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抜刀  作者: 喫茶去
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Agreement

 獅子戸が目的のビルの屋上までたどり着いたときには、すでに夕闇が生まれつつあった。

 障害物がないに等しい空間。四方を金網に囲まれ、コンクリートは踏むものに足場の不動さを教えてくれる。獅子戸がその場所を選んだのは、でき得るだけ人目を避けての判断だった。これから想定されることは、それほど予断を許していない。万が一の場合に危害の及ぶ範囲を最小限に留めたかった。

 獅子戸の腕には逢坂美南がぐったりと抱えられている。彼女は気を失っていた。

 宿主となる人間が気を失っている。それが一体どういった事態であるのか、獅子戸は十分に理解しているつもりだった。細心の手付きで、美南を地面に降ろす。

 獅子戸の背後で靴底が激しく擦れる音がした。振り向くと、巧が到着していた。

「間に合ったね、無事だったかい? 巧くん」

 巧は頷く。彼の全身から、黒の疎粒子が散っていく。闇夜になれば、完全に紛れる色だ。

「問題ありません。逢坂美南は」

「ここで気を失っているよ」

「......気を」

 巧は愕然とした。

「本来宿主とされた人間は、憑依する疎流体のせいで常時にわたり外的刺激を拒絶することができなくなる。宿主は疎流体から常に何らかの情動反応――リクオリアを強制させられているからだ。......そんな宿主が気を失う。それは、宿主のリクオリアがもう必要のなくなる段階にまで、疎流体の成形が進行し切っている証明に他ならない」

 疎流体にとって、宿主のクオリアの活動が止まることは、疎粒子の供給を途絶えさせることに直結する。それを避けるために疎流体は宿主の脳を刺激している。結果として宿主となった人間は、脳の覚醒時間が常人に比べて長い。宿主が瞬きを無意識に行えなくなるのも、それが派生したものである。

「恐らく、成形の最終段階になってようやく彼女の意識が限界に訪れたみたいだね。今では、これまでの負担が祟ったように眠っているよ」

 獅子戸の言葉に、巧は唇を噛んだ。これまでの負担というのが、どれほどのものとなるのか到底測り知れたものではない。

「しかし、分からないことが多すぎる。デュフォーくんたちの話では、昨夜でこの疎流体は、疎粒子の蓄えを全て失っていたはずだろ? だけど今はそれが嘘のように、成形を満たすのに十分な疎粒子量を有している。一体これはどういうことだい」

 巧は先ほどの線路での少女――伊坂夜宵との会話を、獅子戸に伝えるべきか考えあぐねる。

 彼女の行為は、断じて見逃せるものではない。だが、(いたずら)に状況が混乱するのをよしとするような輩でないことを巧は誰より知っていた。今のまま伝えてしまえば、夜宵の身に何らかの誤解が先立ってしまうようで、巧にはそれがひどく恐ろしかった。

 巧のそんな様子に気付くことなく、獅子戸は続ける。

「伊坂くんが居れば良かったんだけど、待っている時間はなさそうだ。疎流体を引き摺り出すなら今しかない。幸いというか、逢坂さんは気を失っているみたいだから、巧くんが危惧していたような事態には陥っていないといえるね。協会総本部と連絡を取るよ。抜刀許可を」

 獅子戸が美南から離れて、携帯電話を操作しようとしたときである。背後から右肩をポンと叩かれた。

「ん? どうしたんだい、巧く」

 獅子戸が振り返ろうとしたとき、巧は彼女の正面に現れていた。

「獅子戸チーフ、やはり、あの、お伝えしておかなければならないことが」

 獅子戸は即座に巧を突き飛ばした。同時に美南の左肘から延び出ていた紫の手が、獅子戸の肩を掴んだまま、尋常ではない速度で彼女をビル隅の金網まで引き摺っていった。

「チーフ!」

 獅子戸の体が叩きつけられ、金網が衝撃に軋む。苦悶の声が上がる前に、彼女を掴む紫の手が軟体類のごとく滑らかに歪んで、次の瞬間には針――あるいは槍のような形状へ変形した。

 先端が異常なほどの鋭角である。間を置かず、激しい勢いでそれは獅子戸の右肩を貫いた。

 鮮血が金網を濡らす。獅子戸の肩を通過した槍は、その端々からおぞましい形の(かぎ)を次々と生み出していった。巧がすぐに駆け寄ろうとするのを、獅子戸は苦悶の表情で制する。

「私はいい! 彼女を守れ!」

 巧は僅かに躊躇し、美南の元へ身を向けた。そして気が付いた。

 獅子戸へと延びる紫の槍が、まるで綱のようにピンと張られる。獅子戸を貫く槍は、美南のちょうど左肘から生まれている。巧は、そこから何かが引っ張り出されているように思えた。張力に耐え切れず金網が鉤に紙のように破られる。そうしてその全ての凶器は、獅子戸の背に襲来する。獅子戸は引き攣った表情となった。ひどい汗をかいていた。

「......参ったなぁ、これは。私が釣り上げなくちゃいけないのかい?」

 その動きは、沖から網でも引き揚げるかのようだった。獅子戸が踏ん張るほど、彼女の背には鉤が抉りこんでいく。そうして、――そいつは美南の体から現れた。

 美南の体を水面のようにして、一つの像が浮かび上がってくる。人から尖った箇所をすべて取り除いた後のような像。全身に紫の光沢を帯びて、まるでそれは、紙粘土で杜撰に作られた人形のようだった。ちょうど人型の左腕に当たる部位が獅子戸へと伸びている。

 現れたものが何であるのか、巧にはすぐに理解できた。

「......疎流体」

 その全てを一つの方向性を持った疎粒子で構築された、意思ある密度――疎流体。

 本能は、身を構成する感情の発露――感情の体現ただ一つ。破滅の化身。

 一つの想いが凝縮して生まれたともいえるその存在は、あらゆる人智を超えていく。

破滅衝動(レミング)

 緩慢な動きで、のっぺら坊の頭が周囲を見回すように動いた。視線がない。どこを見ているのか――そもそも見えているのかさえ、分からない。巧は、破滅衝動の右腕が上がると同時に反射的に真横に転がった。直後、それまで巧の居た空間を破滅衝動の右腕が貫く。

「っ!」

 火花を発して金網に小さな穴が空く。巧を襲った腕は、今やドリルのように高速回転していた。すぐに腕は鞭のようにしなって、破滅衝動の右腕は元の長さへと戻っていく。破滅衝動は戻ったばかりのその腕を、じぃっ、と見入っているようだった。

「......性能を確認しているのか」

 伸縮の速度は、別に今ので最高速というわけではなさそうだった。美南へと視線を向ける。彼女は破滅衝動の足元で起き上がる様子がない。

 あそこから引き離さなくては、

 巧が立ち上がると、拍子を同じく、破滅衝動の右腕は再び巧へと向けられた。

「......調律!」

 巧の全身から黒の疎粒子が生み出される。次の瞬間、甲高い音とともに、巧の眉間の手前で紫の腕が静止した。驚異的な速度で伸ばされた紫の腕は、突如として宙に現れた黒い点により進行を防がれていた。巧の目の前で、衝撃波が空気を震わせる。

 宙に打たれた黒点の正体は、――巧のリクオリアを受けた黒の疎粒子。

 疎粒子は、凝集させて足場とできるように、障壁としても利用もできる。巧は先ほど電車に衝突したときも、同様にこの手段をもって衝撃を殺していた。

 繰り返し何度も、破滅衝動の腕が巧の急所を狙って放たれる。その全ては、直撃寸前で宙に出現する黒い点に際どく受け止められ続けた。

 巧は少しずつ美南の下へ前進する。破滅衝動の注意が美南に移る前に、障壁で囲える範囲に少しでも彼女を入れて置く必要があった。しかし破滅衝動の猛攻は、徐々に苛烈さを増していく。手数も威力も、数を重ねる毎に増大し、一撃でも防ぎ損ねたら致命傷は確実だった。

 一歩ずつ破滅衝動との距離も詰まる。詰まるにつれて、必然と反応できる範囲も狭まった。紫の腕が頬を切る。頭を掠める。ジャケットを裂く。金属音にも似た攻防音が激しくなった。

 美南の下へ巧が到達したとき、破滅衝動の猛烈な乱れ突きが、突然ピタリと止んだ。

 巧は反射的に美南の傍へ飛び込んでいた。素早く彼女を抱えて、破滅衝動との距離を取る。即座に離れて、そうしてそこではじめて、破滅衝動が獅子戸へと伸ばしていた左腕を回収していることに、巧は気が付いた。手数が単純に二倍となった事実。

 巧は考えるより先に美南を抱えて、疾駆する。だがそれもすぐに追い込まれる。紫の二本の腕は、驚異的な速度で回り込み、巧と美南を貫こうと蛇のように鎌首をもたげた。


「いいのかい? その左腕を彼に対して使うということは、私を自由にするということだ」


 巧の体に風穴が空く寸前で、破滅衝動のあらゆる動きは停止した。

視認可能域(モデルアウト)』に達した緑の疎粒子――獅子戸のリクオリアが、周囲一面に拡がっていくのが巧には見えた。巧は美南を破滅衝動から離して寝かせ、荒い息で膝を着く。

「これは、......チーフの、固有リクオリア」

 獅子戸が巧の傍に立っていた。苦しそうに作られた笑みが、獅子戸の顔にはあった。

「よく持ち堪えてくれた。すまない、仕込みに時間がかかってしまって。ここからは私が」

「ですが、......チーフの方が、重症です」

「ふふ、情けないけど、後輩に怪我させるよりは痛くないよ」

 右肩から血を流しながら、獅子戸は巧を制した。獅子戸の左腕には日本刀が握られていた。

 刀の丈は長い。その刃からは、淡い翡翠の輝きが放たれている。

「それに巧くんはまだ自分の『疎流(そりゅう)(とう)』を成形させるの上手くいってなかったんじゃないかな。今まで『疎流刀』もなしに戦ってきたというのは、それはそれですごいことだけど、やはり疎流体との戦闘にはこれが要るよ」

 これ、と獅子戸は左手の刀を指して言った。

「『疎流刀』――疎粒子により構成された私らのための武器だ。疎流体という脅威と渡り合うには、私らも同格の脅威を従える必要がある。もうすぐ君も、これを手にしなければならない」

 疎粒子により構成された刀――名を『疎流刀』。奇しくも、出自を疎流体と同じにするそれは協会が疎流体を撃破するための研鑽の末にたどり着いた、一つの到達点であった。

 疎流刀を振るう人間は、抜刀執行者とそう呼ばれる。

「巧くん、いずれ君は、私よりもずっと優秀な抜刀執行者になる。リクオリアの腕前を見ればそれは分かるよ。ただ、今は疎流刀の扱いに関してもっと君は知るべきだと思う。それが何故だか分かるかい?」

「......今のままだと、いずれ無理が来るからですか」

「その通りだ。リクオリアの技能は十代から二十代にかけて最も伸びる。だがそれ以降は逆に縮退していく。さっきの巧くんの戦い方は数年後には通用しないだろう。それが限界なんだ。巧くんは疎流刀の扱い方を学ぶ必要がある。今日君を見ていて、よくよく思い知ったよ」

「チーフ、......俺は」

「責めているつもりはないんだ。逢坂さんを守ったのは他ならぬ君だ。ただ、今度は君自身の身も守ってほしいんだ。君が力押しの戦い方を続けて、いつか殺されることになるなんて私はごめんだからね」

 獅子戸の言葉を聞いて、巧は何も言えなくなった。

「ゆっくりでいい。疎流刀は力じゃない、技術なんだ。技術とは力のない者が、力を持つ者に立ち向かうための強さだ。それを見ていてくれ。きっと君なら疎流刀を私以上に扱いこなせるはずさ。まぁ、巧くんより怪我してる私がいっても、あんまり説得力ないんだけどね」

「......分かりました。お気をつけて」

 獅子戸は巧に背を向ける。破滅衝動が動きを再開させたのは同時だった。

「......そういえば巧くんは、私の疎流刀の能力を知っていたかな?」

 破滅衝動がキョロキョロと辺りを見回し、獅子戸へと両腕を向ける。巧は頷いた。

「よろしい。刀の形状だからといって、効果範囲を目測してはいけないからね。疎流刀なんて所詮は、私たちのリクオリアの媒体でしかないんだから」

 獅子戸目掛けて、それまでの最高速となる速さで破滅衝動の腕は伸び出した。

「――遅い!」

 獅子戸が地面に疎流刀を突き立てた瞬間に、破滅衝動の腕は停止する。巧は、美南を抱えて獅子戸と距離を取っていた。

「疎流体というリクオリアの先で生み落とされた形があるのなら、私たちの想いにだって形を得る到達点がある。この『緊縛刀』の銘を持つ疎流刀は、私の想いの到達点だ」

 獅子戸は疎流刀を引き抜く。地面を蹴って、停止した破滅衝動の腕に突き入れた。

「純度とは密度! 真に必要なのは感情の純度、それだけだ。たとえどれほど莫大な疎粒子を従える疎流体が相手でも、一点においての密度さえ上回れば、斬れないものはない!」

 疎流刀を握り込み、雄叫びを上げながら獅子戸は駆けた。紫の腕が端から両断されていく。刃はすぐに破滅衝動の胴体部に到達した。そこで一度、獅子戸の体は一度大きく沈み込む。

 脱力に近い溜めの動作だった。次の瞬間の一閃で、獅子戸は破滅衝動を袈裟に断ち切った。

 破滅衝動の胴体深くから現れた球状の結晶が、刃の軌跡に沿って二つに両断される。

「疎流体には核がある。疎粒子を循環させるための心臓部だ。これを破壊することで疎流体は完全に消滅する」

 瞬く間に、破滅衝動の姿は空気に溶けるようにして散っていった。

「......これで脅威は消えた。もう大丈夫だ」

 疎流刀が消失する。右肩を左手で押さえつけた獅子戸がゆっくりとした足取りで巧の下まで移動した。ビルの屋上には、凄惨な破壊の痕だけが残される。

「これほど攻撃的な疎流体も中々見なかったよ。でも、これでようやく逢坂さんは解放されたことになる。ただ一つ腑に落ちない点があるとすれば、この疎流体が成形を為し終えていたという事実だけど......」

 これで終わり、と巧にはどうしても、そう思えなかった。

 まだ終わらない。何故か、そんな予感がした。

 そのとき、獅子戸の携帯電話が鳴動した。通話ボタンが押される。獅子戸は電話口から慣れ親しんだ声を聞いた。

「あぁ、デュフォーくん。......巧くんかい? 居るよ。分かった」

 獅子戸は携帯電話を操作して、拡声器を起動させた。最初に、巧の耳に咳払いの声が入る。拡声された声は、ひどく緊張感を欠いたものだった。

「補完力足りてるー? えー、錯綜する情報を一度このデュフォーが整理してあげますので、至急戻ってきてくださーい。すっごい大事な話もあるので、ブッチしないでね!」

「それは何か分かったということなのかな、デュフォーくん」

「うん、まぁね。だからブリーフィングしよ。私も名探偵の雰囲気出しておくから」

「ちょうど良かった。実は私らの方でも、少し気がかりなことが浮かんできたところなんだ。今、疎流体は破壊したから、急を要する事態にはなっていないけれど」

「ふーん。で、......ねぇ、たくみ? そこに居るんでしょ? 今、切ない顔してない?」

 デュフォーの声は、電話越しの巧の表情などお見通しと言わんばかりであった。

 巧は何も答えない。実際、彼が消化不良のままの数々の疑問に、納得を見出せずにいたのは確かだった。

「そのモヤモヤも私が優しく解いてあげる。......でも、きっともうそのほとんどは、たくみの中で答えが出ているものだと、私は思ってるよ。それを教えてあげるね」

「......どういう意味だ、デュフォー」

 通話はそこで一方的に切られる。単調で無機質な電子音が短く、巧へと返ってきた。

「戻ろう、巧くん」

 美南は目を覚まさない。巧は美南を背負って、獅子戸とともにその場を後にした。

 去り際に、背中に抱える重さを感じながら巧は思う。記憶障害、占い師の存在、夜宵の思惑、そして、あっけなさ過ぎる破滅衝動の退場。そのどれもが繋がらない。事態の全容は掴めず、予測の付いたものなど何一つない。次々と巻き起こった展開は、納得を追い付かせる猶予さえ許してはくれなかった。――まだ、終わりじゃない。

 巧は、消えたはずの破滅衝動の、存在しなかったはずの視線を背中に感じた気がした。



 獅子戸の傷の手当はすぐに開始された。デュフォーはその有様に、小さな悲鳴を上げる。

「あー、こりゃまぁ、痛々しそうに」

「あはは、この傷も案外見かけ倒しさ。ところでデュフォーくん、隣の部屋にいる逢坂さんのことだけど、本当にここへ連れてきて大丈夫だったのかい? 疎流体は破壊されたとはいえ、ついさっきまで宿主だった子なんだ。デュフォーくんに何らかの影響が出るんじゃないのかな」

 部屋には巧と獅子戸、デュフォーの三人が残り、美南は隣室で寝かされていた。

「ははーん、りょうは何だか誤解しているね。私たち端末は確かに壊されて終わることは多いけど、別に疎流体に好き放題に狩られてるわけじゃないんだよ。むしろ狩らせてやってるってカンジだし? 疎粒子のイニシアチブはいつだって端末のほうにあるわけ。だから、りょうの考える心配事は杞憂だよ。......まぁ、私が無力化されない限りにおいてだけどね」

 夜の(とばり)が下り、獅子戸の手当てが完了したところで、デュフォーは再び口を開いた。

「逢坂さんの疎流体――破滅衝動の完全成形に、私の端末だった疎粒子が使われていたということが分かったよ。状況から、逢坂さんの監視においた私を殺して奪った疎粒子と見ていいね」

「しかし、一体誰がそんなことを」

「それがねー、監視のために人目の付きにくい高い所に端末はいたんだけど、背後からうまい具合に接近されて知らぬ間に突き落とされたらしいの。だから、端末のほうで相手を目撃することはできなかったらしいんだ。疎粒子だけが綺麗に引き抜かれてるし、手口が鮮やか過ぎて端末のこと知り尽くしているとしか思えない動きなんだよ。死に方だって墜死で、まぁ、私としても面白くないよね」

「となってくると、そのデュフォーくんの仲間――端末? でいいのかな、それを襲った相手こそが、破滅衝動の成形の裏で糸を引いていた人物となるね」

「うん。でも犯人の目星なら、もうだいたい付いてるかも」

 デュフォーが一度だけ巧へと視線を向けた。獅子戸にはその意味が分からない。

「......デュフォーくん?」

 デュフォーの目が細められる。獅子戸が首を傾げたのを最後に、彼女は口を開こうとした。

 それを制するように、巧が立ち上がる。

「駅で、夜宵と会いました。破滅衝動の成形を促したことを、そのとき自白しています」

 ずっと黙っていたのは考えをまとめていたからだ。しかし、巧はどれほど考え込もうが憶測の域を脱することができなかった。すでに、この問題の解決なくして事態の核心に迫れない。

 今になるまで獅子戸に伝えなかったことを巧は少し後悔していた。デュフォーの良いように事が運ばれた気がしたからだ。

「え、巧くん? それはどういう」

 獅子戸は動揺していた。デュフォーが説明の足りない部分を補うように言葉を足す。

「端末の疎粒子、駅に一度移動してるんだよね。破滅衝動が、与えられた疎粒子にリクオリアする間――猶予ともいえる時間で逢坂さんは駅に向かっていたんだよ。そして、何故かそこには伊坂っちも一緒だった。......あとは、何が起きていたのか想像付きそうなもんじゃない?」

「それじゃあこれは伊坂くんの、......仕業だっていうのかい?」

 獅子戸は呆然としていた。ショックを隠し切れていない。巧自身、言葉にすることで改めて事態の不可解さを覚えている。夜宵の行動に、納得がまるで見出せないのだ。

「......伊坂くんは、一体何を考えているんだろうか」

「伊坂っちは、典型的な我が道を()くタイプだからね。私にも、たまに何考えてるのか分からなくなるときがあるよ。いくら電話しても、携帯の電源切られてるから尋ねようもないね」

 巧は、夜宵との別れ際に放たれた言葉を思い出した。

 ――アンタみたいな理屈っぽいのに話しても、仕方ないでしょ!

 納得しようとする行為自体が無駄なのかの知れないと、巧は思った。あのときの夜宵は巧に理解を求めてはいなかった。すでに彼女の中だけで完結した答えがあるとしたら、後から追いついた他人の言葉で、彼女の動機が明らかにできるはずもない。

「......たくみは伊坂っちのこと、見当がまるで付いてないってわけでもないんじゃないの?」

 そう思った矢先に、デュフォーから話が振られる。巧は何とも歯切れの悪い回答を余儀なくされた。

「......目処(めど)が、立っていないからだと、思うんだ。解決のための、目処が」

 ――今はダメ。夜宵はそう言っていた。それだけは確かだった。そしてそれは時期が違うという意味であり、解決に着手しないという意味ではない。

 伊坂夜宵は何かの目処を待っている。巧はそれを今、確信した。

「目処? 巧くんのいう解決というのは、一体何の解決を指してのことなんだい」

「それは......」

 勢いで出てきた言葉にも拘わらず、自然とそれは巧の頭に浮かんできた。

「記憶障害です。逢坂美南の......記憶障害」

 口にしてすぐに、他ならぬ自分がそれに固執しているのだと気が付いた。

「私はてっきり破滅衝動を倒すにしろ祓うにしろすれば、逢坂さんのその記憶障害というのもなくなるものだと思っていたんだけど、違うのかな?」

「恐らく逢坂美南の記憶障害は、破滅衝動によって引き起こされたものではなかったのではと思います。疎流体にそこまでの能力があったのなら、過去の疎流体からも似た例が確認されていいはず。しかし、このタイプの疎流体には成形の前例がありません」

 前例がないというだけで、逢坂美南の記憶障害が特異に見えていた。まるで特殊な疎流体のせいで逢坂美南の奇妙な環境が作り出されていると、そう思い込んでいた。

 しかし、事実が逆であったとしたら。

「そう考えると、この記憶障害は逢坂美南独自のものと見るのが自然に思えてきます。そこに破滅衝動はつけ入った。......推測ですが、俺は事の順序をそう考えています」

「つまり破滅衝動が、逢坂さんの記憶障害の直接の原因ではなかったというわけかい?」

 断言するまでには苦しいところだった。

 ――あたしが気付いたときには、すでにああなっていたから。

 だが、そう言ったあの占い師の言葉を信じるとするならば。

「......はい」

 言い終えて、巧は体中の力が抜けていくのを感じた。奇妙な感覚だった。憶測で物を語るのは避けるべきなのに、何故だか占い師の美南に対する想いだけが、今は一番強く信じられる。

「......? 待ってくれ、それなら伊坂くんが破滅衝動を祓うことに躊躇する理由が分からなくなる。逢坂さんの記憶障害と破滅衝動が無関係なのであれば、祓いを先延ばしにしてまで記憶障害の解決の目処を探しているというのは、どこか不自然じゃないのかい? 関係ないのなら尚更さっさと破滅衝動は片付けておくべきじゃなかったのかな。記憶障害はその後からでも」

 獅子戸が唱える不自然を消化するなら、この思考は、ここである着地点に導かれる。

 答えたのはデュフォーだった。

「つまりは記憶障害が治らない限り、いくら破滅衝動を倒したところで意味はない。たくみはそう感じてるんだよ。伊坂っちも、きっとそうなんだって」

「......デュフォー」

「上出来だよ。この一日で何かあったの? たくみ、考え方が随分と教会寄りになってるね」

 巧はデュフォーの言葉の意味が分からなかった。ただ、それまでの彼女のどこかお茶らけた雰囲気の一切が消えて見えた。見違えたかと思うほどの凛とした印象を巧は覚えたのだ。

「......デュフォーくん、君はまだ何か知っているんだね。それに......意味がないだって?」

「それを話すには、まず教会と協会の相違を踏まえておく必要があるんだ。遠回りになるかもだけど、ついてきてね」

 それがデュフォーの教会としての顔なのだと、後に巧は思った。

「相違?」

「協会と教会はともに疎流体を倒すべく創設された組織であるのに、いつまでも統合をしようとしないよね。協会の人って、割りとそういうとこ無頓着な人が多いけど、これってそもそも何でだか分かる? この二つの組織の違いとは何か、りょうは言葉にできる?」

「......うーん、違いといえば、処理の仕方が違うくらいしか思いつかないなぁ。それは組織の理念が異なるからで、......あぁ、あとは宗教が介入すること、かな?」

「そうだね、色々あるけど宗教の介入が一番の決定的な相違だね。ねぇ、知ってた? 宿主が疎流体から解放された後――事後処理にあたる任は、そのほとんどが教会の管轄なんだよ」

「確かに私らは疎流体を観測し、撃破をもって任が解かれているね。しかし、それは事後処理に必要以上の時間をかけられないからでもあるんだ。疎流体は日々、生まれているわけで」

「それは分かっているよ。でも、教会が事後処理に重きを置いているのは、それこそが宗教に通じているからなんだ。いい、りょう? 宗教は人を救わなくちゃいけないの。すると必然、教会の処理の仕方も疎流体の捉え方も、人を救う機能の一環として作用してなくちゃならないものになるの」

「話が見えてこないな。するとデュフォーくんは何が言いたいんだい」

「りょう、結論を急がないで」

 デュフォーの表情は真剣そのものだった。

「たとえば、疎流体には核と呼ばれるものがあるよね」

「あるね。それを破壊することで疎流体は葬れる」

「それが協会の考え方なんだよ、りょう」

「......どういうことだい? 教会は違うというのかい?」

 獅子戸は当惑していた。巧にはデュフォーが、慈しみ一つで国境を越える宣教師に見えた。

「核を心臓部と見ているのは教会も同じだよ。でも、それは動力的な意味合いでしかないとも考えているの。それに核というのなら私たち端末にだって、疎粒子で出来た核といえるものは存在しているんだよ。だったら、核が疎流体を疎流体足らしめるものとは必ずしもいえないと思わない?」

「......正直、そんなことは考えたこともなかったというのが本音だよ。しかしそれならそれで教会は、疎流体のことを一体どう捉えているというんだい?」

「疎流体は人の放った感情から生まれている。そして、それは回りまわって人に還っている。こうして見ると、宿主と疎流体の関係って一つの循環の上に成り立っているといえるよね」

 それなら、とデュフォーは続け、

「疎流体を疎流体足らしめるのは、きっと人なんだよ。疎粒子は感情が付加されて、はじめて疎流体となる。疎流体の真の核は宿主にあるんだ。教会が持つのは、宿主こそが核そのものであるという考え方だよ」

「宿主こそが、核そのもの......?」

 獅子戸は目を見開いた。口にする言葉の端々から、彼女の動揺が滲み出ていた。

「待ってくれよ。これまで宿主とされた人たちは、今でも生きて、そして元の生活に戻ってるんだぜ? それにもし教会のいうような核の考え方をするなら、疎流体が葬られたことにならないし、いやそれどころか宿主が消えない限り、疎流体はいつまでも生み出され続けるということになってしまうぞ」

「そう、この解釈はそういう風にも発展される。だから教会は事後処理をするんだよ。宿主とされた人間が再び疎流体を生み落とさないために腐心するの。疎流体を退け、その後も再発の可能性を退け、宿主とされた人の心に自己の変革を促させる。これが祓いなんだよ、りょう。

りょうたちが聞き知ってるのは、祓いの初めのほうだけだと思う。信仰は一日にして成らず。事後処理を含めて、祓いは一朝一夕に終わるものじゃないんだ」

 巧もまた動揺していた。デュフォーの話は、初めて耳にするものばかりであったからだ。

「疎流体というものは、幾千の疎粒子が偶発的に同質のリクオリアを受け、凝集し、生まれるものだと私は聞いていた。宿主とは契機を経て、遭う。そういうものだと。巧くんもそうだと思う」

「疎流体がどこから来るのか、それは今でも解明されてはいないね。あるのは無数の解釈で、りょうがいうのもその一つだよ。でも教会は、破滅衝動は逢坂さんが宿主だからこそ生まれた疎流体だと考えてるの」

「しかし、一個人から疎流体が創造されるなんて、そんなの」

「りょうだって、疎流刀を持ってるでしょ。教会から見たら疎流刀も疎流体も、正直どちらも変わらないように見えるよ」

「それは......」

「それに、この疎流体を従来の疎流体と同じに見ちゃダメ。前例がないんでしょ? それって従来の考えが通じない......いや、逢坂さんに通じないってことなんだよ」

 獅子戸は黙った。巧は、デュフォーが言わんとしていることが分かった。

「接触した占い師が保障してくれました。日常生活における逢坂美南の実情が学業、生活能力ともに、どこから見ても特筆すべきものがまるでなかったことは間違いないと思われます」

 特筆すべきものがない。それが何を意味しているのか。

 それはつまり、逢坂美南の日常が傍から見ても何の問題もないものであったということだ。

「先ほど話した忘却障害の中でも、逢坂美南の日常は整合性が不備なく取られてきた。これは明らかな異常です。彼女は全くのゼロの状態で、無限大ともいえる選択肢から常に正解だけを選び続けてきたということですから」

 ならば、常軌を逸した忘却をもってはじめて、逢坂美南という人間は人の枠に入れるのだ。

 ――もしかしたら大きすぎる才能をセーブするために、

 ――あの娘はあんな風になっちまったのかもしれない。

 壮絶なハンディキャップはハンディキャップにも為らず、見境なく物を忘れた空っぽこそがデフォルトとなる。その適応力は、およそ人に許された代物ではないように巧は思えた。

 才能と呼ぶには、あまりに危険過ぎるものだと。

「そうか......、聞いていて妙だとは思っていたんだ。私が調べたときは逢坂さんに忘却障害の気配なんて少しも感じなかったから。だが、そういうことだったのか。周りは上手く誤魔化されていたわけだな。......次元が違い過ぎるよ。あの、か弱そうな女の子がそんな」

「逢坂さんには従来のやり方が通用しない。......どう? 破滅衝動は葬られているって、まだ言い切れる? ちなみに確かめる方法は簡単だよ。私がまた逢坂さんに疎粒子を流せばいい。すでに破滅衝動が消滅しているなら何も起こらないけど、もしも疎流体の核が宿主そのものにあるとなれば......分かるね? 小出しにしても私をバラしにきたんだ。全部費やすれば、完全成形なんて一瞬かもしれない」

 デュフォーは自分の首に手刀をかざした。透き通るほど白く、細い彼女の喉は少しの力でも簡単に折れそうであった。獅子戸はそれを見て、首を横に振った。

「やめてくれ、試せるわけがないだろ」

「そういってくれると助かるよ。これ、三体あった内の最後の一体だからね。明日の支給までに壊されちゃうと、教会が明朝まで手を出せなくなるから、やりたくてもできないんだ」

 これ、とデュフォーは自分の体を指して言った。

「ただ疎流体は成形を重ねる毎に強大になるとは聞くね。確か、リクオリアが洗練されるからとかで。......次に成形した破滅衝動との戦闘じゃ、りょうもそんな傷じゃ済まないかもね」

 納得を妨げ続ける要因が何なのか、巧は、ぼんやりとではあったが分かり始めていた。

 いつ、どこで逢坂美南は破滅衝動に遭い、憑かれたのか。

 そればかりを考えていた。

 だが、本質が逆なのだとしたら。

 逢坂美南が破滅衝動と遭ったのではなく、彼女こそが破滅衝動を生み出したのだとしたら。

 疎流体だけを叩くという協会のやり方では、決して逢坂美南は救われない。

 協会には限界がある。そもそもの発足が、疎流体の撃破のために創設された組織だからだ。

 宿主の救済は、その本懐ではない。

「決め付けるような言い方をしてしまったけど、やはり教会の見解でさえ推測の域を出ることはないんだよ。示唆ならできる。でも、いくら示唆を重ねても本質とはいえない。逢坂さんが破滅衝動を生み出したのか、それとも事の全ては無関係で協会の思う通りに疎流体とどこかで遭って憑かれた偶然の産物なのか、それは誰にも分からないんだよ、人間一人が疎流体を創り出せるというのも、できるかもしれないし、できないのかもしれない。だけど、どちらにせよ私たち教会は救わなくちゃいけないの。そのための組織だから。人を救うのは真実じゃなくて解釈。それこそが協会と教会の相違であり、教会の存在理由なんだよ」

 事態の全容がデュフォーのいう通りとなれば、教会の力が介入しない限り、協会がどれほど手を尽くしたところで肝心の解決にはなりえない。

「解釈だから捉え方は色々ある。分からないことだから考えたって仕方ない、って人もいる。協会みたいな、疎流体だけを倒せればいいって感じでね。けど、そのどれもが今の逢坂さんの現状を言い表せてくれるなんて保障はない。ただ一ついえるのが、もしも破滅衝動が逢坂さんだからこそ生み出されたのだとすれば、彼女の記憶障害を治療しない限り、破滅衝動は永遠に現れ続け、彼女を苛み続けるということだけだよ」

「どうしてそれだけが断言できるんだい? はじめにも君は、記憶障害が治らない限りいくら破滅衝動を倒したところで意味はないと、そういっていたが、この疎流体には祓いが通じない理由があるとでも......」

 獅子戸は、そこで合点がいったという顔になった。巧も、すぐに腑に落ちる。デュフォーによって、途中で消えた言葉の先が継がれる。

「そう、逢坂さんには祓いが通用しないんだよ。何せ、全部忘れられるんだから。事後処理が意味を為さないし、自己の変革も促せない。祓いが介入できる隙がまるでないの。つまり、破滅衝動は祓えない」

 デュフォーは巧へ視線を向けた。それに巧は何も答えることができなかった。

「これで伊坂っちが何を考えているのか、少しは想像できそうかな?」

 獅子戸が、気を滅入らせた息を吐いた。

「伊坂くんも、少しは私たちに話してくれれば協力できたかもしれないのに......。信用されていなかったのかな」

「......そうだ、どうして」

 巧には不思議だった。夜宵は何故、巧たちに協力を求めなかったのだ。

 協会の人間だから? そう考えてすぐに思い直す。そんな縄張観念に囚われる彼女ではないことは確認するまでもない。両組織に身を置きたがる人間が、そんなくだらない理由のせいで行動を縛られるわけがないのだ。

「そうそう、でね。ここからが伝えなくちゃいけない重要な話になるんだけど。電話で話した大事な話ってのも、実はこれのことなんだ」

 巧は何故か、ひどく嫌な予感がした。

「教会は今、逢坂さんに大変強い関心を持っています。何たって、成形に前例のない疎流体を成形させちゃったからね。それどころか破滅衝動という、どう考えても活かしようのない最悪の感情に憑かれたままでも平然としてる。これだけですでに、驚嘆すべき事実だよ」

 だから、とデュフォーは言った。

「逢坂さんの身柄は教会で保護するということが決まったの。疎流体研究の良質なサンプルとしてね。明日の朝、ここに教会の人間が迎えに来ることになってます」

 あまりにも一方的な展開に、巧は言葉を失った。決まったの、とデュフォーはそれで全ての話が済んだというように、小さな肩を伸ばし始める。獅子戸でさえ呆気に取られていた。

 ――研究?

 デュフォーの口にしたその単語だけが、巧にはひどく場違いなものに聞こえた。

「いつ、そんなことが」

「ん? お昼に。たくみが懸念した直後からだよ。教えてくれてありがとね」

「......どうして今まで黙って」

「だって、守秘義務あるし。私、教会の端末だもん」

 巧は、それまで考え進めていたその全ての思考を断ち切られた。頭が、真っ白になる。

「これで上手くいけば、疎流体がどういったメカニズムで発生しているのか、分かるかもしれないね。これは教会にとっても、何なら協会にとっても意義のあるデータがなりそうだし」

 そこでようやく、呆気に取られたままの獅子戸が、口を開く。

「待ってくれ、デュフォーくん。研究といっても、それは一体どれほどのものなんだい?」

「どうだろ。端末(わたし)を見れば分かる通り、教会は人を人とは思ってないからね。あんなところはいくら逢坂さんでも、入って三日で廃人かな。壊れなくちゃ、やってられなくなるからさ」

 無意識に、巧の拳は振り下ろされていた。机が、軋んで悲鳴に似た騒音を立てる。

「......お前、人を何だと思っていやがる」

 間髪容れず、巧はデュフォーの胸ぐらを掴んでいた。一拍子遅れて椅子が倒れる。その後に獅子戸が立ち上がる。その間も、デュフォーは心底不思議そうな顔で巧を見つめていた。

「夜宵は、......夜宵は気付いていたんだ。教会に任せたらそうなるってことが、だから俺たちにも何も言わなかったんだ。教会の耳に入らないように、はじめから俺たちと行動を別にしていたんだ」

「何言ってんの? 教会は手段を選ばない。今さらじゃん。救済のためなら何だってするのはたくみもよく知ってるでしょ? それに、より多くの命の救いに繋がるというのなら、それが(じゅん)じた一人の何よりの救いになると思えない?」

「そんなのは詭弁(きべん)だ!」

「詭弁でも弁だよ、たくみ。言ったでしょ、救いをもたらすのは解釈だって。そこにたくみの納得は要らない。身の程を(わきま)えなよ。それに他に彼女をどう扱えるっていうの? たくみには考えがあるの? ちなみに、迷っている時間はあんまりないよ。さっき教会から報告が来てたから。もう今頃はどこもニュースにもなってるんじゃないのかな」

「......ニュース?」

 デュフォーが手元にあるリモコンを操作し、部屋にあったディスプレイに映像が映し出された。ニュースはライブ映像のようだった。画面から緊張した雰囲気が伝わってくる。

 その内容に、巧は絶句した。

「破滅衝動が成形した近くだね。玉突き事故に、強盗三件、殺人......五件だって。ひどいね」

 画面に映ったのは、成形した破滅衝動と戦闘となったビルだった。その付近でデュフォーの言った事件が、ほぼ同時に起きていたと報告されていく。

「見て見ぬ振りはしないでね。これらは多分、偶然じゃない。成形した破滅衝動に感化された人たちが起こしたれっきとした事件なんだよ。疎流体からのウェルテル効果っていうのかな? あれの派生、且つ、即効超拡大無差別版だね。これからまだまだ発覚してない事件が、続々と出てくるかもよ。被害規模は教会でもまだ把握できてないほどだから」

 巧はデュフォーを離した。崩れるように座り込む。全身から力が抜けていく気がした。

「成形していた時間は僅かにも満たない。それでも、周囲にこれだけの影響を及ぼしたんだ。破滅衝動自体も、逢坂さんと同じく規格外になっているんだよ。いくら逢坂さんでも成形した破滅衝動の力の前では無力に変わりない。教会が保護という判断をしたのも、それが理由で、そして最善になるからなの」

 ビルの各階から、冗談のような煙が上がっていく。混乱と怒号が画面を埋め尽くす。

 一人の少女が引き金となった結果と受けとめるには、重過ぎる現実がそこにはあった。

「逢坂美南という人間は強すぎる。強い人間というのは、ただそれだけで弱者の存在を許さない。教会はこれをなかったことにするつもりはない。解釈を待つ人は、きっといるから」

 デュフォーはそれだけいうと、ディスプレイの電源を落とした。映像が消える直前で巧は、ビルの屋上から際限なく飛び降りる人の群れを見た気がした。

 死への欲動だけを煮詰められた、あの鼠たちの末路を再現するような。

 見間違えかどうかを、確かめる気力はなかった。



 少し頭を冷やしてくる、と言って、獅子戸は外へと出て行った。巧が座り込んだ姿勢のまま動かないでいると、デュフォーは巧に猫のように擦り寄ってきた。とても相手にできるような気分ではなく、巧はすでに何度も彼女を振り払っていたが、その度にデュフォーの手足は執拗に絡み付いてくるので、巧はいつしか抵抗することを諦めていた。

「ねぇ、私、一つ気になることができたんだけど」

 耳元で声がする。

「たくみ、さっきの話で一度も、記憶障害は治せるかもしれないなんてことを口にしなかったよね。リクオリアした疎粒子で感情を司る偏桃体とかいうのを刺激すれば、記憶を司る海馬も一緒に刺激されて、洗いざらいに全てを思い出させることは可能だ、って。......それを黙っていたのは何で?」

 弱々しく、巧の喉は動いた。

「逢坂美南の記憶障害はすでに彼女の一部となっている。それを失くすことが、本当に彼女を助けることになるのか、分からなくなったんだ」

 ――あれはあの娘になくちゃならないものだったんだ。

 占い師はそう言った。巧の眼を見て、そう言っていた。

「確かに他人から見れば、逢坂美南の現状は治療が必要な忘却障害なのかもしれない。だが、当人はそれに適応している。あの忘却障害は、逢坂美南当人にとっての現実を構成するものとして、すでに欠かすことのできない域にまで浸透しているんだ」

 ――あんたはあの娘に似てる。

「あれは処世術なんだ。俺は、眼を失った後の自分を想像することができない。ならば、記憶障害を除かれた後の逢坂美南の人生も他人が想像することが許されるとは思えない。処世術を奪う。それは今の逢坂美南を壊すことと同義なんだ。......だから分からなくなったんだ、何をすべきなのか。逢坂美南は壊される。それを〝救済〟なんていうのは、都合のいい言葉にしか思えない。だけど、彼女の今の在り方を否定する資格が今の俺にあるのか、分からない」

「やっぱり今日一日で何かあったんだね。前のたくみなら、絶対にそんなこと言わなかった。どうして急にそんな風に思えるようになったの?」

「俺は......」

 巧の脳裏に思い浮かんだのは、あの占い師の姿であった。

 端末はリクオリアを行わない。それは確かだった。巧の眼には、デュフォーのリクオリアがこうした今でも観測されない。端末とは、遠くの本体が意識を介するために用いられる装置のようなものだと巧は考えていた。しかし、あの占い師は本体との回線は切られているといった。その上で、意識のブラックボックスで独自の自我を得たともいっていた。それが、それまでの巧の常識を崩すものとなった。

 リクオリアを行わずとも占い師は人として生きて、生を感じているように見えたのだ。

 それが『鑑定眼』と呼ばれた自らの眼に抱いた、巧の最初の疑問だった。

「無力を思い知らされたんだ。どれほど駆け回って考えても、俺は空回っていただけだった」

 ――あんたは今の人生と生きる理由を、その目から与えられた人間なんだよ。

 占い師の言葉は正鵠(せいこく)を射ていたように思えた。

 それまでは、眼に対して疑問を持つことなどあり得なかった。本質を見抜くには、眼こそが必要だと巧は考えていた。しかしそれ故に、思考が囚われることになっていた。

「眼で視えるだけが全てじゃない。それを知れたのさえ、今になって――破滅衝動が成形し、逢坂美南の未来が閉ざされた後になってからだった。俺に視えていたのは感情の残滓。それは人の心では到底なかった。ただの表面をなぞっていただけだった」

 眼はいつしか強迫観念になっていた。そのせいで、疎流体の正体を看破させることに固執し続けた。その影に隠れた、宿主の存在を知ろうともしなかった。思慮の浅さに、眩暈がする。

「感情とは突き詰めればただの反応だ。生存のために獲得された電気信号でしかない。個体に利益があると脳が判断すれば快楽反応、害を為すと判断されれば不快反応。それ以上でもそれ以下でもない。そもそも感情という言葉自体、俺たちがそれを認識するために生まれた概念に過ぎない」

 美南を捜索する際に破滅衝動に当てられ、自らの目を抉り取ろうと躍起(やっき)になったことを思い出す。あれが真に自分の望んで起こした行為だったと、巧にはとても思えなかった。

「感情だけで、人の心は語れるものではなかった」

 心と感情が別のものである。それが自らの眼に抱く、第二の疑問となった。

 感情なら眼で視える。では、心とは? その所在とは?

 巧は今、幾度もこの疑問に突き当たっていた。

 そして、その度に無限の解釈が彼を待っていた。どこにも正答がない。確かめる術がない。

「心が脳にあるとは思っていない。だが、心が脳を従えているとも思えない。脳は心を騙している。俺たちは脳に支配されている」

 ふと、心とは脳の機能が作りあげた幻のように、巧には思えてきた。あらゆる感情が同時に成立して対立した状態、その矛盾を是とできる深奥の機能――それが、心。

 だからこそ人は、泣きながらも笑える。生きながらも死にたがれる。

「疎流体は人の感情を矯正する。奴らが巣食うのは脳の領域なんだ。それなら、疎流体を敵として裁く俺たちは、人の心を裁くということになるんじゃないのか。それは人の想いを殺してきたということになるんじゃないのか。何をもって、俺たちは殺す相手を見分けているんだ」

 たとえ、その想いが破滅を呼ぶ感情であったとしても。

 形となるまで願われた想いを否定するのは、はたして許されることなのだろうか。

「逢坂美南が忘却障害を持った経緯を俺は想像することしかできない。だが、もし破滅衝動の出自が、逢坂美南が形となるまで願われて生まれたものだったのだとしたら、......彼女自身、破滅したがっていたのだとしたら、......俺は」

 助けてという声を聞いていない。巧の眼は、それをまだ捉えていない。それが最後の疑問。

 救難信号(メーデー)はまだ一度も発せられてはいないのだ。

「たくみが今、一番欲しいものは、きっと納得なんだと思う。認知的不協和を抱えている今のたくみにはね」

「認知的......不協和?」

「そう、認知的不協和。たとえば、それまで当たり前だと思っていた行為が、ある日、異常であるのだと知ってしまうと、人はその行為に対して抵抗を感じてしまうの。上書きされた認知と、それまで培われた認知との間に不一致が起きてしまって、気持ち悪くなるんだね。これが認知的不協和だよ。不協和状態になると、人は行動が起こせなくなっちゃうんだよ。たくみが囚われているものの正体はきっと逢坂さんじゃなく、たくみ自身に起因するものだと思う」

「俺、......自身の」

「ねぇ、たくみ、オッカムの剃刀(かみそり)って知ってる? 必要以上の情報は、解決を遠ざけるという喩えだよ。たくみは今、余計なことを考えすぎて動けなくなってるんだよ。もっとシンプルに物を見ればいいのに。たくみにとって、逢坂さんが一番陥ってはいけない状況って、何?」

「それは、......教会の手に落ちること」

 デュフォーを前にしてもでも、巧は言葉にできた。

「そこに行けば人間として終わる。それだけは何としてでも阻止させる」

「あはは。それって何だか教会に宣戦布告してるみたいだね。でもさ、そのためには、さっき都合のいい言葉とたくみが吐き捨てた〝救済〟とやらをしなくちゃいけなくなるよね」

 今の状態で納得出来るのかな、とデュフォーは冷たく笑った。

「知ってる? 納得って、とっても高価なんだよ。この世で一番割に合わない買い物なんだよ。喩え話をしようか。あなたの大切な人が凶悪犯に人質に取られています。しかし凶悪犯の正体は、実はあなたのよく知る善良なはずの人物でした。あなたはそのことがどうしても納得できません。何か理由があっての行動と思えてしまい、正義を執行することができませんでした。そうして納得が追いつくのを待ってる間に、なんと、凶悪犯は人質を殺害してしまいました。善良なはずと思っていたのは、あなたのただの勘違いだったのです。しかしおかげであなたは納得を手に入れることができました。大切な人の命を犠牲に、あなたはようやく悪を決定することができたのでしたー。めでたし、めでたし」

 デュフォーは冷たく、この世の万象を侮蔑するかのように嗤っていた。

「納得を手に入れようとするあまり人は全てを失ってしまうこともある。戦う理由を待つことは、守りたいものを天秤にかける行為なの。だから納得なんて求めちゃダメなんだよ。そんなもの、ただの感傷に過ぎないんだから。それでもたくみが、納得した上で逢坂さんを〝救済〟したいっていうなら、いいこと教えてあげる。人を地獄に突き落としていいのは、同じ地獄に落ちた奴だけ。自分に資格があるのか分からないというなら、それを胸に聞いてみるといい」

 巧は何も答えることができなかった。デュフォーは立ち上がり、髪をかき上げて巧を見下ろした。それだけで部屋の温度が下がったような気がした。その瞳に込められた感情を汲み取ることはできない。

「明朝に教会の人間が来て、逢坂さんは連れて行かれる。持ち運びやすくするために、手足くらいならこの場で解体されるかもね。でも止めちゃダメだよ。人を殺す覚悟もない者が、人を救えるわけがないんだから」


「なら、今日中に片しちゃえば、いいんじゃないかな」


 その声の主は獅子戸――彼女は、入り口に背を預けるように寄りかかっていた。

「あれ、いつの間に戻ってきてたの。いや、それより......今のはどういうこと? りょう」

 デュフォーの端整な眉が、少しだけ歪んだ。

「言葉通りだよ、デュフォーくん。逢坂さんの疎流体は今日中に片付けようと思ってる」

 獅子戸は落ち着いた声だった。デュフォーはそこに何かを嗅ぎ取ったように、目を細めた。

「ふーん。でも片付けるって、具体的に今から何ができるのさ。協会の領分を越えている事態だって、分かってないわけじゃないんでしょ?」

「うん。だから私たちは伊坂くんを頼ることにしたよ。頭を冷やして考えたらね、まだ望みは捨てるべきじゃないと思えてきたんだ。少なくとも伊坂くんは、教会のやり方に反対していると踏んで、独自の解決法を試みようとしていると思っているんだけど、デュフォーくんはこの私の予想どう思う?」

 デュフォーの肩が震えたように、巧には見えた。

「それに賭けるという私の案は、現実的かな? それともいくら君たちでも、伊坂くんの行動までは把握し切れていないのかな?」

 歯切れ悪く、デュフォーは答える。

「......伊坂っちが何を考えているのか、私は知らないよ。だけど――独自の解決法? それを当てにして行動するのは、私には愚策としか思えない」

「教会の想像を上回る解決法を持っているかもしれない、というわけだね。なるほど、余計に希望に思えてきたよ」

 獅子戸はそう言い切ると、巧へ視線を向けた。

「行こう、巧くん。そうと決まれば伊坂くんを探さなくては。今、彼女がどこにいるのか当てはあるかい?」

 デュフォーが獅子戸を制すように声を張り上げる。

「待ってよ。いいの? 逢坂さんの処遇は教会に一任されているんだよ。すでに上部とは話が済んでいるんだ。それを妨害するということは、教会を敵に回す行為とも捉えられるかもよ」

「ううん、デュフォーくん。実はそれも、あまり心配は要らないんだ」

 デュフォーは怪訝な顔となった。

「何で」

「伊坂くんが居ないからだよ」

 それを聞いて、一層怪訝な顔が生まれる。

「どういう意味?」

「たとえばそうだな、こういうのはどうかな? どうやらデュフォーくんがブリーフィングで教会の重要な方針を伝えてくれるらしかったけど、緊急時、しかも伊坂くん不在ということでブリーフィングは開かれませんでした、とか」

 デュフォーの息を呑む音が、巧には聞こえた。

「だから私は、教会のいう逢坂さんの処理の要望なんて知りませんでした。詭弁と言われても仕方がないとは思うけど、......いかがかな? この筋書きで」

 獅子戸が言い終わると、デュフォーは体を小刻みに揺らし始め笑い出した。笑い声は徐々に大きくなり、デュフォーの小さな体躯が壊れんばかりの激しさを生み出した。

 声は一段と高まりを見せた直後に、唐突に止む。その場から動く者は一人もいなかった。

 ひどく歪な静けさが舞い降りる。呼吸が辛くなるほどの重い空気を巧は感じた。


「面白いね。そうしなよ」


 空気を打ち破ったのは、デュフォーのひどく渇いた声だった。

「ありがとう、デュフォーくん」

 デュフォーは獅子戸を見ようともせず、部屋を去ろうとした。去り際に一度、デュフォーの視線は巧に送られた。巧はそれを逸らす。小さな足音は止まることなく遠ざかっていった。

 部屋に二人が残される。巧は、獅子戸に何と声をかければいいか分からなかった。

「獅子戸チーフ、......俺は」

 この人は一体どこから話を聞いていたのだろう、と巧は思った。

 記憶障害を治す手段があることを黙っていたこと、さらには疎流体を撃破する協会に疑念を抱いてしまったこと。それらを聞いてしまえば、獅子戸には何らかの対応を余儀なくされる。そうなれば個人の苦悩は終わりを告げ、事態は組織という大きな流れに流されることになる。

 それならそれで、と巧は諦めがつく気がした。

 しかし、獅子戸の言葉は巧の予想とは異なるものであった。

「現状の打開策が何かあったとしても、それは、打開策を扱うことのできる人物の判断に任されるべきものだと私は思っている」

「......チーフ?」

「私にはリクオリアした疎粒子で、脳の一部を狙って刺激するなんていう精密で力の要る作業はできないよ。伊坂くんにも難しいかもしれない。やれるとしたら巧くん、君だけだ。そして私はその判断を君に任せると言ったんだ。さぁ、これで一人じゃない。君がしようとしていることは私から命令されたものだと思ってくれてもいい。すると、少しは気が楽になるかな?」

 獅子戸は笑っていた。弱さを責めず、急かすことを彼女はしなかった。

「私は君を信じている。全ては、君の心が決まってから決行するんだ。最後の最後で迷うようなら私を理由にしていい。それでも躊躇したら止めろ。それだけでいい。それだけでいいんだ」

 それを聞いて巧は、考えることを放棄しようとしていた自分を恥じた。

「勿論、それまで何もしないわけじゃない。時間はまだある。今あるものだけで考えるつもりはないよ。さっきは私もあんな啖呵(たんか)を切ってしまったけど伊坂くんに賭けて吉と出るか、凶と出るか分かってないんだ。私たちもやれるだけのことをやらなくては」

「チーフ、俺は」

 巧は耐えられなくなっていた。獅子戸という人間の前で自己の弱さを偽ることができない。

「俺は間違っているのかもしれません。この眼は視えすぎます。余計なことばかりが分かる。戦う理由も救う相手も、この眼がある限り俺は最後で間違えてしまうかもしれません。だから俺を信じるなんて言わないでください。今の俺には」

「私には君の苦悩が分からない。......分からないが」

 獅子戸は巧の頭に手を置いた。それは、初めて獅子戸が巧と出会って以来の仕草だった。

「『調律系(チューナー)』は抽象を嫌い、『改質系(オルター)』は具体を厭うなんて昔から言われてきている。巧くんはきっと曖昧なものが許せないんだろう。これは心の在り方の問題だと思う。デュフォーくんも言っていたじゃないか。解釈は人を救うと、真実だけではダメだと」

 解釈の仕方――心の在り方――すなわち、処世術。

 それが瓦解しようとしている。巧はようやく、胸の内が乱れる原因を突き止めた。

 闘争が止まろうとしているのだ。自分をここまで走らせた全てが無に帰そうとしている。

 だから、これほど落ち着いていられないのだ。

「巧くんが巧くんであるために、その目はあったんだよ。だから君が君自身を否定する言葉を重ねるのはもう止めた方がいい。......私はね、君の黒くて格好良い目、好きなんだ。それだけじゃダメかい? やっぱりダメかな?」

 獅子戸の手は温かかった。巧はいつかのように、胸の中で火が灯るのを感じた。

 俺はまだ自分の限界を見てはいない。闘争は、まだ終わってない。

 もう少しだけ足掻(あが)いてみよう、そう思えた。



 満月の日は、疎粒子のリクオリアの伝導率が上がるといわれている。そのせいか、疎流体は満月に近い日ほど成形が確認されることが多い。しかし、あくまでこれは統計によったもの。科学的な根拠は未だ判明していない。

 廊下の窓から見える満月を見ながら、デュフォーはそんなことを思い出していた。

 背後で足音がする。振り返る。巧が外に出ようとしていた。彼は一度、デュフォーを見るが何も言わずにそのまま走り去った。それを見送ると、デュフォーは再び窓の外の月を眺めた。

「......顔付きが戻ってた。迷いは消えたの、たくみ?」

 夜空に問う白い少女は、幻想的な一枚画のようだった。

 しばらくした後、デュフォーは美南を寝かせている仮眠室へ足を向けた。そこは先ほどまで三人がいた部屋の隣室に当たる。移動する際、デュフォーは何やら妙な違和感を覚えた。

「......あれ? そういえば、あの窓からお月様なんて見えてたっけ?」

 美南のいる部屋に鍵はかけられていない。ドアを開けるとすぐに簡易ベッドの上の膨らみが目に入る。運ばれたときの状態と変わっていない。美南は安らかに寝入っているようだった。

 デュフォーはその顔を覗き込む。美南の顔の造型一つひとつを確かめるようにデュフォーの眼球が動く。あり得ない距離まで顔は接近していった。デュフォーの頬が怪しく歪んだ。

「綺麗な顔だね。これで破滅したいの? もったいないよ」

 美南の枕元に目覚まし時計が転がっているのが、デュフォーの視界に入った。

「......あれ? この時計壊れてる」

 拾い上げる。時計の針は真夜中を告げていた。まだ日没からそれほどの時間は経っていないはずである。ざわざわと、何故か胸の中で不安の種が芽吹いていくような気になった。

 時計を持って、予感の正体が何か分からぬままデュフォーは部屋を出る。最後に、もう一度だけ美南をドアの隙間から伺った。そうして、美南の姿がなくなっていることに気が付いた。

「......あ、あれ」

 閉じかけたドアを開け、慌てて部屋へ入り直す。ベッドは何度見ても、もぬけの殻だった。周囲を見回す。仮眠室に人が隠れるような場所はない。窓にも鍵がかかっている。

 一瞬で人が消失した。その事実にデュフォーは当惑した。

「お、逢坂さ」

 ふとそこで、背後に誰かが立っている気がした。

 振り返る。だがそれよりも速く、何かがデュフォーの首へと飛来して、彼女の首を音もなく落とした。体が自由を失って崩れ落ちる。頭だけ離されたデュフォーは視界を自身の体だったものに覆われ、自身を襲ったそれが何であったのかを、ついに見納めることができなかった。

「......これは、やば、い」

 体を構成する疎粒子が失われていくのが分かった。無力化されてしまえば、端末に疎粒子を操る力はなくなる。野放しにされていく莫大な無色の疎粒子を、デュフォーはどうすることもできなかった。段々と意識が朦朧となっていく中、時計の秒針が不自然に進むのが見えた。



 夜宵を探すといっても、巧に当てがあったわけではない。探す相手は一個人、完全に『流れ』に紛れ込んだ『個』である。『眼』を用いるのは現実的とはいえない。しかし、現実的な手段を選べる場合でもないことも、また確かであった。

 巧は眼の使用に踏み切ろうとしていた。現実的でなくとも、彼は他に頼るものがなかった。

 見つけられるかどうかも分からない。許容量の問題もある。いくら視えても、疎粒子からの精神汚染だけは防ぎようがない。それでも、巧は眼を使うことを決意する。

 五秒を越えようとも、見つけるまで視続ける。そう、巧が覚悟を決めた瞬間である。

 巧は遠方に激しく舞い上がる煙を見た。そこで大規模に何かが燃えているのは間違いない。

 ひどく嫌な予感がした。認識すると同時、巧は煙が立ち昇る下へ急行する。近付くにつれ、胸騒ぎは激しくなる。赤く点滅する無数の光が見える。サイレンと水流の音が聞こえた。

 火災。

 到着した場所で、巧は驚愕した。そこは巧が数時間前に訪れたはずの――占い師の居た赤いテントの前だった。テントが燃え盛っている。天にまで立ち昇る煙はそこから生まれていた。

「......これは」

 周囲を見渡す。消火活動が行われているが、火の勢いは収まる様子はない。巧はノータイムで地を蹴って、野次馬を一息に飛び越える。着地と同時に加速し、火中に飛び込んだ。

 占い師の、まるで贖罪の機会を乞うような顔を思い出す。

 冷たい汗が頬を伝った。取り返しが付かなくなることが、恐ろしかった。視線が集まるより早く、巧は黒い軌跡を描きながらテントの中へ駆け出した。テントの中は火の海だった。

 空気が熱い。喉が焼ける。どこにも火の手が回り切っている。暗闇であったはずの内部から闇は完全に排出されていた。天井隅々まで炎は駆け回っている。巧は上着を被り、いくつもの引かれたカーテンを潜り、奥を目指す。

 逢坂美南が救われるためには、占い師の存在が不可欠に思えてならなかった。占い師は巧と美南を比べ、その在り方が似ていると評した。そのせいか、巧は美南に自分を投影することが容易くできた。

 出逢う人全てを理解する処世術と、出逢う人全てを忘却する処世術。生み出す結果は真逆でも、生きるための術として培われたものであることに違いはない。そして、そのどちらも人の手に余るものだった。使い手を、常人のままで許すことは決してしなかった。

 巧がそれでも『眼』を使いこなせるようになったのは、ひとえに、その在り方を受けとめてくれた人が居たからだと思っていた。獅子戸了という、闘争を教え、救いに導いてくれた人がいたからだと。まさに彼にとっての獅子戸が、美南にとっての占い師のように見えたのだ。

 美南の孤独を真に理解できるのは、あの占い師をおいて他にいない。巧はそう信じていた。

 そうして最後のカーテンの前へとたどり着く。それを越えれば、あの占い師が鎮座していたところだった。炎が一段と激しい。巧は身を丸めて飛び込んだ。転がる。炎を抜ける。占い師の居場所を知るために声を上げようとして、部屋中に散らばった、占い師の死体を目撃した。

「......な」

 音を発てて、屋根が崩れようとしている。しかし巧は動くことができない。目の前の凄惨な光景に頭が追いついてこない。周りが火の海ならここは血の海だった。獣にでも食い荒らされた後のような惨状が、空間全てを支配している。炎がそれを隠滅するかのように焼いていく。そのとき、巧のポケットが小さく鳴動した。それで正気が取り戻される。金属でできたテントの支柱が熔けて折れると同時、巧は天幕の裂け目を抜けて火の手から脱出する。

 そこから巧が降り立ったのは、テントから少しだけ離れたビルの上だった。頭を押さえる。ひどく絶望的な気分になった。まだ状況を理解できない。

 端末の身体は疎粒子で構成されている。だが、あの場では端末といわれるだけの疎粒子量を感じることができなかった。天幕を沈めても燃え上がるテントを見下ろしながら、巧はそれを思い出す。あれではまるで、誰かが疎粒子をごっそり持っていたようだと。

 ポケットから携帯電話を取り出す。鳴動したのはメールの着信が入っていたからだった。

「誰だ......、デュフォーから?」

 それはデュフォーからのメールであった。文面を開いて愕然となる。本文にはデュフォーが再起不能に陥り、(じき)に完全な稼働停止になること。逢坂美南が逃亡し、デュフォーの疎粒子を奪った破滅衝動が成形しつつあること。そして獅子戸がそれを追って、ある場所へ向かったこと。簡潔に、以上のことが示されていた。

 携帯電話をしまうと文面に載せられていた住所へ向かった。巡り合わせたかのようにそこは学校――巧にとっての、事件のはじまりの場所であった。目眩がした。

 そのとき、巧の脳裏に稲妻ともいえる閃光を伴って、ある考えが瞬いた。

 ふとした拍子に芽生えてしまったある仮定。しかし、そのあまりに荒唐無稽な筋書きに巧は我を疑いそうになった。葛藤の最中でデュフォーに入れられた横槍が、尾ひれを引いて生み落としたものとしか思えない。

 あり得るのか。自問するも答えは返らない。

 確かめるには巧の中の一つの倫理を崩す必要があった。時間はもう残されていない。確認するまで分からなかったが、気付けば時間は矢のように過ぎ去っていたのだ。

 事態が迎えつつある予測のできない展開に思考は鈍りつつある。それは、脚にも伝播した。ふら付きそうになる脚を奮い立たせ、駆ける。今だけは立ち止まってはならない気がした。

 納得ならば、後からでも追いつかせればいい。


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