Justify
獅子戸は夜の校舎を前にして、一人で佇んでいた。右手に携帯電話を持っている。間もなく、巧が来ることは分かっていた。獅子戸はこれからここで想定される場面を全てイメージする。どこにも不備の見当たらないことを確認すると、静かに包帯の巻かれた右肩を撫でた。
背後で砂煙が撒き上げられ、乱暴に何かが着地したのは同時だった。振り返る。目を凝らせばその地点に向けて、黒い軌跡が夜に弧を描いていたのが分かった。
「逢坂美南はどこに」
巧が砂煙の中から現れる。彼は息を切らしていた。思っていたよりも到着は早く思えた。
「巧くん、あれが見えるかい?」
獅子戸が指差したのは、校舎の三階の一角。そこからは、紫の濃い霧が立ち込めていた。
「『視認可能域』に達した疎粒子だ。恐らく、破滅衝動の憑依した逢坂くんは、あそこにいる。予想される破滅衝動は前回よりも強大なものだ。そこで巧くんには、逢坂さんの保護をお願いしたい。破滅衝動は私が相手をする。彼女を保護したら、ここから出来るだけ離れていてくれ」
校舎へと歩を進めながら、獅子戸は用意していた台詞を吐く。振り向かずとも、巧は真剣に顔で耳を傾けて、後をついてきていることは分かっていた。
「待ってください。チーフ」
だが獅子戸の予想はここで裏切られる。振り返れば、巧は動くことなく立ち尽くしていた。
「お伝えしなければならないことが、一つ」
獅子戸は不審がった。巧の眼から漆黒が取り払われていたからだ。リクオリアが解除されている。巧が何故、そんな行為に出ているのか獅子戸には分からなかった。周囲に人はいない。夜は更けている。『眼』の負担は軽いとはいえ、近くに破滅衝動が成形しつつあるのだ。意味もなく、彼がリクオリアを解除する理由はないはずである。
ただ獅子戸には、巧の瞳が揺れているように見えた。それはまるで迷っているようで、それでいて、何かを恐れているような揺らめきだった。
「いいのかい、目のリクオリアを解除しても」
獅子戸の問いに巧は応えなかった。
「チーフがお調べになった、逢坂美南を知る証人――占い師、彼女は教会の端末でした」
「......そんな馬鹿な」
「これは事実です。そして今先ほど、その占い師の住居が火災に遭い、占い師本人も何者かの手によって殺害されていました。恐らくこの火災は、それを隠滅するために放たれたものなのでしょう」
「待ってくれ、......殺害? それは破壊されていたということかい。一体誰がそんなことを、まさか、伊坂くんが? 彼女ならすでに一度デュフォーくんの端末を破壊し、疎粒子を奪って破滅衝動に成形を促させている。意図が何かは分からないが、もしかするとまた疎粒子を与えるためにこんなことをして」
「いえ、それは違うと思われます。夜宵は逢坂美南の救われ方に疑問を抱いていたからこそ、教会のやり方に反対して独断行動を取っていたはずです。それならあの占い師をただの端末として見ていたとは思えません。あの占い師には、逢坂美南にとって端末以上の意味があった。夜宵がそれに気付いてないわけがない。そんなやつが、こんなやり方に出たとは思いません」
「伊坂くんではない? ならば、これは逢坂くん――いや、破滅衝動に感化された逢坂くんの犯行なんだろう。巧くんにも、デュフォーくんからの通知が来てないかい。デュフォーくんの疎粒子は間違いなく破滅衝動の成形に使われている。恐らくデュフォーくんが逢坂さんに襲われ、その後、占い師も襲撃されたんだ。疎流体は疎粒子に飢えている。端末は格好の」
「それはあり得ません、チーフ。それだけは」
「......どういうことだい」
「あの占い師は贖罪の機会を待っていました。逢坂美南に殺されるとすれば、抵抗などせずに潔く殺されたと思います。あそこまでの惨状は起きなかったでしょう」
「あそこまで? ......まるで見てきたかのような言い方だね」
巧の瞳は揺れたままだ。だが視線は依然として逸らされることはない。
「巧くん、急にどうしたというんだい。今のはすべて君の推論だが、君はそんな曖昧なものを根拠に物を語る人間ではなかったはずだ。一度落ち着いて冷静に」
「俺はここまで納得しようと思っても納得し切れないことばかりでした。ですが、納得が追いつくのを待っていては遅いんです。手をこまねいて黙って見ているだけで、どんどん取り返しの付かないことになっていく」
巧の拳が、強く握りこまれる。獅子戸はそれを見逃さなかった。
「曖昧を許さずにいたら、もうどこにも進めない。だけど、それで動けなくなるくらいなら、納得した振りをしてでも、俺は前に進まなくちゃいけない。そうでないと、本当に何も分からなくなってしまう気がするから。......だから、その前に。この脚が止まる前に、余計な懸念はオッカムの剃刀で削ぎ落とす」
「オッカムの剃刀......、だけど巧くん、たとえその真実がどうであっても、今の私たちが集中すべきことは逢坂くんの破滅衝動ただ一つじゃないのかな。デュフォーくんが彼女から破壊されたのは間違いないのだから」
「俺はそうだとは思っていません、チーフ」
獅子戸は目を細めた。
「そもそも、デュフォーから疎粒子を奪わねば動けぬはずの破滅衝動がデュフォーを襲ったというのでは矛盾が生じます。デュフォーを無力化するための力は、どこから来たのですか」
「さぁ、私には分からないよ。だが、こちらの常識が通用しないのが、疎流体というものだ。私たちでは想像の及ばない何かの事態に直面したのかもしれない。でなければ、このメールをどう説明するつもりなんだい?」
「デュフォーは文が読めません。だから、あいつは携帯も通話機能しか使ってなかった。そのメールは偽物です。恐らくデュフォーは、そのメールを作成した人物に抹殺されたんです」
「文が読めない? それは、......知らなかったよ。だが読めないといっても、文を打てないというわけではないんだろう? あるいは緊急用の措置として、デュフォーくんは何らかの伝達手段を用意していたのかもしれないじゃないか。しかし......それでもこのメールが偽物であると主張するのなら犯人はきっと伊坂くんだ。デュフォーくん相手ならすでに前科が」
「獅子戸チーフは、どうしてまばたきをなされないのですか」
はじめ、巧が何を言っているのか、獅子戸には分からなかった。
「............何を、言ってるんだい。巧くん」
巧は俯いていた。獅子戸の位置からでは表情が分からない。口元だけが苦しそうに動く。
「破滅衝動が成形するだけならば、デュフォー一体分の疎粒子量で十分なはずです。占い師の疎粒子は必要ありません。なのに、彼女は殺された。その理由を考えました」
再び上げられた巧の顔には、迷いの色がありありと表れていた。
「先に謝っておきます。申し訳ありません、これでもしも俺の考えが間違いであったら、俺はどんな処罰でも受けるつもりです。......ですから」
巧の足元から黒い砂塵が舞い上がる。獅子戸の反応は一瞬だけ遅れた。
「ですからその右肩、見せて頂けないでしょうか」
だが、その一瞬があれば、巧が距離を詰めるには十分過ぎた。彼は獅子戸の目の前に跳んでいた。獅子戸の右肩に巧の手がかけられる。獅子戸は咄嗟に振り払い、距離を取る。そのせいで獅子戸のジャケットの右袖が肩口から大きく裂けた。獅子戸は舌打ちをした。そこには、
「リクオリアで握力まで強化する念の入れよう、随分と乱暴な確認作業だね」
傷一つない、獅子戸の肩が。
「おかしいな、まばたきなら意識していたはずなのに。......そんなに回数足りなかった?」
巧は手に残った布の切れ端から、指の力をゆっくりと抜いた。それはすぐに風に飛ばされてどこかへ消えた。
占い師が殺された理由が彼女の疎粒子にあったと仮定できたのは、現場に疎粒子が僅かにも残されていなかったことからだった。だが破滅衝動は成形するための条件なら、デュフォーが抹殺された時点で、すでに満たされているはずである。
そこに何かの別の思惑があったとすれば。ヒントとなったのは、デュフォーの言葉だった。
――教会から見たら疎流刀も疎流体も、正直どちらも変わりないように見えるよ。
巧には、確かめる必要があった。そのときの彼の胸中で芽生えた着想は、彼の倫理と真相の解明とを天秤にかけるようなものだった。
「獅子戸チーフは、どうしてまばたきをなされないのですか」
だが、それでも巧が不意を突くような問いが放てたのは、偏に義務を覚えたからだった。
逢坂美南はもう、亡くしてる。
大切な人を。自身を人の世界に生かさせてくれた、ただ一人の理解者を。
それが何者かに奪われた現実。当人は知ることすらできない。ならば、誰がそれを断罪するというのか。巧を動かしたのは親近感の延長にあった――使命感であった。
「おかしいな、まばたきなら意識していたはずなのに。......そんなに回数足りなかった?」
そして獅子戸の右肩の、破滅衝動から受けたはずの傷跡が完全に消失しているのを目にしたとき、巧は自身で荒唐無稽と思いついた推論が、真実の片鱗であることを知った。
「チーフ、......あなたが、占い師を」
「あぁ、私が殺った。これのためにね」
そう言って、獅子戸は自身の右肩を抱いた。そこから零れるように緑の霧が噴く。
「破滅衝動から攻撃を受けた箇所、手当てを受けたときに気付いたが、もう手遅れなんだよ。一瞬で骨まで腐らされていた。疎粒子で構成された体のせいで、私は想像以上に深刻な侵食を被ったんだ。破滅衝動の、あのたった一撃に」
「疎粒子で、............構成された?」
「存在理由が『破滅』というだけはある。どうやら、破滅衝動は触れただけでもアウトのようだね。あぁ、何て恐ろしい疎流体なんだ。巧くんも気をつけて」
「ま、待ってください。その体は......チーフは、疎流体なのですか?」
「ふふ、私は私だよ、巧くん。この体は、強いていうなら疎流刀と融合した姿といったところかな。この真実は、君だけには見せるつもりはなかったんだが、......こうして目にしたら私が占い師を殺してまで疎粒子を必要とした理由も、もう納得できたろう? これは生命の問題だ」
「......融合、............そんな、そんなことが可能なのですか。一体いつから」
「初めての融合は二年前だったかな。そこからは徐々に様子見にしてきたつもりだったけど、今回の破滅衝動の一件で大幅に進行させる形になってしまった。けれど、まぁ、この体も悪いことばかりではないんだよ。この緊縛の体のおかげで、私はあんまり老いないんだ。加えて、抜刀速度が融合以前と比べて二十倍になった」
獅子戸の右腕にはいつの間にか刀が握られていた。巧が気付いた時にはすでに、その刀身が大地へと突き立てられていた。瞬間、巧は体が杭で大地に打ち込まれたような錯覚を覚える。体の隅々が、まるで微動だにしなかった。
「デュフォーくんは識字障碍だったのか。それは知らなかったな。メールが偽装されたものであることは明朝にでも判明されるはずだったから、伊坂くんに疑惑の矛先を向けさせるつもりだったのに、......これは裏目に出たな。これでは伊坂くんが容疑者から外されてしまう」
獅子戸は刀を突き立てたまま置き去りにして、巧へ歩み寄った。
「午前中のブリーフィングの最中だったかな、デュフォーくんから疎流体でも憑いてるんじゃないの、と言われたときには正直どうしようかと思ったよ。君たちをあの場で始末するべきか真剣に考えたけれど、今思えば、あのときそうしていれば良かったのかな」
獅子戸が巧の前へとたどり着く。巧は依然として、身動きを取ることができなかった。
「私の疎流刀――緊縛刀の能力は文字通り『束縛』だ。シンプルだけど使い勝手がいい。こうやって対象の動きを止めることができるし、感覚器官の伝達を束縛することであらゆる知覚を遮断させて、まるで刻が止まったように感じさせることもできるんだ。効果範囲も広いから、暗殺に向いていてね。デュフォーくんや、あの占い師を破壊するのはひどく容易かったよ」
獅子戸の指が、そっと巧の顎に伸ばされる。
「何故、鑑定眼という目を持ちながら、私という存在を看破できなかったのか不思議に思っているんだろ。答えは簡単さ。君が万能ではなかったというだけだよ。扱う君が人なのだから、目がいくら真実を映したところで、君の解釈がそれに追いつかなければそれまでだ。認めたくないと君がそう思うだけで、真相は君の納得のいく形に曲解される。私が純度の高い疎粒子を纏っても、抜刀執行者なら不思議じゃないと君が思えば、それだけでね。簡単なものさ」
巧はブリーフィングルームで、獅子戸を眼で視つめたときのことを思い出した。そのとき、獅子戸が疎粒子を従えていることに、巧は何の疑いも持っていなかった。唇を噛む。
「それより、私の方が疑問はあるんだけどね。本当に、私のまばたきが不自然だったのかな? 細心の注意は払っていたつもりだった。......少しは何か言ったらどうだい? 身体は動けなくさせたつもりだが、感覚器官の機能までは束縛していないはずだ。会話はまだ可能だろ」
巧は口を開く。ひどく呼吸が辛かった。言葉を吐こうとする度に、絶息しそうになった。
「......思っても......いません。一度も............意識したことも......ありません」
「では私はカマをかけられたというわけか? ......あははっ、なるほどこれはしてやられた。君にそんな柔軟な発想が芽生えるとは思ってもみなかった。いやぁ、参ったね」
獅子戸は一度、校舎の方向を振り返る。立ち昇る紫の霧に満足そうな顔を見せて、再び巧へ視線を向けた。その表情は巧のよく知るはずの、普段と変わりない獅子戸のものだった。
「こんな話を聞いたことがないかい、巧くん? 熟練の執行者は疎流刀の聲が聞こえると」
唐突な話の矛先に巧は面食らい、次に耳を疑った。そんな話は聞いたことがなかった。
「耳にした当初は私も眉唾ものだと思っていた。でも、私は確かに聞いたんだ。緊縛刀の聲をね。信じられるかい? 疎流刀が話しかけてくるなんてまるで漫画の世界のようだよね。聲は私に疎粒子が欲しいと言っていたよ。デュフォーくんは、疎流体と疎流刀が変わりないように見えるといったが、あれは案外的確な意見だと今さらに思うよ」
疎流刀――疎粒子が刀の形状に集まったに過ぎないはずの代物が、話しかけてくる。巧は、その話が到底信じられなかった。しかし獅子戸が嘘をいっているようにも思えなかった。
「......だったら何故、拒絶しなかったのですか。疎流刀とは思えなくなったのなら尚更」
「ははっ、逆らえるわけがないだろ。どんな抜刀執行者といえどもきっと無理さ。疎流刀とは私たち執行者の想いそのものなんだから。私の望みが緊縛刀そのものだ。緊縛刀は私の欠落を埋めてくれる。緊縛刀が疎粒子を望み、その力を増大させるというならば、私は従うだけだ。それを歓喜こそすれ、拒絶だなんてとんでもない」
巧には分からなかった。想いそのものだという緊縛刀をいくら視たところで、獅子戸の心が汲み取れた気がしない。
「そんなことが、......許されるのですか」
「許される? はて、巧くん。ならば聞くけど、この在り方を悪と断罪する根拠とは何だい? 疎流体と人とを区別する明確な境界とは何だ? 私には、それが分からない。感情は心だろ。なら、緊縛刀は私の一部といってもいいはずだ。疎流刀と融合した私が獅子戸了であることは誰にも否定できやしない。いや、させやしない。違うかい?」
――疎流体を敵として裁く俺たちは、人の心を裁くということになるんじゃないのか。
他ならぬ自分の言葉だった。オッカムの剃刀で切り落としたはずの、前に進むために保留にしたままの納得が、帳尻合わせに巧へ問いを放つ。在り方を否定する資格があるのか、と。
「なぁ巧くん。君なら、私の考えを理解してくれると思っているんだ。今、君の心臓の動きを束縛しないでいるのも、そのためだ。君には私と生きてほしい。私の理解者になってくれよ。私と、どこまでも一緒について来てくれないかい?」
獅子戸は、真っ直ぐに巧の目を見つめていた。このとき、巧の胸に去来した様々な感情は、彼自身でも言葉にすることのできぬものだった。
「チーフが......占い師を殺した理由も、......疎流刀と融合したという理由も理解できたつもりです。ですが、......破滅衝動を成形させている理由だけが分かりません」
うわ言のような口調になってしまっていた。体中の筋肉が弛緩してしまっている。
「逢坂美南が、今も苦しみ続けなくちゃいけない理由は何ですか。それを、教えてください」
まるで搾り出すように、巧はそれだけを言い終える。獅子戸はそれに淡々と答えた。
「決まっているだろ。逢坂くんが絶好の宿主体質だからだ。宿主殺しの疎流体を難なく成形させる許容量、常軌を逸する適応能力、そして完全な忘却。これほど条件の良い生簀はないよ」
「......生簀」
巧の目が大きく見開かれる。獅子戸が何をいったのか、よく聞き取れた気がしなかった。
「異ベクトルの感情は疎粒子の属性を変えてしまう。いくら融合したといっても、私の人間としての領域が疎粒子を弱体化させてしまう事態だけは、避けられていないんだ。しかも融合の進行が進んだせいで、疎粒子を補給する期間が短くなってしまっている。故にマメに疎粒子を備蓄しておく必要ができたんだ。逢坂くんの中で熟成させながらね。ワインみたいなもんだ」
そして聞き間違いではないことを知った。
「何を仰っているのですか、......チーフ」
「時間がないんだ、巧くん。朝になれば教会が介入してくる。ひとまずその前に、破滅衝動に与えたデュフォーくんの疎粒子だけでも回収しておきたい。勿論、逢坂さんは教会には渡さないさ。大事な生簀なんだ。壊させはしない。必ず守るよ、約束しよう。教会の目を潜り抜けるのは骨が折れそうだが、私たち二人が力を合わせれば」
肺から空気が一方的に抜けていくのを承知で、巧は叫んだ。
「守るって何ですか、......守るって何なんですか獅子戸さん! 逢坂美南から占い師の存在を奪っておいて今さら、何を守るっていうんですか!」
獅子戸は、ひどく不思議なものを見るような顔付きになった。
「君は妙なことを聞くね。たとえ占い師が消えても、その悲劇にさえ逢坂くんは適応するんだろ? だったらそれは、占い師などあってもなくても一緒だという意味じゃないのかな?」
「そんな......だからって......生命が奪われていいわけがないでしょ? こんなのは、悲しすぎます。逢坂美南がまだ人として生きていくためには、......あの人は、絶対に失ってはならない人だった」
「人ではない。あれは人形――ただの端末なんだよ、巧くん。人格のようなものを感じても、全ては錯覚だ。君の怒りは一体誰のためのものなんだい? 君は物を深く考えすぎるところがある。少しは無知のままでいる自分を許せるようになるといい。じゃないと潰れてしまうぞ」
「何も知らないままでいろというのですか」
「無知は罪だし、悪だと思うが、それでも当人だけは救うものだ。難しいことは考えるなよ。この世は考えたって手に負えない問題ばかりなんだから。誰も私たちを救っちゃくれないならもう思考停止して、感情に溺れてしまえよ。君にとっても、逢坂くんにとっても、それが一番楽に納得できるし、自分自身をも許せるたった一つの冴えたやり方なんじゃないのかな?」
「感情論は人を救わない。追い詰めるだけです。......だからそれは闘争の理由にはならない。行動する理由にも。だったら俺はそんなものには従わない。感情が納得のための装置だというなら、俺はそんなものには頼らない。そんなものが救済だなんて俺は信じたくない」
獅子戸の腕が、容赦なく巧の首を掴む。五指には力が込められていた。
「君は真の挫折を知らない。だからそんなことが簡単に吐ける。君の知る絶望はまだ薄味だ。しかし、ここまで頑なということは交渉決裂というわけかな? ......ひどく残念だ」
骨を軋ませるほどの力で、巧の喉が締め上げられた。
巧は霞む視界で見た。獅子戸の顔に躊躇いの色はまるでなかった。
「あなたに、............正義はない」
「君にもな。そして今さらだ。正義は誰のものでもない。ないからこそ、こうして君は迷っている。私を断罪し、逢坂くんの世界を崩壊させることに抵抗が生まれているのだろう?」
――知ってる? 納得って、とっても高価なんだよ。
――戦う理由を待つことは、守りたいものを天秤にかける行為。
「......その通り、です。あなたの、言う通りだ。今、......ようやく分かった」
巧の腕が、獅子戸の手首を掴む。獅子戸に驚愕の表情が浮かんだ。
「逃げているつもりはなかった。だが、俺は待っていた。正当性を、行動に伴った納得が宿るのをただ待っているだけだった。くだらない。俺は正義の保証が欲しかっただけなんだ」
「どこにこんな力が、......ぐっ、正義の保証だと? ははっ、ならば、それがないと分かった今、君は何を理由に私を止めるつもりなんだい?」
「信じたもののため、だ」
巧の首が、獅子戸の手からついに放される。獅子戸の腕はゆっくりと捩じり上げられる。
「納得を待っている暇はない。感情に溺れるのは論外だ。だから信じるんだ。信じるしかないんだ。自分が選んだ選択が正しいってことを信じるしか、ないんだ!」
「信じるしかない、か。なんて弱い言葉なんだろうな。吹けば飛ぶほどに儚い、なぁ!」
獅子戸の蹴りが巧の腹部に炸裂する。巧の身体が、くの字になって吹き飛んだ。
「納得を待つのではなく、この手に正しさがあると信じる。それを独善というんだよ、巧くん。独り善がり、と書いて独善だ。危うい、攻撃的な正義だよ」
土煙の中、巧が立ち上がる。満身創痍といってもいい体で、まだ立ち上がる。
「構わない。攻撃的でも、危うくても、守るべきものを守れない正義に意味なんてない」
そのときの巧の瞳は、獅子戸がかつて見たことのないほどに、濁っていた。
「疑って失うくらいなら、信じて殺してやる」
同時、巧の足元から黒い烈風が吹き荒れる。周囲を覆っていた緑の霧が、瞬く間に夜空へと散らされた。
「......私の束縛が解けた? ......そうか、私の束縛をさらに上回るリクオリアを放つことで、私から疎粒子の支配権を奪ったのか。......こんな名状もままならない不完全なリクオリアで」
獅子戸は掌で目元を遮る。守った視界から見えたのは、規格外の黒のリクオリアだった。
「驚いた。いくら私に人間の領域が残っているとはいえ、私のリクオリアは、すでに疎流体のそれと同格のはずだ。そのリクオリアを拮抗どころか凌駕するなんて。しかも、刀を介さずにここまでの規模で。............相変わらずの力業だね。嫉妬しちゃうな、巧くん」
獅子戸は次々と『視認可能域』に達していく黒の疎粒子を見やりながら、うすら寒いものを覚えていた。獅子戸は黒の疎粒子をつぶさに観察する。
「なるほど。リクオリアの量・速度ともに負け越しているが、純度だけはまだ私に一日の長があるようだな」
そして確信――突破口を得た。獅子戸は緊縛刀の下へと向かう。
「ならばよし。君がどれほど強大なリクオリアを放とうとも私の一太刀は君に届く。せっかくで悪いがその才能、芽吹く前に朽ちてくれ」
獅子戸は地に突き立てたままの緊縛刀を引き抜いた。それで、緊縛刀の支配下にあった全て拘束が解除される。巧がよろめくのは同時だった。その体勢が立て直される前に獅子戸は巧へ一息に距離を詰める。
迷いのある軌跡ではなかった。流れるように煌く刃が巧の脳天に振り下ろされる。
しかし緊縛刀は両断の直前で、飛来した何かに甲高い音とともに弾かれた。
はじめ、獅子戸には飛来したそれが何なのか、まるで見当が付かなかった。距離を取ろうとする足に、困惑が伝わりそうだった。
「............これは」
刃の軌跡を遮るように地に降り立ったのは真っ白な杭――らしきものだった。地から僅かに浮遊している。続けて、さらに四本の同じく杭らしきものが飛来して、同じく地面ギリギリの位置に浮遊し始めた。それらは、巧を取り囲むように正五角形の陣を敷いた。
五本の杭は大小、長さも太さも様々だった。滑らかな表面が月明かりを惜しみなく反射している。杭にはそれぞれ溝が彫られており、独特の装飾が施されていた。そうして、
「足場つくって宙駆けるのもいいんだけど、こっちの方が断然速いし楽なのよね」
その中で最も太く、巨大なものに彼女が腰掛けていたのを獅子戸が見逃すはずもなかった。
「......伊坂くん」
純白の装束は月明かりを反射させ、銀色に光る。朱色の刺繍とのコントラストはこの闇夜によく映えた。獅子戸を見下ろすように、彼女――伊坂夜宵は五本の杭とともに現れていた。
「こんばんは、獅子戸さん。で、その趣味の悪い体、何?」
夜宵の視線は鋭かった。獅子戸は距離を保った。獅子戸には、夜宵の座している杭の存在が不可解で仕方がなかった。あんな杭など、かつて見たことがなかったからだ。
「それは何かな、伊坂くん? どうも初めて見る......教会の武器のようだが」
「......あぁ、これ? もちろん教会の新兵器よ。まだ試作段階な上に未完成らしいんだけど、まぁ、性能が知りたいならそこで見ているといいんじゃない? すぐに浄化が始まるから」
「......浄化?」
獅子戸がその意味を知るのは、周囲から黒い疎粒子が消失したことに気付いてからだった。
「......これは、疎粒子が色を失っている?」
そこから獅子戸が目にしたのは、杭が囲む領域――巧の居るその場所から、全ての疎粒子が色を喪失していく光景だった。巧を起点に巻き起こっていたはずの烈風も治まっていく。
「これが浄化......、全てのリクオリアを無効化する教会の切り札――『聖銀六柱』。言うなりゃ疎粒体を消す消しゴムってとこよ。今のあなたなら、触れれば終わりってね」
そういって夜宵は杭から降りた。獅子戸は刀を構える。彼女の視線からは敵意がありありと表れていたからだ。すでに彼女との間に問答の余地がないことは火を見るより明らかだった。
巧が朦朧となる意識を繋ぎ止めるように、白く光る杭の一本に寄り掛かる。
「夜宵............」
「あら、目、覚めた? アンタは逢坂さんのとこ行きなさい。ここは私が引き受けてあげる」
「......待て、ダメだ。この人は俺が」
「アンタに殺せんの?」
夜宵の言葉に、巧は何も言い返すことができなかった。
「そういうこと。あたしが代わりにやっといてあげるから、アンタには逢坂さんを任せたわ。ひどく不本意だけど。......アンタ、あの子の記憶何たら、何とかできるんでしょ、違う?」
それ以上は何もいう必要もない、とでもいうように夜宵は獅子戸に向けて歩き出していた。
「夜宵、俺は」
「何よ、まだ何かあるの? 急いで。教会は多分、朝を待たずに来るよ」
「......俺には逢坂美南の記憶障害を治す資格がないかもしれない。だから、それはやっぱり」
巧が俯いた瞬間だった。夜宵が足音を発てて、巧の正面へと戻る。
巧が顔を上げると同時に、彼の鼻柱に彼女の拳がめり込む。盛大に骨が鳴る音がした。
「んな、腑抜けたこと言ってんな!」
巧の体は後方へ転がっていった。いきなりのことで、まともな受身も取れなかった。鼻血が滴る。巧はまだ拳を固く握り続ける夜宵を、目を白黒させながら見上げた。
「何が資格よ。そんなもん、何にしたって誰にしたってないわよ。資格がなくちゃ行動しちゃダメなの? 馬鹿、違うでしょ。じっとしてられないから行動するんでしょうが! あんたが動けない理由は、処理できないほどの大きな問題にぶつかってるんじゃなくて、ただの覚悟が足りないだけよ。力があるなら使え。遅かれ早かれあの子の未来は壊れる。だったらあんたが壊しなさい。壊して責任取んなさい。人の未来を奪うのが恐ろしいというのなら、一生かけてあんたがあの子の未来をぶっ壊した責任を背負えばいいじゃないの。男ならできるでしょ? まだ腑抜けたことをいうつもりなら、もう一発殴るからね」
一度だけ目を閉じて、巧は立ち上がった。夜宵は、巧の澄み切った瞳の中に力が満ちていくのを確かに見た。
「..................夜宵」
夜宵は何も言わずに、再び巧に背を向けた。巧は、一つだけ夜宵に聞いておかなければならないことを思い出した。歩き去っていく夜宵に、巧はもう一度だけ声をかける。
「お前の解決法って何だったんだ。破滅衝動に敢えて成形を促させた真意は何だったんだ?」
「逢坂さんの適応能力に賭けてたのよ。あの子自身が破滅衝動を凌駕できればいくら破滅しても無駄だってことを破滅衝動に思い知らせてやれるでしょ? だから破滅衝動を成形させた。逢坂美南の潜在意識に、破滅衝動は駆逐しなくてはならない存在だと判断してもらうために。その過程で破滅衝動には一度、危険になる領域にまで成形してもらう必要があっただけよ」
「メチャクチャだ。逢坂美南の適応能力を逆手に取ったつもりだったのか。それで逢坂美南が破滅衝動に完全に呑み込まれたらどうするつもりだったんだ。それに、お前だって線路に突き落とされたような危険な目に遭って」
「あぁ、あれ? 違う違う。あの子、今にも線路に落ちそうだったから、私が代わりに落ちてあげただけよ。ほら、先に誰かが落ちたら後に続いて落ちようとは思わないでしょ?」
「......なっ。そんな止め方が」
「それに私は逢坂さんのほうが勝ってくれる、って信じてるわよ、こうした今も。人が感情に溺れる動物でないことは証明されなくちゃ」
夜宵が再び背中を見せたところで、巧はそれ以上の追及に意味がないと悟った。
校舎へと目を向ける。『視認可能域』に達した紫の霧の濃度が増しているのが見えた。そこへ走り出そうと巧は自らの脚力を底上げする。
「巧くん」
そうして走り出そうとした巧の背に声はかけられた。巧は背を向けたまま、声――獅子戸に振り向くことはしなかった。一方の獅子戸は自分でも、巧を呼び止めてしまった理由が何なのか分からなくなっていた。そのせいで、ただ思いのままに胸に湧いた言葉を吐いてしまう。
「格好良い目と言ったが、あれは嘘だ。君の目は嫌いだよ。ひどく恐ろしい」
小さな背中が震えて見えた気がした。少しの間の後、ゆっくりと巧は振り返った。
「お世話になりました」
巧は一度だけ頭を垂れ、顔を上げるとただ真っ直ぐに校舎へと走り出した。そのときの巧の表情を獅子戸はすぐに忘れられそうになかった。彼の姿はもう見えなくなった。
「ねぇ、知ってた? 未成年者の喫煙を取り締まる法律って、憲法よりも早くに出来たんだよ。だからきっと未成年の喫煙者が居なくならない限り、犯罪者も居なくならないと思うの」
獅子戸が夜宵と初めて会ったときに、彼女はそんなことを口にしていた。
メチャクチャだと思った。理論性はないし、印象で物を語るにしても些か飛躍し過ぎている。というか当たり前だ。だが何故だか、彼女の言葉が妙に清々しかったことは、こうした今でもはっきり覚えている。
そういえば煙草を止めたのも、その頃からだったかもと獅子戸はふと思った。
「いいのかい? 逢坂くんは君の手で助けたかったんじゃなかったのかい」
「お気遣いなく。巧じゃ、あなたを殺した罪ですぐに潰れるから、これでいいのよ。あいつ、ああ見えて打たれ弱いし」
夜宵は、獅子戸の正面に佇む。獅子戸は、去っていったときの巧の顔を思い出していた。
「巧くんも、あんな目ができるようになっていたんだね。少し驚いた。しかし逢坂くんの下へ向かったということは、まだ全てを諦めてはいないのかな? はて、彼を動かすものは砕いてしまったと思っていたんだが。......一体、彼は今、何のために闘争しているんだろうか」
「理由なんかないわよ。あるとしたら結果のため。そこに、余計な建前なんて要らないわ」
「建前か、なるほど。伊坂くんにはそう聞こえるのか。さっき巧くんに、動けないのは覚悟が足りないからだと君は言っていたが、それは挫折を知らないからこそ吐けた言葉に他ならないよ。でも、そうじゃないんだ。君たちも、いずれ分かる。大人になれば自然と、できることとできないことの境界――限界が見えてくるようになるんだ。限界とはただそれだけで、いとも容易く人を崩壊させる。覚悟なんて言葉も気安く口にできなくなるさ。そこに陥らないための予防線なのに、建前なんていって嫌ってちゃだめだよ」
「はぁ? 何よ、子ども嘗めてんの? 上手くいかないのが大人の専売特許みたいな言い方はやめてくれないかしら?」
「伊坂くん」
「うるさいわね。何といわれようと人間やめてない分、まだマシでしょ」
「人間やめてない分、ね。ふふっ、面白いことをいうね。君も人間と疎流体を隔てる口かい? 君たちは限界に果敢に挑むというわりに、思考が縛られているともいえる。私の想いの原点は緊縛刀にあるんだよ? 全てを停め、全てを閉ざす。私は限界を知りたくないんだ、絶望してしまうから。緊縛刀はそんな私を救ってくれる。このリクオリアの結晶は、私の願いそのものだ。これを否定するということは、獅子戸了を否定するということになるんだよ」
「否定? あなた、何か根本的に勘違いしているわね。私は別に、獅子戸了が疎流体になっていようとも気にするつもりはそれほどなかったのよ」
「......それは、どういう意味だ?」
夜宵の言葉に、獅子戸は眉を寄せた。夜宵の言葉は、獅子戸には予想外だった。
「自らの選択で疎流体と歩む道を選んだというだけだったなら、私はあなたと対立するつもりはなかった。教会とか立場とか、そういうのどうでもいいから。だから私がここに立つ理由はそれとは別」
夜宵は装束のフードを深く被った。僅かに垣間見える目元から鋭い眼光が放たれる。教会の人間がフードを被る――それが、教会の人間が疎流体を葬ることを決めたときに見せる所作であることを獅子戸は知っていた。
「今の私が単にこんなにキレてんのは、あなたが私の友達に手をかけたからってだけよ。逢坂さんに、こうした今も手出してること悪びれもしなかったわね」
「あぁ、なるほど。そういうことか。だがこれは必要な犠牲だったとも思わないかな。それも最小で、最善の」
「思わない」
「不幸になるのは、不幸を感じられぬ者だけなのに? 教会に渡すよりはマシだと思ったが」
「どっちも一緒よ。教会も、あなたも! それで救われるのは結局、救済者気取りの当人だけじゃない。だから大人って嫌い。適当なとこで妥協して、余った時間は正当化の時間。それは怠慢よ。そんな暇があるなら、あいつを見習って少しは駆けずり回んなさい」
夜宵の取りつく島もない剣幕に、獅子戸は思わず噴き出してしまった。
「強いね、伊坂くん。それは、強い人間の言葉だよ。そして、そんな強い言葉が吐ける時期というのは決まっている。限界を知って、心折れるその日までの執行猶予の間だけの」
「何言ってんのよ。これも全部、あなたが今まで私たちに教えてくれたことじゃない」
「............」
力が衰えるのは恐ろしかった。それは事実だ。故に、このリクオリアはそこに特化した。
この疎粒子ならば最盛期を再現できる。一歩も後退することのない最強の己を継続できる。
「疎流体から人を守りたくて強くなりたいのに、強くなるために人を傷付けてどうすんのよ」
きっと自分は誰よりも嫉妬深かった人間だったのだろう、と獅子戸は思う。
しかし、目の前の彼女は言う。
強い人間しか吐けないはずの言葉を恥ずかしげもなく口にした獅子戸了という人間――その存在を彼女は知っている、と。いや、すでに走り去って行ってしまった彼さえも、あるいは。
獅子戸は分からなくなっていた。何を思って、自分はそんな言葉を吐いていたのだろう。
突き動かされる想いがあったのか? だがそれが何かも分からない。今となっては思い出せない。そもそもこの胸に、そんな感情が宿っていたのかさえ、思い出すことが叶わない。
簡単なことだった。一度でも喪失した情熱は還らない。それに形が伴わなければ尚更だ。
「............」
獅子戸は、自らの手にある翡翠に輝く刀に目を落とす。そして悟った。
なんということはない。ただ選んだのは、緊縛刀のほうだったというだけ。
これも簡単なことだった。一度でも形にした情熱は後の自分を縛りあげる。自分は今、自らの信じるものに従っているに過ぎないのだ。
「悪いけど、私の知っている獅子戸了は、もっと強い人だったわよ」
「君の知る獅子戸了は死んだ、そういうことにしておいてくれないか」
少なくとも、この手にあるものは真実――偽物ではないのだ。否定することはできない。
「伊坂くん、私はもう戻れないんだ。一度形にしてしまった心に、もう嘘は付けない」
獅子戸はそれで会話を打ち切った。これ以上の対話は、振り下ろす刀を鈍らせる気がした。
対して夜宵は本当に、それこそ本当に哀しそうな顔を一度だけ見せて、
「そう......分かった。なら私も、あなたを殺す覚悟を本気で決める」
神懸かり的速度で思考を切り換えた。
初撃は、細い杭だった。女性の手首程度の太さで、側面に『No.3』と赤の油性ペンで乱雑に書かれた、宙に浮く五本の中で最も細い杭が真っ直ぐに獅子戸の眉間へと迫っていく。
獅子戸は首を傾けただけでそれを避けた。見切れる速度であったからだ。もっとも、夜宵がポテンシャルを完全に解放していない可能性を考慮すれば、後々の回避行動をこの程度で済ませることができるかどうかは怪しい。何より、
「触れるとマズいんだろ?」
獅子戸はその場から大きく前進した。飛来してきた杭と距離を取る。細い杭は大地に衝突して跳ねると、しなりながら再び宙に浮遊した。
「えぇ、まぁね。よく分かってるじゃない」
夜宵の額に、玉のような汗が滲むのが見えた。確かに杭の五本同時回避は難しいだろう、と獅子戸には思えた。だが、彼女が杭を持て余しているように見えるのは明らかだった。
二本目の杭が動き出す。初めの杭より、少しだけ早い気がした。これもかわす。まだ捕まるような速度ではない。飛来した杭は地面とは衝突せずに、滑走するような動きで再び宙に舞い上がった。そうして気付けば獅子戸の頭上には計四本の杭が浮遊していた。獅子戸にはそれがまるで夜を回遊する魚の群れのように見えた。先ほどの杭が五匹目の魚として群れに加わる。
「一本一本は避けれても、五本同時は厳しいんじゃない?」
「あぁ、難しいと思う。だが君にはまだ無理だとも思う。試作品で未完成というのは、本当のようだね。こいつらを扱いこなせているようには、とてもじゃないが見えないよ。まだ投げて使われたほうが厄介そうだ」
「うるさいわね。今に身につけるわよ」
夜宵は腕まくりをして汗を拭った。それから目を閉じて、静かに深呼吸をし始める。彼女の胸が上下した。再び夜宵が目を開くと同時に、獅子戸の頭上で三本の杭が一斉に動き出した。
「要領がいいんだね」
三方向から飛来する杭を、獅子戸は夜宵から目を離すことなく回避する。
「私も君の上達ぶりを待っているわけにはいかない。かといって、どうも教会の新兵器は私とは相性が悪そうだし、となると......やれやれ、調律はそれほど得意ではないんだけどね」
獅子戸の右足が翡翠の輝きに包まれた。その爪先が垂直に地に立てられる。
「調律」
そのまま獅子戸が目にも止まらぬ速さで足を振り抜くと、莫大な砂埃が足の軌跡を追うように空へと舞い上がった。それらは一瞬で天まで昇り、
「改質」
突如として宙に静止した。獅子戸の手の緊縛刀から放たれた翡翠の輝きが、砂煙に伝播していく。光を浴びた砂煙は、まるで刻を止められたかのように空間に固定されていた。
「緊縛刀で砂礫を空間に固定した。さて、その杭はリクオリアを無効化するというが......」
獅子戸を目指していた複数の杭が、巻き上げられて宙に静止した砂煙に触れる。
瞬間、杭は移動速度を急激に落とし始めた。
「あぁ、思った通りだ。やはり、リクオリアを無効化するにも速度があるね。即効ではない、ならば話は簡単だ。私のリクオリアの伝播速度が、君の杭から無効化される速度を上回ればいい。それだけで、これはただの棒になる」
杭がジリジリと、獅子戸に接近する。道程で触れた砂煙は拘束を解除され、音もなく大気にサラサラと解放されていった。獅子戸はそれを興味深そうに観察すると、一度だけ笑った。
「まずは一本」
次の瞬間に、三つの斬撃の軌跡が杭に浮かぶ。瞬く間に杭は六つの破片に散らされていた。獅子戸は手にする緊縛刀を持ち直し、初めて斬った得体の知れない異物の手応えを反復する。
問題ない、と獅子戸はそう結論付けた。
杭に触れる全てのリクオリアは無効化される。
聞けば、これほど疎流体に対する強力な武器はない。完成してしまえば、疎流刀とは過去の技術となるだろう。しかしそれも完成してしまえば、の話だ。
現段階において、この杭の攻略は可能といえよう。今なら手負うことなく破壊はできる。
獅子戸は、杭を全て破壊し終えた後のことを考える。今から夜宵の口が封じられるとは思えなかった。彼女にとっての正義を打ち破るには、かなり骨が折れるだろう。暴力で従えられるかも分からない。そして、そこまでの時間の猶予もない。教会の援軍は朝を待たずに到着する懸念も出てきたのだから。
殺そう。破滅衝動に殺されたということにして。辻褄合わせも、そう難しくあるまい。
その決定に躊躇はなかった。次に、破滅衝動の下へ向かった巧の処理に思考を巡らせた。
彼の利用価値が死んだとは思えない。今の彼は揺れている。気丈にも耐えているようだが、落ち着く前にもう一度口説けばまだ説得の余地はある。獅子戸は知らず、ほくそ笑んでいた。
獅子戸が二本目の杭を両断しながら、三本目の杭に向かおうとした、そのときである。
獅子戸の胸を、白い刀が真後ろから貫いた。
「............何」
白い刀を握るのは、紛れもなく夜宵だった。が、これほどの接近を許した覚えが獅子戸にはまるでなかった。
「............ぐ、............これは」
獅子戸は、自分の心臓の位置から生える白銀の刃――疎流刀を掴むも、指に力が全く入らなかった。膝が折れる。膝が地に着くところでようやく獅子戸は、伊坂夜宵固有のリクオリアの属性と特性を思い出した。
「錯覚や洗脳、催眠でもないつもりよ。私のリクオリアは、そこまでの大仰なものじゃない。私の疎流刀の糧は『忘我』。ただ人を目の前のことに夢中にさせるだけの、能力。その程度の特性。夢中を忘れちゃった奴にはあんまり効かないんだけど」
伊坂夜宵の固有リクオリア――『忘我』、それは人に集中を促す特性を疎粒子に宿らせる。
知っていた。警戒もしていたつもりだった。獅子戸は苦い血を吐いた。
一見してみればそれは他愛もない性質のようにも思える。しかし、この特性は使いどころによっては、獅子戸の知る限りでもっとも凶悪な能力へと一変する。
「私はこのリクオリアで、対象が持つ優先順位を改竄できる。本当は視覚的黄金比を狂わせて人の嗜好を誘導してるだけなんだけど。......暗殺勝負ならあなたとだって張れる」
たとえばこの能力を駆使すれば、どれほどの群集の視線に晒されようとも目撃されることはほぼなくなる。
「......術中だったか。これは、私としたことが......」
獅子戸は己の迂闊さを呪う。敵対するなら、最も警戒を怠ってはならぬ相手であることは、いや、どれほど警戒しても警戒し足りぬ相手であることは、分かっていたはずなのに。
優先順位を改竄された。杭の対応へ集中するあまり、夜宵の接近を許してしまっていたのだ。
「............」
夜宵は疎流刀を引き抜くと、即座に獅子戸から離れた。そこに、三本の杭が殺到する。
触れた端から消える、その表現は適切だった。獅子戸は瞬く間に体を削り取られていった。夜宵はその様子を目を逸らさずに見ていた。その出で立ちに獅子戸は自己の終焉を予感する。
不意に言葉が漏れる。
「たとえ獅子戸了がここで朽ちようと、今の獅子戸了には一片の偽りもない。今の全てが私の全てだ。否定はさせない。一度でも形として生まれた以上、この緊縛刀は本物なんだ」
未練だと思った。これは口にする必要のない言葉だ。しかし、そう分かっていても獅子戸は一度胸に沸き起こった想いを堰き止めることができなかった。
「伊坂くん、君が疎流刀を持ち、尚且つ、腕を磨き続けるというのなら、いずれ聲が聞こえてくることだろう。それは世界でただ一人、自分にしか聞こえない疎流刀の聲だ。そのとき君は立ち止まることができるかな? 私には出来なかった。何たって、聞こえてきた聲は自分自身の本性だったから。形になるまで、強く願った想いそのものだったから」
今から死ぬ。
それは分かる。
置いていくための恨み言はない。そんなものに、意味などない。
それも分かっている。
ならば、この言葉はどこから、一体自分のどこからやって来ているのだろう。まだこの心をこの世に繋ぎとめようとする感情など、どれほど考えたところで見つからないというのに。
「決まってるじゃない」
この疑問、なぜか彼女ならばその所在を教えてくれる気がした。
「そんなもの従えるだけよ。だって、これだけで私が語れるなんて思ってないもの」
夜宵はそう言って、手に持っていた刀を雑に放り投げた。白の刀は地に落ちる前に消えた。
それを見て、獅子戸は何故だか急に可笑しくなってしまった。
今まで自分が必死に抱えていたものが、急にくだらないものに見えてきてしまったからだ。
「......そうか、そんな簡単な話にしてよかったのか。あぁ............やり直せるやつは強いね」
獅子戸は目を閉じた。彼女の主張はいつもメチャクチャで、それでいていつも清々しい。
「君たちを見て、少しだけ後悔したよ。ならば私は負けたのだろう。きっと、ずっと前から」
後悔する。それは変わりたいと思えてしまえたことに他ならない。それは彼女の想い描いた在り方に反するものだ。だが、獅子戸は不思議と晴れやかだった。
これから消える。今見ているのが最後の風景だ。幸い、看取ってくれる人は居てくれた。
どんな言葉を残すべきなのだろうか、と獅子戸は思った。
警告? 同情? 激励? そのどれもが相応しくない気がした。これから待ち受ける挫折と妥協に満ちた世界で抗い続けるという彼らに、敗北者がいえる想いはきっとそれじゃない。
そうだ、祈りだ。不器用でも生きるという彼らの明日を、ただ祈ろう。
「いい青春を」
獅子戸の姿は、もうどこにも見えない。しかし夜宵はそれを見届けた。




