エンドロールの始まり
「翔さん、翔さん」
なんだか懐かしい声だと思った。優しさが滲み出るような慈悲さえ感じさせるような、高くて細い声。そう、いつも彼女は僕の名前を二回呼ぶのであった。
「翔さん、翔さん。ねぇ聞いて。」
彼女は話すのが好きだった。僕は無口なので、会話というより彼女が一方的に話しかける形だった。
しかし今、彼女はいない。
正確に言えば、いない訳ではない。彼女は三日に一回くらいの頻度で保健室に登校している。彼女は不登校なのだ。中学一年の初め頃だったと思う。彼女は教室に入れなくなった。物理的にではなく、心理的に。教室の前に来ると彼女は泣き出し、蹲って入室を拒むようになった。
僕は彼女の存在を忘れていた。なんにしろ、もう二年前のことなのだ。公立高校の前期試験は終わり、合格した者は緊張感から開放され、そうでない者は焦燥に駆られていた。僕は前期試験で地元高校に合格した。かと言って何をするでもなく、暖かくなり始めた気温を気持ち良く思うだけだった。二年間は本当に色々なことがあった。部活の引退、行事、受験勉強··········日々の忙しさが彼女の存在を薄れさせていった。
彼女のことを思い出したのは最近のことだ。掃除の時間だった。教室掃除のメンバーの雑談中に彼女の名前が突然出てきた。僕は無口なのでその会話を黙って聞いていた。
「美羽ってさ受験どうするの?」
「さぁ、知らない。」
「特別な高校に入るんだよ。」
「大輔さ、美羽のこと好きって言ってなかった?冗談で。」
「ははっ、言ってたよ。でも一番は守山さんだよ。」
「冗談でしょ。転校したのに。」
「でも美羽って村瀬裕太と付き合ってたんじゃないの?」
「あぁ、それな。よく自慢してた。」
「それでさ、俺、村瀬裕太に美羽のこと好き?って聞いたんだよ。」
「何て言ってた?」
「好きじゃない、大好きだって言ってた。」
この発言に僕以外は腹を抱えて笑っていた。
「翔さん、翔さん」
ーそう、聞こえた気がした。僕は自分で自分を嘲笑した。こんなところに彼女がいるはずはない。それと同時に懐かしく思った。同じ学校にいるのに遠い昔のことのように感じられた。
僕は彼女のその名前の呼び方が好きだった。彼女は誰かに話しかけるとき、名前を二回言うのだ。僕は図書室によく行く。彼女もよく図書室にいた。そして大抵の場合において彼女が僕の名前を二回呼んで話しかけてくる。僕はあまり喋らない。彼女がほとんど喋っている。だけどあまり悪い気はしなかった。それは彼女の話が面白かったからなのだろうか。今となってはよく思い出せない。とにかく彼女と一緒にいる時間は悪くはなかった。
彼女が不登校になった理由はよく分からない。クラスメートとトラブルがあったことは事実だ。彼女は負の感情を向けられると、自身の感情が不安定になるところがあった。何か嫌味を言われても言い返すことが出来ず、ただ泣いていた。でも僕はそれだけが原因とは思えなかった。確かにクラスには彼女のことを毛嫌いしている人間は多くいたし、彼女の交遊関係は狭いものだった。しかし、僕は家庭環境も彼女を不登校に追い込んだ原因の一つではないかと思っていた。なんにしろ彼女の母親は格好から車までいかにもヤンキーのそれだったし、父親は見たことがない。だが、それは僕の推測に過ぎない。彼女の話は沢山聞いたが、そのほとんどはたわいのない話で踏み込んだ話はしなかった。悩みなんて聞いたことはない。
とにかく、僕は受験から解放された。そうして出来た心の余裕が、彼女のことを気がかりに思わせる。彼女は今、何をしているのか。どこに行くのか。単純に話したいことがある。それに僕は負い目を感じているのかもしれない。彼女が不登校になっても僕は自分自身のことしか考えてなかった。もうちょっと何かできることがあったかもしれない。彼女の気を軽くできたかもしれない。そう考えると悪い気がしてくる。だが考えても遅い。卒業まで、もう二ヶ月もない。彼女のことを忘れていたのに今更話したいなんて、都合が良すぎる自分自身を嘲笑してしまう。だが話したいのは本当だ。彼女にどう思われようとも、もう一度顔を見ておきたいと思っている。しかし、どう話しかければ良いのか分からない。大体、彼女がいつ学校に来るのかもよく把握していない。もし、タイミングが合ったとしても不登校中の生徒がいる保健室に勝手に入っていいものだろうか。僕は悩んだ。その結果、勝手に入ることにした。そうじゃないと卒業まで引きずってしまう気がした。




