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抜刀  作者: 喫茶去
2/6

Lemming

 ドアアイを覗く。知らない女だった。

 美南は、こんな朝早くからの来訪者に一体どんな目的があるものか想像できなかった。

 時刻は午前七時。学校に向かうべく靴を履いたのはいいが、いざドアを開けようとすると、ドアの向こうに人の気配を何となく感じてしまい、的中したのが今のこと。美南は少し思案顔になって、静かに靴を脱いでリビングへと引き返して鞄を投げた。ひとまず、すでに家からは出た後の体を(よそお)ってみることにする。脚の低いソファーへ腰を掛けた。

 美南の家は学校近辺のワンルームマンションにある。部屋は、整理整頓が行き届いているとは言い難く、貴重品とガラクタが総出で陣地取りゲームでもしているような有様であった。

 奇妙な人形が足元に落ちているのを見つけた美南は、何故かそれが気になって拾い上げる。茶色のフェルト生地で出来た親指大の人形であった。片方の手の先が破けて、中に入っている綿が(こぼ)れている。

「何ぞ、これ」

 美南は身に覚えのないそれを、ゴミだと一蹴する気にもなれず、そっとガラスのテーブルへと置いた。美南は、自分が物を捨てられない人間であると分かってきた。

 ソファーに背を預け、伸びをする。首筋にソファーの張地の本革が触れ、少し冷たい。

 一息ついて、ドアの前で待ち構えている人物について考える。幸いにも少しだけなら時間にも余裕があった。さて、あれは本当に、この部屋に目的のある者なのだろうか。

 美南の部屋は角部屋だ。ここのドアの正面に立って、他の部屋に用があるとは考えにくい。するとドアの前に待つあれは美南の客ということになるが、それならそれで何故インターホンを使わないのか分からない。故障していたとすれば納得であるが。

 ふと美南は、ドアアイの向こうの女が、自分と同じ学校の制服を着ていたような気がした。それが分かるだけでも少しは安心できようと、美南はさっそく確認することにする。

 忍び足でドアに近付く。恐る恐るドアアイを覗き見た。向こうからも同じように室内を覗き込む誰かが居そうで、美南は急に緊張が高まるのを感じた。

 しかし美南の想像とは裏腹に、ドアアイを覗いた先に人影は一つとして見当たらなかった。

 だが美南はドアアイ越しの、切れ長の目の不機嫌な顔付きで壁に寄りかかる女の姿を確かに憶えている。あれが見間違いだったとは、そう簡単には思えなかった。美南の一人暮らしは、これでおよそ四年目になるが、防犯を意識したのはこれが初めてのことである。

 モヤモヤした気持ちを(こら)え、学校に向かうべく鞄を部屋に取りに戻った。

 インターホンが鳴ったのは、まさにそのときであった。

 思わず体が強張(こわば)って、同時に足元を何かに(すく)われる。美南は転倒して膝を強打した。

 鈍痛に堪えて、足元を確かめる。見ると、黒い紐状のものが右足首に絡まっていた。その紐にも見覚えはない。ただ、この鈍痛がよく分からないガラクタのせいだと思えると無性に腹が立った。美南はそれを丸めて握り込んで、ゴミ箱へと放ろうとする。

 が、直前で躊躇した。くだらないことにムキになっていることが虚しくなったせいもあったが、インターホンが催促でもするように連打され始めたからだ。

 単調な音でも繰り返されると妙に気に障る。美南は、さっきまでの当惑が嘘のような足取りで玄関へと赴いた。手にある紐には、何かのタグが付けられていたのだが、美南にはどうでも良かった。乱雑に視界の外へと投げる。

 ――ぴんぽん、ぴんぽん、ぴんぽん、と。

 ドアアイを覗く。先ほどの切れ長の目の不審な女性でも、何か一言を言ってやろうと美南は考えていた。しかし、再び美南の予想は大きく外れることとなった。

 ドアの前でインターホンを連打していたのは、小さな少女であったのだ。

 映画にでも出てきそうな金髪と、碧眼。一見、丈が長すぎるとしか思えない白いドレスには赤系の刺繍が不思議な模様で編まれている。視界の悪いドアアイからでも、少女のその特異さは十分に美南に伝わった。

「え?」

 美南は困惑した。この少女は誰だ?

 少女は、小さな体躯を懸命に跳ねさせ、手の届かない位置にあるボタンを押し続けている。

 先ほどの、切れ長の目の女性はどこにいったのだろう。この奇妙な少女はその連れなのか。

 鳴り続けるインターホンに、気勢を()がれた美南の動悸は自然と速まった。

 次に美南が取った行動は、またもや忍び足で玄関から撤退するというものだった。しかも、一回目に退いたときよりもさらに慎重な足取りでのそれである。ひどく直感的なものであったが美南はあの少女から得たいの知れないものを感じていた。理由は分からない。だがとにかくあの少女に気配を悟られたくない。美南はそう思ってしまったのだ。

 美南の足が完全に玄関付近から離れたと同時、インターホンが止んだ。

 思わず美南の息が止まる。手の平が心地の悪い汗で湿っている。

「えー、聞こえますかー、あのですねー」

 間延びした声がドアを越えて、美南の耳に届く。美南には返答する余裕がない。

「たまにはぁ! まばたきを! されたほうが! 絶賛、よろしー!」

 声が何を言っているのかを理解する前に、美南は眼球に電撃を感じた。



 モニタでは灰色が蠢いているようだった。

 画面いっぱいの灰色には、微細にして微妙な濃淡があった。それらは混ざることなく、だがしかし溶け合うようにして画面を流れている。巧にはそれが血管を巡る血液のように思えた。

 白の長机には様々なファイルとディスクが散らばっている。それを片付けることもなしに、巧は椅子に座りモニタを凝視していた。この灰色の行く末を見逃す気などないように巧は視線を逸らさない。部屋は暗く、モニタの薄暗い光が巧の瞳に反射した。

「ただいまー」

 そこに気の抜けた声が割り込んでくる。巧はモニタの映像の再生を止めて、部屋のドアへと振り向いた。ちょうどそこに声の主が現れる。声の主は、まず部屋の暗さに驚いた。

「うわっ、たくみがエッチな動画観てた! やっぱりムッツリだったんだ! 妹モノか!」

「デュフォー、早かったな」

 扉の前の小さな少女は、部屋の状況の異様さに目を見開いていたようだった。そこに青色の瞳がよく映えて綺麗だと、巧は無関係にそう思った。

 デュフォーと呼ばれた少女は、随分と丈の長い白いドレスを着ていた。

「......いや、でも部屋暗くして砂嵐を眺めてたって言われるよりマシじゃない?」

「お前にはこれが砂嵐に見えるのか」

 巧の言葉に、デュフォーは停止状態のモニタをもう一度見つめる。モニタは大型サイズで、備品としてもこの部屋で一番に大きい。確かによく目を凝らして見ると、砂嵐にしては荒れ方が大人しい気がデュフォーにはしてきた。

「え、......これってもしかして」

 巧は白い長机に散らばっているファイルから、目的の写真が載っているものを引き抜いた。

 それは鼠の写真だった。

「鼠の群れだ」

「うそぉ!」

 デゥフォーの悲鳴を無視して、巧は映像を再生した。モニタでは再び、密度の限界に挑戦する灰色の映像が続く。デュフォーは巧の掲示した写真と映像を何度も見比べる。

 写真には、愛玩動物と称されても何も違和感がないような小動物が写っていた。ハムスターよりさらに一回り小さそうだとデュフォーは思った。

「こ、これが、......あれだけ?」

 何百匹もの、いや何千匹もの、いや何万匹もの――鼠。デゥフォーはぞくりとした。

「な、何観てたの?」

「逢坂美南のプロファイルの参考に、と教会から資料が回ってきたんだ。随分と使い古された資料だが、......レミング現象というものらしい。......だが、あまり有益な情報とは言い難い」

「......れみんぐ?」

「観ていれば分かる」

 モニタでは相変わらずの灰色が続いていた。ただ少しずつではあったが、灰色の点がさらに細かくなっていくことにデュフォーは気が付いた。すぐにカメラと被写体との距離が開いていくのだと理解する。これはどう撮影したんだろうと思う反面、規模の全容がまだまだ映し出され足りてないことに、デュフォーは驚愕と知的好奇心と、そして少しの恐怖心を覚えた。

 時折、現実離れした光景に頭が追いつかず、デュフォーにはそれが永遠と続く灰色の絨毯のようにも思えてきた。ここまでの事態に一体どんな収拾が着けられるというのか。

 その答えは次の瞬間に、あっさり分かった。

「は?」

 灰色の絨毯の終着点は崖だったのだ。そこから、まるで帰巣する鳥のように大量の鼠が海へと飛び込んでいる。彼らは、当然のように片っ端から溺死していく。土砂が積まれるように、際限も脈絡もない集団自殺が、モニタにはありありと映し出されていった。

「たくみ、何これ。このオチ」

「レミング現象――レミングというのはこの鼠の名前らしい。この鼠の群れの大移動の果てにあるのは死なんだ。こいつらは死ぬために走っている」

「死ぬためって、......そんなことありえちゃうの? 動物が集団自殺するってこと?」

「考えにくいがな」

 デュフォーの手にある資料をよく見ると、全てが英字であった。

「あれ? たくみ、これ読めたの? これ多分英語ってやつだよね」

 読めない、と巧は愛想なく応えた。映像は巻き戻されて、再び冒頭から流れ始めた。

「あ、......じゃあ、これって伊坂(いさか)っち宛てのか」

「伊坂だけじゃないだろ。お前だって伊坂と同じ教会側だ。英語くらい読めないのかよ」

「あれ、言ってなかったっけ? あたし文字全般読めないんだよ。教会に体を改造されたときの後遺症でさ。記号一つひとつは認識できるんだけど、繋げられたら分かんなくなるの」

「......それは初めて聞く。......気を悪くさせたら、すまない」

 何だか申し訳ない気がして、巧は謝った。

「別にいいよ。文字読めなくても普通に生きていけるし。たくみだって、人の感情が見えても普通に生きていけてるでしょ?」

「......そうだな」

 巧は、その返答に満足いくものを見出せなかった。自分のような存在が、普通とできるのかそこが分からない、巧はそう思っていた。

 人は――特にこの国の人間は普通であることに極度に依存したがるものらしい。巧にはその感覚がよく分からない。視えても分からない。自分の目の異常性に普通を求める行為は、何だか今さら過ぎて考える気にもなれなかった。

「でも、ってことは今の逢坂さんは、このネズミちゃんたちと同じ疎流体に憑かれているってことでいいの?」

 デュフォーの言葉に、巧の意識が現実に引き戻される。映像は三周目に入っていた。

「いや、......人間と鼠とでは脳の構造からして違う。だからクオリアの発生も一概に全く一緒だとは言い切れない。招く結果が一緒でも、逢坂美南を宿主としている疎流体はもっと複雑な『行動原理(ワークパターン)』を持っているはずなんだ。あと何より、この映像は......どうも昔の学者のやらせらしい。その点では、この映像に正確性はない」

「やらせ? え、じゃあこれって――この映像って、でっち上げなの? よく出来てるね」

 デュフォーは巧がはじめ、有益な情報とは言い難いと言っていたことを思い出した。

「らしいぞ。だが資料としての価値がないわけでもないんだ。誰かが想像できたということはその概念が確かに俺たちの頭の中で息をしている証明になる。だからこの映像自体は嘘でも、概念自体の存在は肯定されなくちゃならない」

 生の執着を上回る、死への欲動。それを獲得し、常識を突破する衝動。

 人にそれが宿ることを否定するのは、神でさえ不可能だと彼はいう。

「まさにタナトスの息遣い、ってワケ?」

 デュフォーはそこで思い至る。この少年の目ならば映像の信憑性を看破することぐらい容易ではなかったのか。彼の目は、何と言っても視えるのだから。

「ん? 巧ってさ、このネズミちゃんたちのリクオリアまでは視えないの?」

「あぁ、俺の眼は直接視た疎粒子にだけ有効なんだ。モニタ越しの疎粒子まで観測できない」

「あ、そうなんだ。知らなかった」

「正確にいうとモニタ越しには疎粒子が発生しない、だ。現に、俺はお前からのリクオリアを観測できない。それはお前が、遠隔操作の端末(デヴァイス)だから。本体が別の場所に居る以上、お前のリクオリアは全てそこで発生しているんだろう」

「......なんか、まるでここに居る私に心がないみたいな言い方だね」

 巧の言葉に少しだけ頬を歪めて、唐突にデュフォーは椅子に座ったままの巧の正面に移動した。突然のデュフォーの行動に巧はギョッとする。失言したとそれから思い至った。

「そういうつもりで......言ったわけじゃないんだ」

 バツが悪くなり視線を逸らす巧の隙を突くように、デュフォーは巧の膝の上に乗り上げた。

 バランスが崩れて倒れそうになる椅子を何とか支える巧を気にせず、デュフォーは彼の首に腕を回して自身の顔を近付け始める。巧の視界が青色の瞳でいっぱいになった。

「ドキドキしちゃ駄目だよ」

「な、何するんだ」

「心がないロボットっ子からなら、こんなことされても平気だよね」

「わ、......悪かったから降りてくれ」

「駄目。端末(デヴァイス)にも心が保証されているって確認できなきゃ降りてやんない」

「......ぐっ」

「にしても巧の瞳の色ってたまに変わるよね。昨日みたいに外居るときはいつも真っ黒なのに今は普通じゃん。前から思ってたけど、それって何で?」

「......俺の眼は、疎粒子に鋭敏だからあんまり外に居ると影響が出てくるんだ。だからそれをどうにかするためにフィルターをかけてる。これ、前にも説明したはずなんだけどな」

「フィルター? それがあの真っ黒いときの状態?」

「あぁ。でも、その状態だと今度は疎粒子が観測できなくなるんだ。中々使い勝手は悪い」

 デュフォーは不安定さを楽しむように椅子漕ぎを始める。巧もその揺れに身を委ねた。

「『鑑定眼』も大変だね。紫外線を防ぐサングラスみたいな感覚で理解していい? ほら紫外線もモニタ越しには伝わらないじゃん」

 そこからデュフォーは興味深そうに巧の瞳を凝視し始めた。巧は視線のやり場に困った。

 いくら見慣れた顔だといっても、こうも接近されてしまうのは気恥ずかしいものがある。

 この少女は、一切の(けが)れを感じさせない。

 デュフォーの顔立ちはとても整っており人として観る分には――十分に魅力的なものだった。流れるような金髪も透き通るような碧眼も、絹肌といっても過言ではなさそうな皮膚の全てがついさっき生まれたばかりのような清らかさを見る者に与えてくる。

「そういえば、逢坂さんにバラバラされた後の私の体ってどうしたの? あのあとバッテリー切れちゃったから、あれからのこと私何も知らないんだよね」

「あれか。あれなら全部その場で燃やしたぞ。お前の首も服も、飛び散っていた内容液ごと」

「そっか。そういや焼死はまだ経験したことなかったなぁ。......で、ストラップ知らない?」

「ストラップ? ......付けてたのか? いや、見ていない気がするが」

「あれだけ学校側の備品だったけど、そっか、一緒に燃えちゃったのかな。こりゃ、りょうにまた迷惑かけちゃったな! てへっ!」

「お前は......」

 巧は頭痛を覚えた。最近頭痛の頻度が上がっている気がする。デュフォーへの気恥ずかしさはすでに完全に消滅していた。彼女には早く膝の上から退いて欲しいと、巧は純粋に思った。

「まぁまぁ、過ぎたことはいいじゃん。それよりもたくみは、あの映像がインチキだとしても逢坂さんに憑いてる疎流体の正体に何か見当は付いてんの?」

「見当というほどのものじゃないが、俺もあの映像と似たものを想像していた。死に直進するイメージというか、あのとき、逢坂美南の全身からは禍々しいほどのリクオリアが(ほとばし)っていたのは間違いない。――いや、逢坂美南に憑いた疎流体のリクオリアが、か」

 昨日、巧とデュフォーは協会の指示の下、美南との接触を行っている。

 巧は美南の姿を脳裏に思い描いた。

 逢坂美南当人の理解を置き去りにした猟奇が巻き起こった瞬間、確かに巧には彼女の周囲の疎粒子が一斉に色付いていくように視えた。ひどく人を不安にさせる――不吉な紫に。

 それを思い出して、峰の奥がまだ疼いているのを巧は感じた。

「誰もが心にタナトスを飼っている。それは別に普通のことだと思う。逢坂美南は、その誰もが持つ死への選択を疎流体から触発されて、その感情を体現させられた」

「自殺願望ってヤツ? やっぱり、そういうのは理解し難いよ」

「よく言うな。自らの死に対してでしか興奮を覚えられない倒錯者のくせに」

「え、それちょっと辛辣(しんらつ)過ぎー。私も死ぬのは嫌だよ。ただ、死ぬほど痛いのが好きなだけ」

 全身で抗議するように、デュフォーは椅子を揺らし始めた。巧はもういっそのこと椅子ごと倒れようかと思った。

「デュフォー、それより頼んでいたことの方はどうだったんだ? 確認は上手く取れたのか」

「あ、うん、あれね。たくみの予想通りだったよ。こんなことってあり得るんだね」

 巧は今回の一件の、彼の推理に必要な裏付けとしてデュフォーにあることを頼んでいた。

 デュフォーは今の今まで、その用件で出払っていたのだ。それは、逢坂美南との接触。

「逢坂さん、本当に私のこと何にも憶えてなかったよ」

 デュフォーの言葉に巧は推測が的中した安堵を得るも、事態の深刻さに言葉を失くした。

「ドレス直接視てもらったし、チョコバーの話題だって出したのに変な顔されるだけだった」

 デュフォーには逢坂美南の記憶の確認のために、()えて丈の長いドレスを着てもらっていた。それは昨日と同一の衣装である。たとえ顔を憶えておらずとも、丈がここまで不自然な少女はそうそう忘れられるものではない。――そして、それを憶えていなかったとなると。

「でも、あのときよく気付けたよね。おかげでこの服の発注も間に合ったし。いやぁ、まさかこの体でこのサイズを二回も着ることになるとは思わなかったね」

 デュフォーの着ているドレスはそもそも、彼女の一つ前の案件時に彼女が着用していたものである。そのときのデュフォーの体――端末は長身にグラマラスなボディと、現在の姿とまるで異なったものであり、ドレスの寸法はその身体にピッタリのものであった。

 しかし昨日未明、デュフォーの次なる体に合うはずの服が何かの手違いで彼女の元に届かなかったのである。そこを急遽(きゅうきょ)、彼女は以前の持ち合わせで間に合わせていたのだ。

 結果、それが功を奏すことになる。逢坂美南の記憶の確認にこの服はまさに絶好であった。

「俺は彼女のリクオリアが変質した原因を追究しただけだ。だが、これでは重度の記憶障害と考えても良さそうだな......」

 デュフォーは歩きにくいドレスをこれ以上着る気はないと、ドレスを膝元から破り始めた。次々に生まれるスリットから覗く真っ白な太腿が視界にチラついて、巧はそそくさと目を逸らした。

「その記憶障害ってやつは、どうにもならないの?」

「どうにかはなる。忘れるといっても、それは記憶を思い出せないというだけで、失くしてるわけじゃないからな。全ての記憶は脳に宿る。要は、脳に思い出すキッカケを与えればいい」

「じゃあ、どうやってそのキッカケを作り出すのさ?」

「脳は記憶を定着させるときには、必ずそこに何らかの感情を付加させる。これは『(へん)(とう)(たい)』と呼ばれる感情反応を司る器官と、『海馬(かいば)』と呼ばれる記憶を保存する器官が繋がっているからなんだ。たとえば、昔の記憶を思い出してそのときの気持ちまで蘇ることがあるのは、これのせいともいえる。記憶と感情の関係性さえ分かれば、あとは思い出したい記憶の、その記憶とともにある感情を追想することで、思い出しは上手くいくことが比較的多い」

「へぇ、じゃあ、治療法がないわけじゃないんだね」

「そうだな。そして、過剰にリクオリアした疎粒子でこの偏桃体を刺激すれば、海馬の記憶を洗いざらい思い出させることは可能でもある。感情を先に思い出させ、定着させた記憶の方を後から蘇らせ、追憶させるわけだ。ただ、......過剰なリクオリアを受けた疎粒子を介すると、被験者の脳にダメージが残る可能性があるから、率先して採れるような案ではない」

「裏ワザ、ってやつ? なーんだ。そこまであるなら思ったよりも心配ないね」

 デュフォーは眠そうに欠伸をした。開けられた口に八重(やえ)()が見えた。

 巧の胸の中で、気がかりなことが生まれつつあった。想定された裏付けは取れたとはいえ、それが何を示唆するものなのか、この段階ではまだ不明のままであったからだ。

 しかし、宿主とされた人間が重度の記憶障害を持っていた。これをただの偶然と言い切ってしまってもいいものなのだろうか。逢坂美南の記憶障害が、仮に疎流体の能力によって引き起こされたものだとすれば、その目的とは? たとえば異常性を宿主である逢坂美南に自覚させないためともいえそうではないか。

 巧は口を閉ざした。デュフォーは、彼が考察をするとき目付きが悪くなるのを知っていた。

「またそんな切ない顔して。気になることがあるんだよね? 教えてよ」

 巧は、デュフォーの吐息が頬にかかってくすぐったく感じた。また妙に動悸が高まり出すも動揺を悟られないよう努めた。

「......いくらお前が不真面目でも、疎流体に憑かれた人間――宿主がどうなっていくかは何となく分かるだろ?」

「ごめん、実はよく分かってなかったり」

 デュフォーは堂々としていた。

「だってあれ難しいんだもん。私、そっちは専門じゃないし」

 巧は溜息を吐く。何というか、説明する準備をしていた自分に気付いて虚しくなっていた。

「感情が付加された疎粒子は集合して核――エンブリオを形成する。そこからさらに群集してそれらはクラスタになるわけだが、実はこのクラスタの段階になると宿主と疎粒子との力関係が逆転してしまうことがある」

「どんな風に?」

「宿主の感情を、疎流体の方が支配してしまうんだよ。成形に有利なリクオリアを宿主により多く行わせるために、疎粒子が宿主のクオリアを誘導するんだ。簡単に言ってしまえば宿主が疎流体から感化されるというところかな。あらゆる感情に疎流体から介入される」

「んー、寄生虫から洗脳される鳥みたいなイメージでいいかなぁ?」

 巧は頷いた。それほど喩えが外してもいないのが妙に悔しい。

「結果、疎流体からクオリアを誘導された宿主は、疎流体の成形をいつの間にか手伝わされることになる。だが、今回の逢坂美南に憑いているタイプの疎流体は、元来成形に適していない気がしてならない。成形に至るまでのプロセスで、必ず大きな障害が発生するはずだからな」

「どんな?」

「宿主自身が死ぬ危険性があるんだ。映像あったろ? 逢坂美南が疎流体に触発されることになる感情は、あの自殺願望に他ならない。ということは」

 デュフォーは崖に飛び込む鼠の群れが思い浮かんだ。彼らの衝動の先には、死があるのみであったのは間違いない。成就と同時に命が絶たれるなど、この衝動というものは、そもそもが破綻しているとデュフォーには今さらのように思えてきた。

「疎流体が望む感情の体現――感情の発露そのものが宿主の命を奪う行為になるんだ。宿主を失えば当然リクオリアの供給は断たれ、疎流体自身も消滅してしまうにもかかわらずな」

 母親を殺そうとする胎児がどこに居る。

 生まれ先を殺す存在なんて、そもそも誕生の時点で矛盾している。

「なるほどなるほど。そうなると、逢坂さんの疎流体の成形があの段階まで進行していたのが逆に不思議になってくるんだね」

 そうなのである。この理屈では、逢坂美南の存在と、彼女の疎流体の存在が同時に成立していてはならないのである。その点、巧は逢坂美南を取り巻く疎粒子を直に視ていた。ゆえに、この矛盾を誰よりも強く感じていた。

「このタイプの疎流体の完全成形の前例は、かつてない。理由はさっきも言った通りで、成形過程で自滅してしまうからだ。しかし俺たちの前に現れたあれは、間違いなく成形一歩手前の疎流体だった。そして、宿主が抱えると思われる重度の記憶障害。これらがとても無関係とは思えない。何より一番の疑問点が、何故、逢坂美南はあのときに自殺しなかったということにある」

「......え? あ、そういえば」

 巧の言葉に最初、デュフォーは首を傾げるも、すぐに合点がいったように目を見開いた。

「そうだよ! 実際死んでんの、私じゃん!」

 そのことに会話のどこかで行き当たらなかったのだろうか、と巧は思った。仮にも殺される体験をしたというのに、この無頓着ぶり。巧は死に慣れたらしき同僚に、しばし呆然となる。

「デュフォー、お前の体は莫大な疎粒子を拘束・保持した超高密度体だ。お前のその体には、疎流体の成形を促す効果がある。それによって逢坂美南の疎流体も誘い出せたが、結果的には逢坂美南は自分ではなくデュフォー、お前の殺害を行った。本来ならばあそこで自殺するのが自然な流れであるはずなのに」

「自殺って、そんな物騒なことを承知でいたの? 一歩間違えていたらどうしてたのさ」

「そのために俺たちが出向いたんだろうが。疎流体の確認と万が一に備えて、そうならないよう三・人・体・制・で。ブリーフィングで何を聞いていたんだ」

「でも覚えていたところで私は首一つだったから、結局は拘束も何にも出来なかったよ。あとちなみに二人ね。伊坂っちはサボタージュしてた」

 巧はそこで一瞬、苦い顔付きになった。デュフォーは巧のその顔が割と好きだった。

「......とにかく、恐らくこのどこかに、逢坂美南を宿主とする疎流体の『行動原理(ワークバターン)』がある」

「『行動原理(ワークパターン)』」

「あぁ。疎流体の本能とは、自らを構成する感情の発露そのものだ。そこには決してブレない『行動原理(ワークパターン)』というものが必ず確立されている。それさえ明らかになれば、逢坂美南と彼女の疎流体に表れた不自然も、彼女の記憶障害だって、その全てに説明が付くはずだ。必ず何かが繋がっているはずなんだ」

 その繋がりの存在を巧は確信していた。だが、言葉にできない。それを歯痒く思っていた。

「へぇ、たくみって疎流体のこと、......そんな風に考えてんだ」

 デュフォーの言葉に巧は少しだけ眉を寄せる。妙な物言いだった。

 何故だろうか、巧にはデュフォーの視線に軽蔑が混ざっているように感じられた。

「どういう意味だ、デュフォー」

「別に。たくみが考えてるほど甘いとは思えないだけだよ」

 デュフォーのどこか冷たい口ぶりは、巧の耳から映像の音声を締め出した。

「そもそも感情論にロジックを敷こうなんて無謀じゃない? そういう手合いなんでしょ? 疎流体ってさ。見ていて空回っているみたいで可哀想だし。っていうか理論も乱暴だし」

 そこでデュフォーの言葉は一度、途切れる。再開された声には鋭さがあった。

「なんていうか、その傲慢な態度は殺したくなる」

 巧自身、判断材料が乏しいことは自覚していた。しかし、ここまでの反感を持たれるほどの判断でもないとも思っていた。絶句した彼をおいて、デュフォーの言は止まらない。

「私、知ってる。そういうのラベリングっていうんだよ、たくみ。たくみは、ただ決め付けて安心したがってるだけなんじゃないの? どうして逢坂さんのことをもう全部知ってるみたいに話せるの? 記憶のことだって疎流体とは無関係かもしれないんだよ? そんなにこの目は万能なの? ねぇ? たくみは自分を井の中の蛙と思ったことないの?」

 華奢(きゃしゃ)なデュフォーの指が巧の頬を撫で、彼の眼へと伸ばされる。

「説明が付くなんて、簡単に言っちゃ駄目だよ。そんなの傲慢。また私の前でそんなこと言うつもりなら、絶対に誰にも理解も共感もさせないような方法でたくみを殺すからね」

 デュフォーの表情に大きな変化はない。部屋へと入ってきたときも、巧の膝上に乗り上げたときも、こうして恋人のように密着し続ける今でさえ、巧には彼女の行動が一貫して地続きのように見えていた。彼女の中の逆鱗に触れたとは、とても思えなかった。

「なまじ視えちゃう目があるから、そんなふうに考えちゃうんだよ。なんなら、私がくりぬいてあげてもいいんだよ? たくみのこれ」

 デュフォーは、その細い指を巧の眼に突き入れるように動かし始める。巧にはそれが本気かどうか分からなかった。視えないのだ。この少女は端末――リクオリアを行わない。

 故にこの少女が何に以って突き動かされているのか、巧にはそれの知りようがない。

 いよいよデュフォーの指が巧の眼球へと到達する瞬間――巧に何らかの決断が迫られた瞬間、部屋に長身の女が入ってきたのは同時だった。

「巧くん。今からブリーフィングしたいから、ちょっと......って、うわぁああ!」

 条件反射とでもいえる速度で、巧の瞳が漆黒に染まった。デュフォーはそれに驚いて巧へと伸ばしていた指を腕ごと退かせる。

 部屋に現れた長身の女は、部屋の状況を把握し損ねているようだった。

 傍から見れば、腰から下を大胆に露出させた少女から手足を絡まされて馬乗りにされている画であることに巧はようやく気が付いた。これでは何かの誤解を生じさせてもおかしくない。

 そこにデュフォーは、わざとおどけるような声を出した。

「やーん、りょうったら、くうきよんでー」

「そ、そっか! ご、ごめんね!」

 女は逃げるように慌てて退出する。その背には覇気がない。

「ま、待ってください獅子(しし)()チーフ! これは......その、誤解です!」

 巧が去る女の背を引き止めようと気付いたが、とうに女は見えなくなっていた。

「よいしょ、っと」

 デュフォーは巧の膝から降りた。腰から上しか形状をまともに留めていないドレスは、すでに服といえるかは微妙であるが、足回りが動きやすくなっていることに彼女は喜んでいるようだった。挑発的なランジェリーとガーターベルトが露わになったことを気にした様子もない。巧は目に毒な気がして、視界からそれらを外した。

「たくみ、いじわるなことをいっちゃってごめんね。その目はたくみのアイデンティティーに必要なものだったもんね。りょうがよんでる。いこうよ」

 デュフォーはそれ以上何も言わず、巧を置いて先に退出した。その姿が見えなくなるまで、彼は椅子から立ち上がることが出来なかった。ようやく背中にうっすらと汗をかいていることに気が付いた。モニタの映像は、もう何周目かも分からない鼠の集団自殺を流している。巧は黙ってモニタの電源を落とした。鑑定眼の喪失――その先を、それ以上考えないようにした。



 千宮(せんぐう)(たくみ)がはじめて獅子戸了と出会ったのは、彼がまだ九歳のときであった。

 当時の彼は施設――それも厳重に鍵のかけられた部屋に一人きりで過ごしていた。彼がその独房のような部屋にまで行き着いた経緯に驚くべきドラマはない。ただ彼の眼に理由があったことだけは間違いがなかった。

 そもそも千宮巧が他人の感情の機微に敏感だったのは必然であった。当時まだ幼かった彼を護るべきはずの存在は、早々と彼の人生の舞台から退場していたのである。他人の感情を察知する才能は、いわば彼の防衛本能により生じたものでもあった。

 充実の愛を知ることなく、性根が臆病なまま彼は育った。他人を見ては無意味に怯え、壁を造ってはまた距離を置く。そんな日々の繰り返しこそが彼にとっての日常であった。

 彼は無知、あるいは子供故にそこに不満はなかった。しかしそんな彼にも転機が訪れる。

 人は成長と共に多くの人物と関わり合いになる。他人との触れ合いを避けるに避けられない年頃に、彼もまた近付くこととなった。本来ならば、そこで彼は変わり得たはずだった。高く積み上げた壁の隙間から他人を覗いては、また一つ壁を積み上げる日々も終わりを迎えたはずだった。だが幸か不幸か、この時点で巧の才能は取り返しの付かない領域にまで進化を遂げていた。結果、他者との触れ合いよりも先に、彼は完成させてしまうことになった。

 眼を。

 彼は視えるようになっていたのだ。他人が発露したがる感情そのものを。彼から言わせれば感情とは当人の周囲に立ち込める霧のようなものであった。それの正体さえ分かれば、他人が何に対して喜んでいるのか怒っているのかは分からずとも、その喜びや怒りの密度は手に取るように理解ができるものだった。そしてそれはそのまま、その人物への理解にも繋がった。

 手にしたのは、目視のみで人の心に根付く情動の正体を認識できる能力であったのだ。

 これは、幼い彼が無意識に身に着けた唯一つの処世術といえた。確かに他者の気持ちを労せずして汲み取れる術は、他者に臆病な当時の彼にとって幸運とも言えた。だが一方でその結果として、他人の振るった膨大な感情全ては、卓越された眼を持った彼の精神に、多大な影響を及ぼし続けるものとなった。

 歯止めの効かない意識の侵食が起こり、感情は次々と置換され、自我が喪失した。

 他人の感情に過敏過ぎたが故に、精神汚染という形でそれらは巧の心を狂わせ続けたのだ。

 しかし、幼い彼は無意識に孤独を恐れていた。故に、眼を自ら手放すことが出来ずにいた。

 処世術の果てに待つ感情の奔流は、彼から個性と名の付くものを片っ端から跡形もなく?み込み続けた。彼が眼を手に入れたとほぼ同時に、彼が他人に呑み込まれるのは必至であったのだ。それほどまでに、彼は無防備かつ無抵抗過ぎた。

 他人の霧に触れる、ただそれだけ。その度に脳が犯される。逃れようもなく蝕まれる。

 いつしか、他者の意思と自分の意思との境界線までが曖昧になった。他人の喜怒哀楽がそれこそ、違えようのない自己の意志なのだと錯覚するほどまでに至った。

 狂う。情緒不安定もいいところ。出会う他人全てを誰一人見逃すことなく理解していくなど人の所業ではあり得ない。だが、それを知ることですら彼はあまりに幼過ぎた。

 感情そのものの視認スキル。彼がその能力から、およそ人生と呼ばれるものを奪い去られるのに、それほどの時間はかからなかった。年を追うごとに巧の眼の精度はさらに増していき、感情の霧の識別を明確に捉えられるようになった段階で、巧の精神は一度完全に霧散した。

 それ以降、巧は面会謝絶の条件下で施設に幽閉される日々を送っていた。



 その日、巧は施設で眠れない夜を過ごしていた。体中が異常に(たかぶ)るのを感じたからだ。

 眠ってはならないと、誰かに命令されているようだと巧は思った。しかし彼は徐々に強まるその妙な衝動についに耐え切れず、普段の彼ならば絶対に試みようとは思わない夜の一人歩きを実行するに至った。

 巧が最後に人を見たのは一週間前だった。そのときの彼は診察を受けていたが、結局簡単な応答さえもままならないものになった。診察中の巧は失神し、再び目を覚ましたときには部屋にたどり着いていたからだ。

 裸足で廊下に出る。一週間ぶりの廊下は冷たかった。空気も凍るようだった。だが胸だけは熱かった。これほどの高揚は初めてだった。こんな行為も初めてだった。鼓動は徐々に激しくなった。この鼓動が収まったときに死んでしまうようにも思えた。部屋に戻る気はなかった。悪いことをしているつもりもなかった。人と会うことに抵抗を感じなかった。このまま施設を抜け出してもいいとさえ思えた。満月だった。美しかった。看護師が、死んでいた。

「......」

 巧の視界に現れ、彼の歩みを止めたのは一体の死体だった。床一面に広がる紅と、人としてあるべきはずの頭部の欠落が、それが生者であり得ないことを一目瞭然に証明していた。

 巧は再び歩みを進めた。廊下を行くほど死体の数は増えていった。それらは看護師であったり児童であったりと見境がない。廊下は、もはや人の血で満たされているといっても過言ではなかった。足の指の隙間に血が流れ込む度に、巧は意識が遠くに飛んでいきそうになった。

 青白い月明かりに反するように血の海は赤黒く、また生温かった。

 伏した死体は共通して、どれもが体の一部を欠損していた。最初の看護師の死体も、首から上がなかった。そのことに気付いても、巧は引き返そうとは思わなかった。恐れはなかった。むしろ陶酔さえあった。これほど洗練された感情を感じたことはない。まるで霧と身体が同化していくような錯覚を覚えた。誘蛾灯に引き寄せられる蛾のように、彼は異常な空間を躊躇うことなく歩き続けた。気が狂いそうな紫の霧の中、霧は進むたびにその濃さを増した。

 一段と強い霧に踏み込んだときだった。激しく高まる動悸の中で巧はそれを視界に入れた。

 それの正体が何であるのか、皆目分からなかった。

 はじめ、長い爪を持つ小型の猿のように見えた。獣のような体毛、猫背のまま吐く荒い息は白い。だが、猿の爪が驚くべき速度で伸縮していくのを目撃したとき、巧は人外の領域に自分が踏み込みつつあることをぼんやりと自覚した。しかし、今さら自覚しようが巧には関係なかった。霧の発生源がその猿であることを確信していた。

 もっと、この感情に浸かりたい。巧はそれだけを思っていた。

 霧に触れているだけであらゆる束縛から解放されるようだった。本当の自分に出逢えた気がした。巧はこれまでの自分の人生は、この瞬間のためにあったとまで思えていたのだ。

 ただ奇妙なことに、猿を視界に入れた瞬間から、巧は何故だか無性に右腕を切り落としたくなってしまっていた。理由は分からなかった。気付けば窓ガラスに右腕を呑み込ませていた。

 甲高い音が響いて、間を置かずに痛みが伝わってくる。突っ込まれた腕は、そのまま乱暴に振り回された。血も事態に見合った量溢れ出た。しかしズタズタになっていく右腕を見ながら巧には何かが胸の中で満たされていくように感じられた。

 もっと、もっと。巧は欲した。

 執拗で入念な破壊に、巧の右腕は順調に壊れていった。そうして再起不能が決定付けられる瞬間、巧の腕は見知らぬ女によって制されていた。随分と背の高い女だった。

「考えるの。それは本当に君が望んでいるものなの? 偽物の感情に呑まれないで」

 巧の腕を止めた女は、すかさず巧の頬を叩いた。巧はそのまま、支えを失った独楽(こま)のように崩れた。倒れたと同時、正気に返った。我を失っていたことを理解すると、どうしようもない無力感が高波となって押し寄せてきた。

 巧は針で刺されたような痛みを目に感じた。水分が枯渇して、眼球がカラカラだった。長い間、瞬きでも忘れていたのかと思うほどだった。

 女は、ポケットから取り出した携帯電話でどこかと通話を始めていた。

「はい、確認しました。......ケースDです。生存者は一人。抜刀の許可をお願いします」

 そして気付く。巧を制した女もまた、全身から濃密な霧を放っていた。

 その霧は緑色に輝いていた。まるで翡翠を宙に散りばめたように、それは視えた。

 電話を切った女は一度だけ巧を振り返り、猿の元へと一直線に進んだ。

「『自傷衝動(バーニング)』。この惨事もお前の仕業だな。なるほど。自分の体を傷付けるために、わざわざ傷付けるための体を他所から調達しているのか。......これはまた随分と凶悪な疎流体だ」

 女の接近に反応した猿が動いた。猿の全身が、月明かりに照らされる。巧は驚愕した。猿の全身には無数の人間の手足が生えていたからだ。猿の体毛と思っていたそれも人の髪だった。

 そこに爪が突き立てられ、食い込む。何度も伸び縮みを繰り返す爪は伸ばされる度に猿自身の身体を貫いていた。当然そのダメージが猿自身に現れている証拠に、猿は際限なく血を吐き続けていた。施設に溢れた血の海は全てそこから生まれているようであった。

 あれに、あんなものに心奪われていたという現実が、巧の肌を(あわ)立てさせる。

 右腕を庇う。巧は心底怯えた。自分が心囚われたものの正体を知って、恐怖で身が竦んだ。

 同時に気付いた。全身を襲う異常な高まりが完全に消え失せている。

 こんなことは初めてだった。自分が望まぬ感情に乗っ取られていることを客観的に認識できたことは、かつてない。いつだって巧が自分の異常を知ったのは、全てが過ぎ去った後からでしかなかった。だからこそ、こんな施設にまで運ばれてきたというのに。

 巧は宙を視る。とっさに紫の霧を探す。緑の霧が巧と距離を空けて展開されていた。

 緑の霧がまるで、紫の霧から自分を護ってくれているように巧には思えた。

 大きな音と獣の悲鳴が響いた、気がした。紫の霧が徐々に薄まる中で、女がとても長い刀を持っていたような気がした。気が付けば、女が再び巧の前に立っていた。

「もしかして君には疎粒子が視えているのかい?」

 女は獅子(しし)()と名乗った。猿と霧が消失した後、場所を移して巧は獅子戸から右腕の手当てをしてもらった。獅子戸は黒を基調としたジャケットとパンツに身を包み、首から鎖で繋がれた銀の懐中時計を下げていた。静かな空間で秒針の音が巧の耳に心地よく響いた。

 巧は獅子戸と名乗る人物から、全くといっていいほど感情の起伏を感じなかった。彼女が放つ霧の濃度はとても薄く、ずっと穏やかな――緑だった。

 疎粒子とは何だろうと、巧は思った。

「こういうの」

 獅子戸は掌を上に向けた。巧はそこから緑の霧が発生するのをはっきり視た。巧は頷いた。

「そうか。正直信じられないが......だとしたら、他人とは君にとっての毒なんだね」

 巧は、どこか自分をうまく言い当てられた気がした。

 毒、他人とは自分にとって毒なのだ、と。

 獅子戸哀れむような視線をすぐに消して、鋭い目となり巧の肩を力強く揺すった。

「......君、良かったら私と一緒に来ないか。もしかしたらそれを何とかできるかもしれない」

 巧の返事も聞かずに、ちょっと待ってねと獅子戸は上着から携帯電話を取り出し、巧に背を向けてどこかへとかけ出した。巧は、獅子戸の声をもっと聞いていたいと思った。

立浪(たつなみ)チーフ。スカウトしたい人が居るのですが、これからお会いすることはできませんか。はい、......生存者の一人です。何でも疎粒子が視えるみたいで、いや本当! 寝惚けてませんから! 私だって信じられませんでしたけど事実なんですよ。え......子供ですけど。待って、切らないでください! とにかく話を聞いてください」

 獅子戸は通話口の向こうの相手に、必死に食い下がっているようだった。難航しているのが巧には何となく分かった。緑の霧が濃くなり、少しだけ彼女が熱を帯びたように視えた。

「チーフ、私は本気ですからね!」

 興奮した様子で電話を切る獅子戸はそこで初めて巧に名を尋ねた。巧は不思議と緊張した。

「そうか、千宮巧くんか。良い名前だ。よし、いいかい、巧くん。君は、君を苦しめるモノが一体何であるのかを知る必要がある。でなければ、一生このままだ。そんなの嫌だろ。一週間後に私はまた君の元を訪れるから、そのときに何とか私の上司を紹介しよう。そこで私の連れてくるその人に君の適性を見せてやってほしい」

 適性、と獅子戸は言った。適性がなくてはダメなのだ、と。

「君が視えるこれの名は疎粒子というんだ。しかし疎粒子が〝視える〟だけではダメらしい。それだと珍しいと思われて終わってしまう。その人に、君に適性があることを納得させるには疎粒子を〝扱える〟ようにならなくちゃいけない」

 今から私がいうことをよく聞いて、と獅子戸は続けた。巧はそれがどんな内容であれ、聞き逃す気など毛頭なかった。獅子戸は、巧の小さな頭に手を置いた。

「いいかい、疎粒子は周囲の感情によって属性が決まる。君を苦しめ続けたものだって所詮は他人の感情に染められた疎粒子に過ぎない。だったら、君自身がそれを決めてしまえばいい。感情に呑まれるのが恐ろしいというのなら、呑まれる前に呑み返せばいいんだ。君が誰よりも強い感情を放つことができれば、全ての疎粒子は君に従うだろう。今私が言ったことを君なりに形にしてみてくれ」

 それをリクオリアと呼ぶのだと巧は聞いた。終始、観念的な話であった気がする。

 猶予は一週間だと獅子戸は言った。一週間後に適性とやらが証明できれば、その先も獅子戸の傍に居られるのだと巧は理解した。

「感情論は人を救わない。追い詰めるだけだ。だから私は君にこれ以上訴えかけるようなことは言わない。でも、これだけは覚えておいてくれ。もし君に見込みが望めないのなら、今夜の怯えこそが君の生きる証になるだろう。だが君が自分の宿命に勇気を出して立ち向かうというのであれば、その闘争こそが君の証明になるだろう」

 証明、と巧はうわ言のように呟いていた。

「そう、証明だ。人は誰しも終わりのない闘争をしている。それへの敗北を認めたとき、人はそこではじめて自分の限界を知るんだ。だが君はまだ自分の限界を見てはいないだろう。君の闘争はまだ始まってさえいないはずじゃないかな。闘争とは抵抗することでも耐えることでもない。覚悟をもって選ぶことなのさ。君はまだ、君のこれからを選んでもいないよ」

 獅子戸のその言葉が、世界に溺れる少年にとって、どれほどの救いになったか分からない。

 それから一週間後、獅子戸は再び巧の元を訪れた。疎流体からの壊滅的な被害を与えられておきながらも、良い後任を迎えることができたのか、比較的に施設の雰囲気は穏やかなものであった。協会からの援助と工作もあったのだろうと獅子戸は思った。

 獅子戸の隣には不機嫌そうな顔をして歩く男がいた。年齢は少しだけ獅子戸より上である。叩き上げ特有の野性的な視線が印象的だが、子どもに好かれやすい雰囲気とは言い難いものがあった。獅子戸は、これからこの男をはたして納得させられるのか不安になっていた。

 獅子戸の期待は五分五分だった。施設で出会った少年の才能は、確かに稀有(けう)なものだった。だがそれは扱う技術を伴わなくては、ただ自分を苦しめるだけの諸刃の刃となりえることも、獅子戸は理解しているつもりだった。

 知恵を絞りながら施設に入ると、獅子戸は施設のエントランスですぐに、誰かが自分たちを見下ろしていることに気が付いた。見上げ、そこに巧の姿を見つけると、獅子戸は驚嘆すると同時、少しだけ戦慄した。

 このとき、それが彼のリクオリアだと気付くのに、少しの恐怖を必要としてしまったことを獅子戸はその後何年も覚えることになった。

 頭上の巧からは、光を吸い殺す漆黒の瞳が真っ直ぐに獅子戸に向けられていたのだ。すぐにその瞳の正体が、過剰なリクオリアによって、視認できるレベルにまで密度を得た疎粒子群であることが分かった。それは『視認可能域(モデルアウト)』と呼ばれる、リクオリアの一つの段階であった。

 千宮巧は、この日をもって抜刀教会に身を置くこととなる。彼の名は後に、疎粒子が視える眼に因んで『鑑定眼』として協会中に知らしめられるものとなった。



 ブリーフィングルームの窓からは光が射し込んでいた。巧は時間を確認する。昼というにはまだ早い時間帯だった。

 部屋には長方形を作るように白の長机が置かれ、ドアのすぐ横にホワイトボードが設置されていた。ボードではマーカーによって軌跡が描かれ、情報の統合と選出が行われている。

 巧は部屋を見回す。ブリーフィングルームは彼を除いて獅子戸とデュフォーだけであった。本来ならば人影はもう一つあるべきはずなのに、その姿はどこにもない。

 巧の視線に気付いた獅子戸は、マーカーにキャップを戻して長机に腰を下ろした。

「そういえば、伊坂くんが戻って来てないみたいだけど、巧くんは何か聞いていないかい?」

「いえ、何も」

 巧はそれに即答した。現に事実であった。巧は昨夜からすでに何度も連絡を取ろうと試みていたのだが、一向に音沙汰がない。だが獅子戸が把握していないともなると、何やら予期せぬトラブルに巻き込まれたとも考えられる。巧はすぐに、それは杞憂(きゆう)過ぎるかなと思った。

「伊坂っちのことだから学校にでもいってんじゃない?」

 デュフォーがやや投げやりな口調で言った。すでに服が新しいものに取り替えられている。ドット柄のワンピースだった。心底どうでもいいと思っているような声であった。

 学校という空間は、巧にとってひどくイメージのし辛い場所であった。そもそも彼が学校に通っていた期間は施設に入る前までである。施設後の彼の引き取り先は、抜刀協会。施設から引き取られた時点で、彼の経歴が一般的なものから大きく逸脱したのは当然ともいえた。

「協会は政府直属の秘匿(ひとく)機関であるけれど、協会に属しながら通学しているだなんて、後にも先にも伊坂くんだけだと思うよ。ははは」

「それを容認しているりょうも、中々の度量だと思うけどね」

 十六歳となった今、巧自身もつい最近知ったことなのだが、いつの間にか一度も訪れたことのない中学校を卒業していることになっていた。必要な事態となれば、恐らくこうした今でも着々と高等教育課程を修める自分がどこかに用意されていることを思うと、巧は少し可笑しくなると同時、奇妙な寂寞(せきばく)を感じるのだった。

 巧は学校に属せなかったことに、そこまでの未練はなかった。彼は施設を出てからは、常に獅子戸の背ばかりを追っていたからだ。故に同年代で付き合えた者など、巧には片手の指で数えられる程度しかいなかった。その内の一人が伊坂だった。もっとも、それも友というよりは同僚という認識の方が少しばかり強い。

 巧は眼に能力が宿らなかったときの自分を想像する。もしも(イフ)、と。

 考えても無駄なことだと思った。あり得ない過程は所詮、妄想に終わる。没頭したところで意味があるとは思えない。それに、その考えのたどり着く果ては、今の自分を否定するものに他ならないことも薄々気付いていた。

 胸に蓄積していく何かを振り払うために、巧は少し語調を荒くして獅子戸に詰め寄った。

「獅子戸チーフ。これは明確な規約違反です。放っておくつもりですか」

「まぁまぁ、巧くん。伊坂くんも何か考えがあってのことだと思うんだ。伊坂くんは、確かにメチャクチャだけど、考えなしに動くような子じゃないさ。それに伊坂くんは厳密には教会側の人間だからね。協会側の私らに明確な強制権利は発生しないんだよ」

 申し訳なさそうにする獅子戸に、巧は何も言えなくなった。

「抜刀協会と教会は一応の協力体制を取っているけれど、もともとの組織の理念が違っているからどうしても連携が取れないことはあるのさ。巧くん、抜刀協会はあくまで疎流体の撃退が主目的であり、疎粒子との共存自体はやぶさかでもないと考えているけど、デュフォーくんや伊坂くんのような教会側では」

「疎粒子の回収が目的だからね。共存なんてもっての他。あれは存在自体が冒涜(ぼうとく)なんだよ」

 デュフォーが獅子戸の言葉を奪うように言った。得意の口上でも述べているかのようだ。

 だが、と巧は思う。もしも教会がデュフォーの言葉通りの理念を持つというならば、すでに疎粒子の高密度体である――デュフォーの存在そのものがその理念に反しているということにもなる。そして、そのことをデュフォー自身が気付いていないはずがない。

「......らしいからね。すると、今の伊坂くんは何だかトリックスターめいて見えるね」

「うん、全然顔出してないけどね」

 教会は手段を選ばない。巧は教会に対してそんな印象を漠然と抱いていた。最終的な目的のためなら、その過程での矛盾はいくらでも見逃す。そんな貪欲で半ば暴力的なまでの思想は、協会にはないものである。伊坂が教会に属していながら、バイトと称して協会の一員となっていることも、教会のその特殊性故に見逃されていることであると巧は思った。

 使えるものは何でも使われる、という冷たい現実を少し知れた気がした。

「ちなみにいうと、伊坂っちは私たち教会側からの連絡にも音信不通なんだよね」

「そうなのかい? それは......おかしいね。何かあったのかな」

「知らなーい」

 しかし、実際のデュフォーの同僚を(おもんばか)る口調は薄情なものであった。仲間の身の安否に興味がないとでもいうようである。巧はデュフォーを見るたびに、彼女の真意を汲み損ねた。

「あ、でも、逢坂さんの疎流体を(はら)うの今夜だったけど、伊坂っちと連絡取れないなら難しいんじゃない? 協会には成形前の疎流体祓う技術ないじゃん。協会がやる疎流体の処理って、だいたいが基本的に宿主のこと考えてないもんね」

「デュフォーくん。確かに抜刀協会は、成形し終えた疎流体との戦闘を想定した組織だから、宿主も、となると途端に難しくなるけど、私たちだって黙って見ているわけじゃないさ。一度成形させることは仕方ないとしても、完了したと同時に逢坂さんは保護するつもりだよ。伊坂くんが現れなかったら、そのときは私がその穴を埋めよう」

 もっと私を頼ってほしいな、と獅子戸は笑った。巧は、デュフォーがそんなことをわざわざ確認するために口に出したのではないことを何となく感じていた。巧は獅子戸を見る。

「獅子戸チーフ。逢坂美南の疎流体ならば昨夜、デュフォーの体に釣られてすでに力を消耗し切っています。そこからまた改めて疎流体を成形させるとなれば、逢坂美南への多大な負担は避けられません。今夜中に片を付けるのは無理があるかと。......それに」

 それに、の後を巧は続けることができなかった。――それに、成形の進行そのものが宿主を危うくさせる手合いの場合、協会の対応では最大の悪手となります、と。

 デュフォーが一瞥(いちべつ)をくれたのを巧は見逃さなかった。獅子戸が首を(かし)げた。

 ――そんなにその目は万能なの? 巧の頭でデュフォーの言葉が反芻(はんすう)される。

 逢坂美南に憑く疎流体が、まさしくこの悪手となる手合いであると巧は思っている。だが、あくまでそれは未確定情報である。不可思議な点がはっきりとある以上、確信を持つには早計過ぎると巧は判断していた。釘を刺された気になったせいもあるのかもしれない。

 何と伝えるべきなのか、分からなくなってしまう。不用意な混乱が起きるのは、望むところではない。しかし、そんな巧に痺れを切らしたようにデュフォーが机を叩いて立ち上がった。

「あのね、りょう! それじゃマズイんだよ! 逢坂さんの疎流体ってのはね、こうした今も予断を許さないような凶悪なヤツだったんだよ、実は! って、たくみがさっき言ってた」

 どういうつもりだ、と巧は声に為らぬ声で呟いた。

「その、予断を許さないってのは一体何だい? 巧くん」

 獅子戸が身を乗り出して尋ねる。巧は返答に窮した。すでに答えずに居られるような雰囲気ではない。歯切れ悪く巧は、現在彼が考えている逢坂美南の疎流体の正体を報告した。必然、逢坂美南の抱える記憶障害についても話は触れる。獅子戸はそこで一番目を丸くした。

「......なるほど、巧くんの鑑定ではそんな結果が得られているのかい」

「鑑定、と呼ばれるほどの判断ではありません」

 巧が鑑定眼と称される謂れは、疎粒子を直視できるという彼の目の特性にあった。視認した疎粒子の性質を複雑な装置を用いずダイレクトに把握する、その能力を指してのものである。

 巧自身はその名称をあまり好んでいなかった。どこか揶揄された気になるからだ。

「全く、いつも思うけど疎粒子見えるとか反則だよね。巧は疎流体の天敵じゃん。やったね」

「デュフォーくん。巧くんだって、それなりに苦労してるんだよ。まぁ、私が語っていいことではないと思うけど。......しかし、気になるのは逢坂さんの記憶障害だね。もう一度聞くけどそれは本当なのかい? 確認は簡単そうだけど」

「あ、裏付けなら取ってあるよ。私がブリーフィング前に片しといた。へへへ」

「そ、それはまた早いね」

 獅子戸は丸くした目を戻すタイミングを失ったようだった。巧は、そのことで何か言わねばならないと思い、立ち上がり獅子戸に頭を下げた。

「俺の独断でデュフォーにやってもらいました。すみません」

 報告義務を怠ったと捉えられても仕方ない、と巧は思った。知らないところで事を運ばせるのは組織として好ましくない。獅子戸の耳に情報が入った以上、巧の行動はスタンドプレーとして扱われることになるのだ。

「いや、巧くん。気にしないで。君の勤勉さは理解しているつもりだよ。結果論だけど、このことは聞けて良かった。ただ、今度からはもっと私にも相談してほしいかな」

「あー、出た。りょうのザ・身内(みうち)贔屓(びいき)

 デュフォーが冷やかすように横槍を入れた。

「私たちの職務は世間的に見ても随分と特殊だから、世間でいうところの日常から疎外されている。だからこそ、身内同士で優しくし合わなくちゃいけないんだよ」

「りょう、その考えは激しく甘いよ。縄張り作って組織を腐らせる思考回路だよ」

「もう、デュフォーくんは手厳しいなぁ。勘弁してくれよ」

 獅子戸は何故か照れているように笑った。それは、自分よりも若い相手に揚げ足を取られることを喜んでいるようにも見える。巧は悪いと思いつつ、獅子戸の周囲の疎粒子を観察した。

 獅子戸の疎粒子は至って穏やかなものだった。薄い緑の霧が、膜のように獅子戸の体を取り巻いている。霧は当人の感情の起伏で動きや変色が起こるよう巧には視えるのだが、獅子戸の霧には全くそれらに変化が視られない。まるで時間でも停められているようだった。巧は少しだけそれに見惚れた。

 初めて視たときから、何にも変わってない。安寧を司るかのような、巧を脅かさぬ光。

「どうしたの、巧くん? 私の顔に何か付いてる?」

「......っ、いえ」

 巧は慌てて獅子戸から視線を逸らし、獅子戸の胸にある銀の懐中時計を目に収めた。

「あはは、りょうに疎流体が憑いてんのでも見えたんじゃないの?」

 その懐中時計は、巧が初めて獅子戸と出逢ったときから彼女が身に着けているものであった。その針が動いていないことに気が付く。いつから壊れていたのだろうと巧は思った。

「ふふ、だったら大至急で伊坂くんを探し出さなくちゃいけないね。......さて、どうやら逢坂さんは伊坂くんに任せるのがいいみたいだ。リスクは低いほうがいい。今夜は見合わせることになっても構わない。その代わり、逢坂さんの保護は継続しておいてほしい。いいかな?」

「はーい。ところで、りょう。私たちが逢坂さんと会ってた間、りょうの方は何してたの?」

「私かい? 私は出来得る範囲で逢坂さんの身辺調査をしていたよ」

「え、ぶっちゃけそれ、協会には要らない作業じゃない? あとは疎流体祓うだけなんだし」

「そんなことはないさ。事実関係を把握することは不測の事態にも効果的なんだよ。......ってことを私の上司だった人にそりゃ口うるさく言う人が居てね。綿密な裏付けはいつも取るようにしているんだ。......まぁ、逢坂さんはどうやら普通の女の子だったようだけど」

「ふーん」

「それに、そうすれば逢坂さんがこの疎流体にどこで憑かれたのか分かることもあるんだよ」

 巧は自分の心臓が跳ね上がるのが分かった。

「疎流体の憑依には必ず何らかの契機(けいき)がある。理由なくして宿主に選ばれる者はいない。この疎流体が逢坂さんを惹き付けた始まりがそれで分かれば、ね? 私のやってることも要らない作業じゃないでしょ?」

 契機、それが分かれば、この疎流体の正体に近づけるかもしれない。引っかかっていたこの疎流体の『行動原理(ワークパターン)』にも、説明を付けることができるかもしれない。巧はそう思った。

「その証拠にさっきの、巧くんが言っていた記憶障害にだって、有力な証言をしてくれそうな人に心当たりがあるにはあるんだ」

「へぇ。りょう、やるじゃん。それってどんな人なの?」

「うーん、どうも占い師をやっている人らしくてね。これがまた気難しそうな人なんだけど。実をいうと、中々相手にしてもらえてないから前途は多難かも」

「交友関係を洗って占い師がヒットするの? 逢坂さんって、もしかして友達居ない......」

 それ以前に家族ではないという事実に、巧はその占い師という人物がひどく気になった。

「あの、獅子戸チーフ。その人物に俺が会うことはできませんか」

 気付けば急かされたように口にしていた。

 ――そんなにその目は万能なの? 再び声が頭の中で反響する。

「巧くんが、かい?」

 獅子戸が怪訝な顔となろうとも、巧は意思を取り下げる気はなかった。デュフォーを横目に少し意地になりつつある自分に気が付いた。


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