ショーウィンドウの向こう
学校が終わるとそのまま予備校に向かう。
ああ、なんてことだ。朝から夕方まで勉強をして、そしてまた、僕は勉強をしなければならないのか――といつものようにため息をつきながら。
ま、これは仕方ない。僕はそんなに成績が良くないのだ。
予備校の必要性は認めざるを得ない。
まだ高校一年だから、といういいわけも通用しなかったし。
学校の近くの住宅地を通り過ぎて、商店街のアーケードに入ると、とたんに人通りが多くなった。すれ違うのにも一苦労だ。
ときおり道を譲って、ゆっくりと、ぶつからないようにすり抜ける。
別に急ぐ必要はない。間にあわなくったっていいんだから。
途中でみつけた後ろ姿に声をかけた。
「いま、帰るところ? 予備校行くの?」
後ろ姿だけで誰だかわかる、僕の知っている女の子。この子がいるから、僕はまじめに予備校に通っている。
ストレートの黒髪が、セーラーの上を揺れた。サラッ。振り返って、怪訝そうな顔。
僕を見て、「あら」とつぶやく。サオリはやわらかい表情になった。すぐに誰だかわかったみたいだ。
「そ。いまから予備校」
「じゃあ一緒に行こうか」
「いいけど?」
なぜか疑問形だ……。
「勘違いされるわよ。まわりの子に」
「そう? なにを?」
「彼女じゃないか、って」
「べつにいいよ、そんなの」
そういって、僕はサオリの隣に並んで歩き出した。
勘違いじゃなくしてみようか、なんて台詞は胸の奥に押し込めた。
いえるわけがない。答えはわかりきっているのだから。
冗談だとごまかして、笑いながらそんなことをいうのは、あまりにもミジメだった。
はじめてサオリを見たのは弓道場だった。
何気なく通りかかった、部活中のワンシーン。
真っ白な胴着に濃紺の袴の女の子が、微動だにせず立っていた。半眼で腰に手を当て、かるく足を開いていた。的から眼を逸らさずに、弓手が的に突き出され、右の手はぎりぎりと弓弦を引き絞って。数瞬の溜めの後、矢が放たれる――。
目をそらすことが出来なかった。息を呑んでいた。
矢が放たれてもなお、張り詰めていた。そのままの姿勢で一呼吸おいて、緊張感が薄れていく。
その一連の動作に見とれてしまっていた。
矢の行方は見ていなかった。ただ彼女の姿だけを見ていた。
張り詰めた空気の中、色白の肌がしだいに紅潮し、そしてスウッと醒めてゆく。道場の空気が彼女を輝かせてみせるのか、彼女が道場の厳粛さをうみだしているのか。 とにかくその光景が、僕の目に焼きついていた。
ようするに、そう、彼女のはなった矢は見事に僕の心を射抜いていたのだった。
名前を知ったのはその後。
サオリという名前を知って、もっとよく知りたいと思うようになった。
学校の中で、その姿を探すようになって。
探してみれば、すぐに見つかった。いつでも見つけることができた。サオリは回りの子とはぜんぜん違っていた。なんというか、輝きが違うのだ。
周りを押しのけて自分が中心になろう、という感じでもないのに、端っこのほうで微笑んでいるだけなのに、なぜか目を引かれる。
弓道をしているせいか、立ち姿もどこか様になっている。あの弓道場での一瞬の、息を呑んで見守るしかないような、引き込まれるような気配を感じることもあった。
何にもしてないのに、だ。
ある種の輝きは、人を遠ざけることもあると思う。
完成された美しさが、いやおうなく周囲の人間に自分自身の未完成さを突きつけることもあるのだ。共感による輝きではなく、対象化に耐える独立した客観的な輝き。それはその価値を認めた瞬間に、判断した人間に価値判断の根拠を求め、周囲と比較することを要求する。それ自体の美しさにはなんの悪意もこめられていないのに、比較を促してしまうのだ。そしてそれは美しければ美しいほど、輝きが増せば増すほど、残酷に明確に比較した結果を示してしまう。
その結果、周囲は遠ざかってしまう。人は、自分自身の未完成さを見つめることを望まない。
サオリにはそうした種類の美しさがあった。
そういうふうに感じていたのは僕だけじゃなかったと思う。
サオリの周りにはいつも同じメンバー。何人かの女の子しかいなかった。
群がる男の子たちもいない。
遠巻きに眺めて、ため息。それでも目で追ってしまうんだ。
サオリとは一度も同じクラスにならなかった。取り巻きの女の子と僕は、ぜんぜん仲良しではなかった。つまりきっかけが、まったくなかった。
そうなるともう、どうしようもなかった。近寄りがたさ、というのもあったし……話しかけることなんて出来ない。
もし一緒にいられたら、どんなことを話すのか。どんなふうに笑うのか。そして、どんなふうに……。
考えれば考えるほど、頭の中で気持ちが膨れ上がって、よけいに話しかけられない。
中学の三年間はそうやって過ごした。
運よく同じ高校には入れたけれど、ここでも僕はサオリに話しかけられないでいた。
高校に入ってからしばらくして、僕の成績表を見た両親は顔色を変えて、熱心に予備校へ行くことを進めるようになった。彼らのおっしゃることはいちいちごもっともだったから、最終的には従うしかなくなった。
僕の通うことになった予備校では、同じ学校の子をほとんど見かけない。
学校からちょっと距離があるせいだろう。
そこでサオリの顔を見つけたときは驚いた。
偶然――いや、これは運命……なんて……。
サオリを見つけてから、僕は張り切って予備校に通った。
勉強は、まあ、どうでもいい。サオリとの接点が欲しかったのだ。
同じ予備校に通うことになったというのはチャンスだった。ごくごく自然に、話しかけるきっかけを作ることができる。
なけなしの勇気を振り絞って、少しずつ話すようになって、仲良くなって。
そして――年上の彼氏の自慢話をされた。
学生じゃなくて、働いているらしい。
そのときは、なんとか「へえ、そうなんだ」と答えた。馬鹿みたいな顔で笑って。
そういうことがあるかもしれない、とは思っていた。なるべく考えないようにしていたことだ。
いざ直接聞いてしまうと、これはなかなかきつい。
それからもときどき、彼の話を聞かされた。サオリはこんなふうに笑うんだ、というのを知った。うれしそうな顔。僕の知らない人の話で。僕の気持ちも知らないで……延々と。
つまり、僕は告白する前に振られていたのだった。
それでもせめて、男友達になれれば、とか。
いつかはチャンスが、とか――。
……そんなことを思っていたりする。
「ね、クリスマスはどうするの?」
これは避けたい話題だった。もし、僕のことを誘おうとしているのならうれしいのだけど、たぶん、そんなことはない。
「どうするって?」
いっしょにいたい――とはいえなかった。なにやらのど仏が邪魔をしている。南無阿弥陀……。
「予定。クリスマスの予定は?」
ふっと笑って僕は答えた。平然を装って。
「もちろん入ってるよ」
「見栄っ張りなのね」
つまらない男だとでも言わんばかりに、鼻先で笑われた。
「……」
じゃあ自分はどうなんだよ、とはいえなかった。きっと、年上の彼と過ごすのだろうから。
その回答をサオリの口から聞きたくなかった。
無言のまま、信号待ちで立ち止まると、サオリはくるっと振り返って、ショーウィンドウのほうへ向かった。
ちょっと真剣な顔をしていた。ぱちぱちとまつげを揺らして、大人びた表情のサオリがガラスに映っていた。
立ち止まった通行人が苛立ちの表情を浮かべて腕時計を確認する。通行人が、また何人か。スーツの男。子供を連れた母親。僕の姿が人ごみに隠れて、ショーウィンドウにはサオリしか映らなくなる。僕の背後からは信号が変わる前にやり過ごしてしまおうとする車のエンジン音。せきたてるようなそれらは、僕にとっては意味のない人々。意味のない音。騒音、ピヨピヨピヨ。騒音――サオリを見失いそうになって、あわててかきわける。
「へえ、こういうのが――」
こういうのが欲しいんだ、といいかけて、言葉に詰まった。
サオリの視線の先、ショーウィンドウの中には高級ブランドのバッグ。とても手を出せるような値段ではなかった。
予備校を辞めてバイトを始めても買えそうにない。僕なんかではどうにもならない代物だ。プレゼントしようか、なんて冗談交じりでもいえない。
サオリは前髪をさっといじると、「信号、変わったわよ」といって歩き出した。
ああ、そうか。
ショーウィンドウのガラスを鏡にして前髪を直してたんだ。
バッグは関係なかったんだ。
納得して、サオリを追いかける。頭の中で、バッグについていた値札のゼロの数を数えながら。
予備校のエレベーターの中には大きな鏡があった。
鏡に映っているのは高校一年生の、普通の男の子と女の子。
でも、と僕は思う。
サオリには年上の彼がいる。
ショーウィンドウに映ったサオリ、大人びて見えた。飾られていたバッグと張り合えるくらいに。
年上の彼――その人なら、きっと、あのバッグを買えるんだろう。そして、クリスマスを一緒に過ごして――。
そう思うと、遠くへ置いていかれたような気分になった。
せっかく仲良くなったのに。隣に立っているのに。
僕らの距離はずいぶん離れているようだった。
チーンと音がして思考が引き戻された。
エレベーターが止まる。
「ねえ――」
ドアが開くと同時に、僕は口を開いていた。なんだか焦っていた。このままどんどん置いていかれてしまうような気がして。何かをいっておきたくて。何をいえばいいのかはわからないけれど。
「ねえ……授業、サボっちゃおうか」
僕がそういうと、サオリはちょっと首をかしげた。意味がわからない、というふうに目を細めて。それからふわりと微笑んで。
「子供みたいなこというのね」
それ以上言葉が出てこなかった。
そりゃあ年上の彼と比べたら、僕は子供みたいなものだろう。
高校一年生と、もう働いている人を比べたら、どうしたって追いつけない。生まれたときから差がついているのだから。
だけど、僕には選べなかったのだ。いつ生まれてくるかってことは。
どうしたらよかったんだ。僕になにができるんだ。
……なんて、子供みたいなことを思って。
ようするに、振られたってことなんだ。今度こそ。完璧に。
子供みたいっていわれたとき、サオリはほんとうに子供を見つけたみたいな顔をして笑っていた。はじめから、僕なんかは映っていなかったんだ。恋愛対象外。子供としか思われていない。
もしかしたら、とか、ないんだ。
それを思い知らされて、泣きたいような気分になって――。
エレベーターを降りて離れていく背中を僕は見つめていた。
齋藤 一明さんのところの法螺會に参加して書いたものです。
人から指摘されてそれを書き直すというのは、なかなか有意義なものだと思います。
かなり手直しをしましたが……最初よりは良くなった……かな?