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オルソニプターの5つのゼンマイのネジを巻き終わり、栗色の髪の少女は防寒具を着込んで、強化ガラスをはめ込んだゴーグルを着けた。ちょっとした故障を直すための工具はオルソニプターの動力部分、つまり背中に背負う木製の箱の中に備えつけてある。防寒具の上からつけたポーチの中には整備油などの雑貨を買うためのお金と今月の生活費が入っていた。
「トルマリン、準備はいい?」
「俺、この機械に乗るの嫌いだ」
ブスリとした態度で黒猫が呟く。動力部分の木の箱の上にくくりつけられたトルマリンの姿を見て、ラピスはクスリと笑った。
「このままにしといたら猫の干乾しができるわね」
「ラピスぅっ!」
トルマリンの抗議の声に肩をすくめ、ラピスはオルソニプターを体に装着し始めた。空中で外れてしまえば一貫の終わりなので、ベルトは少しきつめに留める。その姿は羽を折り畳んだ天使のようにも見えた。
「トルマリン、騒ぐのもいいけど前みたいに落ちても知らないから」
この言葉に黒猫は文句を言うのをやめた。以前、トルマリンはオルソニプターから落ちかけたことがある。その時は何とか助けることができたが、それが非常に難しいことだということは猫にも分かっていた。
「……わかったよ」
素直な返事にラピスは「よし」と頷いた。
「じゃ、行くわよ」
ラピスはコクンと息を飲んで、背中の機械を持ち上げた。骨組みは粘りのあるリリュートという軽い金属で作られているため、遥か昔には300kgもあった機体は今は10kgにも満たない。
「視界良好。風向きは西南西――街とは逆の方に吹いてるわね。浮力は申し分なし、空気抵抗を計算してワイヤーはやや緩める、と」
羽根の角度を調節して、ラピスは翼を広げて風を待った。1息、2息……穏やかに吹きつけてくる柔らかい風を頬に感じる時、ラピスは自分がどこまでも広がって行くような心地がする。彼女はいつもこの瞬間、空の一部となり、大気に満ち満ちて行く至上の幸福感を味わった。
「んー、いい風……テイクオフッ!」
目の前にある切り立った崖に、少しもためらわず身を躍らす。軽い助走に髪が煽られ、トルマリンが何か言っているようだったが聞こえなかった。
「よっと」
体の側面の部分にある方向転換のためのレバーを右手で引き寄せ、風向と目的地との僅かなずれを調整しながら、左手でゼンマイが切れないように活動写真の映写機の把手のようなネジを巻き続ける。
ラピスの家は大地から解放された空高く浮かぶ島、ジェーダイトの極西に広がる草原の、これまた1番崖寄りの所にあった。が、都市部から何十mileも離れた辺境に住みつつ、彼女はCクラス(飛行機械の技能者)の腕前のお陰で餓死することはなかった。収入は中の上、自由時間も比較的多い整備士の仕事を、少女は結構気に入っていた。
「トルマリン、生きてる?」
問いかけに返事はなかったが、いつものことなのでラピスは別段気にも止めなかった。
「年々アーモンド型じゃなくなってるみたい」
元は綺麗なアーモンド型をしていたとされるジェーダイトの地に視線を馳せ、ラピスはそう独りごちて森に埋もれつつある東の方を目でたどった。
ジェーダイトは言わば巨大な飛空艇である。その浮力は植物による光合成と、水の電気分解に因る。本来ヘリウムガスなどの不燃性の気体の詰まっている気嚢部分に原子の中で1番軽い水素を使うことでかつてない浮力を得ているのだ。但し、可燃性の水素を浮力として使うことがあまりに危険なのは周知の事実である。そのため、動力部位はすべて気球内部から下に降ろされ、プラスチック装甲だった気嚢は下の大地が滅びる直前に作り出されたとされる新しい物質ファースライト(透明、ガラス光沢の鉱物。熱の伝導率が極端に低く、モース硬度10でダイヤモンドとほぼ同じ堅さを持つ)のコーティングで危険を回避していた。
「今日はまず、新しい歯車を仕入れて……」
風力発電のために使う丘の風車群の上を通過しながら、今日買う物の確認を始めたとき、それまで口を開かなかったトルマリンがひどく狼狽した様子で話しかけてきた。
「ラ、ラ、ラピスぅぅぅ。あそこに何か変なものを構えてるおっちゃんがいるよぉぉぉ!」
「へっ?」
「だからさあっ!あっちの、ほら、1番大きな風車のてっぺん」
ラピスはトルマリンに言われるままに前方にある風車の羽の部分に目を凝らした。ぼんやりとした人影が徐々に輪郭を現してゆく。黒ずんだぼろ布を身につけた、背の高い男である。肩にはいやに黒光りする、太い筒を乗せ……
「バズーカ砲!?」
旧式のものと思われるその砲が火を吹いたのは、ラピスが叫び声を上げた、丁度そのときだった。
拳ほどの大きさの鉄球が瞬時にして左の翼に埋まる。突風に煽られたときよりもひどい衝撃が全身を圧迫した。頭が突然ガクンと後ろに引っ張られ、脳震盪を起こしたときのように周囲が奇妙に揺れる。
「っ痛ぅぅぅ……」
けれど、ラピスとて伊達に幼いころからこのオルソニプターに乗ってきた訳ではない。鳥にぶつかって翼に穴が空くことなどしょっちゅうあること。落下しつつも、無事な方の翼をうまく操り、彼女は緩やかに大地に降りることに成功した。
「一体、どういうこと?」
疑問に思えど手を動かすことを怠らずに、ラピスはきつく留めたベルトの留め金を外しにかかった。追撃がなかったということは、先程の男も恐らくこちらに向かっているということだ。
「ちょっと、このベルト。こんなにきつく締めたの誰よ!」
焦りのためか、留め金はうまく外れない。完全に意識を飛ばしてしまったトルマリンを憎々しげに睨みつけ、助かった暁には1発殴ってやらないと……などという物騒なことをラピスは考えていた。
一方、少女がベルトと格闘している間に、バズーカを背負った男は着々と彼女との距離を縮めていた。彼はラピスの自宅に足を向けていたのだが、途中で西の方角から飛んで来たオルソニプターに気が付き、この丘まで戻って来たのだった。
「むーっ!はずれないーっっっ」
地団駄を踏むラピスを見つけることはごく簡単なことだった。
「手伝おうか?」
「ありがとう。これ、外してくれない?」
ラピスは混乱した頭で体を締め付けているベルトを指さし、そして硬直した。
「ラピス=C=ラズリさんだね?」
攻撃を仕掛けて来た相手に親切に振る舞われてしまい、ラピスは何がどうなっているのか分からなくなった。
「……はっ?」
「手荒なことをしてすまない。ただ、こうでもしないと気づいてくれないと思ってね」
明るく笑う男の言葉に、ラピスはようやく正気を取り戻した。そんなことのために殺されかけたのかと思うと、呑気に惚けてなどいられない。
「それが何だって言うのよ!よくもそんなもの撃ってくれたわね」
ようやくベルトを外し、ゴーグルを乱暴に剥がし取るとラピスは男の顔を見上げ――同時に息を呑んだ。
薄汚れた男は白い八重歯を見せながら、人懐っこい笑みを浮かべていた。金の瞳を細め、少し長目の同じ色の髪を頬にかけて。
「ん?」
しかし、少女の驚きの対象は青年の容姿ではなかった。傍らから姿を現した螺旋状の2本の角を持つオールターガゼルにこそ、焦点は絞られていた。
「この方がラピス=C=ラズリさんで?」
ガゼルは興味津々といった瞳でこちらを見つめていた。ラピスは反射的にコクリと頷き、賢そうなその動物の頬の辺りに手を差し伸べた。
「オールターガゼル……改良に改良を重ねた乗り物用生物機械の一級品だ。しかし、君には翼があるから興味はないと思っていたが」
つややかな黄土色の体毛を撫でつけながら、ラピスは男の言葉は聞き流していた。
「初めまして。私はアウインと申します。ご主人様がとんだ失礼を致しまして」
アウインはラピスに毛を梳かれて気持ち良さそうに鼻を鳴らした。
「あ、あ……いえ」
丁寧に謝罪の意を述べたガゼルの仕付けの良さに舌を巻く。ラピスはそれ以上突っ掛かることをやめて、彼等の事情を聴くことにした。
「ところで、貴方達は一体……」
「俺はオリゴクレースという。身分を持たない無法者だ」
「はぁ……」
曖昧な返事を返し、ラピスは首を傾げた。どこかで聞いたことがあるような気がする。
「ところでお連れさんの方は?」
「あれはいつものことだからそのうち目を覚ますと思うけど」
とは言ったものの、一旦ガゼルから離れてラピスはトルマリンの様子を見に行った。意識を手放したままの黒猫は、そのまま寝入ってしまったのか穏やかで規則正しい呼吸を繰り返している。その幸せそうな様子は、彼女に密かな殺意を抱かせるに十分なものだった。「いつまで寝てるつもり?」
パコンと頭をはたいて、猫の様子をしばらくの間観察する。が、トルマリンは起きなかった。寝返りを打とうとして体を固定しているロープによって阻まれ、顔をしかめる程度だ。
「ちょうどいい機会だから日光消毒しておくわ」
風に飛ばされないように金属製の杭とロープでオルソニプターを地面に固定し、ラピスはオリゴクレース等の元に戻った。
「で、先に聞いておくけど、私の翼の修理代はあんたが保証してくれるの?」
オルソニプターに張る布は防水性の優れた特殊シートである。木綿や麻のように簡単に手に入れることはできない。
「それは当然。ご主人様の責任ですからね」
オリゴクレースが口を開く前にアウインが口を挟んだ。ラピスはこのガゼルとは気が合いそうだな、と思った。そんな彼女等の様子に、オリゴクレースは苦笑しつつも本題に入った。
「それはまあ、そうだな。けれどその前に、君にある場所まで同行を願いたい――と言うよりも連れて行かねばならない」
「ある場所?」
「首都セバスへ。君に関しての、いや、君の母に関しての取り調べがある。君のような調査対象の人間を捜し出して連れて行くことも俺の商売のうちの1つでね」
オリゴクレースの言葉に、ラピスは限りなく青く澄んだ瞳を見開いた。不安に胸の辺りがキリキリと痛む。
「母さんに何かあったの!?」
絞り取る様に叫び、少女は青年につかみ掛かった。
「モルチェが、君の両親が何に手を貸していたか知っているかい?」
「え……?」
手を貸す――その言葉の響きは奇妙な違和感を伴っていた。父が、母がそれと信じてその身を投じた事柄が、ラピスにとって悪い意味を持つはずがない。
「下の大地に緑を増やし、浄化を進めることが悪い事だとは思えないわ」
「ああ。だが、そいつが気に食わないお偉方がいてね」
胸にすがりついてきたラピスの堅く握り締められた拳を解きほぐし、オリゴクレースは両親のすることを単純に良いことと信じ込んでいる少女を優しい気持ちで見下ろした。その、本人は自覚していないと見えるいじらしい様子に、オリゴクレースはついからかいたくなった。
「もっとも、どっちが正しいにしても俺は俺の仕事をするのみだ」
男の言葉にカチンときて、ラピスは1度は収めた怒りを解放した。
「何よ、その言い草は。人の命がかかってるっていうのに!」
父親がどんなものなのか、ラピスは知らなかった。デボーテは夢に命を懸け、その生涯を終えた。写真で見る限りひ弱で軟弱そうな男だったが、母のモルチェがその亡き遺志を継ぐほどには魅力的な人物だったと聞く。そんな父と一言も言葉を交わせなかったことが、ラピスには悔しくて仕方がなかった。
「大体、さっきだって下手したら死んでたかも知れないのよ!」
「済みません、ラピスさん。ほら、ご主人様も謝ってください。先の言葉は言い過ぎというものです」
アウインは低く鼻を鳴らすと、オリゴクレースの服の裾を口で引っ張った。
「それに関しては謝るよ」
太々しく言い放つオリゴクレースの自信に満ちた表情が、ラピスには気に食わなかった。
「……さっきセバスへ行くって言ったわよね?分かった、ついてく。でも、その前に街へ寄ってオルソニプターを直すことを優先しないなら私は単独で首都へ行くから」
男が自分を運ぶことを商売だと割り切っている以上、この脅しは十分な力を持っていた。
「条件を飲もう。どちらにしろアウインだけでここから先を進むことはできないしな」
オリゴクレースは満足そうに頷くと、傍らのアウインの背をポンポンと軽く叩いた。
「あっぢぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」
ラピスが相手の腹のうちを探るようにオリゴクレースを睨みつけていた時、その素っ頓狂な叫び声は彼女の翼のある位置から聞こえて来た。
「あぢいよぉっ!ラピスぅ、俺を本当に日干しにするつもりか!?」
声は、必死であるがゆえにラピスのこわばった頬の肉を少しだけ弛緩させた。
「あ、トルマリン」
オルソニプターに急いで駆け寄り、ラピスは黒猫の束縛を直ちに解放した。
「あ、あれ?そういえばオルソニプターは打ち落とされて……って、もしかしてここ、天国か?」
いまだ事態をうまく把握していないトルマリンに、ようやくラピスは形のいい唇を愉快げにほころばせた。この何とも言えない間抜けな相棒がいたことで、彼女の先ほどの不安は一時的に癒されたのだった。
「バーカ、なに言ってるのよ」
黒猫の温かい体を抱き締めて、少女はホウッと溜め息を吐いた。
「ラピス、か」
胸の中で温め続けていた面影が少女のそれと重なる。少し離れた場所で彼女等を見つめる青年の瞳は、懐かしげに細められていた。
「ご主人様?」
アウインは突然無口になったオリゴクレースを不思議そうに見上げた。青年は少し慌てた様子で「何でもない」と答え、口喧嘩しながらこちらに近づいてくる少女と黒猫とに照れ隠しのような大声で呼びかけた。
ジェーダイトは中心に皿に張った水のような湖を持つ。その周辺には様々な街があり、村があり、湖の中心にはここを統べる3人の長老が住んでいる首都セバスがあった。
「フゥゥゥ、さすがに厳しいわね」
ショートカットの女はその顔に刻まれた細かい皺をくっきりとさせて、警備の固いセバスの都を望遠鏡を片手に睨みつけていた。白い木綿のTシャツを着、濃い群青のジーンズを履いた30代後半ほどのいい年の女性である。
「そろそろあれはあの子に届いたかしら」
「何か悩みがおありですか?モルチェ殿」
背後から現れた大柄な女に名前を呼ばれ、モルチェと呼ばれた女性は相手の方に向いた。女は白い湯気を立てる陶製のカップを彼女に差し出すと続けた。
「……そういえば、貴殿にはお嬢さんが1人いらっしゃいましたね」
「ええ」
じんわりと熱のこもったカップを受け取り、モルチェはコーヒーに口をつけた。
「ロサーリーブス、あの子はあと2週間ほどで17になります。私は約束どおりに彼女の成人の証しとしてあのオカリナをラピスに送りました」
剥き出しの岩に腰をかけると、モルチェは自嘲的に笑った。
「でも、それは長老達の目を私達の動きから逸らすため。ラピスまで利用するなんて……私、母親失格ね」
「モルチェ殿」
ロサーリーブスは口をつぐんだ。肯定することも、否定することもできずに。
十分にローストされたコーヒーの香りは孤独の象徴であるかのように、モルチェのひび割れた心に深く染み込んでいった。