その名はキリエス(2)
愛車のレガシィを1号線沿いの駐車場に停め、柴田康造は運転席を降りた。釣りの解禁から一カ月と六日。箱根の山々にも春の暖気が訪れようとしているが、早朝の空気はまだ冷たい。柴田は小さく身震いし、トランクから釣り具一式を引っ張り出す。
「休みらしい休みは久しぶりだな、っと」
荷物を担ぎ、歩き出す。
本当なら解禁直後に来たかった。しかし、ここ最近の慌しさを振り返れば諦めもつく。新製品の液肥が見事に当たり、柴田の勤める会社は空前の増収に沸いていたのだ。年度末に重なったことも大きかった。休日返上で働いたとまでは言わないにせよ、週明けの激務を意識しながら羽を伸ばせるほどの器用さを持ち合わせてもいなかった。
柴田は研究職ではない。当然、肥料を開発したのも柴田の部署の手柄ではなかったが、社運のかかった製品だけに、巻き込まれずにいることも難しかった。
――まあ、ここらで一息ついても罰は当たらんだろ。
件の液肥については県外からの問い合わせも来ている。しばらく電話が鳴り止むことはないだろう。だが、それはむしろ歓迎すべきことだ――命からがら決算を乗り切り、新年度初の週末に漕ぎ着けた今、そう達観できるくらいには柴田は余裕を取り戻していた。
十分ばかり歩くと、行く手に湖が見えてきた。
柴田が芦ノ湖を訪れるのは毎年の恒例行事である。いつもと雰囲気が異なることにはすぐに気付いた。おかしい。水面はあんなに白かったか? このドブのような臭いは何だ?
浮き立っていた気持ちに翳りが生じた。ECOに封鎖されることもなく観光地として生き残っている地域とはいえ、ひとたび違和感を覚えると途端に心細さが膨らんでくる。早く来たのは失敗だったかもしれない。この時間ではさすがに出歩いている町民もおらず、あたりに自分以外の人影はない。
それでも柴田が引き返さなかった理由は単に「諦めきれなかったから」というだけのことに過ぎない。まだ危険があると決まったわけではないのだ。ほとんど意固地になっていた。心の奥底で「まさか自分に災難が降りかかるはずがない」と高を括っていることに気付かぬまま、一歩ごとに強まる臭気にむせ返りながら、背筋を這い上ってくる怖気に逆らって湖へと近づいてゆく。
やはり、湖面が白く染まっている。
――凍ってるのか?
そんなふうにも見えた。このあたりは標高が高い。ただでさえ夜から朝方にかけては冷え込むはずで、そのうえ今日は霧も出ている。季節外れの凍結もあり得ないと断言は、
――まさか。ワカサギ釣りに来たんじゃないんだぞ。
かぶりを振って馬鹿げた考えを追い出した。いくらなんでも氷が張るような気温ではない。そんなコンディションであれば禁漁期間が解かれているはずがないし、だいいち悪臭の説明がつかない。
――じゃあ、どこかのホテルか温泉宿から排水が流れ込んだとか……。
これはいい線じゃないかと思う。少なくとも先程の想像よりは現実味がある気がした。改めて目を凝らしてみれば、泡や油膜が浮いて白濁しているように見えなくもない。
さらに歩いていく。
無人のバス停を通り過ぎ、土産物屋の脇を抜けて裏手に回った。石造りの階段を下り、砂利の敷かれた小道を渡れば視界がひらける。そこはもう湖のほとりだ。
ようやく水面がはっきりと見て取れた。
脳が理解を拒絶した。
目の前の光景を呑み込めない。予想が的を外れていたことだけは確かだ。このまま全てを無かったことにして回れ右をしたいという柴田の心からの願いとは裏腹に、情けも容赦もまるでなく、事実がゆっくりと浸透してきた。
ひと繋ぎの大きなものが湖を塞いでいるのではなかった。遠目からは氷や泡のように見えた「それ」には、どろりと濁った眼と、弛緩しきった鰭があった。鱗に覆われた白い腹が浮かび、朝霧の中に差し込む光を照り返していた。
おびただしい数の魚の死骸だった。
柴田の喉から、甲高い悲鳴が迸った。
◇ ◇ ◇
ECO日本支部・関東総合基地は、東京湾の沖合に浮かぶ人工の島だ。
島と陸地を結ぶのは臨海副都心に架かった大きな橋で、普段は和泉もここを渡って出勤する。だが橋はあくまで表向きの出入口に過ぎない。島の地下からは海底を通ってシークレットトンネルが伸びており、全国各地の拠点と繋がっている。このトンネルを使う人間は限られていて、会議のために出入りする各国政府や関連機関の要人を除けば、あとはSSSCくらいしか残らない。
つまり、SSSCとはそういう部隊なのだった。
基地の中枢、コマンドルームと直結されたブリーフィングスペースのモニターには、芦ノ湖で起こったという魚の大量死の写真が映し出されている。
「――以上が、三日前の出来事だ」
事件のあらましを話し終えると、藤代啓吾隊長は室内をぐるりと見回した。
急な召集であったにもかかわらず隊の全員が揃っていた。藤代を含めて六名。少数精鋭による迅速な対応こそがSSSCの理念である。
「ここまでで何か質問は?」
「はい」
山吹遼が真っ先に手を挙げた。山吹は元空自隊員で、パイロットとしての腕を買われてECOに引き抜かれたという経歴を持っている。
「警察や保健所の見解は? あのあたりは管理区じゃない。なんでまた俺らにお鉢が回ってくるんです?」
わざわざ俺たちが動く必要はない――そんな本音が透けていた。どうせどこかの異常者が毒物を流しでもしたんだろう、程度にしか考えていないのかもしれない。
山吹の練度自体に疑いの余地はない。それは訓練を共にして理解していたが、和泉の見たところ、彼には一般市民からの証言や通報の類を軽視してかかるところがあった。
「管理区内じゃなくても、侵食元素が発生しないとは限らないのでは?」
和泉は思わず口を挿んでいた。
山吹のこめかみがぴくりと動くのが見て取れた。しかし、今更言葉を引っ込めることはできない。
「それに、汚染されていない土地に怪獣が現れた事例だって、」
「――んなこた知ってんだよ」
あからさまに機嫌を損ねた山吹の声を聞いて、横に座る女性隊員がうんざりした表情を浮かべた。電脳戦担当の佐倉ほのかだ。どんなに上に見積もっても高校生くらいとしか思えない彼女だが、これで和泉より一個年上なのだというから驚きである。
ほのかの無言の抗議を顧みようともせず、山吹は続けた。
「なあ和泉、誤報やイタズラが月に何件あると思う? いちいちつきあってたらキリがねえよ」
「何を言うんですか。可能性がゼロでないなら動くべきです」
「どんなに根拠が薄くてもか?」
「当たり前でしょう。もし本当に侵食現象だったら大惨事になりますよ」
「事件は三日も前だぜ。侵食元素が検知されたならとっくにニュースになってる」
「あの地域は火山帯です。その影響で怪獣が出るってことも、」
「火山活動なら、湖の底からガスか何かが噴き出たって方がまだしもありそうに思えるね。怪獣の線は薄いだろ」
「だから、それを確かめるために調査するんじゃないですか!」
平行線をたどる議論に業を煮やしてか、あるいは山吹に煽られてか、和泉の語調にもだんだんと荒い調子が混じってゆく。
そのときだった。
「――二人とも、そこまでにしておけ」
凛とした声が制止に入った。
声の主は桐島唯である。背筋をぴんと伸ばした姿勢でデスクに向かった唯は、和泉と山吹を交互に見て、
「どっちの言い分にも一理あるが、今は意見を戦わせるときじゃないだろう。調査を行うかどうか決めるのは隊長だ」
唯の声音は穏やかなようで、有無を言わせぬ迫力を孕んでいた。和泉は冷水を浴びせられたように固まり、山吹もばつが悪そうに頭を掻いて目を逸らす。
唯は満足したように息をつき、藤代へと視線を移して、
「――ですね、隊長?」
「まあ、そういうことだ」
藤代があくまでも冷静に後を引き取る。暗に「気にするほどのことではない」とフォローしてくれているのだと気付いて、和泉は頭が下がる思いを抱いた。
落ち着いて考えてみれば、山吹の言い草はさておき、質問そのものはあながち的を外してもいない。
「現地の調査委員会は『溶存酸素の急激な減少』と推測している。……が、これを額面通りに受け取るのは早計だろうな」
藤代が手元のパネルを操作すると、魚で埋め尽くされた湖がモニターから消え、別の資料に切り替わった。
県が発表した一次報告書だった。
和泉の目には、とりたてて変わったところのないデータばかりが並んでいるように見えた。唯一引っかかる項目が酸素濃度で、水深一〇メートル地点における測定値「3.37mg/L」は平常時の約三分の一にあたるのだという。
――でも、これ……。
和泉が眉をひそめたのと同時、山吹がぽつりと、
「伏せてる情報がありそうだな」
同感だ。が、何しろさっきの今である。どうにも距離感を測りかねた和泉は、ですよね、と素直に言えず、
「これが原因、って言い切るには決め手に欠けますね」
「その通り」
わが意を得たり、という顔を藤代はした。
「酸欠で魚が死んだ。そこまではいい。しかし、何故そのような現象が引き起こされたのかは不可解なままだ」
「それじゃあ……」
「無論、原因を究明する。そのために集まってもらった」
一瞬にして場の空気が電気を帯びた。
出動の要を認む。藤代隊長はきっぱりとそう宣言したのだ。
「――いいな、山吹隊員?」
「まあ、怪獣かどうかはさて置き、つつけば何か出てきそうな気はしますね。そういうことなら異存ありませんよ」
「よし。他の者……も、異議はないようだな」
藤代は再び一同の顔を見渡し、全員の納得が得られたことを確認すると、てきぱきと指示を下しはじめた。
「桐島隊員、それと和泉隊員は〈ハウンド〉で芦ノ湖に移動、ただちに水質の検査にかかれ。状況しだいでは県警や役場と接触しても構わん。自治体には私から話を通す。あらゆる可能性を考慮しろ」
ふだんの訓練とは違う、初めての「任務」――。
和泉は身が引き締まるような緊張を覚え、デスクの向こうの唯をちらりと見やった。もう怒ってはいないようだった。こちらの目線に気付いたのか、唯は「わたしに任せておけ」とばかりに小さく胸を張ってみせた。
「山吹隊員はスクランブルに備えろ。周防副長はデータ解析の用意。私と佐倉隊員はこの場で待機し、桐島・和泉両隊員からの報告を待つ。――質問は?」
誰も挙手しない。
「では、解散!」
「了解!」
皆が応え、SSSCが行動を開始した。