その名はキリエス(1)
深い水底から意識が浮上する。闇に閉ざされていた視覚に景色が生じ、気付いたときにはビルの谷間に放り出されていた。見覚えがある場所だという気もするが、周囲には靄がかかっていて、はっきりと見通すことができない。
――否、
靄ではない。
あたりを霞ませる頽廃の光には心当たりがある。侵食元素だ。空を仰げば曇天がどこまでも広がっており、明るさからして今は夕刻ではないはずだと知れた。
ふと、思考に齟齬を感じた。
存在の座標がズレている、とでも言うべきか。自分は確かにここにいるのに、本当の自分がどこか別のところから俯瞰しているのではないかという錯覚。まるで借り物の時間の中を動いているかのような、
――血?
何が起こったか分からなかった。脳ミソを直接揺さぶるような衝撃が来て、次の瞬間、頭の中にイメージが氾濫した。
――銃声。
――裏切られた? 誰に?
――抱き起こした身体から命が失われる感触。
――大切だった人?
――また守れなかった、
――真っ白な思考、
――胸に大きな穴が開いたような、
――怒り、
――駆ける。気が狂いそうになりながら、
――懐から何かを引き抜いた。あれは、
――短剣みたいにも見える、
絶叫、
「キリエス――――ッ!」
瞼を透過する柔らかな光を感じ、和泉眞は両目を開けた。視界にはコンクリート材剥き出しの天井と壁。タイマーによって自動点灯したLED照明が、殺風景な部屋に薄明かりを投げかけている。
枕元のデジタル時計が「五時三〇分」を告げていた。
汗でべたつくシャツに不快感を覚えながら、うっそりと身を起こす。
ベッドから這い出て冷蔵庫を開け、スポーツドリンクのボトルを取り出す。流し込むようにして飲み干すと、渇いていた喉が冷たく潤い、いくらか気分がマシになった。
近頃、よく夢を見る。
夢は一本の映画のように長いこともあれば、ほんの僅かな断片で終わってしまうこともあった。まるで現実に自分がそこにいるような体感を伴うこともあれば、スクリーンを隔てて眺めているかのように遠い出来事に思えることもあった。が、見える情景は決まって同じだった。
白く褪せた冬空。ビル街を焼き払わんばかりに染め抜く地上の夕陽。夢の中の自分は激情に突き動かされて走り、叫び、銀色の巨人となって光の只中へ飛び込んでゆく。
その先はわからない。いつもそこで目が覚めるからだ。
疲れているのかもしれない。
波乱の特生調査野外演習から二カ月あまりが過ぎ去った頃、和泉は慣れ親しんだアカデミーを卒業し、正規部隊に配属された。新しい住処と新しい装備と新しい仲間を得て、新しいスケジュールのもとで生活を始めてそろそろ一週間が経つ。目まぐるしい環境の変化がストレスとして蓄積されてきている可能性は、理屈の上では否定しきれるものではない。
しかし、どこかが引っかかる。
そんな単純なものではない気がするのだ。
論理的でないのは承知している。何度も同じイメージを繰り返すうち、和泉は自身に働きかける何者かの意思を感じ取るようになっていた。
脳裏をよぎるのは、白いワンピースを着た華奢な背中だ。
奥多摩で邂逅した不思議な女の子は、結局あれから姿を現してはいない。こちらから出向こうと考えもしたが、身辺の慌しさのおかげで機を逸してしまい未だ果たせずにいる。
そのことを意識すると、胸が張り裂けそうな焦燥に駆られる。渦を巻く疑問が体を突き破って溢れそうになる。
あの子に会いたい。
会って、今度こそ問いただしたい。
――君は誰なんだ?
――俺に何を望む?
――あの光景は本当に夢なのか? それとも、
「……やがて来る、現実なのか?」
思考が唇から漏れていたことに気付いてはっとする。もちろん答えを返す者はいない。和泉は苦笑を浮かべつつ、かぶりを振った。
今は考えたところで仕方がない。
シャワーを浴びて隊服に着替え、時刻を確認すると六時を少し回っていた。勤務が始まるまで二時間近くある。朝食の前に軽く走り込みでもしておこうか――そう思った矢先、ECOPADの着信音が鳴った。
「――はい」
『おはよう和泉くん。いきなりで悪いが、コマンドルームまで来てくれたまえ』
周防副長だった。しかし、起床時間前の呼び出しとは只事ではない。
「事件ですか?」
『まあね……詳しい説明は集まってからにしよう』
「わかりました。すぐ行きます」
和泉は手早く装備の点検を済ませ、隅に立てかけてあったビジネスバッグを引っ掴んで部屋を後にした。周防の話しぶりからすると、あちらに着くなりブリーフィングが待っているに違いない。場合によってはそのまま出動することもあり得る。
バイクに跨って宿舎を出、まっすぐ基地へ向かう。
風を切って走る和泉の隊服の襟元で、SSSCの徽章が輝いている。