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しばらくして我に返ったように口を開いたフィオレンツィオは、落ち着かない様子だ。
「急に訪れて、紅茶を飲んで、少し話をして……アルがいったい何をしたかったのか、まるでわからないんだが……ひとまず助かった……」
「はい」
素直に頷くリリーアを見つめ、それから困ったように、他に誰もいない部屋を見渡す。
「俺も、もう帰ることにする……今夜はゆっくり休んでくれ」
「はい」
急いで部屋から出ていきかけて、ふと足を止めた。
「一人きりにするのは不安だから、マルグリットが帰ってくるまで部屋の外で見張りをしていても、いいだろうか?」
「はい、もちろんです。ありがとうございます」
すぐに頷いて、リリーアは一瞬、「だったらこのまま、部屋の中で待っていてもいいのに」と言いかけた。
しかし、深夜に近い時間帯であることと、姫とその護衛の騎士という立場から、それはあり得ないと思い直し、口には出さないでおく。
小さく笑って頷いたフィオレンツィオが、扉を出て行ってから、リリーアはソファーに座り直し、少し冷たくなりかけた紅茶に手を伸ばした。
アルノルト王子が、デモネイラ産の紅茶は美味しいと褒めていたが、リリーアにはこの味も、馴染みのあるものな気がする。
だとすれば、リリーアも、コンスタンツェ姫と同じように、デモネイラの人間なのだろうか。
考えてみても、何も思い出せず、ふいに心細くなる。
「わからない……けれど……」
呟くと、扉の向こうから声がした。
「どうかされましたか? 姫君」
すぐそこに、フィオレンツィオが控えてくれていることを思い出すと、寂しさが少し和らいだ。
「故郷のことを考えていました」
「故郷?」
「はい……」
「それが本当に自分の故郷なのかはわからないけれど」という言葉は、心の中だけで付け足しておく。
本当の自分について何もわからないことが、ふいに不安になった本音を吐露するには、部屋の外と中という状況は難しい。
他の誰かの耳に入らないとも限らない。
だからこそフィオレンツィオは、部屋の中に二人でいた時と違い、あくまでも護衛が姫に話しかけているかのように、言葉遣いを改めているのだと察し、リリーアもそれに合わせる。
「少し……寂しくなりました……」
「そうですか……」
フィオレンツィオの声に、少し優しい色が増したように感じた。
「私は何度か、デモネイラへ行ったことがありますが、とても美しい国ですよね……雪深く険しい山々と、麓に集まる集落……寒い季節は、真っ白な雪の中で温かい光を灯す家々の灯りがとても幻想的で……暖かくなると、雪が融けて澄んだ小川になって、一斉に芽吹く花と緑が目に鮮やかで、いつ行っても、絵画のように美しい風景が、目に焼き付いています……」
フィオレンツィオの語る光景が、リリーアの瞼の裏にも、今目の前に見ているかのようにはっきりと浮かんできて、なぜだか鼻の奥がつんと痛くなる。
「住んでいる人たちも、あまり口数は多くないけれど、穏やかで優しい人ばかりで……行く先々で、様々なもてなしを受けました……木の実がたっぷりと入ったケーキも、香草を詰めた鳥の炙り焼きも、グランディスとは味付けが全く違って……美味しくいただきました……」
ぽつりぽつりとデモネイラへ行った時の思い出を語ってくれるフィオレンツィオの声につられるように、リリーアはいつの間にかソファーから立ち上がり、廊下へ続く扉の前へと近づいていた。
毛足の長い絨毯の上に、扉のほうを向いて、静かに腰を下ろす。
「紅茶も……本当はベリーを入れるのですよね? 今日は急だったので準備できませんでしたが、次はベリーも使ってマルグリット嬢にお茶を淹れてもらいましょう……甘い香りが懐かしいな……」
「私も……懐かしいです……」
答える声が、なぜだか涙交じりになってしまった。
実際に、涙がぽろぽろと頬を伝って流れ落ち、リリーアは自分のそういう反応に驚く。
(どうして?)
懸命に手で涙を拭いながら、扉の向こうのフィオレンツィオに嗚咽が聞こえないように堪える。
「また……泣かせてしまいましたか?」
努力の甲斐なく、彼にはバレてしまっているようで、困ったように問いかけられる。
その言葉に、リリーアは涙に濡れた瞳を瞬かせた。
「また……?」
「はい」
扉の向こうから聞こえてくるフィオレンツィオの声は、心に染み入るように優しい。
「以前もこの話をした時、泣かせてしまいましたので……」
その相手は自分ではないという事実に、ちくりと胸を痛めながら、リリーアはコンスタンツェ姫のふりをして答える。
「そうだった……でしょうか?」
「ええ」
フィオレンツィオの声は、かすかに嬉しそうだ。
「大丈夫です、姫は私が必ずお守りします……婚約の儀が全て整ったら、大好きなデモネイラへ、すぐに帰れますよ……」
「はい、ありがとうございます……」
見た目の華やかさとは異なり、人柄はあくまでも実直で優しいフィオレンツィオが、彼の全てをかけて守ってくれるというコンスタンツェ姫が、本当に自分だったらよかったのにと、リリーアは残念に思った。