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抜刀  作者: 喫茶去
1/6

Encounter

 人を見殺したことは?

 ――ない。だって、あんなの人じゃなかったから。

 

 目と鼻の先で無残に解体された少女の亡骸(なきがら)と、その成果を見下ろすかのように佇む少年。

 そんな凄惨(せいさん)な光景を目の前にして、もはや()(なみ)は、何が何だかよく分からなくなっていた。あまりの異常事態に、恐怖というものが凍りついたせいだ。

 だが、だからこそ動いた足もあったのだろう。

 錯乱間近の精神状態にあっても、具体的に何から逃亡すればいいのかを見失うほど、彼女が視野(しや)狭窄(きょうさく)に陥らなかったのはまだ不幸中の幸いといえたのかもしれない。いつの間にか手に握っていた赤いハンカチを、少年の顔へと投げ放ち、少年から一瞬の視界を奪ったと同時に、美南は近くに安置されていた防犯用の消火器も、(かん)(ぱつ)()れずにその少年へと投げ込んだ。

 その結果さえ見届けることなく、すぐそばの階段を一目散に駆け降りる。もう、一秒だってその空間に留まっていたくなかったのだ。階段を落ちるように降りた。

 これは――正当防衛。自分にそう聞かせる。相手のことを気にする余裕もない。一刻も早く、あの場所から遠ざかりたい。美南の思考は遠回りをすることで、本質から目を逸らし続ける。

 強烈過ぎた死、という本質から。

 少なくとも、目撃したとは思いたくもなかった。先ほどまで会話していたはずの少女の解体現場を目撃したなどとは。現時点での、彼女なりの精一杯の現実逃避がそこへと集結する。

 しかし、それも無駄に終わった。どれほど階段を駆け降りたところで、あの場から遠のいた気にはなれなかったからだ。あの常軌(じょうき)(いっ)した現場から、ちっとも心が離れた気にならない。

 絶息しそうになりながら、美南は思う。少年の瞳の奥――二度と覗き込もうとは思わない。あれほどまでに恐ろしく、冷たい目を見たことがなかった。まるで、底なしの真っ(くら)(やみ)(ふち)に立たされたような気分だった。果てしなく暗く、一度でも落ちれば二度と出て来られないほどの深淵(しんえん)。あのまま見つめていたら――本当に死んでしまっていたかもしれない。

 それを思い出して、ようやく美南は、悲鳴を上げ忘れていたことに気が付いた。だが、まだあの視線が背中に張り付いているような気がして、絶叫する余裕を再び忘れる。

 振り返れば、少年がすぐそこにでも立っていそう気がする。まだ、――逃げ足りない。

 そして、少女――解体され、臓物(ぞうもつ)と四肢を(おど)り場いっぱいに散らされた、あの女の子。名前は二度も名乗られたが結局覚え切れなかった。しかし覚えていたところで、もはやその名前を呼ぶ機会は永劫来なかっただろう。すでに彼女の耳と首と胴は、致命的なレベルで分断されているのだから。

 解体後の少女の瞳の奥――少年よりマシともいえない。人ではなく、すでに物の一部として感じてしまえたあの眼球と視線が合えば、とてもじゃないが、生きた心地はしなかった。

「......何なのよ、これ。......何なのよ」

 言いようのない恐怖に(とら)われ、どこに逃れればいいのかも分からないまま、美南は夜を駆ける。まだ、――逃げ足りない。心がちっとも、あの場所から離れてくれない。

 その手遅れを呪う。美南はこの夜、生まれて初めて人外と出会い、話し、そして見殺した。

 

 

 逢坂美南(おうさかみなみ)はその朝、何ということのない登校途中で、一人の少女が行き倒れているのを視界に入れた。思わず、(くわ)えていたチョコバーを取り落としそうになり、慌てて咥え直す。

「......危ない。貴重な朝食、っと。............えっ、と」

 行き倒れた人間というものを美南はこのときに、生涯で初めて目にすることとなった。間をおいて美南は足早に、一応の用心をもってうつ伏せの少女に近付いた。

 大地に無防備に倒れている少女の身なりは、思っていたものよりも、随分綺麗なものだった。長い金髪にも十分手入れが行き届いていることに、美南はすぐに気が付く。

 白を基調としたロングドレスの所々に、朱色(しゅいろ)の糸による精巧な幾何学(きかがく)模様が()われている。恐らく手編みだと美南は勝手に想像した。貴金属の類は身につけていそうになかったが、このドレス一枚だけで、少女がそれなりに裕福な出の者であると証明してくれそうなものである。

「......い、生きてますか」

 美南は恐る恐るといった(てい)で、道端の少女に声をかける。高級住宅街が並ぶ道中での、この有様は正直、異様だ。声をかけずにいれるほど、美南は冷たい心臓の持ち主ではなかった。

 この時にしてようやく、美南は貧血や犯罪の可能性について考え始めて、焦燥を覚える。

「パンを」

 携帯電話を通学鞄から取り出そうとしていた美南の手の動きが止まる。鞄の底を(あさ)る音で、掻き消されそうな声が聞こえた気がしたからだ。事実、美南のその考えは正しい。

「パンを」

 今度は、はっきり聞こえた。うつ伏せの少女からのパンを求める声を確かに耳にした。

「パン、......ですか」

「はい、何か口に入るものを。この体はここ三日、何も口にしてはいないの、......です」

 美南は、これといった食糧になるものなど一つしか持ち合わせていなかった。結果として、このときの美南に出来たことは、朝食兼昼食の一部を分け与えることだけだった。

「チョコバーなら、......あるけど」

「......頂ければ、感無量(かんむりょう)

 美南の意図に気付いて、少女は機敏な動きで体を仰向けに動かした。上等の衣装に泥が着くことを気にしているようにも見えず、美南は、ますます少女の行き倒れる経緯を想像出来なくなった。仰向けになったことで、少女のとても幼い顔が美南の目に入る。

 もしかしたら随分と年下なのかもしれない、と美南は思った。仰向けの少女の、端整すぎた顔立ちに少しだけ見惚れてしまい、美南は急に気恥ずかしくなる。

 仰向けの少女は目を閉じて、小さな口を適当に広げていた。食べさせくれ、という意味だとすぐに理解する。横着(おうちゃく)だと美南は思った。呆けて見惚れてしまった姿を見られてしまったのでは、との心配をしていたのだが、それも急にどうでも良くなってきた。

「どうぞ」

 美南は刺し込むように、少女の口内にチョコバーを突き入れる。

 同時に、盛大に(むせ)る少女。バネ仕掛けのように小さな体が跳ね上がった。瞼が開いて、目が血走っている。それで少女の瞳の色が、随分な水色であることに美南は気が付く。碧眼(へきがん)というものだろうか、美南はそれも生まれて初めて目にすることとなった。

「......ごほっ、ぐほっ、......お、おかげでた、助かり、ごほおっ! う、うまい!」

 咳と涙声の混ざった、流暢な日本語がチョコバーを評価する。美南は悪い気はしなかった。

「これは、......何という食べ物ですか? こんな、甘い香りとコク、......協会にはなかった」

「ん? これ? ......ただのチョコバーだよ。よっぽど空腹だったんだね、事情は聞かないでおくけど交番はこの角一つ先だよ。それじゃ」

「ま、待ってください」

 立ち去ろうとする美南の袖が、掴まれる。思ったよりも強い力で引っ張られたので、美南はそこに怪しさを覚えた。関わり合いを避けようという気持ちが、ざわざわと湧き立ってくる。

「あの、お名前を教えて頂けませんか?」

 少しだけ逡巡(しゅんじゅん)する。初対面な上に怪しさを感じたとはいえ、相手はか弱そうな少女である。付け加えるなら少女はやや人間離れした、精巧な人形のような美しさを持っていた。そのせいで、いざとなっても何とかなりそうな気がしてきてしまい、美南は少女に油断を許す。

「......逢坂(おうさか)です」

 あるいは少女の声が、耳にしていて心地良かったせいもあるのかもしれない。

「そうですか、逢坂さん。ところで、......逢坂さんは神様を信じますか?」

「......え、ああ..................は?」

 あれ、と美南は思わず首を傾げた。会話の前後の噛み合いを確かめる。驚いたことに一致が見られなかった。

 そして今さらのように美南は、少女のロングドレスの異常さに目がいった。まるで身の丈に合っていないのだ。こうして並んでみると一目瞭然である。少女の身丈はせいぜい美南の半分もない。これで移動するとなれば、ずるずるとドレスを引き()るようにしか歩けないはずだ。

「神様でなくとも、たとえば幽霊とか来世とか。逢坂さんは、そんな霊的観念についてどのように考えておられるのですか? よろしければ教えて頂けないでしょうか」

 美南の胸で沸々と湧く疑念など構うこともなく、金髪の少女はさらに質問を踏み込んだ。

 神様、来世、幽霊。美南の日常には、どれも縁遠い言葉である。美南はそこを深く考えることもせず、ただ胡散臭いと思った。チョコバー一本はなかなか高い授業料だった、とも。

「あ、私、宗教とか、......ないんで」

 少女はそこで、わざとらしい咳払いをする。心外です、とでもいわんばかりの顔付きである。

「あら? これは宗教じゃありませんよ。ただ私は逢坂さんに、ご自身のことを、よりもっと深く知ってもらおうとして、......えっと、立ち話もなんですから、よろしければ美味しい紅茶でも飲みながら歓談致しませんか? きっと有意義な時間を過ごせると」

「それ常套句(じょうとうく)ですよ」

 少女の物腰の柔らかさと外見の無垢さが妙にマッチしたせいか、張り詰めたばかりの糸から徐々に緊張が失われていくのを美南は感じ始める。

「名前」

「へ?」

「名前、言ったほうがいいと思うよ。初対面の相手から信用を勝ち取りたいのなら。私は名前をちゃんと名乗れないような相手とお話しするには、かなりの努力と根気が要るんだ」

 美南の言葉で少女は少しだけ驚いたような表情を見せた。すぐに目を伏せて、非礼を侘びる淑女のような仕草を取る。(うやうや)しいその一挙一動は、どれ一つ取っても十分画になりえた。

「申し遅れました。............私、名をデュフォウフ・デヘテレレ・ワラウと申します」

「......はぁ?」

 自分から聞いておいてなんだが、美南は露骨に怪訝な顔をしてしまった。冗談だと疑いそうになったが、本当であれば失礼極まりない。この少女に礼を失することに心理的抵抗を覚えている今、聞いたことのない言語圏の生まれなのだとして、美南はこの問題をスルーする。

「それでは逢坂さん。改めてお尋ねしますが」

 少女は屈託のない笑みで、美南の手を握った。簡単に放してくれる気配ではない。

「人は何故生きるのでしょうか」

 脈絡のない――出会いの時点でそうであったが、脱線ばかりの少女の言動に、いつのまにか美南は面白いものでも見るような目付きになっていた。

 そこで美南に沸き起こった気持ちは、悪戯心のそれに近い。喩えるなら、火遊びに憧れた子どもの背徳感と好奇心を混ぜたような、そんな妙な浮遊感が胸の内に滲み出していたのだ。

 有り体にいうところの、宗教家をからかうのも面白いと、美南はそう思ったのである。

「私は知ってるよ。なんで人が生きてるのか」

 美南が会話に食い付いたことに、少女はあからさま過ぎるほど目を輝かせた。訪れた至福の時間を堪能するように、少女は美南に続きを促す。

「私、節約とか好きなんだ。効率的って言葉も結構好きでさ。こうしてチョコバー加えて朝食昼食代わりにしてんのも、それだけ多くの睡眠時間を確保したいからってのと、あとは朝昼のご飯代を浮かしてるのが理由」

「......成長期ですのに、体にご無理はよくないとは思いますが......」

 あなたに人のことは言えない、と美南は返さなかった。行き倒れた事情に興味はなかった。

「節約には二パターンあるんだ。時間を浪費してお金を節約するのと、お金を浪費して時間を節約する二パターン。そして、そのどちらも浪費して何も残さないのが無駄といって、またの名を娯楽っていう。......節約の敵」

 美南の語る言葉に、少女は雲行きの怪しさを感じ始めた。握られた手がそっと離される。

「そして、この世に娯楽に飢えない人間なんていない。無駄にしかならないものを愛さないでこの世で生きていける人間なんて、多分いない」

「だ、......だから?」

「人間は、そもそも生きるのに向いていない、って話だよ。異人さん」

「あ、あの、えっと」

「人間は自殺できる唯一の動物でしょ? そして、そんな娯楽に一生を台無しにできる唯一の生物。何のために生きてるかだって? そんなの決まってるじゃん、......死ぬときに死ぬため、もしくは、......殺されるときに殺されるため、じゃ――――――ないかな!」

 美南は見えないようにポケットから取り出したチョコバーを、少女の喉下に静かに当てる。包装の冷たい感触に反応して、少女はすぐに冷静を失くした。目を固く閉じ、震え始める。

「こ、殺さないで殺さないで、ごめんなさい、許してください! うぁああん!」

 芝居がかり過ぎたと思えた美南は、面白いほどに怯える少女を脅かすのをそこまでにした。苛めているような気がして、今さらのようにバツが悪くなってきたのだ。

 丁寧な口調と振る舞いに、相手が子どもであることを美南はすっかり失念していた。

「うわぁあああん! つまみ食いも、もうしません。これからは真面目に仕事します。調子も乗りません。だから、殺さないで! こーろーさーなーいーで!」

 ぼろぼろと少女が泣き出して懸命に助けを訴え出したあたりで、ついに美南は罪悪感に責められた。美南は少女の頭を撫でながら、小さな手にその日最後のチョコバーを握らせる。

「く、くれるの?」

 チョコバーを渡されると少女は、喉下に当てられた冷たい感触の正体へと行き当たり、悔しさ半分、チョコバーを手にした嬉しさ半分の何ともいえない表情を、泣き顔に浮かばせた。

「からかっちゃって、ごめんね。でも、もう私は行かなくちゃ。あと、これからは私の前では倒れてちゃダメだよ。もう、あなたにあげる分のチョコバーはないんだから」

 それを言うと、美南は少女の前を去ろうとした。時間を取りすぎてしまったことに気付く。少し駆け足になる必要があった。

「じゃあね」

「あの、待って」

 美南は少女に背を向けて駆けようとするも、少女からの思わぬ引き止めに会い、半身で振り返ることになった。そして、少しだけ驚いた。少女の泣きじゃくっていたはずの表情は消え、代わりに凛とした高貴な面持ちがそこに見えたからだ。先ほどあやした少女はどこにいったのだろうと考えてしまったほどである。それによって唐突に訪れた、警戒にも似た再びの緊張。

 引き止めた意図を勘繰(かんぐ)る。自然と口調も、(かしこ)まったものにならざるを得なかった。

「な、何です、か。急いでるから手短に」

 しかし少女の発した言葉は、美南のどの予想よりも斜め上をいくものだった。

「たまには瞬きをすることを、おすすめしますよ」



 その日に、学校で何が起きていたのか、教室で何が行われていたのか、なんなら黒板に何が書かれていたのかさえも、美南はついに知ることが叶わなかった。

 丸々一日、机に突っ伏して過ごしていたからである。午前も午後も、昼休みも、授業中も、こうした放課後になる今も、一度たりとも頭を上げずに机に張り付いていたのは、美南自身の人生でもこれが初めてのことであった。

 理由はある。両の目だ。異常なほど痛い。あまりの痛みに瞼を開閉することさえ億劫になるほどだった。初めて痛みを感じたのは、今朝のことになる。

 ――たまには瞬きをすることを、おすすめしますよ。

 少女のあの言葉を聞き終えた直後に、美南は両目に電撃が走ったように思えた。

 感じたのは、目頭から目尻にかけての、狂ったような熱と剣山に突かれたような鋭い痛み。知覚したその瞬間から今に至るまで、それは一時も休まることなく、美南の両目を苛んだ。

 痛みに心当たりはない。劇薬に触れた記憶もまるでない。

 美南は、今の状態をあまり人に見られたくはなかった。正常なコミュニケーションが取れるとは思えなかったからだ。そんな状態は、生活への差し障りがあり過ぎた。気分の悪い振りをして机に突っ伏していたのもそのためである。ひどい痴態を晒しているような気がして美南はこの日、他人との接触を極力避けることをひたすらに意識していた。

 あそこから学校へ向かうのは、中々に至難の業だった。少女なら、次に目を見開いたときには美南の目の前から姿を消していた。怯えて逃げたか、もしかしたら助けを呼びに行ってくれていたのかもしれない。結局、美南は一人で壮絶な視界の中で学校を目指すことになった。

 実際、こうして学校へ来たところで苦しんだだけだったのだから、痛みを感じた時点で素直に家へと引き返しておけば良かったと、美南はかなりの後悔を覚えることになる。帰るときにも、同程度の労力が必要と想定されるならば、帰りは痛みがもう少し治まってからでいいと、人目が十分に少なくなってからでもいいと、そう思っていた。だが、だからこそ、すでに放課後となって大分時間を経た今、教室で足音がしたことに――さらにいえば、その足音が自分に近付いてくるものであったことに、かなりの驚愕があった。

 いくら目の使用に困難な状況であっても、美南の耳は十分に使えた。むしろ、耳くらいしか使うことができなかったといえる。放課後になるこの頃には、美南の耳はすでに随分と鋭敏になっていた。足音が自分の席の前で止まるのを、美南は確かに感じる。足音が沈黙に転じた。そこから動き出すような気配はない。こちらの様子を伺っているように、美南は思えた。

「何?」

 美南は机に伏せたまま、尋ねた。誰、とは聞かない。目が開けない事情を聞いてもらう気はなかった。用件があるのなら、耳で済む。ここまで来ておいて、まさか自分に用がないとは、美南も思っていなかった。

逢坂(おうさか)さん。ちょっとだけお話があるの。少し、いいかしら」

 案の定、足音は美南を目指してのものであった。しかし、美南は聞き覚えのない声に当惑する。顔を上げて目を開きたい衝動に駆られた。

「ここじゃ、まだ、あれだから」

 声の主は場所の移動を提案する。教室の人気はないも同然だというのに、ここでもまだ人の目が気になる話題らしい。察するに、美南は今朝と同様の胡散臭さを覚えた。

 美南は一瞬だけ、左の瞼を開く。数時間ぶりに光を得た眼球は、即座に悲鳴を上げて美南に瞼の閉鎖を要求した。美南自身も異論はなかった。火傷でも負ったような痛みの中で、一瞬だけ網膜に焼きついた影を識別することに美南は成功する。

 知らない女生徒だった。切れ長の目に、随分と攻撃的な印象を覚えた。

 そこからの美南の返答に、あまり迷いはなかった。

「ごめんね、急いでるから」

 即座にその場を離れる。教科書は学校に置いてある。荷物は鞄の中に、仕舞い終えていた。去り際に腰骨を近くの机にぶつけたが、気にせずに目を閉じたままドアまで早足で移動した。

 我ながら、自家(じか)撞着(どうちゃく)の甚だしい言動だと思ったが、今の美南に知らない相手の面子(めんつ)を守る余裕はない。目をほぼ閉じたままでも、歩き慣れている廊下で(つまづ)くことはなかった。

 知らない人の誘いに簡単に乗ってはならない。その教訓なら、朝に習った。



 美南が歩幅のやけに狭い足音に気が付いたのは、靴箱まで無事に辿り着いた頃だった。

 教室で話しかけてきた謎の女生徒かと、はじめに美南は思ったが、それにしては随分と足音の間隔が短い。まるで足の長さの差を、回数で埋めてくるような歩き方であった。

 あとは、何かの布を引き摺るような衣擦(きぬず)れの音も。

 特に気になったわけではない。ただ気付けば美南は歩みを止め、振り返り、背後で息を切らせてついてくる少女と目を合わせていた。金髪で碧眼。丈が不釣合いのドレス。そこに居たのは間違いなく、今朝の少女だった。

「あれ、何で、君が、ここに」

 少女の白のロングドレスが、斜陽を浴びて薄いオレンジに変わっている。校舎という空間に丸っきり不釣合いなその出で立ちに、美南は青春映画でも観ているかのような錯覚を覚えた。見慣れた世界での、見慣れない住人。少女の存在はそれほどまでに周りから浮いており、それでいてその全てを圧倒していた。

 そこで、絶えることをまるで知らなかった両目の疼痛(とうつう)が、いつのまにか消失していることに美南は気が付いた。意識的に瞬きをしてみるが、どこが痛んでいたのか分からないほど、瞼の開閉は滑らかなものに変わっていた。少女との出会いにより始まった痛みは、少女との再会によって幕を下ろしている。狐に摘まれたような思いで、美南は目の前の少女に対面した。

「えへへ、こんばんは。えっと、逢坂さん」

 少女が丈の長すぎるドレスを持ち上げて、丁寧な会釈をする。つられて美南も会釈を返す。

「少し、ご歓談しませんか?」

 つい先ほど、覚えたばかりの教訓で、見知らぬ人の誘いを断ったばかりなのだが、美南にはこの少女にも同じような断りを入れることに、心理的抵抗を感じた。

 この少女から離れると、再び両目が痛み出すような気がしてしまったからだ。何も続けずに背を向け、どこかへ去ってしまおうとする少女に半ば急かされるように、美南は後を追うことを決めた。このときの美南に、教室で声をかけてきた女生徒への罪悪感はなかった。この少女は、もう知らない人ではなかったからだ。

「ありがとうございます、逢坂さん。えへへ、嬉しいです。私、この国で一番好きな言葉は、『ありがとう』なんですよ。すごく良い言葉ですよね。ありがとうの言葉自体に、ありがとうって言えるんですから。ありがとうだけで無限ループが組めますよね」

 少女の、どこか気の抜けた炭酸飲料を想起させる微笑みに、美南はありとあらゆる警戒を解かれた気がした。油断させるのも才能だと、美南は何となく思った。

「そう。それはいいけど、......えっと、あのさ。......えっと、あなたは」

「デュフォウフ・デヘテレレ・ワラウです。この国では聞き慣れない発音ですので、憶えておらずとも気になさらないでください。一度で憶えられた方のほうが稀です。......呼びにくければ、デュフォーと。友達も私のことをそう呼びます」

「そ、そう? なら、デュフォーちゃん、いえ、......さん」

「はい、なんですか」

「どうして、ここに? どうやって入ったの? 誰にも見つからなかった?」

「きちんと正当な手続きを踏んで、入らせてもらってますので、見つかったところで怒られることはありませんよ。ほら」

 そういって少女――デュフォーは首にかけてある青いストラップを持ち上げて見せた。紐の長さが地面に接するか接しないかの具合であったため、美南にはそれがどこからともなく現れたかのように思えた。

 ストラップの先には『GUEST』の五文字。確かにそれは正式な手続きを受けた、招かれた客人を証明するものだった。昨今は取締りがより厳しくなり、学校に入るだけでも気の滅入る審査を受ける必要があるという。美南はますます、デュフォーと名乗る少女を包む謎のベールに惹き付けられた。

「......これは本物だね。デュフォーさんって......一体何者なの?」

「しがない一介の研究員です。主にクオリアの研究をしています」

 クオリア、と美南は繰り返した。まるで聞いたことのない単語だった。一介の研究員という肩書きもデュフォーの外見からは、にわかに信じ難いものである。

「じゃあ、ここには何か用事があって来たの?」

「はい、逢坂さんにお話がありましたので。今からお時間少々よろしいでしょうか」

 あっけらかんと口に出すデュフォーに、美南は薄ら寒いものを感じた。

「......私に?」

「はい。会ってもらいたい人がいるんです」

 こっちです、とデュフォーは美南の手を取って、駆け足となった。駆け足といっても歩幅の差で、美南にとっては小走り程度の速度である。しかし、美南の心臓は全力疾走直後のような早鐘を打ち鳴らしていた。

 逆らうことのできない大きな流れに呑まれている気がする。美南を襲ったのは、そんな漠然とした不安感であった。厄介ごとの渦の中心に向けて歩を進めている気がして、美南は無性にデュフォーの小さな手を振り解きたくなったが、すんでのところで自制する。

「逢坂さん。さきほどの『ありがとう』についての話に戻るのですが」

「うん、何」

 胸の内なる動揺を無理に隠したためか、美南の声は少し裏返ったものになってしまった。

「もし、その『ありがとう』という気持ちを言葉にするだけでなく、目に見える形――それも対価的な評価ではなく、もっと厳密に数値化された概念として処理することができるとしたら逢坂さんはどう思いますか?」

「ど、どういうこと?」

 美南は純粋に、デュフォーの言っている意味が分からなかった。とっさに美南は今朝の話題との関連性を探すが空振りに終わる。しかし美南のそんな反応にデュフォーは、子どもに物事を噛み砕いて説明する大人のような表情を浮かべた。

「感謝とか感動とか、そういった感情の類を物理的に、()つ、普遍的に観測することができるようになったとしたら、逢坂さんはそれをどう思いますか?」

「どう、って......」

 美南は返答に困ったが、デュフォーの言うような世界を想像することは不思議と容易かった。

「何ていうか、......うんざり、かな」

「うんざり、ですか? また何故」

「だって感情の類ってことはさ。他人の考えていることが丸分かりになる、ってことになるんでしょ。それは、きっと知りたくもないようなことばっかりだよ」

 打算、思惑、下心。人の頭の中を覗くという行為で得られる物は、きっとロクでもないものばかりだと美南は直感的に思えた。この世で知らなくてもいいことの筆頭にあるのは、余命と隣人の心なのだと。美南は何故かそこで、身に覚えの無い罪悪感に囚われる。

「多分、私自身も、きっとそうだから」

 そう述べ終えた美南に、デュフォーは少しだけ悲しそうな表情を浮かべた。

「確かに今朝の逢坂さんは、ちょっと意地悪でしたもんね」

 デュフォーは美南を見上げた。責めるような視線ではなかった。

「でもね。好きですよ、私。逢坂さんのこと」

 その言葉で、美南は少しだけ何かから救われた気になれた。ただそれだけで美南はこの少女を穿(うが)った視線で見るのはもう止めようと思えた。

 片方の手でドレスを掴み、もう片方の手で美南と手を繋いだまま軽快に駆けるデュフォー。よく転ばぬものだと美南は思う。間違ってもドレスの(すそ)を踏んでしまわぬよう念を入れた。

「それにご安心ください。他人の感情が視える『鑑定(かんてい)(がん)』なんて狂った眼を持った(やから)は、この世に一人居れば十分です。まぁ、それはそうと逢坂さん。クオリア、というものをご存知ないでしょうか? この国では確か、感覚質(かんかくしつ)と名を変えていたはずですが」

「ないけど。待って、......これは、さっきの感情を観測できたらって話といい、これから私が会う人と何か関係があることなの? 私が、呼ばれたことと」

「はい。大いに」

 デュフォーの断言に、思わず美南は二の句を継げなくなった。

 美南とデュフォーは二階へと移動する。放課後の校舎はまさに怪奇の巣窟(そうくつ)だ。昼間あれだけ人の絶えることを知らなかったはずの空間はこの時間になると、居ること自体に何かの禁忌を犯している気になってしまう。まるで異世界に迷い込んでしまったような心地さえある。

「この、感覚質――クオリアというものを分かりやすく喩えるなら、心の肌触りになります。尖っていて痛そう、柔らかくて気持ち良さそう。実際に触れてもせずに、私たちは物の質感というものを把握、ないし想像することができますよね。その感応をクオリアというのです」

 斜陽が人の失せた空間を赤々と照らす。世界の終焉が切り取られたように美南には見えた。そんな、沈み行く太陽へと物憂げな視線を投げる美南に、デュフォーが気付く。

「この夕日の赤を綺麗と呼ぶのなら、それもクオリアですよ、逢坂さん。この夕陽はきっと、逢坂さんにしか分からない色で赤く輝いています」

「私にしか分からない色? どうして」

「この世で同じクオリアを持つ人は居ないからです。同じ夕陽を見ても、中には世界の終末のように感じる方も居られるでしょう。クオリアは、その人独自の世界を彩る機能ともいえるのですから」

 それは私だよ、と美南は声に出さずに言った。何となくデュフォーの期待を裏切ったような気になって、(いわ)れのない罪悪感を再び胸に覚えた。

「クオリアが人の心情の機微を司るということは、つまり、クオリアがあらゆる感情の源泉になりえるということです。クオリアの研究を重ねる私たちは人がクオリアを得るとき、そこにある特殊粒子の発生が関与していたことを、ある日、偶然から発見しました。それが」

「それが、......感情を観測できる粒子だった?」

 デュフォーは少しだけ目を見開いて、頷いた。出来の良い生徒を褒める先生のようだった。

「クオリアの副産物――残滓(ざんし)ともいえますこの粒子を、私たちはクオリア・クォークまたは、『()粒子(りゅうし)』とそう呼んでいます。逢坂さんのご指摘通り、この粒子の発見が、人が感情という無形の財産を保存することに成功した、躍進的な研究へと至った瞬間になったのです」

 コップに満たされた一杯の水を想像してください、とデュフォーは言う。

 美南は信じられないものでも聞くように、好奇心を耳に寄せた。

「赤色の水彩絵具を水の入ったコップに一滴落としたとします。すぐに絵具は、コップの中で煙のように溶けるでしょう。そして、僅かにコップを紅に染めることで存在の名残を観測者に伝えようとします。『疎粒子』にとっての感情が、コップの水にとっての絵具に当たります」

 そこからデュフォーは、多様な顔芸を見せた。

「例えば怒ったとしますね、ぷんぷん! すると『疎粒子』はそれに感化されて同じく真っ赤になります。逆に、泣きます、しくしく! すると、さっきまで赤かったはずの『疎粒子』が今度は哀しみに感化されて、真っ青に変わってしまうのです。発生したばかりの『疎粒子』は無色ですが、感情という要素がこの無色の『疎粒子』に色を与え、方向性――つまりは属性を付加させることになるのです」

 無形のクオリア。そして生まれる、無数の、それでいて無色の粒子群。

 美南は想像する。デュフォーの心地良い微笑みに感じたクオリア。そこから発生した無数の『疎粒子』という名の粒子群。粒子は一つ残らず赤面しているだろうな、と何となく思った。

 それらは人の心の形を真似るように、発露された感情を捉えて自らを変容するのだそうだ。

「この、『疎粒子』が感情によって色付けを――感化されることをリクオリアというのですが、私たちが逢坂さんにお話したいことも、このリクオリアについてのことなんです」

 デュフォーは、そこでようやく立ち止まった。そして、大声を張り上げる。

「たくみっ! 連れて来たよ!」

 場所は、校舎二階西階段前。玄関口から最も遠い階段だった。付け加えるなら、この付近に立ち寄る生徒はまず居ないといえた。この付近は主に、資料室や化学薬品類用の教室が並んでいる。どこも厳重な鍵の下、生徒が好んで立ち寄る理由などあるわけがない。放課後遅くなら尚のことだ。そんな人の立ち入らぬ空間――二階から三階にかけての踊り場に、人影が一つ。

 いつの間にこんな所まで連れて来られたのだろうと呆けていたせいで、美南はデュフォーの次の言葉を聞き逃しそうになった。

「簡潔に申し上げます。逢坂さんのリクオリアには、著しい異常事態が起きています」



 大抵、相場で決まっている。探偵か、殺し屋か。学校を舞台に、人通りの絶えた時間と空間から好んで登場したがるのは、得てしてそんな役柄ばかりだ。架空の世界ではお馴染みの、画に描いたような無気力な風体の輩が現れるものと勝手に想像していた美南は、実際に踊り場に現れた、ひどく存在感の薄い少年に驚くことになる。

「来てくれて助かった。あまり、人目には触れられたくなかったから」

 降りてきた少年は、随分な細身の上、肌が異様に白かった。その足が、階段を降り始める。

 黒のジャケットとパンツ、胸元に覗く白地のシャツが夕陽で橙になっている。少しだけ長い髪の隙間から童顔が垣間見えるも、視線だけが嫌に鋭い。美南には、年がそこまで離れているようにも思えなかった。また、口調が丁寧とも言い難く、まだ粗雑さが残る言葉遣いだった。

「両目はまだ痛むか? それと居たら少しは楽になっただろ」

 それ、と少年はデュフォーを指差した。美南は少しだけ不愉快になった。

「『疎流体(そりゅうたい)』に憑かれた人間は瞬きを忘れる。重要な受容体(レゼプター)である視覚機能を、一瞬も宿主に閉じられないために、瞬きを忘れてしまうんだ。あなたの目の痛みの、原因はそれだ」

「あの......、『疎流体』って?」

 少年はデュフォーに、説明不足を非難するような視線を向けた。少年は階段を降り終える。背丈がそれで分かった。美南よりも、少し低い。柄の悪い私服の高校生にしか見えなかった。

 デュフォーが愛想笑いを浮かべて返すと、信じられないことに少年から舌打ちが聞こえた。少年と視線が合う。慌てて逸らされた。失礼な奴だなと美南は思った。

「リクオリアを受けた『疎粒子』は同属性同士で集合し、そこから最小の群――エンブリオを形成する。これは、後の核となるもので、このエンブリオが、そこからさらに集合することで『疎流体』へと変貌を遂げる。『疎流体』ってのは『疎粒子』の集まりの最終段階での群称」

 美南には、少年が説明をする気などなさそうに見えた。余所見(よそみ)を何度も繰り返し、妙に落ち着きがない。投げやり気味な言葉の数々にも、まるで、美南の目くじらをわざと立てようとしているのかと思うほどだった。

 そんな美南の不服に気付くかのように、少年は一度だけバツの悪い顔をした。

 少年が自分の目頭を押さえつけたのは、そのときだった。

 目眩でも覚えたように眉間に皺を寄せて、少年はよろめく。階段の手すりにもたれ掛かって転倒を防いだ。貧血が似合いそうな痩身(そうしん)は、少年の脆弱さを肯定するように様になっている。

 美南は様子のおかしい少年に、一応は気遣って、少年の肩に触れようとする。途端、

「俺に、触れるな」

 美南の腕は、少年に乱暴に振り払われた。美南は心外に思った。しかし、少年からの視線がひどく攻撃的なものに変わっていることに気付くと、美南は少しだけ気圧されてしまった。

 親の仇でも見るかのような――一体何をどう思えば、こんな視線が放てるというのか。

「あ、あなた、何なの」

「必要か」

「え?」

 思わず尋ねてしまった美南に、少年は冷淡ともいえる態度を返す。

「俺の名前が、あんたのこれからに必要なのかと聞いているんだ。ちなみに俺はあんた程度の信用なんて、これっぽっちも要らないぜ」

 素直じゃない、なんてものではない。これは明確な拒絶だ。美南は敵愾心(てきがいしん)を包み隠そうともしない少年に、思わず怒りを覚えた。今朝のことを逆手に取られた気がして、我慢ならない。

「......あなたね」

 だがそこで、少年へと一歩踏み込みかけた美南は、体に妙な違和感を覚えた。

 重い。

 胃が鉛で満たされたかのように、全身が堪らなく重かった。それでいて――冷たい。

 そのせいで、少年に平手打ちを鳴らそうと振り上げていた、美南の右腕も止まる。

「デュフォー、もう限界だ。鑑定を終了する。これ以上は、視るに耐えない。......クロだ」

 少年はそれだけ言うと、唐突にその場にへたり込んだ。呆気に取られた美南は、少年の長い溜息の後、再び彼と視線を合わせることになる。そして戦慄した。

 少年からはさっきまでの、怯えの裏返しのような敵意の目がなくなっていたのだ。代わりに人の持ちえることが到底許されそうにない人外の瞳が、そこから美南を射抜いていた。

 光の墓場だと美南は思った。少年の瞳の中は、あらゆる光の反射を許していなかったのだ。まるで宙に打たれた黒点のようだった。濁っているのか澄んでいるのかさえ、分からない。

 覗いてはいけないものを覗いた気になった美南は、引き摺り込まれそうになる感覚に(ひる)んで咄嗟に一歩退いた。あの目の正面に立ってはならないと、全身の細胞が警告を発してきたようだった。一瞬だけ感じた背筋の悪寒が、本能を代弁してくれたかのように思えた。

 そんな美南の警戒に気付いた少年は、そこからゆっくりと立ち上がり、階段の三段目に腰を落ち着ける。頬杖をつき、さきほどまでの敵意や怯えの消失した――人の命を吸い上げるような視線で、少年は美南を仰ぎ見た。

「俺に平手打ちを食らわせるのは一向に構わないんだが、その前にその左手の重いの、まずは離してやったらどうだ。逢坂美南」

 そこで美南は、ようやくのこと、左手で何かを掴んでいたことに気付く。およそボーリング球程度の大きさで、その半分くらいの重量の、肌触りの良いやつ。


 金髪碧眼の生首だった。生前の名は、デュフォーで間違いない。


 掴みやすい穴でも見つけたかのように、デュフォーの左目の眼孔に美南の親指は食い込んでいた。美南がそれを自覚すると同時、デュフォーの生首が美南の指からズルリと抜け落ちる。

 ビチャリ、と粘度の伴った水音を立て、首はリノリウムの床を鈍そうに跳ねた。

 凍りついた美南の視界に入ったのは、ひたすら赤一色。

 床のあちこちに、気味の悪い、奇妙にねじれた人間の手足が散らばっていた。美南が踏んでしまわぬようにと気を遣った、デュフォーのあのロングドレスも派手に引き裂かれて見る影もない。吐き気を催すほどの鮮烈な赤が、ドレスから純白を奪っている。

 美南の視線は目まぐるしく動いた。

 ここは、どこだ。デュフォーは、どこだ。

 四肢と首が欠けた、胴のような何か。深海の生物めいた、臓物のような何か。壁にも床にもぶちまけられた、血のような何か。何かから先を言葉にできない。そのどれもが、ひどく作り物めいて美南の目には映った。まるで、人を生きたままミキサーにかけたような惨状だった。美南は息を呑む。本当に自分が何を見ているのか、理解できなかった。

 これではまるで、血の海だ。

 美南の前髪から、真っ赤な雫が落ちる。遅れて、全身がずぶ濡れであることに気が付いた。体が重く冷たく感じたのも、あながち間違いではなかったようだ。我が身を濡らすものの正体が何らかの返り血だと気付くのに、そこからは、そう時間は要らなかった。

 急に金臭さを感じた。鼻に手をかざそうとして、全ての爪の間を埋めている黄色っぽい異物に気が付いた。美南の想像力がそれに追い付いて悲鳴となる前に、その声が絶叫を(さえぎ)った。

「気にしなくていいですよ。これ、仕事ですから」

 聞き覚えがあった。あり過ぎた。美南は、それが幻聴であったのかを確かめるように、その声の持ち主だったはずの人物へと振り返った。血の気が、視線と反対方向に集っていくのを、何となく感じた。

「あは。......えっと、びっくりしました? ......なんちゃって」

 結果、美南の考えは的中する。首一つとなっても、変わらぬ微笑みが浮かべられると思っているのか、デュフォーであったはずの首は、何事もなかったようにその口を動かしていた。

「っていうか、たくみ。大丈夫なの? なんかいつもより顔色悪そうだよ」

「心配には及ばない。今、かけたから。それより、お前こそバッテリー無事なのか」

 異常だ。何もかもが。

 声帯と肺を失ったはずの首が、どんなメカニズムで声を発しているのか、美南にはどうでもよかった。ただ、虚空(こくう)となったデュフォーの左目からの、おぞましい視線を感じ取って、その場で腰を抜かした。そこに、少年が近付く。

「狂っている人間に、狂っていることを自覚させるのに、最も手っ取り早い方法が何か知っているか、逢坂美南。トップとボトムを自覚させればいい。ただ、それだけなんだ」

 少年の瞳には黒い靄がかかっているようだ。

 まさに、光を吸い殺す人外の瞳。美南はそれに全ての救いを絶たれた気がした。

「こ、来ないで」

 黒い手袋をはめた少年の手が、ゆっくりと美南に伸ばされる。美南は瓦解寸前の最後の理性で、自らの顔を守るように両腕で庇う。だが、まるで力の入らない両腕は、あっけなく少年に解かれた。美南は近くの消火器を視界に入れるも、そのときには遠すぎた。

 美南は固く目を(つむ)ったせいで、その直後に頬に感じた柔らかい感触に、明確な答えをすぐには見つけ出せずにいた。

「おぉ、たくみ。やっさしー」

「別に。早く冷静になってもらいたいだけだ」

 しばらく頬が何度か擦られる感触の後、美南はゆっくりと瞼を開き、周囲の様子を戦々恐々(せんせんきょうきょう)伺った。どうにも様子がおかしい。しかし、瞼を薄く開けるとすぐ目の前に少年の瞳があり、美南は慌てて再度、目を瞑った。だが、頬の感触の正体がその一瞬で分かった。

「あれ? でもそのハンカチ、伊坂っちのじゃん」

「え? ......あぁ。あいつには似合わないから、別にいいだろ」

「絶対怒られるよ。それ、お気に入りだ、って聞いてるし」

「......そしたら、新しいの買うよ」

 美南の頬にはハンカチが当てられ、血が(ぬぐ)われていたのだ。少しずつではあったが、時間とともに冷静さを取り戻しつつあった美南は、自分の身に危害が加えられていないことに気が付いた。勇気を搾り出し、心臓が破裂しそうなほどの決心で、再び美南は視界を開く。少年の瞳と床の首には、目が向かないように気を付けた。そんな様子の美南に気付いた少年は、余計な刺激を与えまいとする慎重さで、名を名乗った。

「まずは、そのおっかない目を引っ込めたらどうですー?」

「お前は黙っていろよ、デュフォー」

 床に転がったままの首が、横槍を入れてくる。少年――巧は、美南の位置から首が見えなくなるように移動した。自身の体で壁にする形に。どこか必死さを思わせる表情で、巧は美南に落ち着きが取り戻されるように尽力していたようだった。

「あぁ、そこのなら気にしなくていい。あれはああ見えて端末(デヴァイス)なんだ。人形なんだよ、人形。実は本体が別のところで遠隔操作してるから、あんなになっても痛くも痒くもないんだ」

「え、一応、痛いし痒いよ?」

「だから黙ってろって」

 身振り手振りをまじえて懸命に話していた巧は、背後から聞こえる声を鬱陶(うっとう)しく思った。

 美南の手に、巧はハンカチを握らせる。はじめはショック状態の傾向も幾度か見られたが、すでに安定し始めたのか、荒い呼吸は収まりつつあった。おそらく、意識を手離すことはないだろう。強い人だな、と巧は思った。

「立ち上がれるようになったら教えてくれ」

 巧の言葉に、美南はゆっくりと頷いていた。それに安心して、巧は少し距離を取る。近くにいるのが逆効果であることには気が付いていた。比較的血に濡れていない壁に寄りかかる。

「なぁ、デュフォー。あいつは何処にいったんだ」

 美南の耳に入らぬように小声で、巧は首だけになった同僚に話しかける。それは、本来ならここに居るべきはずの、もう一人の同僚の不在についてだった。

伊坂(いさか)っちのこと? え、たくみは聞いてないの? 私も知らないよ」

 無断欠勤の確定である。巧は、自由勝手な同僚たちに頭が痛くなってきた。

「でも今日はまだ、伊坂っちは来なくて良い日なんじゃないの?」

「原則来い、だろ。まぁ居たとしても、逢坂美南の『疎流体(そりゅうたい)』は後日に(はら)うことになるから、あんまり出番はなかったと思うけど。......逢坂美南は保護観察に置いて、今日は様子見だ」

「なんで? さっきああ言ったけど、今から伊坂っち探しても? そしたら今日中に片付くんじゃない?」

「いや、成形以前の『疎流体』は、宿主の精神状態で勢力を大きく変える。今の逢坂美南では不安定過ぎて、とてもじゃないが祓いに耐えるだけの精神強度が望めるとは思えない。下手をすれば、成形の手伝いにも為りかねないからな。日を改めて、出直したほうが確実だ」

「なるほど。さすが『鑑定眼』は伊達じゃないね」

茶化(ちゃか)すな」

 そこで巧は、美南の肩の震えが大人しくなっていることに気が付いた。美南は踊り場の隅で身を小さくしたまま、巧たちを上目遣いに見つめている。

 おっかない目、というデュフォーの揶揄(やゆ)を思い出し、巧は慌てて目を伏せた。伏せた先ではその同僚が首で転がっていたものだから、巧は上着を脱いで首全体に覆い被せた。上着と床の間で発せられる不満は聞き流す。残る物騒なものといえば、後はこの真っ赤な現場そのものだが、さすがにこればかりはどうしようもない。一応は後処理のために、飛沫の範囲を確認する。

 直後、激しい物音が唐突に巧の鼓膜を震わせた。振り返ると、何かが視界を奪ってきた。

「何」

 咄嗟に手で叩き落とす。すぐにそれが、美南に握らせていたはずのハンカチであったことが分かった。デュフォーの操作していた端末の内容液――一応は、血と成分を同じくする液体に濡れている。だが、それが、何故、飛んでくる?

 異変を察知した巧が美南へ視線を向けるも、そこに人影はない。すぐ後ろで、盛大に駆ける足音が響いたのは同時だった。

 巧の瞳が変化する。靄が晴れ、闇色が変化し、はじめて美南の前に現れたときの澄んだ色へと回帰する。外灯の光が、巧の瞳に反射した。

 巧の視線が、そのまま宙をなぞるようにして美南の影を探す。一瞬だけ彼女の背中が見えるも、すぐに何も見えなくなった。消火器が大きくなって、巧の視野の邪魔をしたからだ。

 ゴゥン、と耳元で鐘が鳴る。手足の痺れを感じて、自身が倒れていくのをぼんやりと知る。



 くぐもった声が自分の名前を呼んでいる気がして、巧は我に帰った。一瞬とはいえ、意識を失っていたことに動揺した。どこかから声が連呼している。巧は上着を乱暴に取り払った。

「どったの? 何だかヤバそうな音が聞こえたよ!」

「問題ない。ただ、逢坂美南は去ったみたいだ」

 頭で鈍痛が寄せては返す。近くに転がる消火器は見た目よりも、随分と重そうであった。

「ちょ、追わないと! もしかしたら、まだ暴れ足りないのかも! それならやばいって!」

 デュフォーの顔が焦りを浮かべる。視線が這うための手足を探すも、すでにそれらは四方に散り散りになっている。途方に暮れた表情を浮かべるデュフォーであったが、巧はそれさえも思考の外であるような思案顔になっていた。

「いや、完全成形前の段階でお前に惹き付けさせて引っ張り出したんだ。もう逢坂美南に憑いている『疎流体』は力を消耗し切っているはず。暴れるポテンシャルは、もうないはずだ」

 上着を肩にかけ、巧は何もない宙を見回し、肩を僅かに震わせて瞼を下ろした。再び開かれた瞳は驚くほどに暗い靄がかかっている。

 何を想っているのか、そこから汲み取れそうにない。

 不思議と、どこか落ち着き払った巧の態度にデュフォーは眉を寄せた。

「......にしても、たくみ。妙に落ち着いてない? 何で? 逢坂さんあんなに錯乱状態っぽいのに、それでも放っておくつもりなの?」

「錯乱状態、か。あぁ、......そうだよな。マズいんだよな、錯乱していたら」

 ますます認識の齟齬(そご)が広がっていくのをデュフォーは感じた。そこで、はたと気付く。彼もまた何かに混乱しているのでは、と。腑に落ちない何かが彼の思考を妨げているのでは、と。

 落ち着いているのではなく、彼自身もまた戸惑っている。もし、そうであるのならば。

 彼が行動を躊躇するとすれば、それは不確定要素の出現に他ならない。デュフォーはこれまでの経験からそう判断し、動揺の正体を自分にも共有するよう巧に促した。

 彼の判断が揺らされる要因となれば、もう心当たりは一つしかない。

「ねぇ、逢坂さんにリクオリアされた『疎粒子』は、どんな感じだったの? 目あるんだから見えたんでしょ?」

 話が早い、と巧は頷いた。

「......一変して、いたんだ」

 デュフォーの問いに、巧は慎重に言葉を選んでいるようだった。

 しかし、続く巧の言葉にデュフォーはしばし絶句することになった。

「今の逢坂美南は、............一体、誰だったんだ」

「は?」

「逢坂美南からのリクオリアがある瞬間から唐突に観測できなかった。......完全に消えた? いや、そうじゃない。全くの別種のリクオリアが観測されたんだ。感情が一変したみたいに。今ここにある『疎粒子』も、それを証明している」

「落ち着いて。一変、って? え、なにそれ」

「周囲からのリクオリアが止まれば『疎粒子』が無色化されても不思議じゃない。『疎粒子』は感情を反映する機能しかないから、宿主からの供給(リクオリア)が止まれば必然そうなる。だが兆候一つ見せることなく、ノータイムでそんなことが起きたなんて信じられない。リクオリアの性質がこうも簡単に変化するなんて、そんな人が急に生まれ変わったみたいなことが」

 巧はそこで何かに気付いたように額に手を置いた。

「......そうか。リクオリアがリセットされたケース、......そういうことか」

 少なくとも、彼にだけ分かる何かがあった。デュフォーは、それだけが聞ければ十分だった。

 デュフォーは彼女なりの現状を理解していく中で、巧の動揺が際立った瞬間を思い出す。

「うん、待って。それは後で整理してよ。それより逢坂さんを追わない理由は何? 発生した別種のリクオリア、ってのは、一体どんな性質の感情だったの?」

 そもそもこの認識の齟齬は、巧が、逢坂美南を放置に近い状態に置いたことから端を発している。妙な引っかかりを覚えたのは、そこだ。

 ――マズいんだよな、錯乱していたら。

 デュフォーには、あれが錯乱以外の何物でもないように思えた。だが、よく思い返せば足音を聞いただけに過ぎない。誰でも思いっきり走れば、あれくらいは騒がしいものになる。

「......いうなれば、錯乱とは真反対の感情だ。画に描いたような冷静沈着さだった」

 巧の言葉にデュフォーは、しばし呆然となる。はて、リクオリアとは『疎粒子』に感情という属性を付加する過程そのものではなかったのか。

「え? 冷静を煮詰めたような感情が、あの怯え切った逢坂さんから放たれた?」

 巧は不承不承に頷いていた。

「そういうことになる。逢坂美南は腰を抜かすほど怯えた直後に、驚くほど冷静に俺たちから逃亡したということになる。推測の域を出ていないが、恐らく脳の記憶機能に何らかの異常が懸念される。どうやら少しおかしなことになってきているみたいだ」


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