Embrace
狭苦しい中を突き進む。美南は人ごみが苦手だった。人が自分目がけて飛んで来るミサイルのように見えるからだ。逆行するように、特に人の密な空間を突破して、そうしてようやくのことでそこから抜け出たと思えば、今度は自分の今居る位置がよく分からなくなっていた。
美南は頭を掻き、ひとまず歩こうと思った。見覚えのある場所が見つかればそれでいい。
しかし奇妙なことに、どれほど道を行けども、目に入るどんな建物にも見覚えがなかった。本格的に道に迷ったのではないかと美南が危惧したとき、彼女は遠くにある小さな赤いテントを視界の片隅に入れた。
まるで小さな路地を精一杯占拠するかのように、赤い幕が路地の奥まで続いている。
記憶にない、だが、ざわざわする。美南が覚えた感想はそんなものだった。近づくほどに、胸の中の眠る何かが脈を打つように感じる。それを確かめて、美南は吸い込まれるようにそのテントへと足を向けようとした。そのとき、
「何だ、ここに来たの」
それを止めたのは女の声だった。自分に向けて放たれたような気がして、美南は振り返る。すぐ後ろに少女が一人立っていた。真っ直ぐに美南を見つめている。
少女は制服――美南の通う学校と同じもの――を着ていた。しかしその顔に美南は見覚えがない。美南を見つめながら少女は服の乱れを整えている。走ってきたのか、息を少し切らせているようだ。切れ長の目が印象的である。逃がす気はないと視線が語っているようだ。
「ちょっと面貸してちょうだい」
少女は背を向けてそれだけ言って、美南の返事も聞かずにどこかへと歩き始めた。その背は剣呑さを隠す気が微塵もなさそうだった。断れる雰囲気でもないことを理解した美南は、一度だけさっきのテントを振り返り、少女に従ってその場を後にした。
再び人ごみに紛れるのかと思ったら美南は急に億劫な気分になった。しかし、すぐに自分が人ごみだと思い込んでいたものが、何にもない道端に人が群がっているだけのものであることに気が付いた。妙だなと美南は思った。自分はあそこから出てきたはずなのだが、と。
あれでは人だかりではないか。
人ごみ、ではなく人だかり。
この二つでは意味が大きく異なる。後者であった場合、美南はその中心から出てきたことになるからだ。だが、何が人を集めていたのか美南にはまるで憶えがなかった。
美南は人の居ない空間を難なく進む。美南の前を歩く少女は、人だかりに一瞥もくれようとしない。ただ少女は人だかりを避けるように、その周囲だけは早足だった。
遠くにサイレンが聴こえた気がした。
住所通りに道沿いを進むと、雑居ビルの隙間に奇妙な赤いテントが現れた。テントはビルの隙間を埋めるように直方体に張られている。入り口には怪しげなカーテンが引かれ奥は暗くてよく見えない。テントの生地に透過性はなさそうである。
メモの住所はそこを示していた。巧は周囲を確認する。付近の人通りは少ない。すぐ隣の道では多くの人が行き交っているというのに、この場所だけが疎まれたように街のエアスポットとなっている。
中に入るのに躊躇う理由があった。
このテントの中は、疎粒子の濃度が外に比べて少しだけ高かった。
外に出るときに必ず巧は、常に自身の視界にリクオリアによる矯正を加えている。その状態を維持することで、視界に映り込む疎粒子の影響をシャットアウトできるからだ。
そうして巧の瞳は現在も漆黒に染まっていた。だが、それもテントの前に来てからはさらに濃くなり始めて今では、巧の瞳はまるで宙に穿いた黒点のようになっていた。巧は、それだけ自身のリクオリアが増大していく感覚を覚えていた。
リクオリアの伝導率を上昇させる何かが、中には在る。それは間違いなさそうだった。
はじめ、疎流体に憑依された逢坂美南がすでに中に居る可能性を巧は考えたが、もしここに現れているようであれば彼女を監視する役目のデュフォーから何らかの連絡が入っているはずだと思い至った。それがないということは、テント内から漏れ出る疎粒子が逢坂美南の疎流体とは直接的に関係していないということである。
新手の懸念もある。この情報は報告にないものであり、巧が警戒するには十分だった。
そこで一瞬、巧はテントの入り口に人影を見た気がした。ここまで来ておいて引き上げたのでは不審に思われかねない。後手は御免だと意を決し、巧はテント内へと足を踏み入れた。
獅子戸の調査報告は逢坂美南の交友状況を洗ったものだった。そこから親しい人をたどればどこかで彼女の異変を感じ取った者が現れるのではと獅子戸は期待していたのだが、実際にはそのほとんどが空振りに終わったらしい。何せ、親しい人をたどろうにも、たどるための糸が細すぎたからだ。
「逢坂さんは、これといった友人関係を持たなかったそうなんだ」
ブリーフィングルームで獅子戸は悔しそうに呟いていた。しかしだからといって何故そこで占い師などという怪しげな人物が浮かび上がってきたのか。巧は当然のように不思議がった。
「逢坂さんの家族は現在、遠方に住んでいる伯父が一人だけみたいなんだけど、これがすごい資産家らしくてね。今の彼女の生活は、この人の援助から成り立っているようなものなんだ。そうした逢坂さんの一人暮らしは、今年でもう四年目くらいになるらしい」
一人暮らしを始めた逢坂美南は当時、十二歳。また時期を同じくして、彼女はある場所へと足しげく通い始めるようになったらしい。それがこの場所となるのだそうだ。
深紅のカーテンを潜る。
ここに訪れて何を思ったのか。思春期にさしかかった少女に去来した複雑な心象など、測り知れるものではないと巧は思っていた。ここで知らなければならないことは、ただ一つ。
逢坂美南にとって、ここの人物がどういった存在であったのか。それが、繋がりを持たぬまま思考の海に漂う事実の数々に、共通の柱をもたらしてくれる。巧にはそんな気がしていた。
テント内は光源に乏しく、足元が悪かった。入り口からの光が射して、辛うじて物が見える程度である。奥に進むにつれて、薄いカーテンが何枚にも重なって下りていく。抜ける度に、光も次第に届かなくなり、それと代わるように橙色の光が影を揺らめかせながら、奥の方から漏れ出ていた。蝋燭の灯だと巧は思った。最後のカーテンを抜ける。人工的な光が排除された空間がそこにあった。
「人生に迷ってるって顔じゃないねぇ。こっちも商売だから、冷やかしならお断りなんだが」
机の上に蝋燭と燭台。白チョークで描かれた五芒星で埋まる床。奇妙な人形を無数に吊るされた天井。四方を赤に布張りされた空間。部屋の四隅から香が煙となって立ち込めている。
巧の正面には、木の椅子に座るひどい猫背の女が居た。頭に一枚の布を何重にも巻き付けている。しわがれた声と手元から覗く細い指から、巧は目の前の相手の年齢を想像した。
「何か言いなよ。そこにそうして立っていられると迷惑なんだ。あんたもまた、あたしのことインチキ占い師とかいうんだろ。信じねぇなら来んじゃねぇ」
短い杖を持って剣呑な雰囲気で近付いてくる老婦を前に、巧は周囲に他の人影を探した。
他に人の気配はない。自分のことを占い師だと老婆が確かにそう言うのは聞いた。
獅子戸のいう気難しい人物というのは、この老婦を指して間違いないように思える。
だがそれならば、このリクオリアの伝導率の異様な高まり具合に説明が付かない。
「ほら、去ね!」
巧の視線は、乱暴に突く真似をする老婦の杖と交差する。話をするには、場を落ち着かせる必要があった。巧は努めて落ち着いた声で、対話を老婦に試みた。
「占いにインチキはないだろ。あれは確か学問――習えば誰でも習得できる技術であったはずだ。占い師自身に特殊な才能は要らない。あなたが、それを売りにしているなら話は別だが」
「お、おう?」
「仮にその占いが当てにならないものだったとしても、非難されるべきは占い師でなく、その占いの理論そのものであるべきだ。俺は結果も考えずに、そんなことは言わない」
「お、おぉ? き、客なら、......いいんだよ。悪かったね」
そこで気勢を削がれた老婦は巧へと向けていた杖を床に突いて、はじめに居た位置に戻ろうとする。その歩き方にどこか違和感を覚えた巧は、覚悟を決めて、展開しているはずの自身のリクオリアを解除した。彼の目が暗黒から解放される。蝋燭の灯りが巧の瞳に橙に反射した。
そして、テントの入り口で感じた疎粒子の謎を理解する。あまりにも出来すぎだと思った。
この老婦は、リクオリアを行っていなかった。
「何を占ってほしいんだい? 最近は占い一つやるにしても、やれ根拠だ、やれ信憑性だって疑う気満々で来る奴らが多くてね。うっかりあんなことを言っちまったよ、気を悪くしないでおくれ」
リクオリアを行わない人間は居ない。居たとすれば、それは人間ではない。端末だ。
「抜刀協会のものです。名を千宮といいます。事情聴取を取らせて頂きたく参りました」
巧は老婦に対して単刀直入に切り出すことにした。この人物がデュフォーの同類であることは看破できた。ならば、遠慮も前置きも要らない。この接触に身分を隠す必要もなくなった。
「ん? なんだい? 抜刀協会ってのは? 初耳だね。うむむ、......見える、見えるぞ」
老婦は不思議そうに首を傾げ、机の上の水晶を引き寄せて何やら難しい顔をし始めていた。
獅子戸から、占い師にはこちらの素性を明かしてはいないと伝えられていたが、すでに把握されているものと巧は考えていた。もしこの老婦が端末であるなら、巧は瞳を見られた時点で自分から正体を明かしたのも同然である。疎粒子の機微を端末が見逃すはずがない。思えば、巧が現れただけでこの老婦は文句を付けて、取りつく島もなく帰らせようとしていた。あれは明らかに不自然な挙動といえた。今の巧には、占い師の言動全てが白々しく思えていた。
「知っているだろう」
「......どうして、そんなことがいえるんだい?」
「あなたが端末であることは、すでに割れています」
巧の言葉に水晶を撫でる老婦の動きは止まった。その顔が、しわ一つない無表情に変わっていた。観念でもしたように見えた。しばらくの沈黙の後、老婦が放った声は先ほどのしわがれたものとは打って変わって流暢で、それでいて美しいものであった。
「......この間来た、あの腰抜けよりはまだマシのようだね」
巧は獅子戸の引きつった愛想笑いを思い出し、納得する。なるほど、この人を食ったような占い師は善人が相対するような手合いではない。
「抜刀協会、ね。こうして協会と会話をするのは何年ぶりになるのかな、......鑑定眼さん?」
「俺を知って」
その呼び方に、巧は全身を緊張させた。思わず、入り口までの距離を確認する。
「おや、協会の千宮とくれば鑑定眼の名で有名じゃないか。普通の人間と端末を一目見ただけで識別できるって聞いてたから、記憶にあったのを思い出したのさ。あーあ、あたしも、その名前だけには気を付けていたんだけど、どうやら年貢の納め時ってヤツなのかもね。あんた、人様の感情が視えるんだって? なかなか難儀な人生じゃないか」
「......語弊はありますが否定はしません」
「それだけでも使い方さえ間違わなければ、いくらでも稼げそうなものだけどね。ひひひ」
それから老婦は一度だけ溜息を吐いて、立ち上がった。激しく背骨の鳴る音がして、猫背が引き伸ばされる。老婦は、巧の考えていたよりもすっと長身であった。素顔を隠している布が解かれる。
巧にとって端末の外見と内面が一致しないのは当たり前のことだった。様々な容姿となって現れるデュフォーという同僚が、巧に先見の明を与えていたからだ。故にこの老婦の声や猫背が偽装されたものであることに対し、巧は大した驚きは見せなかったのだが、老婦の顔を覆う布の下から褐色の肌が覗き、目の前に妙齢の女性が現れた瞬間、巧は思わず老婦の姿を探してしまっていた。美声は、紛れもなく目の前の女性のものある。
「ふふん。どうだい? 自分でいうのも何だけど結構いい女だろ? 抱かせたら見逃してくれたりしないかい? 好い声で啼いてやるからさ」
女占い師は前屈みになり胸を寄せ、扇情的な目付きで巧を見つめる。巧はそれを無視した。
「これは教会の指示なのですか」
これ、と巧は水晶を指差した。占いの店を開いていること、という意味のつもりだった。
巧にとって、その確認は重要なものであった。もし教会の管轄であるならば、デュフォーが知らないはずはない。しかしその情報は巧の耳に入っていない。ならば、この女占い師は教会が把握し損ねている端末ということになる。
そんなことがあり得るのか。巧はその疑問が晴れぬままで話を進める気はなかった。
一方の女占い師は、まるで巧を面白くないものでも見るように睨みつけ、いかにも不貞腐れたといわんばかりに乱暴に椅子に座り直した。しかし受け答えは存外、素直なものだった。
「いや、あたしはもう何年も前に教会と手を切ってるんだ。いうなれば、はぐれ端末なのさ。向こうさんはあたしを処分したがってるみたいから、こうして隠れてんの。これは日々生きる糧を得るために、手に職を付けた結果だよ」
巧は驚愕した。女占い師の語る話は、にわかに信じ難いものであったからだ。
「なんだい、てっきり追っ手がたどり着いたと思ってたんだけど、どうやら違うみたいだね。まぁ、私がここに居ることが教会に伝わるんだからどっちでも一緒か。あーあ、難儀だよ」
「待ってくれ。はぐれ端末? 何だそれは」
「あんたたち抜刀協会の人間ってのはいつだってそうだったけどさ、あたしたち端末の仕組み全然分かってないよね。そんな難しいもんでもないのに」
巧の動揺を弄ぶように、女占い師は商売道具であるはずの水晶を転がして遊んでいた。
「いいかい、端末っていっても何も機械人形じゃないんだ。そりゃ体は人造物だけど、意識は本体と共有している。もしあんたが端末に話しかければそれはそのまま本体に話しかけたことになり、逆もまた然り。あたしたち端末は常に本体と信号を送りあって、本体の手足耳口の延長となってるんだよ。だからこそ端末と、そう呼ばれている」
ところがここからが面白いところでね、と女占い師は愉快そうに言う。
「あたしたち端末は本体と意識を共有してるんだけど、別に意思を共有してるわけじゃないのさ。実際に肌で感じてるあたしと情報を処理してるだけの本体のあたしとじゃ、物の受け取り方が全く違う可能性だって、ごく稀にだけど存在はしているんだ。端末には端末の、本体には本体の、意識のブラックボックスがあるというわけでね。そして」
そして、と突然女占い師は不意に立ち上がる。水晶がその衝撃で机から落ちて、割れた。
「はぐれ端末というのは、本体のブラックボックスを予測できなかった端末たちがたどる末路なんだよ。あたしはね、本体のあたしの、教会への謀反を予測することができなかったんだ」
謀反。
巧は、その言葉の規模がどの程度のものか捉えかねた。体制への反発にしても、並々ならぬ響きがある。同時に、女占い師のいう謀反の動機をまるで想像できずにいた。
しかし、それは仕方のないことなのかもしれない。自身のブラックボックスは当人でさえも見透かせないものであったことを、女占い師自身が証明している。
「あたしの本体だったあたしはどうも、教会と抜刀協会の対立に嫌気が差す、俗にいう良い人だったらしくてね。自分で全端末との回線を切ってどこかへ逃亡しちまいやがったんだ。あとはあたしも、糸の切れたマリオネットと為れば後々楽だったんだろうけど、どうも端末というのはそんな簡単なものではないらしくてね。あたしは端末のまま、あたしのブラックボックスで自我を得た」
女占い師は水晶の破片を危なっかしそうに踏みつけながら、やっぱ安物だな、と言った。
「体は作り物の端末で、でも心は本物のつもり。妙な気分だったよ。接続を切られたその瞬間から、あたしは一人になったのさ。あたしは死ぬのが怖かった。どんなに信号を送っても本体はあたしを置いてどっかに消えちまってるし、待ってるのは消滅だけだったから」
「消滅」
巧は同僚の抱える問題の一つであるそれに、すぐに思い至った。バッテリー切れである。
端末は、消耗品であることを前提に設計されている。端末の任務の一つに、宿主と思われる人物と接触して疎流体の存在・属性を確認するというものがあるからだ。これは多くのケースにおいて、昨夜のデュフォーのように端末自体が行動不能に陥る場合が多い。故に、恒常性を検討されている端末は、巧の知る限りで聞いたことがなかった。
壊れたらそれまでを念頭に開発されている以上、端末は短期使用のバッテリーを用いられて駆動している。しかしその供給も尽きてしまうと疎粒子群の高密度体である端末の、疎粒子を拘束する機能が失われ、端末の体は崩壊を余儀なくされる。
「不思議な顔をしているね。だったらあたしが、どうやって今まで、いや、こうした今も体を維持しているのか分からないって、そんな顔だ」
「逢坂美南......でしょう。それしか考えられない」
すでに巧の中では、逢坂美南とこの場所を繋ぐ糸が生まれつつあった。この女占い師が存続できたことに必然性を持たせるには、逢坂美南は適任だ。
「逢坂美南のここの出入りは把握しています。今の――いえ、いつ頃からかまでは正確に分かりませんが、彼女に疎流体が憑依していたのは確実です。それを端末であるあなたが見逃したはずはありません。疎粒子が足りないのであれば補えばいい。そう考えたあなたは、自分の体から欠落していく疎粒子の分を、逢坂美南の疎流体から奪っていたのではないですか」
美南の名前が出た段階で、女占い師の美しい眉が一瞬だけ歪んだのを巧は見逃さなかった。
「そこまで知ってるのかい。ご明察だよ。鑑定眼さん。この来訪の目的は、それかい?」
巧は頷く。女占い師に、抵抗を見せる様子はない。嘘を吐いているようにも思えなかった。そうかいと彼女は言い、どこか後悔の念にでも浸るように目を閉じた。
「あの娘があたしの前を通りかかったのは本当に偶然だった。綺麗な満月の夜だったよ。今でもはっきり覚えている。今でこそこうして身なりを整えちゃいるが、そのときはあたしも連日地べたを這うように生き延びてたんだ。崩壊していく体を何とか必至に抑えつけてね。道端のゴミみたいにボロボロだったんだよ。そんなところに、あの娘は現れた。あと二三週間ぐらいで成形を終わらせそうな疎流体を抱えてさ。教会の人間として行動したつもりはなかったよ。あたしは藁をも縋る思いで、その場であの娘を押し倒して奪った」
奪った、と女占い師は言った。目的語がわざと曖昧にされているようであった。
「あんた知ってる? 教会じゃ御法度だから割りと常識なんだけど、疎粒子というのは個体間での譲渡が可能なんだよ。ただそのときに、肉体を越えた精神領域での接続が必要なだけで。まぁあたしが何と言おうが、あの夜、あの娘から見ればあたしはただの陵辱魔だった」
女占い師は語った。逢坂美南の疎流体を、彼女ごと貪るように蹂躙したのだと。
「おかげで、あたしは生き延びられた。全てが終わってもね、あの娘は何も言わなかったよ。思えば、あのときすでにあの娘は壊れていたんだから、当然だったんだね。あの娘があたしを生かし、あたしがあの娘を生かす。そんな、あたしから一方的に押し付けた共存関係はその後も続くようになった。あの娘の不幸を利用してることに胸は痛んだけど、あの疎流体を本気で解決しようと思ったら、あたしの居場所が教会の連中にバレることになるし、何よりもあたしが終わる。あたしだって自分の身が一番可愛かった。だから脅してでもあたしのために生きてもらうつもりだったのに、そんなことをせずとも、あたしが苦しいというだけで一緒に居てくれた。あの娘はきっと根がどうしようもなく優しい娘なんだ。あたしはそれに甘えたんだ」
女占い師は逢坂美南を搾取することで生存し、美南は女占い師から搾取されることで疎流体から身を守った。だがその関係が継続していたのならば、昨夜の美南の疎流体が成形手前まで進行していたことに矛盾が生じるのではないのか。
いや、あり得る。と、巧はすぐに思い直した。
リクオリアの規模・頻度は、十代から二十代にかけて飛躍的に増大する。出会ったばかりの美南が十二歳としても、そこから彼女の感情量は、増加の一途をたどったはずである。美南の疎流体にとって、それは疎粒子の供給量の絶対数が上がったということになる。仮に女占い師が、美南からどれほど疎粒子を削っていたとしても、徐々にその量が女占い師の手に余るものとなっていったのは時間の問題といえたはずなのだ。
「......それに、あの娘にはあれがあった。あれのせいで、教会に渡す気にはなれなかった」
巧はそこで気付いた。女占い師は観念しているというよりも、まるで懺悔でもしているかのように話している。嘘を吐けるようにはとても思えぬ悲愴さが、全身から滲み出ていた。
「だから、あたしのせいでもあったんだ。あの娘があんな風になっていったのも」
――あんな風に? すかさず巧の脳裏に、思い当たる事柄が浮かび上がった。
「それは、記憶障害を指しての」
「そこまでお見通しなのかい。大したもんだね」
巧は興奮した。
「......っ! あれがこの件とどの程度関係している! やはり、あれは疎流体によるものなのか? 逢坂美南はあなたのことさえも忘れてしまっているのか?」
繋がりを待たぬまま思考の海を漂い続けた情報が、ここで一気に核心へと橋をかけたような気がした。巧は、思わず落ち着きを失いそうになる自分を諌める。
「はじめの頃は、まだ今よりもマシだった気がする。少なくとも一日前に話した内容を覚えてくれていたから。あたしも、きっとあの娘の疎流体が原因なんだと思ったよ。そしたら何だかあの娘が難儀に思えてね。自分の都合であの娘を喰い物にしていることに腹が立っていたのもあったのかもしれない。でもね、すぐに気付いたよ。あれは違う。あの忘れ方は違った。あれはあの娘になくちゃならないものだったんだ」
「違う?」
「あの忘れ方は多分正しい。だからあの娘の忘却に、あたしまで組み込まれるようになってもあたしは疎流体を殺す行動を起こすことができなかった」
「どういう意味だ。......正しい?」
「あの異常な忘れ癖が、そもそも疎流体からもたらされたものなのかどうか、あたしには分からない。あたしが気付いたときには、すでにああなっていたから。ただ、あの娘はすでにそれを扱いこなしていたんだ。想像できるかい? あの娘は自分が何も知らないでいることをものともしてないんだよ。あの娘の安寧は、全てを忘れることで成立しているのさ。全てを忘れることでこそ、あの娘から不幸は遠ざかっているんだ」
巧は動揺した。逢坂美南の抱える記憶障害がそれほど根の深いものとは思いも寄らなかったからである。美南の忘却が彼女にどんな意味をもたらすのか、巧は考えもしていなかった。
忘れることで平穏を手に入れる。それが逢坂美南の、処世術。
あらゆる物事を忘却して生きるという逢坂美南の在り方は、現在の彼女を語る上で、すでに見逃すことのできないものとなっている。確かに、全てを忘れてしまえるというのであれば、嫌な記憶――ストレスを招くあらゆる物事からも解放されているともいえる。
延いては不幸を遠ざけている、ようにも思えなくもない。だがそれはやはり当人の問題だと巧は思った。人の幸不幸を他人が定義することは許されるものではない。
「分かってる。あの娘が不幸かを決めるのがあの娘自身なら、それが幸せかどうかもあの娘が決めるしかない。でもね、あたしにはあの娘が全てを忘れることで救われているんじゃないかと思えてならなかった。実際、あの娘はあれで何にも問題がなかったんだ。異常だろ。何にも覚えてないはずなのに、あの娘はあらゆる事態に適応できていたんだよ」
あらゆる事態、というものに巧の想像が追いつかない。すでに逢坂美南という人間は、巧にとって理解の外の存在となりつつある。
「疎流体の影響もないわけじゃなかったんだろう。月日が経つと、少しずつあの娘の疎流体が増大していく気配は感じられたよ。だがそれでもあの娘はいつも通りだった。さすがのあたしも色々聞かずにはいられなかったよ。自分がどんな荷物持っていたのかも憶えないあの娘に、学校の勉強はどうなんだとか、ここまで家からどう帰るんだとか。そしたらあの娘はいつも、どうしよう、って本当に困ってるみたいな顔になるんだ。そんなの考えもしなかった、って」
恐らく、そこでの逢坂美南の懸念は不備なく解決されたことになる。獅子戸は美南の特殊性に関して一切言及しなかった。況してや、普通の女の子と言い切った。ならば彼女にとって、その程度の事態とは日常の範疇を出るものではないに違いない。
女占い師の話は聞けば聞くだけ現実味を失くしていく。しかし、巧はここでようやく美南の日常というものを想像するに至った。
彼女の一日は、例えばこうだ。
朝、起床して、部屋にある制服を見て、まず自分が高校生であることを知る。近辺の建物と道行く人から通学路を推理して登校し、いくつもある教室から自分の座席を見極め、限りある時間の中でたどり着く。授業の内容は、恐らく初めて目にする光景ばかりになる。見たことも聞いたこともないような領域の語学、方程式、化学原理、歴史が軒を連ねて彼女を待ち受けているのだ。しかし、彼女はそれらの事態にも不備なく対応する。授業以外の時間帯も、彼女の対応は続く。周囲の反応だけで会話を繋げ、人間関係を把握し、正否を測る。はっきり言って周囲の人間とは常に見知らぬ人になる。彼女が自分の持つ荷物さえ覚えられないというほどであれば、会話したばかりの人間の顔を記憶しているかどうかも怪しい。これでは異界を歩くも同然だと巧は思った。
いよいよ帰宅する時間になって、彼女は一体どうするのだろう。学校を推理しながら訪れたのと同様に、自分の住居を様々な情報を元に向かうのか。彼女は一人暮らしのはず、それでは仮に無事に家に着いたとしても、到着した場所が自分の住居であることを保障してくれる人はいない。正解かどうか分からないのではないか。
いや、違う。恐らくこれも正解になるのだと、巧は悟った。
逢坂美南の実生活に目立ったものはない。そんなことが頻繁に起これば、獅子戸の耳に入らないはずがない。そして獅子戸はそのことを口にしなかった。つまり、彼女は常に正解を出し続けていたのだ。
そして、次の朝が来る。疎流体が成形しつつあるという時限爆弾を抱えたまま、逢坂美南はまず自分が高校生であることを理解するのである。
背筋が凍る。確かにこれは、異常だ。
そもそも巧にとって、学校という空間は細やかな想像を巡らせるには不向きの場所である。だが、それでも逢坂美南の異常性は明らかだった。
「有能とはただそれだけで敵を作る。もしかしたら大きすぎる才能をセーブするために、あの娘はあんな風になっちまったのかもしれない。だけど、あの娘はあのままがいいんだ。あれはあの娘を守ってくれてる。はじめから、あたしが干渉できるような問題じゃなかったんだ」
逢坂美南と女占い師の関係は、美南の忘却の規模がどれほど進展しようとも、変わることはなかったらしい。女占い師は、美南を常に初めて訪れた客として扱ったそうなのである。
美南の好む茶と香と話題を網羅して待っているのだ。彼女は当然喜ぶ。そして、その場面を女占い師はすでに何度も見てきていることになる。
全く同じ映画の一場面でも繰り返すように、何度も。
茶番めいている。滑稽で、救いがない。巧は、美南以上に占い師が分からなくなった。
この女占い師は、美南をどんな心境で見つめていたのだろう。罪の意識が常に付きまとっていたのは間違いない。少女が、自分のせいで徐々に狂っていくように見えただろう。せめて、小さくても幸せな時間を作ろうと腐心して、繰り返すことしかできなかった四年間――それをたった今介入した自分が推し量ることなど、到底できそうに思えなかった。
「あの娘、ここに入って来て、いつも最初にあたしに何ていうか知ってるかい?
ここに居てもいいですか? あの、ここって何してるところなんですか?
おかしな話だろ。まず『ここに居てもいいですか』と聞くんだ。それから『ここって何してるところなんですか』と聞くんだ。自分がどんな所に居るのかも分かってないのに、どうしてここに居たいなんて言葉が先に............先に出て来るんだろうね。何もかも忘れるんだったらどうして、ここに来てしまう気持ちまで消えてくれなかったんだろうね。残酷じゃないか」
女占い師は一瞬言葉を詰まらせていた。見ると、目頭を抑えている。蝋燭の灯りは、濡れた頬まで照らさない。このとき、端末にも涙が流れることを巧は初めて知った。ここに居るのは確かに人間である、巧はそう思えた。
「逢坂美南が明確にあなたを忘れ始めたのが、いつ頃からか分かりますか」
「分かるよ。あの娘が忘れるんだったら、あたしがその分も覚えていようと決めてたからね。初めてあの娘がそんなことを言ったのは、確か二年ほど前からだ」
少なくとも、このテントが確認されたのは四年前。
その段階で逢坂美南に疎流体が確認されていたとなると、美南が疎流体と出逢っていたのはそれよりも前ということになる。そしてそれからずっと、疎流体に苛まれていたということになる。常人であれば、とうに廃人となっていてもおかしくはない。
それが継続できた理由は一つ。皮肉にも、全てを忘れることで逢坂美南の精神は疎流体から守られていたのだ。
「お聞きしますが、逢坂美南に憑く疎流体の正体があなたには分かりますか。四年も傍に居たのなら、何か疎流体の片鱗ぐらいは掴めているのではないですか」
「......はて? そういうのこそあんたたちの専売特許じゃないのかい? とりわけ、あんたの中の十八番だろ。しがない占い師のあたしが役立てることなんて、高が知れてるよ」
「この疎流体の発露する感情の正体は理解できます。だけど、それをまだ言葉にできてない」
「? 不思議な言い方をするね。言葉にすることがそんなに大事?」
「俺にとって。言葉に出来なきゃ、何と戦えばいいのか分からなくなるときが、たまにある」
「難儀な性だね。言葉にせずにいられない? それも、その目の弊害かい?」
女占い師は、巧を値踏みするような視線を向けた。巧は、ここで視線を逸らしてはならないような気がした。
「他人の感情が分かれば、それでその人のことを知れた気になれるのかい?」
女占い師の言葉に、巧はデュフォーの言葉を思い出す。傲慢だ、と巧を罵った言葉を。
巧はそれに何も言い返すことはしない。それを見た女占い師は、一度だけ長い溜息を吐くと途端、穏やかな顔になって、どこかへ遠くに視線を向けた。
「職業上、他人を見透かした目を持つ奴には、これまで数えるのが馬鹿らしくなるほど会ってきたが、あんたはそのどいつとも似ちゃいないね。見透かす奴は大抵、本人の解釈を反映させてるもんだが、あんたはそこんとこが妙に違う。こりゃ、見透かすってよりも見届けてるっていったほうがいいんじゃないかね」
「同じに聞こえます」
「ふふ、そう聞こえるかい。残念ながら大きく違うよ。人は解釈もなしに物事を認識できないもんなのさ、普通はね。しかしあんたはその目のせいで、解釈より先に認識が生まれちまってる。だから、後になってから意味を求めて奔走しちまうことになるんだ。それは主体性がないことの証明。人を視る動機がないのに、視えてしまった故の感性なんだ。あんたは今の人生と生きる理由をその目から与えられた人間なんだよ。............ああ、そうだったのか」
ふと、何かを思い出したように女占い師は巧を見つめた。
「どうして初めて会ったあんたなんかに、あたしがこんなに饒舌になれるのか不思議だったけど、何てことはないね。......あんたはあの娘に似てる。だからだ」
誰かを投影している。女占い師の視線には慈しみが込められているように、巧には思えた。
「......あなたは逢坂美南の」
「で、疎流体の正体に心当たりだっけ? そうそう、レミング現象ってのはご存知かい?」
不自然に、巧の言葉は先を制された。巧は言いかけたものを呑み込みざるを得なかった。
「死に向かう衝動に感化された............末路」
「あの動画を観たんだね。ひたすらねずみが走ってるヤツ。この手の疎流体が相手となると、教会はあれを渡すことにしているのさ。馬鹿の一つ覚えみたいにね。教会は、疎流体がどんな起源を持とうが知ったことじゃないって考えだから。でも、あの娘の疎流体の正体を見極めようとするなら、あれだけじゃきっと解釈不足だ。あんた自身、そんな気がしてるんだろ?」
巧は頷いた。誰に何といわれようと、ここでの曖昧は彼にとって許せるものではない。
あの娘の場合もっとひどいよ、と女占い師は続ける。
「自ら死に向かう。それならまだマシさ。十分ひどいが、最悪じゃない。あの娘に憑いている疎流体の起源は、最悪のそのまた向こうの感情だよ。言葉にできないってなら、あたしが命名してやる。あの娘に憑いてる正体は『破滅』だ。あの娘は今、破滅するために生きている」
「破滅」
それが逢坂美南の疎流体の『行動原理』。
巧は昨夜の逢坂美南との接触を振り返る。あのとき、美南は巧を警戒する表情を見せながら片手間でデュフォーを解体していた。
「......そうか。破滅させるならば、何も自分を対象にする必要はない」
美南の手を借りた疎流体は、破滅対象として美南ではなくデュフォーを選んだ。デュフォーが先に狙われた理由は、単純に彼女が端末であったからに他ならない。ただ、それだけ。
疎流体は疎粒子に飢えている。考えてみれば、なんと単純なことか。
記憶障害も『行動原理』も、一から巧の想像に収まり切れるものではなかったのだ。
デュフォーの放った言葉が、巧の心に激しく刺さる。
――ロジックを敷こうなんて無謀だよ。そういう手合いなんでしょ? 疎流体ってさ。
レミング現象という先入観があったことは否めない。それ以上に、紫の疎粒子であったことが巧に冷静さを失わせていたのかもしれない。前例がなかったせいで、巧には逢坂美南の疎流体が特別に視えていた。しかし特別なことなど何もなく、ただ彼の特別扱いが存在したに過ぎなかったのだ。これは、眼に囚われ過ぎた結果に他ならない。この眼は、間違っているのか。巧はそれ以上を考えないように努める。努めねば、動揺が収まらない。
「どうしたんだい? 顔色が悪いね」
「......存在理由が破滅というのは、矛盾が過ぎる」
「はっ、疎流体に矛盾は付き物だよ。あいつらに倫理や合理性を持ち込む方が非常識だ」
何言ってんだい、と女占い師は一蹴する。
「......そこまでの疎流体と知っていながらも、あなたは逢坂美南と」
「全くだね。いずれ破滅が起きるなら最初にあたしが殺されるべきだと思ってた。端末としての義務も果たせるし、何より罰になる。我が身可愛さに、あの娘を取り返しの付かないところまで行かせてしまったあたしの、罰に」
静寂が訪れた。巧は目の前の女占い師に、それ以上何も言うことができなかった。
この女占い師が逢坂美南に対して、ある親愛以上の気持ちを抱いていることは確かだった。でなければ、ここまでの固執に説明が付かない。まるで母と娘の関係のように巧には思えた。
彼女たちの在り方は、果たして間違っていたのだろうか。
彼女たちが、一体何と闘ってきたのか。今ここにある結果から、彼女たちの道程を想像することは難しいと巧は思った。
ふと巧の目が、机の上にある人形に止まった。茶の生地で出来た親指大の人形。一部が裂けて、中に入っている綿が零れている。それだけが大切そうに、他の雑多なものから避けられて置かれているように見えて、巧の関心を惹いた。
そのとき、静寂を打ち破るように、巧の携帯電話が鳴動する。
巧の意識が強制的に現実に引き戻される。反射的に通話ボタンを押していた。
「やばい、たくみ! やられた!」
聞こえてきたのはデュフォーの声。その切羽詰ったような声は、巧の体に緊張を奔らせる。
「どうした」
「逢坂さんの傍に置いといた端末から信号が消えた!」
それがどういった意味であるのか、巧は即座に理解する。
教会から支給された端末は全部で三体。
一体は昨夜、美南によって破壊された。もう一体――今この電話口の向こうのデュフォーは本部に待機してもらっている。そして、美南の監視には最後の一体が任に当たっていた。
その端末からの連絡が途絶えた。それは美南が消息不明の状態に陥ったことに他ならない。
――やられた?
「待て、やられたと言ったか」
「そうだよ! 突き落とされてんの! 詳しくは分かんないけど、再起不能だって! 誰かの仕業! りょうならさっき逢坂さんのところに向かったよ! 巧のほうが多分近い!」
現状の認識は、焦燥を伴った。情報が不足している。それでいて緊急性がある。
「......最後に確認できた逢坂美南の位置は」
巧は、美南を最後に観測したという大まかな位置情報を受け取って、通話を切り上げる。
「行くのかい?」
女占い師が尋ねる。巧は、この人物をどう報告する必要があるのか考えて、報告の必要なしとして背を向けた。それに女占い師は、一瞬だけ虚を突かれたような表情になる。
「いいのかい? あたしは逃げるかもしれないよ」
「逃げたら捕まえます。逢坂美南には、あなたが必要だ」
「......何を考えてんだい?」
「俺たちには疎流体を倒すことしかできない。だから、逢坂美南を救うことができるあなたの役を俺たちが担うことはできない」
「救う、だって? あたしはあの娘を喰い物にしていたんだよ?」
振り返る。巧は、この女占い師を救うことができるのもまた、逢坂美南だけだと思った。
「たとえ始まり方が間違いだったとしても、今のあなたも今の逢坂美南もお互いを必要としている。誰かが彼女を守ってやらなくちゃいけないのだとしたら、それは俺たちではなくあなたであるべきだと思う。あなたが望んでいる贖罪の機会は、そこにあるかもしれない」
「......贖罪。このあたしが赦される、とでもいうのかい」
「それを決めるのは俺ではないというだけです。当人である、あなたたちだけだと。感情論で物をいえば、きっとあなたを逢坂美南ごと追い詰めることになる。俺は疎流体が倒せればそれでいい。俺の闘争はそれだけです」
「闘争?」
「人は誰しも、何かと闘争しています。あなたの大切なものは、あなたなりの守り方で守ればいい。それがあなたの闘争になる。俺があなたの闘争を止めるのは、それが俺の闘争となったときだけです。それでは」
巧は、その場を後にする。声が上がりかけて吐息となったのを背中越しに感じた。
外に向かうにつれ、大気中の疎粒子に色が着きつつあった。視野に矯正をかける。巧の瞳は再び黒へと染まった。これを捨てて生きる自分を、巧は想像することができない。
だが、同時に知りつつあった。
眼を使わずとも人を理解した気になれる。
これが普通なのか、と巧は思う。だとすれば人の繋がりとは、何と脆く恐ろしいのだとも。
あの女占い師は端末――リクオリアを行わない。巧に放った言葉の、そのどれだけが真実であったのか、所詮は印象でしか分からない。けれど巧は信じたいと思えていた。彼にしてみれば、それはとても奇妙な感覚だった。何と形容したらいいか分からない感情を伴っていた。
テントを抜けるとその感覚もどこかへと引っ込み、代わりに緊張を帯びた使命感が全身から生まれてくる。巧は意識を出来得る限り、そこに埋没するよう集中した。
呟く。これから臨むことになるかもしれない相手を確認するように。
「......『破滅』......『破滅衝動』......レミング、............『破滅衝動』」
名前が分かった。戦うべき相手の輪郭を掴んだ。この意味は大きい。
内に秘めた破滅的欲求を増幅させる疎流体、破滅衝動。おそらく、人が持つことの許される感情の類で、最も忌避されるべき情念。
自殺願望ではない。いや、それすらも内包している。これに逢坂美南は四年にも渡って憑かれているのだ。惹かれて、さらにそれを忘れている。こうして今でも、彼女はその破滅衝動に襲われている。想像を絶する話だ。
――いつも思うけど疎粒子が視えるとか反則だよね。巧は疎流体の天敵じゃん。
デュフォーがブリーフィング中に、巧を指して放った言葉が思い出される。
それは違うと巧は思った。思っていても言わなかったのは、獅子戸の前だったからだ。
視えたから何だというのだ。
巧の認識は、まるで真逆だった。
疎流体は巧の世界を脅かす。彼から言わせれば、疎流体こそが天敵だった。だから闘わねばならなかった。視えてしまったが故に、彼は疎流体からの逃走を許されなくなっている。
――その闘争こそが君の証明になるだろう。
獅子戸の言葉に救われて以来、千宮巧が千宮巧であるための証明はそうしてなされてきた。
強迫観念めいている。巧自身、それを否定していない。
急行する足は加速する。立ち止まることだけは、きっと許されなかった。
どこに向かって歩いているのか、美南にはさっぱり分からなかった。前を行く少女はさっきから一度も口を開こうとしない。話しかるな、と背中が語っている。
そもそも自分がどこへ向かって歩いていたのか、どうしても思い出せない。当てもなく街を彷徨っていたとでもいうのか。美南はすぐに否定する。それはあり得ないだろう、と。
漠然とした不安が去来するも、そう浮き足は立たない。危機感がないからだ。人は非日常を認識するために多大な危機感を必要とする。しかし不安が漠然であればあるほど、それに付随するはずの危機感は希薄になる。美南もまた当然のように、自分の行為に対して何も危機感を覚えることはなかった。別に目的もなく歩こうと思うくらい、おかしくも何ともないだろう。そう考える感覚から、明確な危機感だけを抽出するのはどんな人間でも難しい。
美南がこんなことを気にし出したのも、すべては目の前の少女のせいである。
――何だ、ここに来たの。
少女は確かにそう言った。まるで、美南の行く先に当てがあったかのような物言いだった。
この少女は何者なんだろう、と美南は考える。警戒は解いていない。人通りが少ない場所に向かうようであれば、あるいは逃げることも考えていたのだが、美南の予想とは反して少女は人通りの多い場所を選んでいるように見えた。そうして、美南は見覚えのある大きな建物へと到着していた。
駅だった。ここには大型ショッピングモールも併設され、中が活気付いていることが建物の外からでもよく分かった。人目を避けるなら、ここほど向かない場所はない。
「どこに向かってるの」
思わず声が出た。少女が振り返る。聞こえる距離だとは思わなかったので、美南は驚いた。
「あなたの家よ。帰り方分からないんでしょう」
少女はそれだけ言い放つと改札に行き、二人分の切符を買ってきた。一枚を美南に渡す。
「あ、ありがと。あの何で」
「いいわ。行きましょう」
何で私が帰れずにいたことが分かったの、と続く美南の言葉は遮られた。少女の態度は実に素っ気ないものだ。そもそも話す気がないらしい。先導されるがまま美南は少女の後に続く。何となく主導権を握られているのが分かった。
美南は少女と並んで駅のホームに立つ。乗るべき方面の電車を少女に教えてもいないことに美南はすぐに気が付いた。切符を見ると、料金は美南の家の傍の駅までのものである。
気がかりも積み重なれば不安になる。不安は、少女という立体的な形となって、美南の身を震わせ始めた。ここにきてようやく美南は、少女の思惑を知らずにいることに恐ろしさを感じ始めた。面を貸してほしい、といっていた少女の言葉が今になって物騒に思えてくる。
少女に尋ねる声も、自然震えたものとなった。
「あ、あの」
「あんなインチキ占い師の話なんか、聞かなくていいのよ」
美南の言葉はまたも少女に制される。だが美南は、少女の言葉の意味を理解できなかった。
思い当たるものを必至に探す。だが、何も出て来ない。美南は、自分の生活には占いという単語自体が出てくることがないと思った。
「あの人は、あなたみたいな人と住む世界が違うの」
「ち、違う、って? そのあの」
「あなたには相応しくない輩という意味。私たちには住み分けは要るのよ、逢坂さん?」
少女のいう住み分けの意味がよく分からない。だが美南にはそれが、ひどく差別的な響きに感じられた。少女の視線は冷たく、それによって切れ長の目がより攻撃性を帯びた気がする。美南はついに少女の猛禽類のような眼光に耐え切れず、彼女から視線を逸らしてしまう。
逸らした先には大きな広告看板があった。近隣にある塾の広告であるらしく、受験生を鼓舞する文句が中央に大きく描かれていた。少女が美南の視線に気付く。すぐ横で、鼻で物を笑う仕草を美南は耳にした。
「ねぇ、私が一番嫌いな言葉知ってる? それは『努力』よ。あの言葉が耳障りだと思わない日はないわ。どうして世の中って、あれをあそこまで成功の象徴のように掲げていられてるのかしら。いつ考えたって理解不能よ」
「......どういうことですか」
「成したいこと為すなら、その過程を当然のようにこなす必要がある。でも『努力』とかいうくだらない概念が介入するせいで、大抵の人間はストレスを率先して自覚せざるを得ない状況を自ら作り出すことになる。在りもしないプレッシャーを感じようとしている時点で、自分が器じゃないことくらい分かりそうなもんなのに。どいつもこいつも生粋のマゾ? ってカンジだわ。あんなものに精神を委ねてしまえば、そりゃ挫折して当たり前だとは思わない?」
「そ、......そんな風にいうの、よくないと思いますよ」
美南が思わず非難した。少女の言葉には距離を置きたくなるような独善性があったからだ。自分も一緒だと思われたくなかった。
「あら、......あなただったら共感してくれると思っていたんだけど。成果を得るための努力は必然ではあっても、必至ではないって」
「それでも、努力すること自体に意味はあると、......思います」
「意味なんて慰めのためにあるようなものよ。結果がなきゃ、どんな意味だって無価値」
「私には、わ、わかりません」
少女がどんな答えを期待していたのか、美南には分からなかった。ただ、少女が美南の返答に対して残念そうな表情を浮かべていることだけは分かった。
美南は少女との面識を再三確認するも憶えはなかった。一方で少女は、美南とは旧知の仲であるかのように接している。美南と少女との距離感がお互いで違っているのは明らかだった。
「......あの」
確かめたい。目の前の少女が自分にとってどういった人物であるのか、美南は確かめずにはいられない。
「あなたは一体誰、なんですか? 私、あなたが分からなくて、その」
名前を知らない相手を信用するのは難しいのだ、と、そう続けようとする美南は次の瞬間に戦慄した。美南を見つめる少女の目が、美南を射殺さんばかりに見開かれていたからだ。
美南は、蛇に睨まれた蛙となって口をつぐむ。禁句を口にしてしまったのだと思った。
「......そう、やっぱりあなた、私のこと眼中にもなかったわけね」
「ごめんなさい。私」
「謝らないでよ。余計、惨めになるじゃない」
嫌な沈黙が降りた。だがそれも、けたたましいサイレンによってすぐに掻き消される。電車が美南の立つホームを通過する旨を知らせるアナウンスが流れ始めた。
そのとき、黄色い線の外側へと告げる声に反して何故か少女は黄色い線を跨ぎ、半身を線の向こうの世界に置いた。美南はその行為を不審がった。少女は構った様子もなく、美南を振り向きながら口を開く。
「......夜宵。夜に宵、って書くの。それが私の名前。今度こそ覚えてね。こう何度も同じ人に名前を名乗っていると、自分でも滑稽に見えてくるから」
夜宵と名乗る少女はさらにもう一歩、黄色い線の内側へと歩を進めた。美南の足がつられて一歩前に出る。そこで突然、美南は強烈な立ち眩みに襲われた。そのせいで、美南までが線の向こうの世界に身を浸すことになる。体中が、様々な方向から見えない糸で引っ張られているかのようだった。しゃがみこんでしまうと、逆に危うい気がした。
視界が明滅している。辛うじて回復した視野で物を見ても像が結べない。線で示された黄色の境界は曖昧だった。距離感が掴めない。今、自分が立つ位置さえ分からない。電車が猛烈な速度で迫ってきているのだけが、音と振動で嫌でも分かる。
「夜宵さん」
その名を呼んだときだけ美南の視界が正常になった気がした。そして目にした光景に美南は絶句する。ホームの淵ギリギリに立つ少女の姿が、そこにはあった。
「強いって孤独よね。あなたを見てると、いつもそう思う。一人でも生きていけるなんていう頭の悪そうな輩、今いっぱい居るけど、本当に一人でも生きていける人間って、その実あなたくらいなもんだとも思う。私もあなたに憧れた一人といえば、案外そうなのかもしれない」
「何を、言ってるの」
声がどんどん遠くなる。少女の顔が陽炎のように揺らめいた。
「でもね、もうそんな風には思ってない。私気付いたの。ズルいってことは強いってわけじゃないんだって。多分あなたみたいな強さは許されるべきじゃないと思うの。いえ、違うわね。私が許せないし、許さないのよ。だから、清算して」
ここで、と少女の唇が動いたように見えた。
立ち眩みが消失する。視界と意識が正常となり、美南の現実が上塗りされる。
そうして美南はホームの淵に立っているのが、少女でなく自分であったことに気が付いた。
「決着を付けましょう」
少女が美南のすぐ背後で何事かを呟く。よく、聞き取れない。
ホームの先に電車が現れる。体がピンで留められてしまったかのように動かない。
美南には分からなくなる。
どうしてここに立っているのだろう。自分の足で留まっているのは確かなことなのに。
何がしたいのだろう。行動を起こす当人であるのに、それが分からない。何も分からない。危ないことしか分からない。死にたいのか。いや、そんなはずはない。しかし魅力的に見える、目と鼻の先――その空間、空白の密度。数刻後にここは埋まる。時速数十キロの速度で満たされる。そこに命があればきっと轢き殺される。間違いなく死が訪れる空間がある。そこに居るだけ。居るだけで非日常が確定する。不思議と吸い込まれそうだった。
その空間へと右手を伸ばす。手から高揚感が伝わってくる。依然として恐ろしいはずなのに体の一部がそこにあるというだけで、倒錯的な感動が全身を支配する。
それでも、おかしな話である。やっぱり自分を衝き動かす感情が分からない。
美南の予想を上回る速度で、電車がホームに進入する。車体の武骨な外見が、美南を浮かす熱を一気に冷ました。周囲がスローモーションに見え始める。急に何も聞こえなくなった。
美南は何故だか昔のことを洗いざらいに思い出さなくてはならない気がして、何も思い出せないでいる奇妙な自分に気が付いた。
ふと、そこで左手に違和感を覚える。無意識に何かを握りしめているようだった。
掌を開く。よく分からないものが見える。茶色の――人形、片方の手が破れて、綿が零れて、
――難儀だねぇ。これで離れても一緒だって? あはは、あたしは乙女じゃないんだから。
途方に暮れそうな中で、頭に響いた優しい声。それが何かは分からない。
だが聞こえたと同時に、動かない足に力が入った気がした。美南は力任せに身を退かせる。
「......っ!」
美南は後方へと尻餅を着いた。自分の体がホームに留まっていることを知る。そこは黄色い線の外側、死から隔離された空間だった。それが分かるや否や、美南の全身からは冷たい汗が噴き出した。さっきまでの自分が一体どんな状況に居たのか、理解できない。したくもない。
そして今や線の内側、そこでは、少女が、
少女が宙を舞っていた。
否、――落ちている。断じて舞ってなどいない。美南はその最中で少女と目が合った。何が起きているのか分からないと、宙の少女の顔が言いたげに見えた、気がした。
四肢を投げ出す格好で、少女の身体が線路に叩きつけられる。線路の直上、少女が起き上がるのを待たず、間髪容れずに電車が雪崩れ込む。
そこに、黒い少年が飛び込んでいくのが、美南には見えた。
デュフォーから指示を受けて到着したのは、駅――あのテントと、そう距離が離れていない場所であった。もしかしたらあのテントに来る途中だったのかもしれないと、巧は思った。
人の往来が激し過ぎる。
駅のエントランスを突っ切るなり、巧はまずその事実に動揺する。建物のほぼ中央の位置にたどり着く。そこからであれば駅の内部を一望できた。しかしそれでも、美南の居場所を割り出すのは至難の業であるように思える。
巧は片手で両目を静かに覆う。一度だけ深呼吸する。冷静さが求められている気がした。
手っ取り早く彼女を探す手段が、巧にないわけではない。
逢坂美南には現在、疎流体――破滅衝動が憑依している。そして、巧は美南の居場所が分からずとも、破滅衝動の痕跡ならば追うことが可能であった。疎流体は、疎粒子の高密度体ともいえるからだ。疎粒子が視える彼の目は、その異常集中を見逃すことはない。後はその痕跡をたどりさえすれば、自ずと破滅衝動の位置――逢坂美南の居場所が分かることになる。
だが、この手段には大きな問題もあった。
巧が疎粒子を視認するためには、視界にかけたリクオリアの矯正を一度完全に解除しなければならない。リクオリアを解除するということは、一度完全に疎粒子に対して無防備の状態になるということでもある。巧にとって疎粒子を視認することは、疎粒子による精神汚染に隙を許すことと同義である。故に彼はこの手段を用いること自体、現実的だと考えていない。
しかし、
逢坂美南を監視していたはずの端末が、デュフォー曰く故意に破壊されている。ならば今の美南がどんな状況のただ中にいるのか、予断は許されていないのだ。巧に決断が迫られる。
索敵に許された時間は、およそ五秒。それ以上は、巧自身が行動不能に陥るリスクがある。
その間に見つけられなければ。危険な賭けだった。しかし手段を選んでいる余裕はない。
眼前から手を払うとともに、リクオリアを解除した。
視界が切り替わる。大気中に展開している全疎粒子を目の当たりにする。彼が生涯をかけて逃げ続けていた感情の奔流が、そこにはあった。随分と久し振りに、他人の感情に支配される巧は感覚を思い出した。
表現不能の情動に胸が焦がれていく。
眩暈、まずは呼吸の仕方を忘れる。数秒だけならと割り切った。ただ全身が沸騰するように熱くなるのは、どうしようもなかった。手足が奇妙に捻じれていく感覚が続いて訪れる。
人の往来が激しいせいか、巧には感情の霧が濃く視えた。全ての疎粒子が常にどこからかのリクオリアを受け、属性を変質させていく。ここには定常的なものなど存在しない。極彩色のパラノマと、組み合わせが無限に近い感情パターンがあるだけだった。
空間を人が流れるように、疎粒子も流されていく。移ろう流れの中では、膨大な感情だけが疎粒子により絶え間なく伝達されている。巧の意識はそこに溶け込んだ。
流れとはそれがどんなものであっても、一個人が作り上げるものではなく、多数がまた別の多数へと変わるまでの連なりのことを指す。故に流れの中ではまず『個』が失われる。流れを支配するほど強力なものでない限り『個』とは元来、流れの中では確立され得ぬものなのだ。
巧が疎粒子の霧の中で、自分がどんな人間であったのか分からなくなるのは早かった。だがそこに固執はしなかった。彼は誰よりも、流れに対する『個』の抵抗の無意味さを知っていた。
侵入というよりも、身を委ねたという感覚に近い。巧が視るのは、幾数千人の感情の残滓。人が覗き込むことを許されぬものに、人の精神のまま立ち入れると思ってはいない。
そして、
視つけた。
途絶えそうになる意識の中で巧は視た。
建物の深部、そこへと続く、他と一線を画すほどに濃度をもった霧。
あれが、と。
ひどく人を不安にさせる不吉な紫の霧。昨夜、巧が美南に視たものと同一のものである。
疎流体ほどの疎粒子の密度であれば、たとえどんな感情の奔流の中でも『個』は紛れない。
霧は駅内部の改札を通り、複数あるホームの一つにまで繋がっているように視えた。
あの先に、逢坂美南がいる。まだ生存している。その事実が熱となり、体に満ちていく。
だがそのとき、体に熱が廻るのと同時に覚えたのは、違和感であった。
巧が疎粒子の直視に耐えられたのは、そこまでだった。
思考が錯乱し始める。すぐに、破滅衝動に中てられたのだと理解した。反射的にリクオリアの矯正を視界にかけるも、すでに巧の左腕が彼の眼球を抉り出そうと動き出していた。
「......っ」
それを右腕で無理矢理抑えつける。巧は左腕から力が抜けるのを待った。
疎流体に感化され沸き起こった感情はつくりもの――偽物の感情であると巧は考えている。しかしそれは彼の考える本物の感情と、何一つ区別が付かないものであるともいえた。
疎流体の真の恐ろしさはそこにある。人は自らが覚えた感情を疑うことはできないのだ。
右腕で止めるのが彼の意思ならば、左腕で傷付けんとするのもまた他ならぬ彼の意思。
湧き上がる衝動と防衛本能は相反し、どちらもその正しさを巧に訴えかけていく。
巧は荒くなる呼吸を整えた。この矛盾を許容するためには無心に徹する必要があった。考えれば考えるほど泥沼に嵌まっていくことを彼は知っている。感情の不一致は、それだけで人を壊すこともあるのだ。そうして壊れた人間を過去に何人も見てきている。
逢坂美南の下へ。
それだけを一心に考え続けると、自然と腕から力は抜けていった。先に力が抜けたのは左手である。そこでようやく、巧は感情の正否を認識できた。右手で血が止まるほど左手首を握り締めていたせいもあったのかもしれない。
膝が折れそうになったのを何とか踏ん張る。玉のような汗が額には浮かんでいた。頭の奥がひどく痺れている。しかし体調が持ち直すまで待ってはいられなかった。
「......どういうことだ」
巧は、最後に直視した光景を反芻する。覚えた違和感を思い返す。
「破滅衝動の成形が、......また始まっている」
紫の霧は、勢いをもって拡散していくように視えていた。巧は我が目を疑った。
「......活性化している」
昨夜、デュフォーにポテンシャルを殺されたはずの破滅衝動は、そのときに匹敵するともいえる規模にまで今や勢力を増大しつつあった。破滅衝動のリクオリアの頻度と感情量は、巧の予想を大幅に上回っているように思えた。
間違いなく、逢坂美南の身に何かが起こりつつある。巧はデュフォーの癇癪を起こしたような電話越しの声を思い出した。
――突き落とされてんの! 詳しくは分かんないけど、再起不能だって! 誰かの仕業!
近くの階段に足をかける。速度を落とさずに駆け抜けた。途中、何人とも肩をぶつけそうになる。構わず人の隙間を縫う。改札が見えた。人波がそこに収束している。切符を手に入れている暇はない。巧の躊躇は一瞬だった。
床を強く蹴って一息に改札を跳び越える。数人が驚愕の顔をするも、あまりの一瞬のことで大多数は巧の行動に気付きもしなかった。周囲が遅れて反応する前に、人波に紛れる。目的のホームを駆け下りた。サイレンが頭上で鳴り響いている。それが巧の危機感を増長させた。
降りたその先で、巧は遠方に少女を二人見つける。背格好が似ており、判別はすぐには付かないが、間違いなくどちらかが逢坂美南だった。
巧の遥か後方から今、彼女たちの立つホームに電車が一台進入しようとしていた。この駅に止まることなく通過するものである。電車は近付いてくるにつれて、目の錯覚で加速していくようにも見えた。嫌な想像を巡らせる。考えるや否や、巧は二人に向かって走り出した。
少女たちが並んでホームの淵に近付いていくのが見えた。一方がふらついているのは明らかであった。あのままでは線路に落下しかねない。もう一方は、それを制するでもなしに黙って見ている。
奇妙だった。これだけ多くの人が居るにも拘らず、誰も二人を気にかけている様子がない。
人が壁となり、二人を隠す。視界から消えぬように巧はホームの淵に沿って近付いた。
突如として、二つの人影が互いに弾かれ合ったように離れた。
一人がホームに倒れ、もう一人が線路へと身を投げ出すようにホームから落下していく。
背後から電車が唸りを上げて近付いてくるのが振動で分かる。獣の咆哮のようだった。振り向いて猶予を逆算する暇を巧は惜しんだ。
ホームに残された少女は、ただ呆然としているように見えた。あれが、落ちそうなところを身を挺して庇われたものなのか、それとも突き落とした反動でただ転倒しただけなのか、巧にはまだ分からない。破滅させるならば、何も自分を対象にする必要はないのだから。
だが、今はどっちでもよかった。そんなもの、落ちた方を助けた後から聞けばいい。
死なれてしまえば、何も分からなくなる。
「調律」
巧は我武者羅に飛び込んだ。彼の周囲の大気が、一斉に漆黒に色付いた。
電車が雪崩れ込むのに一歩遅れて、獅子戸はホームへと到着した。逢坂美南がへたり込んでいるのが見えると、すぐに駆け寄った。
大気中には、黒い灰のようなものが飛び交っている。獅子戸はすぐにそれが疎粒子――巧によるリクオリアの痕跡だと見抜いた。見抜いたと同時にプレッシャーを覚える。この辺り一帯の疎粒子が丸ごと、彼のリクオリアの影響下にあることを察知した。
「黒のリクオリア、......巧くんか」
疎粒子はその時々に付加された属性に応じた、独自の特性を発生させる。故にリクオリアとは疎粒子に特性を与え、発展させていく行為そのもの。巧の視界に矯正がかけられるのも、その特性の一つである。つまりは概念の顕現化――疎粒子の可能性はそこにある。
それこそが、感情が密度を得るまでに到達した一つの形といえた。
獅子戸はまず、巧のリクオリアにまるで見境がないことに驚いた。普段の彼らしからぬ判断だと思えた。よほどの緊急事態に迫られていたのだろうか。何よりリクオリアを行ったはずの当人の姿が、この場に見えないことが一番の気がかりであった。
獅子戸のすぐ横で、電車がホームを過ぎ終える。轟音が乱気流を連れて去っていった。そのせいで美南の髪が激しく乱れる。獅子戸は、彼女の視線が何もないはずの線路に注がれていることに気が付いた。目を遣ると、線路上には微妙に黒い霧が立ち込めているように見えた。
先ほどまで、その線路上に巧が居たことを確信する。それでだいたいの状況を把握した。
呆然とする美南に、獅子戸はできる限りの落ち着いた声で話しかける。
「初めまして、逢坂美南さん。思ったよりも落ち着いているんだね」
周囲から、奇異なものを見る視線を肌に感じる。
右手の携帯電話で回線を繋ぐ。獅子戸は空いた左手で疎粒子の具合を確かめた。
「でもごめんね、あんまりのんびりしてはいられないんだ。場所を移そうか」
獅子戸の左手が緑――翡翠のような輝きを放ちながら明滅した。獅子戸もまたリクオリアの使い手である。状況から、彼女もリクオリアの発動を余儀なくされていた。
獅子戸には、巧と同質のリクオリアを扱うことはできない。扱える感情の質は個人によって異なっているからだ。黒いリクオリアは千宮巧固有のもの。獅子戸了の扱うリクオリアもまた彼女独自のものとなる。彼女の左腕全体が薄い緑に色を帯び始めたとき、回線が繋がった。
「デュフォーだよ! どうなった」
電話越しのあどけない声は、非常事態でもまるで平時と変わりないものであった。
「逢坂さんを保護しました。これから場所を移します。もし巧くんから連絡が入ったら、今からいう場所まで向かわせてほしい」
「わかった。ん? たくみ、どうかしたの?」
「多分電車に撥ねられて、......もしかしたら、今も走行中の車両に引き摺られているかも」
「やば、た、助けなきゃ!」
「巧くんのリクオリアの系統は、自身のポテンシャルを引き上げる『調律系』だったはずだ」
リクオリアの特性はその効果により能力系統として分類ができる。身体能力を底上げすることに特化した者たちは、主に『調律系』とそう呼ばれていた。
「『調律系』は、単純な意味での肉体強化が主だから、巧くんも行動不能に陥っていることだけはないと思う」
「りょう、それマジでいってるの? だからって放っとくの?」
「聞くんだ。冷たいようだが、今は逢坂さんを優先したい」
「わ、......わかったよ」
デュフォーが不承不承に頷くのが分かった。一方の獅子戸には、あまり不安がなかった。
「巧くんのリクオリア、前に見たときよりも増大している。余計な心配は無用だよ」
儚そうに輝く緑の疎粒子と、今も消えずに残存する黒の疎粒子を見比べて、自分を追い越していく後塵の成長を獅子戸は確信した。彼ならば不測の事態も自力で脱せれるだろう、と。
「それに、わざと引き摺られている、ってことだって考えられる。想像して。戻って来られないのではなく、戻るわけにはいかなくなった状況を。逢坂くんの保護よりも、優先してしまう事態が起きていたという場合を。たとえば不審人物とか、あるいは、脅威の種となるものでも見かけてしまったのかもしれない」
獅子戸の思索は、不機嫌そうな声に中断させられた。
「りょうもそれくらい普段からやればいいのに」
「難しいね、私の能力は『改質系』向きだ。精々、小細工するくらいしか能なんてないよ」
リクオリアの充填は終了していた。銀の懐中時計が、獅子戸の胸元で静かに揺れる。
獅子戸は支配下においた疎粒子を操作し展開する。彼女の左腕を基点に、緑の霧が凝縮した。
「成形・完了。刻み止めろ、緊縛刀」
獅子戸の左腕から実体を持って現れたのは、紛れもなく日本刀だった。それは慣れた手つきで地面に突き立てられる。同時、駅のホーム中が翡翠の輝きに包まれた。
向かいのホームに居たその男は、たまたまその光景を目撃した。
イヤホンで音楽を聴きながら携帯のSNSで電車が来るまでの時間をつぶして、何とはなしに顔を上げる。すると向かいの線路で人が倒れていたのだ。彼でなくても驚いたに違いない。
彼はそのとき不謹慎にも興奮していた。耳から音楽はもう一音たりとも入って来なかった。すぐにでもSNSにそのことを書き込もうと思いつくも、震えて指が上手く動かなる。
向かいのホームに進入する電車が見えた。彼の思考は凍りつき、その後に訪れる瞬間に想像を巡らせることができなくなっていた。
騒ぎ出す人間が周囲にいない。奇妙なことに、大勢の目撃者が居てもおかしくはない空間であるのに、事態に気付いた人間が自分以外にいたようには思えなかった。
写真を撮ろうと何故かそれだけは思えた。後に、彼は自らの起こそうとした行為の愚かさに後悔している。緊急停止のボタンは、彼のすぐ傍にあったからだ。繰り返すが、彼はこのときひどく冷静さを失っていた。救出するという発想に至るまでの余裕がなかったのだ。
さらにそこへ、黒い影が一つ乱入していくのを目にしたとき、男は携帯電話を操作するその指の動きさえも完全に止めて、棒立ちしてしまう。彼には最早、成り行きを見届けることしかできなくなっていた。
飛び込んだのは少年、線路に蹲っているのは少女だ。それが分かった瞬間、彼らの線路を電車が疾走した。男は生唾を呑み込んだ。線路に居た人間が、轢かれたようにも弾き飛ばされたようにも見えなかった。何が起こったのか、ここからではよく把握できない。電車が通過し終わるのをもどかしく待った。急に埃が舞い出した気がした。鬱陶しいと思った。
電車が過ぎ去った。男は目を凝らす。線路には、何もなかった。
ひどく混乱する。一瞬だけ向かいのホームに、長身の女と座りこむ学生が見えた。その女の腕が、不思議な光り方をしたように見えたときである。瞬きをして混乱が極まった。
瞬きを一度しただけのはずだった。だが再び瞼を上げてみれば、眼前には電車の自動ドアが現れていた。突然の車両の出現に男は面食らう。
目の前で、自動ドアがゆっくりと閉まる。電車がホームから離れていくのをぼんやりと見ていると、その車両が自分の乗るつもりの車両であることが分かった。向かいのホームに、それまで目にしていたはずらしき人物の影は見当たらなかった。
腕時刻を確認してみると、時計の針が盤を四分の一も回っていた。時計が壊れているのかと思えば、そうではないらしい。しかしこれでは、すでに二本分の電車が、彼の前を過ぎ去っていってしまっていることになる。急にどこか、狐に摘まれたような思いになった。
結局、男は何が起きていたのか分からずじまいだった。まるで、途中のフィルムの抜け落ちた映画でも観させられている気になる。ただ、今日は家で大人しくしていようとそう思えた。
リクオリアを駆使して車体にしがみ付く。巧の全身は黒い空気に包まれていた。やっていることは、今にも離れそうになる指を疎粒子で無理矢理抑え付けているに過ぎない。駅を離れてさらに回転係数を増した車輪が、巧のすぐ傍で滝壺のように唸り続けている。
空気の抵抗を避けるため、体を車両に密着させる。危険を冒し、さらには保護すべきはずの美南を置いてまで巧がそこに留まったのには理由があった。
風で声が掻き消されぬよう、巧は少女へと声を張り上げる。
「どうしてお前がここにいる! ここで何をしていた!」
結果的に、線路に落ちた少女に救助の手は必要なかった。彼女は独力で立ち上がり、衝突の危機を脱していたからだ。そうして今や、少女もまたリクオリアを駆使して車両の壁にしがみ付くどころか壁と垂直に立っていた。彼女の足元から『視認可能域』に達した疎粒子が、白の霧となって立ち昇っている。
少女が髪をかき上げる。切れ長の目が攻撃性を帯びて、巧を貫く。形の良い唇が動いた。
「そんな無様にしがみ付いて、それでも協会の執行者なのかしら。疎粒子は凝集させることで足場とできる。教会でも習うわ。基本じゃない、できないの? 莫迦ね」
少女の物言いには明らかな侮蔑が込められていた。強まっていく風圧に、力ませる指を険しくする巧とは正反対に、少女は優雅そうに車体の壁を垂直に歩行していった。
「それと、あんまり近付かないでほしいんだけど。疎粒子奪っちゃうじゃない。いくら莫迦でも分かるでしょ。異ベクトルの感情でリクオリアを受けると、疎粒子は属性を変えちゃうの。アンタが作った杜撰な足場を私に強要しないで。まぁ、アンタが私の手で、そこから落とされたいっていうなら話は別だけど」
そう言って、巧と距離を離した少女は九十度傾いたまま、何事もないかのように電車の壁に腰を落ち着けた。直後に向かいの路線を電車が通過していった。車輪が轟く。小石が跳ねて巧の頬を掠める。少女は風で乱れるスカートの端を押さえている。
不思議なことに、電車内の乗客が窓の外の二人の存在に気付いた様子はなかった。
「質問に答えろ。どうしてここにいるんだ」
「それは協会の執行者としての尋問? それとも、単なる個人的な疑問? ちなみに前者なら教会の権限で教えてあげない。後者なら、答えてあげる義理はない」
少女はそれだけ言うと、線路の定点カメラが現れる前に車両から離れた。巧もそれに続いて離脱する。すでに元の駅からは随分と離されてしまっていた。
美南を一人にさせる状況に放置できない。巧はすぐにでも駅に引き返すつもりだった。
だがその前に、目の前の少女の真意を知る必要があった。事と次第によれば、破滅衝動以上にこの少女の存在を見逃すことが巧にはできなかった。少女の名を呼ぶ声に緊張が入る。
「夜宵」
砂利を鳴らして少女――夜宵が、巧へと視線を向けた。
「名前で呼ばないでくれない」
「ここで何をしていた」
「さっき答えたわ。別に私がどこで何してたっていいじゃない。あなたには関係ない」
「お前が今接触していた相手が誰なのか、知らないわけじゃないんだろ。何をしていたんだ。どうしてブリーフィングにも現れず、こんなところに逢坂美南と居たんだ」
夜宵は答えず、線路沿いのフェンスに駆け寄って足をかけた。歯牙にもかけた様子もない。
「答える気はないの」
取りつく島もなかった。そのまま身長を裕に越えるフェンスを垂直に駆け上がる。重力などまるで感じさせない俊敏な動きだった。夜宵の足が運ばれた軌跡を追うように『視認可能域』に達した白の疎粒子が舞っていく。
同時に、線路に取り残された巧のポケットが鳴動する。携帯に着信が入っていた。
「話は終わっていない」
「携帯鳴ってるわよ、取ればいいんじゃない?」
「これは教会の指示なのか」
「それは違うわね」
有刺鉄線を踏みつけながら夜宵は駅に目を向けた。巧には、彼女の瞳に霞がかかっていくように見えた。それがリクオリアで視力を増強させてのものだと、すぐに察しが付いた。
「緑のリクオリア、......あぁ、獅子戸さんが来てたのね。なら、後は任せてもよさそうね」
夜宵はフェンスの向こうへ飛び降りた。フェンスの網目が、彼女の輪郭を巧から隠す。
「夜宵」
「あなたもここに居るより、さっさと戻ったほうがいいんじゃないのかしら。あぁ、私のことならチクりたければ、どうぞチクってもいいわよ。一向に構わないから。じゃあね」
「夜宵!」
「......ちっ、そう何度も人の名を!」
背を向けたまま、夜宵は声を張り上げた。その背中には明確な拒絶の意志が現れている。
「気安く呼ばないでくれないかしら。特にあなたは。もう私は千宮姓じゃないの。伊坂姓なのよ。いつまでも兄貴面しないで、他人の分際で気持ちが悪い」
彼女の言葉に、巧は言葉を詰まらせそうになった。雑念を振り払い、口を開く。
「......これだけ答えろ。逢坂美南の破滅衝動を活性化させたのは、お前か」
「レミング? ......あぁ、また例の疎流体の起源探しやってたの。そんなごっこ遊びは、もう卒業してるものと思ってたんだけど。『行動原理』なんて、どうせ疎流体は全部消すんだから、知ったところで無駄なのに。やってることが旧時代的過ぎて欠伸が出るわよ」
「どうなんだ、答えろ。破滅衝動は昨夜、ポテンシャルを殺されていた。もう成形するための力なんて残っていなかったんだ。それなのに今や成形可能な状態にまた回復している。これが自然に起こったことだと、俺には考えられない。何らかの介入が起きたとしか思えない」
そして、その介入が誰の目にも触れることなく許された時間とは、デュフォーの端末が再起不能になった瞬間から、巧が美南を捕捉することに成功する瞬間までの間だけである。
この空白の時間で、破滅衝動に介入ができた者など限られる。
「教会の人間なら、疎粒子の扱いに長けているはずだ。何をどうやったのか想像はつかないが破滅衝動の勢力が増大させることくらい、お前だったら可能だろう。それとも、これはお前とは無関係の事態なのか? ......答えてくれ。お前の目的は何なんだ」
巧の縋るような言葉に、夜宵は一度だけ彼を振り返った。そこにはどこか懐かしい物を見る眼差しがあった。
「......莫迦ね。あの子に、危険な状態じゃなかったときなんて存在しないわよ」
夜宵が次に発した言葉に、巧は驚愕を禁じ得なかった。
「そうよ。私が疎流体の成形を促したの」
「......っ! 何のために、そんな危険な」
「アンタみたいな理屈っぽいのに話しても、仕方ないでしょ!」
吐き捨てるように言うと、夜宵はどこかへ走り出しそうとした。
「夜宵! お前、疎流体を祓わないつもりなのか!」
「いずれ祓うわよ。でも今はダメ」
巧は視た。夜宵の目を。
「ダメなの」
そこで、電車が巧の視界を壁のように遮った。しばらくして電車が去った後には、どこにも彼女の姿は見当たらなくなっていた。
――今はダメ? それが、どういう意味なのか巧には想像できない。
巧は誰もいないはずの空間に、夜宵の面影を思い浮かべる。それは、彼が後に『鑑定眼』と呼ばれることになる眼を持つ以前の記憶だった。
頼るものがなくて途方に暮れたままそれでもまだ強がる、かつての妹の瞳。
最後にそれを目にしてから何年経ったのか。姓が変わっても、何も変わらない面影。電車が夜宵の姿を遮る直前に、巧は彼女の横顔にそれを見出していた。
「夜宵、お前は一体、何と闘っている」
携帯電話の鳴動に、そこでようやく巧は対応する。あれほど放っておいたにも拘わらず、電話越しに最初に聞こえてきたのは安堵の声だった。
「あ、たくみ! 無事だったんだね、良かった! あのね、今、りょうが......」
デュフォーから伝え聞いた場所へ向かうべく、巧は脚力をリクオリアで強化して跳躍する。
フェンスの頂には一足で届いた。跳躍の反動で、それまで立っていた大地から砂利が天高く撒き上げられ、雨のように一面に降り注いだ。
力加減というものは昔から苦手だった。特に、妹に会って心乱れた直後はいつも。




