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その後、ドナテーノとマルグリットが準備してくれたお湯で体の汚れを落とし、リリーアはコンスタンツェ姫の部屋着だというドレスに着替えた。
部屋着といっても、リリーアがカルンの町の人に譲ってもらい、これまで着ていた服とは、比べものにならないほど高価そうな生地で誂えられている。
ウエストを細く見せるために、ドレスの下はコルセットで体をぎゅうぎゅうに締めつけているが、堪えきれないほどではない。
湯浴みの前に部屋を出て行ったドナテーノには、「死にそうになりますよ」と意地悪く忠告されたが、リリーアはどうやらこういうことにも慣れているらしい。
カルンの町で目を覚ました際にも、ドレスを着ていたが、その日だけ特別な事情でもあったのだろうと思っていた。
質素な服にも、豪華でない食事にも、全く抵抗がなかったからだ。
それなのに同じように、豪華なドレスにも馴染みを感じ、ますます自分のことがわからなくなる。
(いったい私、何者なんだろう……)
王都へ来る途中、湖の畔で会ったルカのことも気になる。
(また機会をみて連絡するって言ってたような……私に? どうして?)
やはりフィオレンツィオに相談したほうがいいだろうかと、思い悩んでいると、廊下に面した大きな扉の向こうから、そのフィオレンツィオの声がした。
「コンスタンツェ様、アルノルト殿下がお見えになりました」
「あ……はい」
リリーアの髪を梳いていたマルグリットが、お茶の準備をするために、そそくさと隣の部屋へ向かう。
リリーアは部屋の中央に置かれた応接セットの前に立ち、扉へ向き直った。
「どうぞ、お入りください」
声に従って扉を押し開いたのはフィオレンツィオで、目があうと極上の笑顔を向けられるので、リリーアはほっと安堵する。
(よかった……おかしいところはないみたい……姫君らしく見えるかしら?)
リリーアの心の声が聞こえたかのように、うんうんと頷いてくれることが心強い。
その後ろから姿を現したアルノルト王子は、先ほど会った時とは違う上着を着ており、この短い時間にも豪華な衣装を着替える身分の高さに、リリーアは改めて緊張を覚えた。
「やあ姫君……今宵もうっとりするほど美しいね」
彼のほうこそ、誰もが見惚れるような艶美な笑みを浮かべ、アルノルト王子は部屋の中へと入ってくる。
暖炉を背にした二人掛けの肘掛け椅子に腰を下ろしたので、リリーアはその向かいに置かれた一人用のソファーに座った。
王子の背後にフィオレンツィオが立ち、見守ってくれていることが嬉しい。
会話の中でもし返答に困った時は、視線で彼に助けを求めることができる。
「ありがとう。デモネイラ産の紅茶は美味しいから、直々に淹れてもらうのを、実は楽しみにしていたんだ」
テーブルの上に茶器を並べていたマルグリットは、突然王子に声をかけられて、「ひいっ」とおかしな声を上げている。
幸い、手にしたティーポットを落とすような失態は犯さなかったが、その様子をフィオレンツィオの半歩後ろに控えたドナテーノにくすくす笑われて、顔を真っ赤にしている。
いつものように文句を言いたいところを、王子の前なので必死に堪えているのに違いない。
ティーカップを手にした王子が、中の琥珀色の液体を目を細めて見つめ、優雅に口元へと運ぶので、リリーアもそれを真似する。
(美味しい……!)
温かくていい香りのするお茶に、ゆったりと気持ちが落ち着き、リリーアは深い息を吐いた。
ふと、そういう自分に視線が注がれているように感じ、ちらりと目を上向けてみる。
「――――!」
アルノルト王子とフィオレンツィオが、じっとリリーアを見つめていた。
同じような美しい顔が二つ並んでおり、リリーアは思わず口に含んだ紅茶を噴き出してしまいそうになる。
輝く金髪に、よく整った端正な顔立ち。若干フィオレンツィオのほうが、髪の癖が強いが、それ以外は輪郭から各パーツの配置まで、顔の造形がほぼ同じだ。
それなのに、与える印象が違うのは、王子がどこか作り物めいた笑顔であるのに対し、フィオレンツィオの笑顔からは全く邪気が感じられないからだろう。
年齢はフィオレンツィオのほうが一歳年上らしいが、知らなければ逆にも見える。
そういうことを考えながら、王子とフィオレンツィオの顔を何度も見比べていたことに気づかれたのか、アルノルト王子が少し首を傾げた。
「どうかした?」
「――――!」
リリーアは俄かに緊張感を取り戻し、ティーカップをゆっくりとテーブルの上へ置きながら、静かに首を横に振る。
「いえ、何も……」
こちらから何かを語ることはなるべく避けたいと思い、言葉少なに話題を切ると、王子も紅茶をテーブルへ置いた。
いよいよ、城から急にいなくなったことについて尋ねられるのかと思い、リリーアは緊張を大きくする。
(えっと……グランディス王国へ嫁いでいる遠い親戚のおばあさんが、急に具合が悪くなって生死の境をさまよい、どうしても私に会いたいというので、迎えに来た人と一緒にでかけた……すぐに帰ると思ったので誰にも言わずに行ったけれど、私が来たことにおばあさんがとても喜んで、帰るに帰れず、十日あまりも留守にすることになってしまった……途中、連絡したつもりだったけれど、届いていなくて申し訳ない……おばあさんは無事に元気になりました……これで、本当にいいのかしら?)
ドナテーノが考えてくれた失踪の言い訳を、頭の中で時系列順に並べながら、リリーアはますます緊張する。
湯浴みをし、ドレスを着せてくれる間、姫の出奔に愚痴をこぼしていたマルグリットには、この言い訳で効果てきめんだった。
「そうだったのですか」とすぐに納得してくれたが、それは彼女が素直な性格だからだ。
目の前で本音の読めない笑顔を浮かべているアルノルト王子には、果たして通用するのか、不安のほうが大きい。
それでもやるしかないと覚悟を決めるリリーアに、王子が椅子の背もたれにゆったりと背中を預けながら問いかけた。
「グランディスの居心地はどう? 何か不自由はしていない?」
それは、想定していた質問とは異なったが、マルグリットが話してくれた内容で代弁できると思い、リリーアは慎重に口を開いた。
「フィオレンツィオ様がよくしてくださるので、大丈夫です。慣れない土地で戸惑う私に、親身になって……」
「そう、それはよかった」
アルノルト王子が頷いてくれたので、間違った返答ではなかったと、リリーアは安堵する。
確認のために、ちらりとフィオレンツィオを見ると、うっすらと頬を赤くした彼に、照れたように視線を逸らされた。
(――――!)
どきりと心臓が跳ねたのをなんとか平静に戻そうと、リリーアは胸を手で押さえる。
「どうかした?」
「いいえ、なんでもありません……」
すかさず問いかけてくるアルノルト王子の笑顔が、若干楽しそうに輝いているようにも見えるが、リリーアは正常に判断ができない。
どきどきと耳の奥で響く自分の心臓の音が、とてもうるさい。
頬杖をついて、しばらく楽しそうにリリーアを見ていたアルノルト王子が、ふいに身じろぎした。
「美味しい紅茶もいただいたし……じゃあ、今宵はこれで帰ろうかな……旅で疲れているところにお邪魔して悪かったね……グランディスでの日々を、どうぞ楽しんで」
これからいろいろと尋ねられるのだとばかり思っていたリリーアは、一瞬返答に詰まってしまったが、すぐに、王子に頭を下げた。
「ありがとうございます……」
少しは愛想よくしたほうがいいかと思い、かすかに笑ってみたが、「へえ」と意外そうに王子が眉を上げる。
彼はちらりとフィオレンツィオを見て、従兄が驚いたように目を見開いていることを確認し、おもむろに、その斜め後ろに立つドナテーノの名前を呼んだ。
「ドナテーノ……ちょっと相談したいことがあるから、この後、僕の部屋へ来てくれる?」
「はい、承知いたしました」
恭しく頭を下げたドナテーノから、王子は、リリーアの後ろに控えているマルグリットへと視線を移す。
「マルグリット嬢……だったかな? 姫君に付き従って来たデモネイラのご令嬢……もしよかったら、きみも来て、もう一度この美味しい紅茶をふるまってくれないか?」
王子に突然声をかけられたマルグリットは、「ひいっ」と飛び上がってすぐに、体が二つに折れるのではないかと思うほど激しく頭を下げた。
「も、もちろんです! お褒めいただき恐悦至極! たいへん光栄に思います! ありがとうございます!」
幾重にも重ねて述べられる感謝の言葉に、ドナテーノは声を出さないながらも激しく肩を揺すって忍び笑っている。
王子に先導されたドナテーノとマルグリットが部屋を出ていくのを、リリーアは呆気に取られて見ていた。
(え? ……えっ?)
いったい何が起こるのだろうかと、あれほど警戒して緊張していた王子の来訪が、まさかこれで終わりなのだろうか。
俄かには信じられず、言葉を発するどころか身動きさえできない。
ようやく視線だけ巡らせると、同じように驚いた顔をしているフィオレンツィオと目が合った。
深夜にほど近い時刻の私室に、二人きりで取り残されてしまった。