非ラノベは衰退する
何か?が自分を突き動かす。それが無いものは読んでいても退屈。そういう意味で私は芸術文学と指向性は似てるんだと思う。創作論の方が本気で、作品の方が私にとっては理論の実験の様なものになってる。過去に書いたエッセイが何故か今繋がりがあったと分かった時の感動は何事にも変えがたい。この年でここまで感情を揺さぶれるのかと言うのが素直に楽しい。
私はどうやら小説が衰退する事を懸念してるようだ。もっと言えば小説をベースとしたメディアに囚われないストーリーが衰退する事を懸念してる。尤もこれは日本だけの奇妙な現象ではある。じゃ何故海外では?アメリカだけにする欧州は良く分からないし、あっちの実写はほとんど見た事が無いから興味が無い。何故アメリカなのか?エンターテイメントが重要な輸出産業だからだ。
文学と相性が良い小説だが、娯楽とも相性が良い。ラノベでは表現できない独特な面白さがそこにはある。文学でも無いラノベでもない、そういった非ラノベこそが守られなくはいけないと私は考えている。アメリカとの違いは、アメリカは衰退するわけが無い。そもそも文字によってそういったストーリーを支えて無いからだ。その点そもそも大衆的には発展してないのだから衰退しようがない。ある意味アメリカこそが未来の日本の形で日本は遅れてると言って良い。日本の遅れはどこから来たのか?文化レベル教育水準の高さだろう。
では馬鹿になってるのか?と言うと、どうにもならないメディアの多様化が逆に文字文化の画一化を進めてしまったんだ。自然にそうなたとしか言いようがない。おそらくこの2つは反比例の関係にある。過去からある古い文化は新しい文化が多様に創造されるたびにそのシェアが奪われて衰退する運命にある。それが歴史の必然であると言える。それを食いとどめていたのが、日本の高い読書文化を愛するように育った受け手にある。彼らが文学を軸に衰退に逆らうように今なろうエッセイで暴れていると見てる。
だが私は懸念するのはこんなチンケなニッチな人間達の愛する文学じゃない。なろうエッセイが歪んでるのは、今中年層で一般的な非ラノベは文学傾向が強いわけじゃないからだ。文学と非ラノベを明確に区別する事は出来ない。ラノベはそれがしやすいだから文学支持者はラノベを攻撃する。だがラノベと非文学の非ラノベは共通項がある。読者受けと言う反作家主義でありかつ、商業主義的な軸を持ってるからだ。
じゃ何故明確な区分が出来ないのか?まず文学も読者受けを否定しないどころか過去からどの文豪も読者が面白い事を全く無視するような作家は居ないからだ。過度な商業主義と距離を置く程度でしかない。ラノベはその程度が極端だから区別しやすいし攻撃しやすい。だが正直全く別物なので本当は対立する意味が無い。ラノベはほぼ例外なくファンタジーと言って良い。だからラノベを区分するのに商業主義的なものなんて要らない。ファンタジーで大半は解決する。(特になろうにおいては)だからそもそもリアリズム重視の文学とは接点がない。
ある程度程度問題があるが、リアリズムを重視しながら読者にも受けてこんな難しい注文をこなしてる作品達こそが本当は議題としてふさわしい。遠くない将来非ラノベのストーリーを楽しむ受け手が激減すると見てる。それは小説の問題じゃない。私は実写が影響を受けるのを懸念してるんだ。
読者受けと言うのはワンパターンの王道だろうか?それは違う。根本的に王道は細部を楽しむのでラノベの王道は微妙にリアリズム重視の王道と楽しみ方が違う。だからこそラノベは止まれない。いつまでたっても子供の様な成長を読者から求められる。子供を相手にしてるものが偶然なのか?子供の様に若々しい成長をする作品群になっている。必然はまだ私は感じてないが、子供達は無自覚に老いや成熟と距離をとるように嗜好してるんじゃないか?と疑ってる。
それゆえラノベは簡素でライト向けの刺激を作るパターンの創造(遺伝子の進化の様に突然変異もあるが、シャッフル的な組み合わせの編集作業の方が数は多い)こそが芸術性になってると見てる。ただしこれは意識してない。芸術的指向性じゃない、無自覚に読者がパターンに飽きる性質が結果論的に芸術性を帯びてると見てる。どう違うのか?と言うとワンパターンでも刺激があればかまわない。創造性を指向して動いてるわけじゃない。そういった歪みがラノベを芸術的なものにしないように動いてる。それは、実はライトノベル読者は芸術性指向を無自覚に持ってるって話じゃない。この点は絶対に勘違いしないで欲しいので書いてる。
ラノベは非ラノベに較べてリアリズムに縛られない分、おそらくファンタジー要素が無限に近い創造性を提供してると見てる。すごい事じゃないか?そうは思わない。なら何故私は不自由だと書いたか?なんでもありはナンセンスを生むから。ラノベはナンセンスには向かわない、シュールは多少行ってしまってるかもしれないけど。一見自由に見えるファンタジーだが実は細部を生かす部分に面白みの薄いためワンパターンの王道がいまいち面白みに欠ける。(読者の読書疲労を嫌う姿勢や好みの問題も多い)実はそのため刺激として選択できるパターンが少ない。
読者のライト化への言及にずっと批判的なのは、ライトであると漠然とした指向を探っても何も出てこない。何故ならラノベはそれが極北ぐらい極端なだけで、リアリズム重視の非ラノベは程度問題でライトであるためでラノベとは全く違う刺激のものだと言えるから。なろうのライトへの言及がつまらなくて下らないとずっと私が批判してるのはここになる。
多くの読者にとって、ライトであるか?文学であるか?はくそどうでも良い。非ラノベが不人気かしやすいのは文学のせいじゃない。文字による虚構のリアリズム重視に対する好みの問題だ。どういった読者が居ないからなろうは偏ってるのか?ラノベでは味わえないと感じてラノベより非ラノベが好きな読者が居ないから。そしてなろうに何故か大量にエッセイの書き手としているのはそれが文学的指向を持つタイプだけだからだ。
何が違うのか?と言うと、彼らは基本能動的でニッチな場所にどこにでも現れやすい。ニッチな場所に最初に来るのは能動的な人間と言うのは絶対的な法則になる。ハイファンタジーを好んだり、アニメ漫画を好む層は比較的受動的でもここにくる。何故か?書籍化アニメ化を通じてなろうの知名度がアニメ漫画ラノベのファンにとって圧倒的に高いからだ。これは他メディアの無自覚な宣伝効果といえる。最初に書いたハイファンタジーを好む人ははっきりと、初期のなろうの形成に重要な役割を果たしてる。彼らは知名度に関係なく純粋な好みによるものだと見てる。
当時の分析で、ゼロ年代の萌えブームで排除されたラノベの異世界ファンがネットにニッチを求めたのではないか?と後から振り返った分析がなされている。私もそうじゃないか?と見てる。深夜アニメでは明確なハイファンタジー不遇な時代があり、それは好み以外の問題もあり明確なものだった。
ハイファンタジーの絵を作るのは金が掛かるから後回しにしたとSAOのアニメ製作について述べられている。SAOは置いておいて古臭いハイファンタジーが受けない時代、金も掛かるしわざわざ作る製作人が要るわけがない。しかも当時からこれは別物とされていたSAOでさえ後回しにされたのだ。こういった背景がある以上ネットでニッチ層を形成したと言うのは思い込みとは思えないから、私は同意している。彼らは間違いなく能動的な読者だと私は見ている。
今書店にいる中年の非ラノベの読者の求めるものは今は一般書籍とされるが、将来おそらく衰退して一般から引きずりおろされると私は見てる。何故か?ネットに入ってきて無いからだ。若者が書店にいかない読書をし無い。するのは例外でアニメを通じたラノベだけ。将来コレで非ラノベがラノベに対して一般として上位に位置する事が可能だと思うか?私は思わない。
そしてTVにおいてもそういったストーリーと密接に関係する実写ドラマが深夜アニメに若者においては負けてると言う減少がおきてる。ドラマはすでに年寄り臭い趣味になりつつある。ただし女性は別、そもそもF1層へのターゲットがTVドラマを偏ったものにしてしまったとの批判がある。読書もTVドラマも女性が好む傾向があって女性の動きは男性と似てるがやや緩い。さすがに若い女性すべてが腐ったアニメを愛してるとは思えない…。だが萌えキャラ重視の深夜アニメが男性若年層の間で一般化してしまったのを見ると何が起こるか?は分からないけど。
嗜好の問題より、書店に行くか?ネットに行くか?なら後者になるのが明らかと言うものもある。最初に書いた新しい媒体の誕生は古い媒体が割を食う形で衰退する必然にあると言うパターンそのものだから。違法か?どうかは置いておいて配信がしっかりしてる深夜アニメはネットで見る人がかなりの割合いる。TVが衰退してても深夜アニメを見てる人は多い。ネットでは見ないのか?はアンケート調査に詳しくは書いてなかった、それゆえ私は深夜アニメの高い視聴数を録画を含めてTVで見て形成されたものか?を疑ってみてる。
なろうにはほとんど読者が居ないし、創作論として展開するには興味を持たない層であろう人達にどれだけ訴えても意味が無いけど、文学とラノベの対立なんて無駄な話しだと思う。絶滅危惧種のようなシーラカンスレベルの人達向け作品が、衰退しつつある両生類の問題と同等に扱われると本当に無意味な話だと強く感じている。
アニメラノベには無い、実写非ラノベにはあるストーリーの面白さが衰退しつつあるのをファンの一人として危惧して今回のエッセイを書いてる。TVドラマやハリウッド映画が文学的なのか?と言うとそうじゃないが、ラノベとは好みが根本的に違うでしょ?そんな難しい分類について私は語ってるわけじゃない。
悲観的で解決策が無いじゃないか?いえだから逆に文学好きという能動的読者を使ってネットで独自の文化を作りましょうって話です。それはきっと文学指向(ネットの自称文学マニアじゃそんな拘りないだろう)の強い作品にならないと確信を持っています。そもそも私も純粋に読者を楽しませる理想論を捨てて奇策に出たと書いています。結論として前書いた非ラノベを選ぼうに繋がります。