2
リリーア・アッシュバーンがこの風車小屋で生活を始めたのは、十日前のことだ。
麦畑で倒れていたところを、親切な親子に助けてもらい、とりあえずカルンの町にある親子の家へ招いてもらった。
目が覚めてすぐは、自分が何者なのか、自分の身に何が起こったのかも全くわからなかったが、町へ向かううちに、なぜだか名前だけは思い出した。
しかし、それ以外は一切記憶にない。
親子は三人暮らしで、母親も気さくな人物であり、記憶が戻るまで家で暮らしたらいいと言ってくれたが、噂がすぐに広まり、小さな家は大勢の町人たちに取り囲まれる事態となった。
そこへきてリリーアは、どうやら自分の容姿がとても目を惹くものらしいということを理解した。
他の人々とは、あきらかに肌の色が違う。
カルンの町の人々は、農業を生業にしている者が多く、健康的な小麦色の肌をしているのに対し、リリーアの肌は透き通るように白い。
銀糸のような髪色も、他に見ることはなく、紫色の瞳も珍しいと、彼女を見つけた少年――ダノンは言う。
「やっぱり、ねえちゃん……妖精なんじゃないの?」
「さすがに、人間だとは思うけれど……」
町の人々でリリーアを知っている者はおらず、もともとこの辺りに住んでいたのではないようだ。
自分が何者なのかには興味があったが、知る術がなく、リリーアはひとまずカルンの町で暮らすことにした。
注目を集めすぎてダノンたちに迷惑をかけてしまうので、町から少し距離を置いた、静かな場所はないかと試しに聞いてみたところ、共用の風車小屋はどうかと町長が申し出てくれた。
町からそれほど離れていないが、周りに家はなく、静かなところではある。
人が住めるように造られてはいなかったので、少し手を加えることを了承してもらい、各家の不用品を集めて回ると、あっという間にリリーアが一人で暮らすくらいの設備は整った。
実際に住むようになってからは、食料品や身の回りの品を届けてくれる町の男たちの列が、連日途切れない。
(みんなとても親切で、暮らしやすい町だわ……)
ありがたく思いながらも、リリーアは準備を怠らなかった。
過ぎた恩恵は、とかく悪い感情を生む種にもなりやすい。
男たちがこぞって自分に貢いでくれるのが、この容姿のせいならば、近いうちに必ず、それを面白くないと思う女性たちの感情が爆発するはずだ。
(きっと……ううん、必ず)
間違いないという確信は、記憶はないながらもどうやらこれまでの経験からきているようで、おそらくこういうことが、これまでにも何度もあったのだろう。
(何か……お返しできるものはないかしら?)
自分は敵ではなく、町ののどかな生活を脅かす者でもないと、女性たちに証明するためには贈り物が有効だ。
それも女性が喜ぶようなものならば、尚いい。
リリーアは、発見された時に自分がまとっていたショールを解き、それで飾り物を編むことにした。
銀糸や金糸を織り込んだそのショールを始め、着ていたドレスも靴も、下着に至るまで、いかにも高級品ばかりで、自分はいったい何者なのだろうとも思うが、料理も編み物もすいすいと出来るので、おそらく身分が高いわけではないとリリーアは判断している。
土壁がむき出しの部屋も、窓から見える麦畑の景色も、決して慣れないものではなく、逆に落ち着く。
こういった環境が、合っているような生活だったのだろう。
(たぶん……ここではない、どこか田舎の町で、普通に暮らしてたんじゃないかな……)
そのわりに豪勢な服は、この際、いったん忘れることにする。
(きっと、特別な何かがあって、たまたま着飾ってたのよ……そうに違いない……)
自分に言い聞かせるように心の中で唱え、また何かの時のために飾り物を編んでおこうと、窓際の椅子に座った時、窓の外に白いものが見えた。
(何かしら……?)
リリーアが首を傾げて思わず見入ってしまったのは、それが次第にこちらへ近づいてくるからだ。
「まあ……馬だわ……」
それは二頭の立派な馬だった。
白馬に続いて栗毛。
どちらも若い男が騎乗している。
馬は瞬く間に小屋の前に到着し、馬上の人がひらりと地面に降りた。
その人物の姿を見て、リリーアは思わず呟いてしまう。
「王子様……」
麦の穂よりも鮮やかな黄金色の髪を煌めかせて、白いマントを風に翻し、満面の笑顔でこちらへ駆け寄ってくる男は、絵の中から抜け出てきたかのようによく整った顔立ちをしている。
深い湖の底のような碧色の瞳。きりりと直線の眉。形のいい高い鼻。ひきしまった頬。
柔和なほほえみと相まって、とても優美な印象を受けるのは、白と青が基調の装飾過多な服が、長い手足のすらりとしたスタイルの彼に、とてもよく似合っているからだ。
背景の麦畑が霞み、背後に王城のダンスホールが広がっているような錯覚さえ起こす。
(たぶん、見たことはないんだけど……)
リリーアが心の中で目まぐるしくいろんなことを考えているうちに、男は窓の前に到着した。
「よかった! やっと見つけた! ずいぶんとお探ししました……!」
深い色の瞳を歓喜に潤ませ、耳に心地いい声を感動で震わせて、男はリリーアに向かって恭しく頭を下げる。
その所作の優雅さと、間近で向き合った男のあまりの美貌に、一瞬魂を抜かれていたリリーアは、彼の言葉にはっとなった。
「探すって……私を……?」
ひょっとすると記憶を失う前の自分を知っている人物なのではないかと、心臓が早鐘のように脈打ち始める。
「はいっ!」
うれしげに顔を上げた男は、至極の笑顔をリリーアへと向けた。
「急にいなくなってしまわれ、国中をお探ししました! どれほど心配したか……いいえ……全ては護衛役の私の不徳の致すところ! ……咎はいくらでも受けます……まずは、城へと帰りましょう」
「城!?」
男が差し出す手を、流されるまま取りそうになっていたリリーアは、そこでハタと手を止めた。
「はい! グランディス城です! 婚約者のアルノルト殿下もお帰りをお待ちです!」
(城……殿下……)
さすがに自分には縁のない世界だと、期待にときめいていた気持ちがすーっと冷める。
「あの……私……」
しかし男は、リリーアの話を聞く気はないらしい。
空中で止まっていた手を取り、そのまま引いて歩きだそうとし、リリーアがまだ小屋に中にいることにふと気が付いて、軽く苦笑する。
「――――!」
その笑顔すら麗しく、リリーアは思わず息を呑んだが、男は特に気に留めたふうもなく、ひらりと窓枠を飛び越えて、小屋の中へ入ってきた。
「――――!」
軽やかな身のこなしに驚きつつも、自然と後退ったリリーアとの距離を、男は笑顔で詰めてくる。
「さあ、帰りましょう! コンスタンツェ様」
「……………」
自分とは違う名前で呼びかけられ、リリーアは脱力した。
(やっぱり……)
にこにこと笑いかけてくる男に申し訳ないと思いながらも、やんわりと事実を説明する。
「あの……違います……」
「え……?」
いったい何を言われたのだろうかと、軽く目を見開く表情でさえやはり、リリーアの前でさっと跪いた青年は美しい。
彼の要望に応えられないことを、少なからず残念に思いながらも、リリーアはじりじりと距離を取った。
「私……リリーア・アッシュバーンと申します……その……姫とかじゃありません」
「ええっ!?」
驚愕の表情も、彼は腕のいい彫刻家が彫った銅像のように美しかった。




