ、大振りに刀を振り翳して……反撃してくれと言っているようなものではないか。
──そうだ。確実に仕留めないと、いけなかった……
その焦りが速度よりも威力を重視してしまったのだ。もう防ぐ手立てはないと慢心して、それでも仕留め損ねることはないようにと変なところで拘り、威力を上げるために大振りになった。
速度までも意識して撃てば命を取れた筈なのだ。
最短で撃ったつもりだった。威力も十分だった。
焦った……そう、焦ったのだ。冷静になって確実に仕留めないといけないのに、熱くなった頭で前に出てしまった。
その結果がこれだ、あと一撃が届かなかった。
──負けたのだ、完敗だ。
「…………っ」
それでも、生きている。腹を食い破られて、臓物に至るまでをすり潰され、今も成すすべなく天へと掲げられて磔とされながらも刀を手放してはいない。
手に感じる刀の重さを感じならグッと握り込んで、意識を手放すまないと貼り付ける。ゆるりと動いた瞳が見下ろすのはボロボロの身体で地に立つ男。
その身体から再び灰燼が舞い、周囲の景色が再び色褪せる。辺り一帯に舞う灰が視界に入った男が震える瞳でカルアを見上げ、そして絶句したように目を見開き口を開けて佇む。
「まだ、まだだ……」
死んでいなければ負けていない、殺さなければ勝てない。二度と立ちはだかることがないように、徹底的に叩き潰す。
それがカルアが殺し屋時代に肝に銘じたことで、それを怠ったのなら命がないようなモノだ。──そして男は快楽的に人を殺しながら……否、だからこそだ。快楽的に人を殺しているからこそ、トドメを刺すことを怠った。
──あるいは、刺さなかったのか。どちらにせよ、今はそんなことはどうでもいい……奴はしくじったのだ。
腹に刺さった結晶を叩き割り、地上へと降り立つ。ボロボロのロングコートが悪魔の翼の如く夜の風に靡き、ゆるりと腹に穴の空いた男が立ち上がる。
「…………」
口を開いても血が流れ出るだけで声など発せず、それでも彼は刀を片手に大きく損傷した身体を引き摺って歩み寄る。
もう魔法を使う力も残っていないはずで、それでも目の前に立ち塞がる全てを撃滅せんという執念。そこにあるのは捕食者……否、もっと執念的な存在だ。
今の今まで、狂った男は自分が常に捕食者側にあると思っていた。そう信じて疑わず、事実誰もが彼の餌食となった。
しかし目の前に立つ悪魔は違う。そこには捕食者や獲物と言った関係もなく……ただ敵を殺す存在があるだけだ。
殺すために殺す。必要だと、それだけの理由で殺す。
生きる為に殺すのでもなく、彼のように快楽の為に殺すのでもない。
目的の遂行の為、邪魔なら殺す、必要なら殺す。それ以上でもそれ以下でもなく、彼にとって殺しとは道具や選択にも近いのだろう。
身の安全など二の次、感情などは不要。
快楽も苦痛もなく、愉悦も恐怖もない。
──化け物だ……
片腕を失い、腹を食い破られて、それでもソレは目的を果たす為なら何度でも繰り返すだろう。
口から血を垂れながらして、左の瞳からも止めどなく血が溢れて色素が薄れている。恐らくは殆ど見えていないのだろうが、それとは裏腹に赫く赫く右瞳はより力強く。
超新星の如く赫く赫く邪眼。
灯火消えんとして光を増す。
目も見てないはずだ、刀だって持ち上げられずに引き摺っている。それでも男は真っ直ぐこちらへと足を運び、再び見せるのはいつかの構え。
左半身を前に、右手だけの下段脇構え。先程は左手をダラリと下げていたが、今は肘から下を失った左腕を脱力させるのみ。
「…………」
身体が固まって動けない。
両者は共に動かない。
先程と全く同じ光景。
違うのは片方が動かないだけなのに対して、もう片方は動けないことだ。──それは天地ほどの歴然とした差があった。
──そうか、ここが俺の死地か……
この先の流れを知っているからこそ、男の身体は恐怖で強張る。もう力尽きて立っているのがやっとの状態で、それでも何とか逃げ出そうと身体に指示を飛ばしても足が震えるだけで動けない。
──ようやく、迎えが……
──随分と、遅かったじゃないか……
ゆっくりといつか見た時と同じ、男が手首を回してその刀を持ち上げる。
間もなく地面と水平に構えられた刀。瞬間、男の重心が落ちる。
それは一瞬だった。
何とか身体を守ろうと交差させた腕の隙間。そこから見えるのは、先程とは比べ物にならないほど遅い踏み込み。
身体を反転、向かって右下からの切り上げ。それは無防備になった狂人の脇から入り、そのまま胸を通り過ぎて左肩にまで至る。
自身の斬撃を潜り抜けるように男が踏み込み、辛うじて残っている左肘が迫った。無論、それを防ぐことも躱すこともできず眉間を撃ち抜かれる。
「……ぁぁ……」
急速に身体が力が抜けていき、仰向けに倒れゆく視界の中……眼前に迫る銀閃を見た。




