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二章 古びたレポート
モルチェが極西の丘にある家を出たのは丁度6年前の事だった。ラピスが11歳の誕生日を迎えたその日のことである。
チャラッ――
膝を抱え、鎖につながれた懐中時計の蓋を開けて時間を確認する。針は下天秤(午後10時)を指していた。黒猫は早々と床に就き、ガゼルも旅の疲れが出たのか、下乙女(午後9時)頃には膝を折って草地の上にその体を横たえていた。
「随分古いものを使っているんだな」
ラピスの懐中時計に目を留め、オリゴクレースはそう問いかけた。
「父さんの形見よ」
一言だけ答えると、ラピスは冷たい体を持つ暖かい機械を懐にしまい込んだ。
「何かが欠けている物が好きなの。完全な物よりずっと」
焚き火の照り返しを顔に受けながら、ラピスは空を仰いだ。
「星も好き。ジェーダイトは年がら年中動いているから毎日空の様子が違うもの」
強い光を放つ青白い星。それよりも弱い光の赤い星。目の奥に染みとおって行くようなそんな、無気質な美しさ。
「世界が愛しいの」
言葉は流れる様に口から滑り出た。
「――悟りでも開いたらどうだ?」
オリゴクレースがそれをからかう。
「ふんっ。もういいわよ」
ラピスは空から視線を落とすと、オリゴクレースの視線から逃げるようにそっぽを向いた。
「人が折角、歩み寄ろうとしてあげたのに」
ぶつぶつと文句を言い、ラピスは防寒服の襟首を立てて背を向けた。
「それはどうもありがとう」
おかしそうに笑う男の態度にすっかり腹を立て、ラピスはそれ以上オリゴクレースと話すまいとしっかり口を閉ざした。
「それはそうとラピス、君は下の大地のことについてどれだけ知っている?」
話題の転換はラピスの心を引いた。けれど、彼女は耳だけ傾けるに止めた。
「それによってセバスの連中は態度を変える。君は万能の書の在かを母親から聞かされてはいないか?」
「万能の書?」
口を開いた瞬間しまったと思ったが、ラピスはやむなく体の向きを変えた。
「いや、知らないならその方がいい」
「……母さんは一体何をしたの?」
今までで1番大きな疑問が口をつく。その問を、出会ったときにも口にしたが、うまくはぐらかされたままだった。
「詳しいことは教えられない。地上を浄化しようとしたことが災いになったとしか。君にはまだ決心ができていないからな」
オリゴクレースは薪を1本炎の中に投じると瞳を軽く伏せた。それは、これ以上の問いかけには答えないという明らかな拒絶だった。
「……そう」
ラピスは再び空を仰いだ。夜の静寂を取り戻した草原に、父の懐中時計が正確に時を刻みつけてゆく――
ラピスが家を出てから2日経っていた。穴の空いた箇所を臨時に修理するのに手間取ったためである。
「あいつ、場所分かるかな?」
風圧に逆らいながら背中のトルマリンが問いかける。ラピスは「さあね」と答え、長方形の屋上に緑の染料で抽象的な図柄の描かれた家をゴーグルごしに探した。
「あーった。……まったくもう。ディクソンおじさん、まだ見やすい図柄にしてくれてない」
オルソニプターのような飛行具を使って移動する人のために、大抵の街の家々の屋上は平らに造られている。特に工具店などは独自の模様を屋上に描くことで客に自分の店をアピールするのが普通だ。
「……風向きが変わってる。尾翼を閉じるレバーは、と」
出力を押さえるためにゼンマイのバネの動きを止め、ラピスは着陸地と翼との間に挟まれて巻き起こる風を上手に利用して、最後の羽ばたきとともに緩やかに屋根に舞い降りた。
「…………ふぅっ」
軽い目眩を克服して、オルソニプターの動力部の箱からトルマリンを解放する。
「フミュウウウウウ」
ぐったりとした様子の猫に思わず笑みをこぼしながら、ラピスはトルマリンの首筋をつかむとその体を抱き上げ、そのまま屋根にある出入り口から下に降りていった。
「ディクソンおじさーん。いるー?」
定例どおり、ラピスは下の階に向かって店主に呼びかけた。
「おおっ、ラピスか。良いところに来た。ちょいと手伝ってくれんか?」
下の階から聞こえてきた声に従い、ラピスは地下へと降りていった。
「デクソンのおっちゃん、また変な物造ってんじゃないか?」
トルマリンは未だ首を項垂れたまま、呻くようにして言った。ラピスは心の中でそれに同意しながら、階段脇に積み上げられている大量の書物やらレポート用紙やらの山を崩さないよう慎重に歩を進めた。
「いらっしゃい。早速だがここのボルトを締めてくれんか?わしでは手が届かなくての」
言葉とともに、顔や衣服を機械油で汚した壮年の男が、脱穀機のような見上げるほどに大きな機械の中からひょろりと現れる。伸びるに任せた髭や頭髪は、獅子の鬣のように勝手気ままな向きに癖がついていた。
「おじさーん、悪いけど今日はそれどころじゃないの」
「そう言わんと……そうそう、よいエンジンが手に入ったんじゃが、そろそろジェット式の機体に変えんか?」
ディクソンはニカリと笑いながら、足の踏み場もなく散らかされた部屋の、机と思しき台の上に腰を下ろした。そして既に一杯になっている灰皿の中からチビたタバコを1つ選ぶと、ズボンのポケットから潰れたマッチ箱を取り出し、それに火をつけた。
「いつも言ってると思うけど、ジェット式の機体なんか後免よ。私は歯車のかみ合う振動が好きなんだから……って、今はそれどころじゃないんだってば!――母さんが何かしたらしくて、私も変な奴に追われてる。そのうちここにも来るかもしれないの」
ラピスとディクソンとは、もう10年来の昔なじみである。彼女にオルソニプターの設計や整備の仕方を教えてくれたのは、ほかならぬ彼だった。
「……何?」
ラピスの言葉を聞きとがめ、ディクソンはタバコの火を消すと考え込むかのように栗色の頭を撫で上げた。
「私、セバスに行くわ。母さんが心配だから。でも、それに関して人にとやかく指図はされたくない。だから――」
「追っ手の足止めをしろ、と言うのじゃな?」
ディクソンの言葉に頷き、ラピスは腕の中のトルマリンを床に降ろした。
「髪はブロンド、眼もそれに近いような色をしてる。背は結構高くて、汚い風貌で全然格好よくないのにどこか雰囲気がある男よ。名前はオリリ――何とか。年は25、6歳くらいだと思う」
手早く特徴を説明し、ラピスは様々な工具で埋め尽くされている部屋の物色を始めた。
「それと……おじさん、トルマリンを預かってくれないかな?」
携帯用の防水スプレーをガラクタの山から捜し出し、それをズボンのポケットに押し込みながらラピスは続けた。
「正直言って邪魔なのよね。トルマリンがいると」
突き放すような言葉に、黒猫は毛を逆立てて目をむいた。
「ラピスぅっ、君がそんなこと言うとは思わなかったよ!」
トルマリンは憤慨とやるせなさの混ざった声で叫んだ。ラピスはそれを全く無視して、元来た階段を登り始めた。
「ラピス……待ちなさい」
気まずさを抱きつつ、ラピスは一旦足を止めた。
「……何?おじさん」
「これを持って行きなさい」
少女の予想に反して、咎め事はなかった。ディクソンは書物の山から1束のレポートを選び出し、埃を払ってからそれをラピスに渡した。
「セバスに行く前に読んでおくといい」
「これは?」
「読めば分かる。さ、急ぎなさい」
ラピスは釈然としない面持ちでレポートを受け取り、2つに折り畳んでズボンのベルトに挟んだ。
「……ありがとう。おじさん、トルマリンのこと頼むわね」
ふてくされてしまったトルマリンをチラリと盗み見て、ラピスは小さな溜め息をついた。
「ああ。モルチェによろしくな」
無言で頷き、ラピスは再び階段を上り始めた。
「ラピスの奴……」
黒猫はいじけたように金属の切れ端を蹴飛ばして八つ当たりをしていた。ディクソンは少女の姿がすっかりと消えてしまってから、そんなトルマリンを優しく諭した。
「ラピスはお前の身を案じたんだよ、トルマリン」
はっとして顔を上げる黒猫。ディクソンは、トルマリンの金褐色の瞳に浮かんでいる感情を読み取って、そっとその小さな体を抱き上げた。
「お前の気持ちもわからんでもないがな」
機械油の懐かしい匂いに包まれて、トルマリンは胸に凝り固まった行き場のない嬉しさと怒りとに、つまらなさそうに口を尖らせた。
数日分の携帯食料と幾種類かの薬草を買い込むと、ラピスは1度家に戻ることにした。そのままセバスに行ってもよかったのだが、家に取り戻りたいものがあった。
「あの手紙……」
白紙の便箋が脳裏をよぎる。
「急がなきゃ」
ラピスは翼を折り畳むために一杯に絞ったワイヤーを緩め、歯車の動きを止めるためのストッパーを外した。機体に命が吹き込まれる。
「それにしても……トルマリンの奴、言いたいこと言ってくれちゃってさ」
カラクリのバネが動く細かな振動が背中に伝わってくる。猫のいない機体はやけに軽かった。
「……」
オルソニプターが羽ばたきを開始する。ラピスは雑念を振り払うように目を閉じた。そして次の瞬間、パチリと眼を開けてゴーグルを額の上からずり降ろした。
「テイクオフ」
翼の動きがスムーズになってきたところで、ラピスは食品店の屋根から飛び降りた。突如体にかかる重力。けれど、それを断ち切るようにオルソニプターの羽根は力強く弧を描いた。食品店の前の通りに面して造られた見世棚の近くにいた客が、一斉に散らばる。
「ゴメンっ」
大声で叫びながら、ラピスは風に乗った。懐から懐中時計を取り出し、太陽の方向と針の位置から家の方角を導き出す。
「そういえばディクソンおじさん、何をくれたんだろう?」
ネジをきっちりと巻き、風の道に機体が乗ったことを確認してから、ラピスはふとディクソンからもらったレポートのことが気になり始めた。
「見てみよっと」
ベルトに挟み込んだ紙の束を取り出す。ラピスはタバコのヤニで黄ばんだレポートの、最初のページに書かれているタイトルを口にした。
「『回復の兆候〜地球、その浄化能力〜』」
そして、その1枚目の紙の右下の隅に書かれていた癖のあるサインも。
「デボーテ=B=ラズリ……父さんの論文?」
走り書きの汚い文字。風に煽られながらも、ラピスはその1文字1文字を噛み締めるようにして読んだ。
「『――地球は四度目の誕生を望んでいた――』」
それは30年ほど前の論文だった。厚さは1センチ以上にも及び、ほとんどカレー粉色に染まっていた。
過去、地球は3度誕生を経験したと推測される。1度目はビッグバン、2度目は氷河期、3度目――これが今回の地球の浄化作用にあたる――は世界中の火山の一斉活動である。およそ千年前に起こった突然の噴火活動は、大地を急激に熱した。その結果温暖化は極端に進み、地球最北部と最南部にあったと思われる凍結の島々が融解し、海面が上昇した。これにより、世界各地の主要都市は水没。不測の事態に、地上の人類及び哺乳類を端とするそれまでの生態系はことごとく破壊された。
「ことごとく……破壊された?」
移り行く風景を目の端に捕らえながら、ラピスはさらに先を読み進めた。耳元で風のうなる音が、追いかけるようにこだます。
だが、地球の寿命を察知し、地上の難から逃れるべく巨大な空中城塞を作り出した3人の科学者がいた。言うまでもなく、それはジェーダイトを束ねる3人の長、サーペンティン、クリソコーラ、グロッシュラーのことである。彼等は自らの体を植物と同化させることで、人が生きるには長すぎる時を過ごしているとされる。そのことについては68ページ以降の『人体と植物組織の融合』の章で詳しく述べることとする。
ラピスは驚いて、ついそのレポートの束を取り落としそうになった。3人の長老については予てから謎が多かった。母は詳しいことを幼かったラピスに教えようとはしなかったし、ジェーダイトの住民にとっても3人の長老は神にも等しい存在だったので、彼等が一体何者であるのかなど軽々しく口にする者はなかった。
「……信じられない」
それは自然への冒涜のような気がした。
人は自然から分化した存在である。隔離された固体へ自ら『進化』した以上、元の鞘に収まることは許されない。時間は一方通行なのだから。
「これは違う。違うわ」
何に対して違和感を覚えるのか、ラピスは鳥肌が立つほどの恐怖を感じた。飴細工の橋の上を鉛の靴で歩くような足元の不確かさが、レポートを握る掌を汗ばませる。
「父さん……」
ようやく口から零れたかすれた声は、珪砂を含んだようなきらめく風が搦め捕ってしまい、誰の耳にも届かなかった。