冬の終わる日(4)
あまりに一瞬のことだった。
少女の矮躯、白いワンピースを纏った胸の中心から赤い光剣が抜けてゆく様を、和泉は呆然と見つめる。
音もなく倒れ込んでくるナエを反射的に支えようとして、当然のごとく失敗した。実体をもたぬ彼女の身には、この三次元宇宙の住人である和泉では触れることができない。
「賭け、だったよ」
表情をなくす和泉の目の前で、何もなかったはずの虚空に、無理矢理押し広げるかのような歪みが生じる。
空間を突き破るようにして現れた、鈍色の影。
「ロプター……っ!」
跡形もなく消滅させたものとばかり思っていた。
掠れた声で忌まわしき名を呼んだ和泉に、魔人は三日月のように裂けた口で笑みを向ける。
「僕も勝つつもりで戦ったんだけどねえ、やっぱりキリエスの力は流石だと言うしかなかったな。ちょっと里帰りしていなかったら本当にやられていた」
「里帰り、だと……?」
「もっとも、僕のいた次元の文明は侵食元素のせいでとっくに消えてなくなっているわけだがね」
つまりロプターは、とっさの判断で異次元領域に身を隠すことによって、キリエスの光線の直撃から逃れたのだ。
和泉は信じがたい思いでロプターを見つめる。
研磨した花崗岩にも似て滑らかだった皮膚は今や爛れたかのごとく剥がれ落ち、岩肌ほどに荒れ果てた姿を晒している。
四肢の末端は風化した粘土めいて崩れ、その傷口から血管を伝って這い上がるかのように、赤い紋様を琥珀色の光が逆流しようとしている。
まさに満身創痍だ。
自ら賭けと称したとおり、異次元への潜行はロプターにとって、使いたくない最後の手段だったに違いなかった。
だがそれでも、彼は賭けに勝利したのだ。
「長かったなぁ……まったく長かった。夕暮れに沈んでいく故郷を脱して、何千万年もの間を彷徨いながら知識を蓄えた。世界を呑み込んだ黄昏……僕の眼に焼き付いたあの光はいったい何だったのか、それをどうしても知りたかった」
くつくつと狂気を孕んだ嗤い声、
「惑星ネリヤはつくづく素晴らしいヒントをくれたよ。彼女たちの造った人工知能……ティマリウスといったか、あのコンピュータがどうして『生命を排除する』なんて結論を出したのか、君にはわかるかい?」
ティマリウス。沖縄で戦った、半人半馬のシルエットをもつ機械仕掛けの支配者の名前だ。
惑星ネリヤの統制者として建造された守護神は、創造主から与えられた「秩序の守護者たれ」という使命のもと、宇宙から全ての生命を根絶せんとする悪魔に化けた――という顛末を、和泉はネリヤの王女から直接耳にしている。
しかし、そもそもなぜティマリウスが暴走を始めたのかは語られていない。その理由はかの王女にもわからないという話だったはずだ。
「エントロピーだよ」
和泉の答えを待たず、ロプターは滔々と弁をふるった。
「生命の存在する宇宙では、生命の存在しない宇宙よりも高速で侵食汚染が進行する――ティマリウスはそんなメッセージを送ってきただろう? あれを聞いたときにピンときた。エントロピーを増大させ、宇宙の熱的死を疾く招く……たしかに生命にはそんな性質がある」
生命が息づくところほど、レキウムが活性化する。
だとすれば、レキウムとは――
「熱的死はいかなる宇宙も最後には必ず辿り着く、決して避け得ることのない運命だ。すなわち侵食元素とは、滅びそのもの――運命が形を変えたものなのさ」
「運命……」
和泉の脳裏にフラッシュバックが錯綜する。
十五年前の寒原村。夕焼け色に光る霧を放散する怪獣を見て、自分はまさに「あれは滅びそのものだ」と直感したのではなかったか。
キリエスの使命は破滅の運命を覆すことだ、とナエはしきりに口にしていた。
レキウムが運命の具象なのだとしたら、彼女は図らずも本質を言い当てていたことになる。
「和泉くん、僕たちは似た者どうしだ。故郷を失い、運命の姿を見た。だがね、僕と君には一つだけ決定的な違いがある」
「……当たり前だ。あんたと一緒であってたまるか!」
和泉はECOガンを抜き、銃口をロプターへと突きつける。照準の先は胸部。キリエスのそれとは対照的な、赤々と輝くひときわ大きな結晶体だ。
が、ロプターの態度が揺らぐことはなかった。
「君はキリエスに選ばれ、運命と戦おうとした。僕は違う」
「なんだと……?」
「僕はレキウムの輝きにこそ焦がれた。――逃れ得ぬもの、神の力をもってしても抗えぬものを運命と呼ぶ。レキウムが運命であるならば、僕はレキウムに身を委ね、運命と一つになってみせる!」
そしてロプターは、握っていた左手を開いた。
レキウム汚染に冒された五指が、蒼い光の塊を掴んでいる。
「それは、ナエの……!」
「ご明答だ。僕にはこれが必要だった。高次元粒子を繋いで合わせるキリエスの光の欠片が、僕をレキウムと一体化させてくれる!」
和泉は引き金にかけた指へと力を込めた。
だが、ECOガンが火を噴くよりも、ロプターの行動のほうがわずかに早い。
ロプターは、ナエの体から抜き取った光を、些かの逡巡もなく自らの結晶体へと突き入れた。
「君や皆との仲間ごっこはなかなかに楽しめたが――」
哄笑。
「何もかもはこの刻のため! 次元を呑み込む大蛇が現れるとき、大いなる冬は終わり……僕は遍く世界を支配する運命そのものとなるのさ!」
蒼光を吸収したロプターの結晶体が、濃い紫色へと染まってゆく。もとから魔人自身に備わっていた赤いエナジーと、キリエスの蒼いスピリウムが融合しようとしているのだ。
放射されるエナジーが正面から和泉を叩いた。
「ぐ、ッ」
和泉の右手に激甚の痛みが走る。熱と衝撃を最後に、手首から先の感覚が失せる。
音を立てて地面に転がったのは、銃の残骸。
ロプターを狙ったままだったECOガンがエナジーの波濤に灼かれ、装填されていた弾丸の火薬が爆発したのだ。
辛うじて手は繋がっている。
しかし、動かすことはできない。
バイフレスターへの持ち替えが致命的に遅れ、
「僕が目的を果たすために、君たちは決して欠かせないピースだった。感謝と……お別れの言葉を捧げよう」
鼓動のリズムで明滅する紫紺の光が、ひときわ強く跳ねた。
「さようならだ、キリエスに選ばれし者よ」
ロプターが再び全方位に向かってエナジーを解き放った。魔人の体を中心にして半球状に爆圧が吹き荒れ、あたりの瓦礫を塵芥へと変えてゆく。
避ける手段はなく、和泉は間に合わないことを悟りながらもバイフレスターを抜こうとした。
そのとき、絶叫が耳を劈いた。
「――やらせは、しない!」
ナエだ。
貫かれた胸の傷から淡い煌めきを漏れこぼしながら、それでも彼女は立ち上がった。小さなその体から、ロプターのエナジーにも引けを取らぬほどの壮絶な光輝が迸る。
やわらかな光が和泉を包んでゆく。
迫る熱波を振り切る速さで、ナエと和泉は蒼い矢となって戦場を脱した。
お台場からはすっかり人気が失せていた。
テレコムセンターの膝元に広がるシンボルプロムナード公園の西側、滝のように流れ落ちる噴水の前に、和泉とナエは投げ出されるようにして着地した。
二人を包む光がたちどころに弱まり、消える。
「ナエっ!」
和泉はすぐさま身を起こして、窮地を救ってくれた少女のもとへと駆け寄る。
ナエは空を仰いで倒れたまま動かない。
小さく細い肢体を一目見るなり、和泉は表情を歪めた。ひどい有様だった。胸に空いた風穴からは光の漏出が止まらず、手足には亀裂が走って今も体のほうへと広がり続けている。
原因は、考えずとも理解できる。
スピリウムを結合させるキリエスの光を奪われたせいで、霊体としての形を保つことができなくなってきているのだ。
「俺の中に戻って休め! 絶対にロプターから光を取り返してやる。そうすれば」
そうすれば、彼女は以前鬼と対決してダメージを負ったときのように、傷ついた身体を癒すことができる。
だが、ナエはゆっくりと首を振った。
「私があなたを手伝えるのは、ここまで……」
「バカ言うな! まだ諦めるには――」
「これでいいのよ。私は死せる魂を集めて創られた、意思をもつ人形……もとよりいつまでもあなたに寄り添うことはできない存在だった」
和泉は震える息を吐いて俯く。
失いたくなかった。
村を離れてからずっと、後ろめたい気持ちを抱えてきた。ナエが七・一七の犠牲者たちの魂だというのなら、十五年間、彼女はどんな思いで自分を見守ってきてくれたのだろう。
自分はまだ、ナエに報いることができていない。
そして今、自分はその機会を永遠に失おうとしている。
――他ならぬ、俺自身のせいで。
この状況に陥ったのも、もとをただせば自分がブリーフィングスペースで周防の正体を暴き立てたからだ。あれさえなければ周防はロプターとしての姿を現さず、ナエが己の核を強奪されることもなかった。
自分は、早まりすぎたのではないか。
「眞……そんな顔をしないで」
ナエの口元に浮かぶ、穏やかな微笑み。
「あなたの選択は正しかった。あなたが行動したことで、少なくとも一つの運命は変わった」
和泉の中でぐるぐると巡っていた自責の念が、回転を止めた。
それは――たしかに、そのとおりだ。
キリエスが見せた予知夢では、周防は天王洲で初めてロプターに変身するはずだった。そのとき撃たれて命を失うのは、桐島唯だったはずなのだ。
「生ける者の身代わりになって消えることができるなら、私がこの世に留まった意味もゼロではなかったというものよ。私は満足しているわ」
噴水の音だけが聞こえていた。
十回の呼吸の間をおいて、ナエはもう一度口をひらいた。
「ねえ、眞……」
「なんだ?」
「実は私、夢の続きを見ていたの。あなたは途中で目覚めてしまったけれど、私は最後まで見届けることができた」
「……どうなったんだ?」
「夢の中で、キリエスは勝ったわ」
頭の中が真っ白になった。
「キリエスが、勝った?」
意味を咀嚼するのに時間がかかった。
自分が最後に見た情景は、黄昏色の光を纏った何者かに向かってキリエスが挑みかかっていく場面だ。
あそこからキリエスが勝利したというのなら――
もしも自分が今日ブリーフィングルームで事を起こしていなければ、予知夢は現実のものとなり、世界は滅亡から救われてキリエスは使命を果たせていたことになる。
ナエは、そのことを知っていた。
知っていたうえで、和泉の行動を止めなかった。
「これが私の意思……あなたを信じるという、私の意思」
ナエの白い手が和泉の顔へと伸びてくる。
「あなたにはもう、過去に囚われる必要なんてない。自分の足で前に進み、自分の力で望みを掴み取ることが、あなたにはできる」
流れ伝う涙を拭うように、か細い指が輪郭をなぞった。触れられた感触はない。ただ、そこに少女が実在したのだという温もりだけが頬を撫でる。
「行きなさい眞。あなたは、世界の切り札――……」
言葉を紡ぎ終わらぬうちに、無数の光の粒子が散った。
ナエが風の中に還ってゆく。