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23 「リトル・トリー」

 ということで、今回は久々に本の話です。

 お付き合いいただければ幸いです。


 今回の本は「リトル・トリー」。


「リトル・トリー」

 フォレスト・カーター・著 / 和田穹男・訳 / めるくまーる(1991)


 チェロキー・インディアンの血をひく小さな少年「リトル・トリー(小さな木の意味)」が主人公。父母を亡くし、インディアンの祖父、祖母に引き取られ、森のなかでかれらや犬たちと共に暮らした短い期間の物語です。

 作者であるフォレスト・カーター自身もチェロキー・インディアンの血をひいており、一応フィクションとはいいながらも、かなりの部分で作者の自伝的な小説といえる作品です。


 この本は、こちら地域では「中学校教育研究会図書館部の推薦図書53冊」にも選ばれているもの。「わたしたちの本棚」と呼ばれ、夏休みの読書感想文コンクールにおいて、課題図書、自由図書と並んで三つ目のエントリー枠として設定されています。

 当然、いずれも素晴らしい内容の本ばかり。ですからこちらの本もいいものだとは予想できていたのですが、実は私、こちらはなかなか手が出ませんでした。毎日通っている図書館の中にあるにも関わらずです。

 なんと言っても、表紙がとても素朴で地味な装丁。こう申し上げてはなんですが、これでは普通の中学生がすぐに手にとってはくれなさそう。


 いえもちろん、あとでたいへん後悔しました。読んでみれば、それほど素晴らしい本だったからです。

 読み終わってから見直すと、変に装飾過多でカラフルな表紙では、この物語の表紙としては決してふさわしくないのだということが改めてよく理解できました。


 物語の中では、少年リトル・トリーが祖父母から聞かされた過去の話として「涙の旅路」のことも紹介されます。

 チェロキーたちは、いきなりやってきた白人たちから平和に暮らしていた自分たちの土地を奪われ、連邦政府が用意した遠方の土地へ移れと命じられます。そうして女性や子供、赤ん坊や老人を問わず、一万三千人もの人々が千三百キロという距離を延々と歩かされたというのです。

 のちに「虐殺した」と非難されないため、当時の為政者たちはその代わりに、彼らをただ歩かせることを選んだわけです。もちろん軍の監視つきであり、止まったり休んだりすることはほとんど許されない厳しい旅だったとのことです。

 こうした弱者に対する残虐さは、あのナチス・ドイツとなんら変わらないものです。


 道々、きつい旅路でつぎつぎに弱い者から死んでいき、チェロキーたちはそれでも「魂をのぞかれないために」人前で泣くこともなく、自分の家族の死体を抱いたり担いだりして黙々と歩きつづけました。死体を埋葬できるのは、三日おきと決められていたからです。

 死んだ赤子を抱いて歩く母親、死んだ妻を抱いて歩く夫。延々とそんな列が続いたそうです。最終的に、全体の三分の一もの人々がその行程で亡くなったというのです。


 「涙の旅路」などと名付けられてはいますが、これはチェロキー自身が泣いたというのではなく、むしろ沿道にいた白人たちがそのあまりのひどさを見て泣いた、ということのようです。

 そんなくだらないセンチメンタリズムとは、まったく意味の異なる事件だったのだとカーター自身も本書の中に書いています。


 この歴史上の事実を知らない若い読者にとって、まずはこの部分が衝撃的なのではないかと思いました。

 多くの日本人は、同じ黄色人種であるインディアンたちに不思議なシンパシーを覚えるのではないかと想像します。だからなのか、そんなかれらを当時の白人たちがどのように迫害し、死に追いやったかを考えると非常な戦慄を覚えます。


 もちろんこうした内容ばかりではなく、この本のなかではインディアンに独特の自然と密着した生き方や死生観が多く表現されており、自分の祖父母から学ぶかのようにしてそれを知ることができます。

 また、祖父が隠れてウイスキーを醸造する過程や重労働である農作業など、日々の生活のことも具体的に詳しい描写があって、興味深く読み進められます。いずれも、いまにも土や木々の匂いがしてくるような、生々しく力強い描写です。

 リトル・トリー自身もチェロキーだからなのか、自然の木や風が自分にどんなメッセージを伝えようとしているかを敏感に感じる才能があって、読んでいて非常に不思議に思いつつも、いつのまにかその魅力にとりつかれてしまいます。


 とりわけ、ラスト近くのシーンでは、彼らが命をどう見て、どう考えて生き、死んでいくのかが具体的に立ち現れ、はっきりと迫ってきます。

 読み終えたとき、これほど胸がしんとする、しばしぼうっとなる本というのは、なかなか出合えないものだと思いました。

 人生の中で、どなたにも是非とも一度は手にとって欲しい本だと思います。


 ついでながら、同じインディアンの死生観をよく伝える本として、同じめるくまーる社の


「今日は死ぬのにもってこいの日」

 ナンシー・ウッド・著 / 金関寿夫・訳 / めるくまーる


 もまた、インディアンの人生の見方を伝え、心にずしんと来る本の一冊かなと思います。

 いずれも素晴らしい本でした。

 皆さんの何かの参考にでもなれば幸いです。


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― 新着の感想 ―
[一言]  かの時代が時代とは言え、人が人へと為した様々な残虐さは果てしがない。  また人類が他の種へと為した事も。  本ばかり読んでいた私は子供の頃にこの類の事を早々と知り、有る種、絶望した体験記…
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