24 「リトル・トリー」追記
今回は、前回の「リトル・トリー」に関する追記となります。
まず、先に申し上げておきたいことがあります。
なんの前情報もなく本書をお読みになりたいと思っておられる方は、どうぞこちらは読まずにまずは当該作品をお読みください。
本作品の作者に関する事項となります。
それ以外のことも述べるため、非常に長くなっております。お許しください。
「リトル・トリー」
フォレスト・カーター・著 / 和田穹男・訳 / めるくまーる(1991)
前回、この本を紹介する文章を更新したあと、とある方からのご指摘がありました。
今回はそれに関して、司書として、また小説を書く人間として調べてみたこと、考えたことなどを述べたいと思います。
問題というのは、作者フォレスト・カーターについてです。
本名はアサ・アール・カーターといい、かつて厳しい人種隔離政策を推し進めたアラバマ州知事ジョージ・ウォレスのスピーチライターであり、人種隔離政策のスポークスマンとしてアメリカの全国ニュースにも出た人だそうです。
自身もKKKの分派組織をつくって活動するなど、相当な白人至上主義者であったようです。ただこのKKKに関しても、「リトル・トリー」の編集者だった人がタイムズ紙に対して「カーターはKKKのメンバーではない」と語ったことがあるそうです。
この分派組織が黒人に対するかなり残虐な事件を起こしますが、カーター自身は事件そのものへの関与が証明されなかったのか、逮捕には至っていません。
その後ウォレスと袂を分かってアラバマ州知事選に出馬するも、惨敗。テキサス州へ移り住み、そこで小説を書き始めた……という経緯。その頃にはもう、自分の過去の行いについて人に隠そうとする風があったようです。晩年は家族にも看取られず、五十代の若さでひとり世を去りました。
「母方の先祖がチェロキー・インディアン」というのは本人が語っていることで、今ではかなり疑問視されていますが、純粋な白人 (というのがどういうものかという議論はさておき)かどうかについては明確にはわかっていないようです。
本人がある時期主張していたような、「私は孤児だった」という言については、幼い頃から白人の両親に育てられていたことがわかっており、今ではほぼ否定されているとのこと。
また、そういう流れがあったために、当初は本当にカーター自身の自伝として出版された「リトル・トリー」はその後、フィクションの扱いになったというのです。せいぜいが「自伝的小説」というくくりです。
さらに現実のチェロキー・インディアンの人々からは、「リトル・トリー」について「言葉や風習の描写は不正確」との批判を受けており、学者や批評家の中にも作中のインディアンの扱いが差別的なコンセプトである「気高い未開人(Noble Savage)」にすぎない、と言う人がいるとのこと。
こうした難しい背景があって、なにかと物議をかもしてきた作品だということ自体、私もこれまで知らなかったわけで、今回はまことに恐縮しました。
迷いながらもお知らせくださった方には、ここで改めてお礼を申し上げたいと思います。
とは言え、本作を読んで感じるのは、作者がネイティブ・アメリカンに対して覚える尊崇の念や憧れであって、決して彼らを貶めるものではないということです。
白人が犯した過去の罪、その醜悪さについても赤裸々に語られていますし、そこに手心が加えられているとは思えないのです。
また、自然やその中で行われる仕事の描写にはリアリティがあり、このすべてが架空の物語であるとはどうしても思えません。読後に残る深い感動も、「これは嘘ではない」と思わされる物語としての力を持っているのです。
カーターが過去にどういうことをした人で、どんな思想をもって活動したかという事実は動かないのですが、人は過去の行いを後悔し、生き直そうとする存在だとも思います。他の一定の読者の意見のように、彼が単に「酒を飲むため、金もうけのためにインディアンを利用して書いたものだ」とは思えないのです。
いえ、もちろんカーターのしたことを是とする気持ちは毛頭ありません。もしかしたら本当に「単なる金儲け」で書いたのかもしれないし、ひょっとすると彼自身、さまざまな失敗の果て「過去の自分は本当の自分ではなかったのだ」等々の精神的な病を抱えてしまったのかもしれない。つまり現実逃避ですね。人はそういう、弱いものでもあるからです。
このあたり、私は司書としてというよりも小説を書く人間としてとても個人的に興味を惹かれてしまいました。
そして、もしも人が過去の過ちに思い至り、これまで見下して来た人々の本当の価値に気付いて著した、ひとつの夢のような(と敢えて言います)児童文学としての物語ならば、それはこの世にあってよい作品なのではないか。
今の私は、そう考えるに至っています。
著者の実像と作品の価値ということについては、昨今も作者によるSNS上での過去の発言をもとに、書籍化されるはずだった作品が削除されるなどの問題が起こっていますね。
ただ、私はこの件については否定的です。いえもちろん「作者自身に少々の瑕疵があってもこれは出版すべき」と思われるほど、その作品に価値がある場合だけのことだとは思いますけれども。
小林秀雄の「ドストエフスキイの生活」という著作を読まれた方はご存知だと思いますが、あの文豪ドストエフスキイの人としての実像は、それはそれはひどいものでした。
まわりじゅうの人々から金を借りまくり、出版社からも「これから書く作品」への原稿料として金を借り、家族を養うため、また家賃のためのはずのその金をあっというまに博打や酒につぎこんではすってんてんになり……ということを繰り返す。ひたすらにその連続なのです。
さらに、当時のロシアは概ねキリスト教の国ということもあり、「こんなに困窮している友人を見捨てたら、君は天国にはいけないぞ」などと友人たちをおどしつけてまで金をせびろうとする、そんな手紙さえ多く残っています。
困窮しているのはそもそも、自分が博打や酒に金を湯水のようにつぎこんでいるからなのに!
個人的にも、絶対にお近づきにはなりたくない人種です。実際、彼はそれで多くの友人に去られています。人柄も皮肉屋で攻撃的、病的に神経質で人の気持ちを忖度しない、そんな人であったようです。
こんな人の著作が「偉大な文学」として現在に数多く残っている。
それを考えると、やはり著作そのものの価値と著者の言動そのほかとは、ある程度切り離して考えるべきなのではないか、というのが今の私の考え方です。
もちろん、犯罪者はその限りではありませんが(中には塀の中から著作を出版する例もありますが、かなり例外的なものだろうと思います)。
ただ、この「リトル・トリー」を教育委員会の図書館部が大人から子どもたちへお勧めする本として「わたしたちの本棚」の中にこのまま置いておくことには、一抹の不安と疑問を覚えるのも事実です。
今ここに書いたようなことも含め、きちんとした理論武装はできているのかどうか、ということですね。甚だ不安に思います。
さて、ここからはついでのお話になります。
今回、この件を調べるにあたって某大手書籍販売サイトのレビュー欄も拝見しておりました。
ただそこでは、もともと「かもしれない」だった情報が簡単に「だった(断定)」に変化している様子がうかがえました。
少々そら恐ろしさを覚えました。
今回の件で言えば、「フォレスト・カーターは純血の白人だった」等々のことですね。それは確証が得られていない内容のはずですが、そこでは完全に断定調で書かれていました。書き手の恣意を大いに感じる感情的な内容でした。
また、単に仮名で書いただけのことを、堂々と「偽名を使った」等々の中傷まがいの書き込みも見受けられました。「ペンネーム」と「偽名」では、読んだ人が受ける印象がかなり変わってしまいます。ここまでくると情報操作に近いものかと思います。
そもそもあのレビュー欄は、匿名で不特定多数の人が書き込める場でもあり、かなり無責任な書き込みでも、ノーチェックでそのまま載せられてしまう所です。ですから書かれていることは、かなり「希釈して」受け取る必要があるかと思います。
それで思い出しましたが、すでに書籍化なさっている皆さんは、あまりああいったレビュー欄を覗いて、ご自身の作品に対するひどい言葉に苦しまないで欲しいと思います。
人はその作品の良しあしはさて置いて、単なる嫉妬心だとか暇つぶし、憂さ晴らしをする目的でひどい言葉を書き入れ、他人の心を傷つけることのできる生き物です。
崇高な優しい心を持つ人だってもちろん大勢いますが、人を傷つける悪意による言葉は強く、残念ながら力があるのです。
SNS上でも、多くのフォロワーを持つ人にはそういう言葉を叩きつけて構わない、と考える人が一定数存在します。向こう側に生きた人がいるのだという意識が、相当希薄になっているのでしょう。
ですから書き手のみなさんは、ああしたレビュー欄は見に行かれないほうが賢明かと思います。無駄に心を病み、執筆の原動力を損なわされるだけだからです。
老婆心ながら、それもちょっと最後に添えさせていただいた次第です。