いっぽ
書きながら、こういう女の子って可愛いな、と思ったりなんだり。
私は楓ちゃんのお母さんみたいな母になりたい。
幼なじみというのは、いつから一緒にいるべきなのか。
私の家、篠原家のお隣に田所家が引っ越してきたのは、私が小学校に上がる年の三月だった。
近所に新一年生が一人もいなかったため、私はあがったばかりの小学校に一人で登校しなければならなかった。
そんな所に、タイミング良く越してきた田所さんの家には、私よりも一歳上のお姉ちゃんと、四歳上のお兄ちゃんがいた。
母は迷わず、お隣の兄妹に、娘と一緒に登校してくれないか、と頼んだ。
妹の年齢が私に近かったからだ。
兄妹はそろって頷いてくれた。
母は安心して会社に行った。
それが、お隣さんとの出会いだ。
田所さんは近所から引っ越してきたらしく、小学校の転校はしていなかったから、よけい頼みやすかったことだろう。
だから、二人は私にとって、幼なじみと言うよりも、小学校に上がってできた友達だった。
お母さんには何度も注意されたけど、私は二人を「のどか」「すずか」と呼び捨てした。
年の差の意識なんてなかったし、向こうも私を呼び捨てにしていたのだから、一緒だ、と思っていたのだ。
それから、私は二人と登校するようになった……はずだった。
実情はちょっと違う。
私は二人で登校するようになった。
「あれ、すずかは?」
家に迎えに来てくれたお兄ちゃんに、私は不思議に思って問いかけた。
「すずかは、同じクラスの友達と一緒に行くって」
お兄ちゃん、のどかは、ばつが悪そうに靴をトントンと鳴らして、手を出してくれた。
「楓、僕と一緒に行こう?」
今なら、のどかがどれだけ優しくて、紳士だったかが判る。
でも、小学校一年生なんて、ほんのお子さまだ。
「いいよ、行ってあげる」
頼んで一緒してもらってるのに、お前は何様だ!
今の私のツッコミなんて、昔の私には聞こえない。
のどかは、私の返答ににっこりと笑ってくれた。
「ありがとう」とそえて。
どんだけ、完璧人間だ!
今の私のツッコミは、昔ののどかにも聞こえない。
のどかは、私の小さな手をしっかりと握って、家から一歩踏み出した。
すずかは、気まぐれに一緒に登校してくれる。
のどかは、毎日一緒に登校してくれる。
兄弟のいない私にとって、二人は家の違う兄姉みたいなものだった。
クラスの友達と遊んで、家に帰ってきた後、夕ご飯までの時間を、家の前の公園で、田所兄妹と一緒に遊ぶ。
背の順で行くと、のどかが一番大きくて、そののどかから十センチくらい低い私、その私よりさらに十センチ低いすずか。
大きくなってから聞いたところによると、すずかはこの頃、私にコンプレックスを持っていたらしい。
横に並びたくなくて、一緒にいたくなくて、ふらっと私を置いていってしまうことがよくあった。
そんな時、決まってのどかが私を呼びに来て、途方に暮れてる私としばらく一緒にいてくれた。
思えば、当たり前のように側にいてくれたけど、その幸せに全然気づいていなかった。
大変もったいないことをした、と今ならば思う。
その時間を、今の私のやるせなさと交換してくれ、と昔の私に詰め寄りたい。
だけど、そんなことができようはずもない。
時間は無情にも、刻々と過ぎていく。
とてものんきな私が、のどかに初告白をしたのは、私が小学三年生、のどかが中学一年生の頃だ。
中学生になった途端、滅多に会えなくなった私は、ようやく、のどかが家族ではないことに気づいた。
すずかに聞くと、彼女は毎日のどかに会っているという。
当たり前だ。家族だもの。
でも、その当たり前が、私には納得できなかった。
どうにか、会える時間を増やそうと考え出したのが、告白。
ちょっと待て、と止めたい。
今の私が過去の私に会えるのなら、絶対に止める。
時間を増やそうとして、何で一足飛びに告白なの?
小学生女子って、そういうものなの?
世間一般の小学生女子はともかく、私はそんな風に残念な方向にやる気と思考力に溢れていた。
むしろ、プロポーズしなかっただけ、ましだったのかもしれない。
「告白=お付き合い=一緒に遊べる」だったのだから。
「のどか、大好き! 付き合ってください!」
家に入る直前ののどかを呼び止め、隣近所にまる聞こえの大声で、私はそんな告白をした。
後日、近所のおばちゃんが「告白だとは思わなかった。てっきり、どこかに遊びに行くのに、拝み倒しているのかと思った」と言ったくらい、情緒もへったくれもなかった。
当ののどかは、しばし私をじっと見て、周りを見回し、篠原家の家に家族がいることを確認すると、頭をこてん、と傾げた。
「どこに付き合うの? おばさん、帰ってきていないの?」
私はかんしゃくを起こした。そんな風に勘違いされるなんて、ちっとも考えていなかったのだ。
「違う、違う! 恋なの! 恋人になってほしいってお願いだよ!」
腰に手を当てて、ぷんすか怒った。
どこが恋なのか、恋心の何たるかをわかってて言っているのか、昔の私を問い詰めたい。
しかし、私を止める存在など、比喩ではなく、どこにもいなかった。
じゃぁ、物理的に止められそうな存在がその時どこにいたかというと…。
その時のビデオを、実は物陰からこっそりと撮影していた母が残している。
この黒歴史は、私がぐれたら、世間に公表しようと思っていた、と後に母は語った。
そんな母の外道っぷりを知らず、私はのどかの返答を待ち、のどかは、困惑したように眉根を寄せて、小さくため息をついた。
「どうなの? 付き合ってくれるの?」
物言いはえらそうに、だけど、実はかなり自信の無かった私は、下から見上げるようにのどかを見やる。
私の足が本当はすっごく震えていたことに、優しいのどかは気づいていたんだと、今なら思う。
ふっと表情を緩め、私の頭をなでながら、言ってくれた。
「大きくなったらね」
そう、それはどう考えても、はっきりと断るのが忍びない年長者が言う、お決まりの断りの文句だった。
いや、いまならわかるよ? 割と直球な断りの台詞だよね、って。
でもね、でも!
「小学校三年生」には、通じなかったんだ。
いや、はっきり言おう。
「小学校三年生の、私」には、通じなかったんだ。
「そっか。まだ私、小さいもんね。わかった、大きくなったら言う!」
私は満面の笑みで答えていた。
のどかの表情が強張っていたのは、記憶違いでもなんでもない。
母のビデオに写っていた。
それから私は、背を伸ばすためにかなりの努力をした。
牛乳をたくさん飲み、バスケを始め、ひじきやら小魚やら何やら、骨によさそうなものをたくさん食べた。
元々、両親そろって長身の篠原家。
産院では、生まれたばかりの私の顔を見た取り上げた先生に、「おとなっぽいねぇ」と言わしめた私だ。
努力と才能は見事にかけ合わさり、中学校一年生になる頃には、のどかの身長を超えていた。
ちなみに、のどかの身長データについては、田所家の中にいる私の間者(すずか、とも言う)によって、週一のフライドポテトと交換でもたらされていた。
何て言うんだろう?
中学校に入学したのに、小三の勘違いをそのまま継続していた自分について……。
ちなみに、中二になっていたすずかは、私の勘違いを理解しつつ、野放しにしていた、と後に教えてくれた。
理由は、面白かったから、だ。
そんな風に、誰にも手綱を握ってもらえず、自分でも、自分が斜め上方向にかっ跳んでいることに気づかないまま、私は二回目の告白をした。
さすがに二回目の告白は、少し情緒を考えた。
近所の神社まで一緒に来てもらい、近所のおばさんも、散歩中の犬の飼い主もいないことを確認して、私はのどかを真正面から見下ろした。
そう、見下ろしたんだ。
多分、五センチくらいの差があったと思う。
のどかの成長期は、高校三年生の後半にやってくる。
高校二年のこの時、彼はかわいそうなくらい線が細くて、小柄であった。
そんな繊細な少年に、中一でデリカシーのかけらもないのっぽは、やっぱり満面の笑みで言い切った。
「大きくなったよ! のどか、付き合って!」
中一の五月なんて、お尻に小学生の殻をまだくっつけているのだ。
そう、そういうものなんだ。
思い出すだけで赤面し、ベッドをのた打ち回るしかない今の私は、中一の私をそんな風に擁護する。
もはや、突っ込みを入れるのも辛いほどだ。
それでも、のどかは紳士だった。
勘違いしまくった中一女子を、苦笑しながら、弾かないでいてくれる。
今の私には……その優しさが、返ってひどい人に感じられるんだけど。
「うん、大きくなったね。すごく、大人っぽくなった。でも、楓はやっぱりまだ、子供だよ」
「え? どこが?」
どこがも、何も無い。身長以外、全部が子供だ! そう突っ込みたいが、届かない。
当時の私は、心底途方にくれていた。
背が届けば、願いがかなうと信じていた。
でも、のどかは、そうじゃない、と言う。
「どうすればいいの?」
困惑する私に、のどかはしばらく考え込んで、こういった。
「心の中も大人になって、まだ僕のことが好きだったら、真剣に考えてみる」
「……うん、わかった」
さすがにこの時は、のどかの返答が能天気に捕らえていて大丈夫なものではない、とうすうす感じた。
私はどこで間違ったんだろう。
のどかに手を引かれて帰宅する途中、私の頭の中はずっと、これまでの間違い探しをし続けていた。
この疑問を、私は身近な大人である母に、帰宅後、すぐにぶつけた。
「ねぇ、母さん。大人って、どうやったらなれるの?」
こんな事を聞く時点で子供だ。
だが、母は慌てることなく、「食事の後にね」とのたまった。
食後、母は、父が風呂に入っている最中に、「さっきの話だけど」と言い出してくれた。
てっきり、無かったことにされると思っていた私は、びっくりした。
「実はね、母さんも、自分が大人だ、と思ったこと、ないんだ」
「え? だって、大人じゃん!」
母さんは肩をすくめた。
「女の子は十六歳になったら結婚できる。でも、十六歳を大人だという人はあまりいないと思う。十八歳になったら選挙に参加できる。二十歳になったら、お酒とタバコを自分の責任で扱える。大学を出たら、就職する人が多い。結婚したら、子供が出来たら……。どこが大人の切り替えなのかなんて、誰にも判らないんじゃないかな」
私は黙り込んだ。
母がまともに答えてくれるとは思っていなかったし、何より、そんな回答では、のどかの望む大人が何なのか、さっぱりわからない。
「のどか君に、何か言われたの?」
黒歴史をしっかりビデオにとっていた母にとって、私が何を思ってそんなことを言い出したのか、すぐにわかってしまうらしい。
私は背中を丸くし、母から視線をはずした。
「心の中も大人になったら、考えてみる、って」
「あらあら」
母はやわらかく笑った。
「じゃぁ、折角もらった宿題なんだから、しっかりと考えなきゃね」
私は仕方なく、頷いた。
四歳差というのは、本当に難しい。
中学校も、高校も、同じ場所にいることが出来ない。
大学だって、普通に卒業する分には、私とのどかが同時に在学することはない。
私はその後、告白することはなかったものの、幼馴染として、隣家の娘として、のどかと遠ざかることなく接した。
のどかは極稀に、彼女と思われる女性を伴うことがあった。
私がその人に遭遇したのは、のどかが大学に入ってから。
三回。
三回とも、田所家から出てくるところに行き会った。
その三回目に、のどかはその女性に私のことを、「隣に住んでる幼馴染。妹の友達なんだ」と紹介した。
単なる幼馴染。
のどかの友達ですら、ないらしい。
「楓、この人は俺の大学の先輩で、研究の指導員をしてくれているんだ」
いつの間にか、のどかの一人称すら変わっていた。
なんだか、と名前を名乗っていたが、それは全て私の耳を素通りしていった。
のどかの台詞が、私の心を打ち砕いていた。
確かに、のどかの隣に立っていた女性は、大人というに相応しい立ち居振る舞いで、華やかな化粧が似合う人であった。
「あら、幼馴染なの? かわいいお嬢さんね。田所君も、意外な隠しだまを持ってるじゃない。妬けちゃうわ」
ころころと笑いながら、その女性はのどかのわき腹を親しげに突付く。
「隠しだまって! そんなわけ無いだろう! 妹の友達なんだってば。小さい頃は一緒に遊んだけど」
のどかの声は、尻つぼみに小さくなっていく。
そんなのどかの姿を見ているのが辛くて、切なくて、私は私に出来ることをした。
「そう…なんです。小さい頃は、よく面倒を見てもらいました」
私はよそ行きの顔をして、よそ行きの声で、にっこりと笑って見せた。
のどかがびっくりした顔をしていたけど、かまうもんか。
無理やり笑っていないと、涙が溢れそうだったんだから。
「羨ましいわ。田所君、すっごく優しいでしょう? 私もそんなお兄ちゃんがほしかったわ~」
「そうですね。自慢の兄です」
まっすぐ、のどかを見つめて答えた。
のどかが息を飲み込む。
そんな顔をしないで。
大丈夫、困らせたりしない。
だって、私も大人になってきてるんだから。
涙の全部を我慢は出来ないと思うけど、今だけなら、きっと、大丈夫だから。
「私、これから塾なんで…」
私は会釈した後、口の中で「遅刻しちゃう」とわざとらしく呟いて、走り出した。
家の中に飛び込むと、一目散で二階の自室のベッドにダイブする。
声は出せない。
私の部屋の窓は、外の道路に面している。
そこにはまだ、二人がいる。
「可愛い子だったわね。大人しくて。すずかちゃんよりも可愛がっていたんじゃない?」
「あ…うん、もう行こう。車を出すから」
しばらくして、お隣の車が走り出す音がする。
私はそれでも、声を出すことが出来ないまま、涙で枕をぐちゃぐちゃにしていた。
これは、失恋、というのだろうか?
のどかとあの女性が恋人同士なのかも知らないけど。
はっきりしているのは、私は「すずかの友達」ってことだ。
ふられたわけじゃない。
ただ、それ以前の問題だったんだ。
そんなことを考えながら。
私も大学へ入り、告白されたり、お試しで付き合ってみたり、としてみたけど、どうも長続きしなかった。
しっくりこない、というか。
誰と一緒にいても、私は「のどか」とその人を比べていた。
我ながら、すごく引きずっていることは自覚している。
「考えるなんて、あんた、バカなんだから、そんなことできるわけないじゃない!」
すずか紹介のスキー部部長と別れた直後、すずかは私の部屋まで乗り込んできた。
すずかと私は、同じ大学に通っていて、自宅通学している。
高校までは少し距離があった私とすずかの間は、そんな関係で、大学に入ってから一気に縮まっている。
「へへへ、わかってるんだけどさぁ。何でかなあ、前に進めない感じ」
「私、あんたの代わりに考えてみたんだけど」
「何、何?」
「結局さ、ふられてないからじゃない?」
「は?」
私はすずかの顔をまじまじと見た。
何を言い出したんだ、こいつ、と思った。
だって、ふられてるじゃん、私。
誰に、とは言わない。ただ、ふられてる、と繰り返した。
そう言い募ったら、すずかはきっぱりと首を横に振った。
「二回、お預けを食らってるだけでしょ。返事は次回持ち越しね~って。その次回が来てないんだよ。わかる?」
今度は私が首を横に振った。
全然、わからない。つまり、どういうこと?
「あんた、本当にバカね。バカ兄貴の気持ちなんて、どうでもいいんだって。大事なのは、あんたの気持ちよ。また持ち越されるかもしれないけどさ、多分、いい感じな年だし、そろそろバカ兄貴だってちゃんとした答え、用意してくれるよ。ふるにしろ、ふらないにしろ」
励ましてくれているのか、突き落としているのか、よくわからない。
でも。
私は、首振り人形のように、コクコクと頷いた。
なんだか、すっと、目の前が明るくなった気がする。
「楓はさ、ぶつからなきゃダメなんだよ。ぶつかっといでよ。砕けたら、骨は拾ってあげるから」
言っている内容のひどさに比べ、すずかの目は、すっごく優しい。ふわふわのオムライスくらい、とろとろの目をしている。
私は言葉にならない気持ちを込めて、すずかをぎゅっと抱きしめた。
かつて近所の神社に私を置き去りにした過去は、なかったことにしてやった。
「今日、兄貴、帰ってきてるんだ。自分の荷物を持ち出している最中だよ。職場近くに引っ越すんだって」
すずかは、いたずらっぽく私を見た。
焦燥感が私を突き上げる。
「行って来る!」
私は仁王立ちになった。
「ありがとう、すずか。のどかの次に好き」
「その笑顔、とっときなよ。で、ここぞというときに、兄貴に見せてやりな」
「わかった。行って来る!」
すずかが、私の買った新刊本を手に、私のベッドの上でせんべいを食べ始めたけど、気にしない。
私は、バスケで培ったジャンプ力で、階段をあっという間に駆け下り、隣家の玄関に飛びつき、ドアホンを鳴らした。
出てきたのは、当たり前だけど、おばさんだった。
鼻息も荒く、のどかにすぐ会うつもりだった私は、意表を突かれて、ついでに気勢をそがれて、ちょっと小さくなった。
「あ、あの…」
「すずかなら、出かけたわよ」
「いえ、すずかは私の部屋にいて……そうじゃなくて、のどか、いますか?」
おばさんは、不思議そうな顔をした後、しばし、私と二階に続く階段を見比べたあと、にこっと笑った。
「二階よ。のどかの部屋。上がってちょうだい」
おばさんは、二階に声をかけることなく、ただただ、私を家に入れてくれる。
私は、ぺこりと頭を下げて、これまで何度も訪れたことのある二階へと進んだ。
階段を上がったところ。
二つある部屋のうち、右がのどか、左がすずかの部屋だ。
のどかの部屋に入るのは、小三以来のことだろうか。
気合を入れるために頬を叩き、つばを飲み込んで、ドアを勢いよく開けた。
「のどか!」
「わぁ!」
のどかの悲鳴とともに、のどかの手元からダンボールがすっぽりと床に落ち、ついでにがっちゃん、という所謂壊れ物が壊れた音がした。
二人とも、沈黙する。
のどかは、ゆっくりと私のほうを向いた。
「か~え~で~?」
「ごめん、のどか」
「何、いきなりノックもなしに男の部屋に入ってくるんだよ! 折角、引越し先で使うつもりだった皿、割れちゃったじゃないか!」
「本当に、ごめん。責任取る」
「当たり前だ、弁償……」
「結婚しよう!」
のどかが何かを言いかけたけど、私は聞いちゃいなかった。
勢いに任せて、するっと言葉が口から零れ落ちる。
一拍遅れて、のどかは、その目が零れ落ちるんじゃないか、と思うくらい、限界まで見開いた。
私は、私が言った言葉を冷静に考えて……考えて……あれ? 私、何て言った?
ざーっと、血の気が引く音がした気がした。
やばい、やばい。これは本当にやばい。
小学生の私なんて、比べ物にならないくらい、今の私はやばすぎる。
付き合ってもいない、幼馴染のお兄ちゃんに、私は一体、何を……。
のどかは固まったままだ。
一方、私は限界まで真っ赤になっていたと思う。
顔中のみならず、体中が熱い。
目の前がにじむ。
体が震えだした。
ダメだ、こんなところで泣けない。
「ごめん、のどか!」
「楓? まっ……」
私に手を伸ばすのどかを振り切り、来たときよりもさらに早いスピードで、田所家を飛び出す。
でも、家には帰れなかった。
すずかがいる。
こんなこと、こんな惨めなこと、報告できない。
私は煮え立った頭を何とか動かし、神社の境内に逃げ込んだ。
蝉が煩いくらいに鳴いているけど、人は誰もいなかった。
息を切らして、賽銭箱の横に座り込む。
涙が頬を伝って、乾いた地面に落ちていく。
ひざを抱え込んで、顔をぎゅっとひざに押し付けた。
何で、私ってこうなんだろう。
確かにふられに行ったけど、だからってあれはない。
言うに事欠いて「結婚してくれ」って。
涙と一緒に、乾いた笑いも出た。
自分自身に呆れて、言葉も無い。
そんなに長い時間ではなかったと思うんだけど、自信が無い。
ふと、玉石を踏む音が聞こえて、賽銭箱の陰から、そっと顔をのぞかせる。
目が合った。
それは、賽銭箱の上から見下ろすのどかの目だった。
折角引いた熱がまた体中を駆け巡る。
私ははじかれたように立ち上がり、走り出そうとした。
引っ張られた。
賽銭箱のどこかに、服を引っ掛けたかと思い振り返ると、のどかが、私の腕をつかんでいた。
「!!!!」
悲鳴にならない悲鳴がのどの奥に響き渡る。
強引に引っ張ろうとしても、のどかの手は、あたかもしっかりかけられた手錠のように、私の腕をつかみ続ける。
せめて、この泣き顔を見られないように、と顔を背けた。
その背けた顔ごと、私は、のどかの腕に引き寄せられ、気が付くと背中から抱きかかえられていた。
あれ、のどか、いつの間にこんなに大きくなったんだろう。
ふと、場違いな疑問が頭に浮かぶ。
「バカ楓!」
この兄妹は、私のことをバカバカ言いすぎると思う。
私はむすっとしたが、のどかはそんなこと構わず、私の体をのどかのほうに強引に向ける。
のどかは、自分の唇を嘗め、あちこち見回し、しばらく逡巡した後、改めて「バカ楓」と、今度は優しく言った。
いや、優しく言えばいいってもんでもない。
声が出なくて、仕方なく、心の中だけで反論を続ける。
体を向けられてしまったため、せめてもと思い、俯いた私の頭に、のどかの大きな手のひらが置かれた。
鼻の奥がつん、とする。
いやだ、撫でないで。私は、あなたの妹じゃない……。
「楓」
のどかのもう片方の手が、私のあごを掬い上げる。
のどかの目の中に、涙でぐしゃぐしゃになった私の顔が映っていた。
「どこに行ったかと思って、心配しただろ。楓の部屋には楓じゃなくて、すずかがいるし。……早めにここを思い出せて、よかったよ」
私を思いやる、優しい言葉。
のどかの声も、言葉も、いつもとっても優しい。優しすぎる。
それが、今の私には、どれだけひどいことか、よくわかる。
のどかは、私にのどかを嫌わせてくれない。
「バカは……のどか……じゃないっ! ……私の気持ち、知ってるくせに! そんなに、優しくしないでよ!」
「ごめん」
謝罪なんて、聞きたくなかった。
「本当、最低……。優しいだけの男なんて、最低」
「ごめん、楓」
のどかは、そっと、私の溢れる涙を口ですくう。
「……楓、ごめん」
柔らかい唇が、私の頬の上を、何度も行ったりきたりする。
…………ん?
「あの、のどか?」
私はのどかから少し離れようともがいたが、すっかり体格の出来上がったのどかは、左腕を私の腰に回し、右手を私のあごに添え、まったく動く気配が無い。
涙はいつの間にか引っ込んでいる。
だけど、のどかの唇は私の頬を、いや、いまや顔全体にバードキスを繰り返している状況だ。
「ごめん、楓、ごめん……」
いやいや、何に謝ってるんだ? これは親愛のキス? 妹の友達だから? 幼馴染だから?
いやいやいやいや……。
「ちょっと、のどか!」
私が大声を出すと、ようやくのどかは私の顔から自分の唇を離し、私をすずかそっくりのとろけそうな眼差しで見下ろした。
「ごめん、止まらなくなって」
え、謝ってるのって、そこ?
「ずっと、待ってたんだ。君が大人になるの」
のどかの声は、どこか艶を含んでいて、すっごく甘い。
「だって、アレはていのいい断り文句で!」
「中学生が小学生に手を出すわけに行かないでしょう? 高校生が中学生に手を出すわけにも行かないし」
「恋人さんに三回会った!」
「だから、ゼミの指導員だってば。彼女、教授と付き合ってるからね、僕のことなんて、目に入っていないよ」
「いつの間にか、俺って言ってた」
「楓、TPOって知ってる?」
「私は幼馴染で、妹の友達だって!」
「そんなに深い付き合いでもない人に、この子を好きなんです、なんて言うわけないだろ?」
「私が大学生になってからは、ちっとも構ってくれなかった!」
「自慢の兄なんて言われたら、もう、気持ちなんて無いのかと思って……そばにいれなかった」
「……私に黙って引っ越そうとしてた」
「楓に彼氏が出来たって聞いたら、いろいろ押さえが利かなくなりそうで……距離を置こうと思った」
「それってつまり……」
「さっきの返事、ここでしていい?」
のどかは私の耳に唇を寄せて、ささやくように言う。
「いま、すぐにでも」
すずかに言わせると、私ものどかも、両思いってことは誰が見てもわかるくらいだったらしい。
わかっていなかったのは、当人達だけ、ってことだ。
「でもさ、気持ちをセーブしていたって言っても、中学生のときも、高校生のときも、兄貴は楓をそうやって見ていたってことじゃない? なんだか、気持ち悪い~。まとまったから美談だけど、そうじゃなかったら、ロリコンのストーカーだわ」
自分の兄に向かって、ずいぶん容赦ないことを言っているけど、唇の端っこが嬉しそうに上がっている。
すずかも大概、可愛いやつだ。
両思いになった私は、すぐにでも結婚したかったけど、そこは母から待ったがかかった。
せめて、私が大学を出るまでは、色々諸々待つように、と釘を刺される。
二人一緒に釘を刺されたとき、のどかだけが何故か、真っ赤になっていた。
今は、週末だけの恋人気分を味わっている。
私の就職活動も忙しいし、のどかもまだまだ仕事に不慣れなことも多いから、平日に二人っきりになれることはほぼない。
それでも、光の道の向こうで待っている、二人の出発点に向かって、また、私は一歩踏み出す。
小さい頃の、恋をまだ知らない私も、高校生の恋に悩んだ私も、ちゃんと一歩進んでいたから、ここに立っていられる、と思っているから。
一歩ずつ進んだその先で、今度はあなたと一緒に、一歩ずつ進みたい、そう思ったから。