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部屋へ帰ったリリーアは、今日はもう部屋着に着替えて寝たいとマルグリットへ申し出た。
「そうですね……さすがに疲れましたし……」
舞踏会のために普段よりも念入りに装っていたが、それらを落とすため湯浴みが必須だとは、さすがにマルグリットも言わない。
「諸々の片付けも明日するとして……今宵はひとまず寝ましょう」
「ありがとう、マルグリット」
二人が舞踏会用のドレスを脱いで部屋着に着替えるので、ドナテーノは部屋から出ていくことになったが、その前に用心深く戸締りを確認していた。
「物騒なことがあった夜ですし……何かあっては大変ですから……」
続き間になっている三部屋全ての、中庭に面した窓の鍵がかかっているか、何度も確認し、唯一廊下へ繋がっている居間の扉から出ていく。
「今夜は、扉の前で私が見張りをしていますから……もし何かあったら、呼んでください」
「ありがとう」
ドナテーノがいなくなり、リリーアの着替えの手伝いが終わると、マルグリットも眠い目を擦りながら、隣の部屋へ移動した。
「おやすみなさい、姫様……もし眠れないようでしたら、テーブルの上にワインを準備してありますので、お飲みください……きっとぐっすり眠れますよ」
「ありがとう……おやすみなさい、マルグリット」
彼女が隣室へ消えても、確かにリリーアは眠るような精神の状態ではなかった。
(いったいなんだったのかしら……私かフィオレンツィオ様を狙って? でも矢はあきらかに外れていたし……)
バルコニーで、リリーアとフィオレンツィオの間を飛んで行った矢について、考えずにはいられない。
矢は速度こそ速かったものの、どちらかへ当たるような軌道ではなかった。
リリーアかフィオレンツィオを傷つけようと狙ったのではなく、他に目的があったのではないかと思われるが、唯一の手掛かりである白い紙は、アルノルト王子とドナテーノも言っていたように、ただの白紙で、何も書かれていない。
何度も確認してみた紙をまた見て、リリーアはそれをテーブルの上に置いた。
(私がいくら考えても、わからない、か……明日、ドナテーノ様かフィオレンツィオ様に渡そう……)
矢の襲撃以来、忙しそうに城の内外を走り回っているフィオレンツィオが、明日は少しその任から解放されていればいいがと願いながら、ベッドのある寝室へ移動しようとした時、手がワイングラスに当たってしまった。
「あ……!」
マルグリットが準備してくれていたワインが零れ、テーブルの上を濡らす。
グラスのすぐそばに置いていた白い紙を、リリーアは慌てて取り上げたが、少し濡れてしまった。
(しまったわ……)
白い紙が、じわじわとワインの紫色に染まる。
紙が水分を吸う速度で、広がる染みを、困った思いで見つめていたリリーアは、染みの中に白い文字が浮かび上がってくることに気が付いた。
「え……?」
蝋のような水を弾くものが塗られていたのか、染みが紙全体に広がると、中央に文章が現れる。
『いつもの場所で待つ。ルカ』
「―――――!」
リリーアは、思わず紙を手の中に握りしめ、周囲を見渡した。
(ルカって……ルカって……あの?)
王都へ来る途中、休憩した湖の畔で、リリーアに接触してきた黒髪の男が、確かそう名乗っていた。
だとすれば、これはリリーアへの伝言だ。
(確かに、『また機会をみて連絡する』とは言っていた……でも……それって……こういうこと?)
闇に紛れて、リリーア宛ての伝言付きの矢を放つ。
当然騒ぎになるが、逃げる自信はあったのだろうし、伝言の内容がリリーア以外には漏れない確証もあったのだろう。
現に、何も書かれていないとして、この紙はリリーアの元まで届いた。
アルノルト王子の気まぐれが発揮されなければ、とてもたどり着かない不安定な経路ではあったが――。
(いつもの場所って? ううん、そもそもあの人は、私の何? ……どうしよう……どうしたら?)
考えが少しもまとまらない。
この事について、相談しようかと思っていたフィオレンツィオの顔が一瞬頭に浮かんだが、その彼と、どうやって連絡を取ったらいいのか、この紙片のせいで今宵はとても難しい。
(どうしよう……?)
見張りのために廊下側にはドナテーノが立っているはずの扉を見つめ、それからリリーアは中庭へ面した窓に向かった。
王宮でひと騒動起こすような人物と、本来のリリーアは知り合い――それどころか、ひょっとすると仲間関係――のようだ。
それをドナテーノに打ち明けたとして、彼ならばどうするだろう。
(よくて、この部屋に軟禁……悪ければ、賊の手引きをしたとして、投獄とか……?)
想像に肩を震わせながら、リリーアはそのドナテーノから逃げるように、窓へ近づいた。
(どちらにせよ、ちゃんと事の経緯を説明する前に、ひとまず拘束されると思う……!)
それでは、この伝言を放った彼が、リリーアを呼び出して何がしたかったのか知ることはできないし、リリーアが本当は何者なのか、真実に迫ることもできない。
(フィオレンツィオ様がいてくださったら……)
彼ならばリリーアの気持ちを大切に、相談に乗ってくれるに違いないと、勇気を出して打ち明けようとしていたフィオレンツィオの顔がまた頭に浮かび、リリーアはそれをふるい落とすように首を振る。
(仕方ない……今、とてもお忙しいんだもの……)
自分一人の力でなんとかするしかないと、中庭へ続く窓に歩み寄った。