冬の終わる日(1)
気づくと、和泉眞は夕暮れどきのビルの谷間に立っていた。
意識が途切れる直前の時間は夜で、場所は宿舎の自分の部屋だったはずだ。先週の寒原村での一件について思考を巡らせながらベッドに入り、「あれは自然現象などではなかった」という、もう何度目かもわからぬ結論を導いたところまでは記憶がある。
つまり、これは夢だ。
その証拠にと言うべきか、和泉には眼前の景色に見覚えがあった。キリエスの協力者に選ばれて間もない頃、繰り返し見るはめになった予知夢と同じだった。
――銃声。
驚かない。何が起こるかなどとっくに知り尽くしている。
――鮮血が舞う。
――くずおれる身体を抱き留める、
――熱い命が流れ出してゆく感触を得る。
以前の自分には、どこか別の場所から持ち込まれたような怒りにただ流されることしかできなかった。この光景はキリエスが見せる未来の像に過ぎず、夢の中で動いている自分とそれを観測している自分が同一人物であるとはどうしても体感できなかったのだ。
だが、今は違う。
――今は、俺がキリエスだ。
――見ろ。
異なる時空間を覗き見ているような感覚は既にない。この瞬間この場所において、和泉眞はまさに己のことに他ならない。
和泉は、視線を巡らせた。
まずは腕の中で息絶えようとしている者の顔が、次に凶弾を放った者の顔が、はっきりと和泉の網膜に焼きついた。
「やっぱり、あんただったのか……」
口をついて出る台詞は、スクリーンの中の登場人物が放つのではなく、自らの心が発する言葉だ。
そいつが敵であることが、和泉にはもうわかっている。
借り物の感情などではない、間違いなく己の胸の奥から湧き上がる怒りのままに、和泉はバイフレスターを引き抜いた。
「キリエス――――ッ!」
掲げた神具が蒼光を放ち、地上を染める黄昏色を切り裂いてゆく。
耳元にかすかな呼吸音を感じて、和泉は目を覚ました。
ベッドの脇に視線を向ける。早朝の薄い闇の中、鳶色の髪と白雪の肌を仄かに光らせたナエが、寝台に寄りかかるようにして静かに寝息を立てている。
この子も眠るんだな、とぼんやり思った。ナエと出会ってから三百日以上が経っていたが、和泉は今の今まで彼女の寝顔を見たことがなかった。
しばらく眺めていると、ナエの瞼がゆっくりと開かれた。
「……眞、見えたわね?」
「ああ」
――結局のところ。
寒原村で変身したことで、自分の精神は何ら変質しなかった。
死せる者たちの叫びを聞いても正気を保っていられたから、ではない。
何も聞こえなかったからだ。
七・一七の犠牲者の魂は未だに村を彷徨っている――そのことに疑いを持つという発想すらなかったし、父や母の声でも聞こえようものなら頭がどうにかなってしまうかもしれないと思っていたのに。
遺族が避難先で供養したことで満足したのか、侵食元素によって魂までも消滅してしまったのか、それともまったく別の理由があるのか。和泉には判断がつかない。今となっては判断をしようとも思わない。
考えるべきなのは十五年前に失われた命のことではなく、つい先日起こったばかりの惨劇と、これからについてのことだった。
和泉はすでに、戦うべき相手が誰であるかのアタリをつけている。
そしてキリエスが見せてくれた予知夢が今、和泉の推測を確信へと変えてくれたのだ。
「このままいけば、『黄昏』とやらが現れる場所は天王洲アイル。引き金を引くのは……俺が考えていた相手と同じだ」
「戦いの結末は見えた?」
「いいや。キリエスに変身したところで起きたから」
「そう」
「訊きたいことは、もう一つあるんじゃないのか?」
「…………」
ナエが唇を結ぶ。その沈黙こそが答えだ。
訊きたい、のではない。
彼女には既にわかっているのだ。予知夢の実現を阻止するために、これから和泉が行動に出ようとしていることを。
「意外だな。止められるかと思ってた」
和泉がこのまま何もしなければ、キリエスは討ち果たすべき敵と確実に相見えることができる。ナエはその状況を望んでいるのだと思っていた。
「いまさら何を言うのよ」
だが、彼女は呆れたように鼻を鳴らす。
「眞が心を決めたなら、私に止めることはできない。だからこそ、あなたはキリエスに選ばれたのよ」
死をも恐れず定めた道を走り抜けること――かつてナエは、和泉の資質をそんなふうに表現した。
どんな道筋を辿っても、和泉は最後に必ず『黄昏』と相見える。
そう信じるならば、予見した未来をなぞる必要もない。
「……そうだな。そうだった」
ナエは多くを語ろうとしない。もしかすると自分とナエは、尽くすべき言葉をとうに尽くしきったのかもしれない。出会ったばかりの頃は彼女の迂遠な口ぶりに辟易させられたものだったが、キリエスからの遣いが彼女でなければ、自分はこれほどまでに平静さを保って最後の局面に挑めなかったに違いない。
「それじゃあ見守っててくれ。――最後まで」
◇ ◇ ◇
定められた出勤時刻より一時間前のブリーフィングルームには、たった今入室した和泉眞自身を除けば、まだ藤代啓吾しか来ていなかった。
思ったとおりだ、と和泉はひとまず安堵する。
藤代隊長と一対一で対面するために、わざわざ早朝に出てきたのだ――いや、正確にはなにも一対一である必要はないのだが、そのほうが都合がいいのは確かだ。
絶対に邪魔が入らない、という意味で。
「お話があります」
「どうした、改まって」
藤代の視線は痛ましげな色を帯びている。寒原村の復興が頓挫してから、一週間の休みを和泉に与えてくれたのは彼である。
感謝している。
心を落ち着けることもできたし、村を襲った悲劇について冷静に考える余裕もできた。
だからこそ、自分はこうしてここに戻って来られたのだ。ひとつの重大な提案を引っ提げて。
「ブリーフィングの前に、俺にちょっとだけ時間をくれませんか」
なんだそんなことか、という顔を藤代はした。
「構わんぞ。隊務復帰の挨拶だな?」
「そのこともあります。でも、本題は別です」
「別?」
「今回の侵食汚染、隊長は自然現象だとお考えですか?」
予想外の角度からの問いだったのだろう、藤代は戸惑いをよぎらせた。だがそれも一瞬のことだ。すぐさま口角を水平にして、
「自然現象ではない」
きっぱりと断言した。
「寒原村の侵食係数はここ二年間、基準値である〇・五ノルダルを超えたことがない。そもそも一度汚染された場所が回復したこと自体異例とも言えるが……何であれ、今の村の環境では、二年どころか二十年住んだって肉体変異など起こらんだろうな」
「でも、実際に起こった。だったら原因は……」
「――人為的に引き起こした者がいた」
藤代は表情を変えない。実際、彼にとっては驚くべきことでもないだろう。自然に起こり得ないことが起こったのなら、それは何者かの意思が働いた結果以外ではあり得ないのだから。
「ECOの公式見解はそうだし、私の考えも同じだ。既に捜査にも着手している。……世論の中には、我々の失態を隠蔽するための工作ではないかという意見もあるようだが……まあ、いつものことだ」
たしかに毎度のことだな、と和泉の口からも苦笑が漏れる。ECOへの評価に陰謀論はつきものだったし、悪意のある人間に煽られれば無関心な層が流されるのは世の常だ。そんなことよりも気になるのは、藤代が何気なく言い放った「捜査」についてのことである。
正直なところ、参謀本部や藤代がここまで早く事を進めているとは予想外だった。
――それなら話が早い。
今からやることが変わるわけではないが、情報はできるだけ押さえておきたい。和泉は渡りに船とばかりに食いついた。
「捜査ではもう何か掴めているんですか?」
「汚染源を特定した」
藤代の返答はまさしく和泉の欲していたものだった。汚染源がはっきりしているのとそうでないのとでは、立ち回りやすさがまるで違ってくる。
「バラック小屋の跡地から、西湘アグリ製の液肥のアンプルが発見された。――小柳氏はプランターで野菜を栽培していたそうだな?」
和泉は無言で頷く。
西湘アグリといえば、春に不祥事を起こして倒産に至った会社である。新製品のサンプルに含まれていたレキウムが巨大植物バミューを誕生させ、芦ノ湖周辺に被害をもたらしたのだ。和泉にとってはSSSCに入隊して最初に取り扱った事件だったし、キリエスとしても初めて自ら変身した戦いでもあったから、今でもよく覚えている。
要するに、あのときの液肥の試供品が寒原村にも流れていたわけだ。
小柳恭哉のプランター菜園にそれが使われていたとすれば、彼がレキウムに蝕まれたのも理解できる。小柳は長期間にわたって菜園の野菜を食べ続けていたのであろうし、言うまでもなく、キリエスの加護に守られてなどいなかったのだから。
「小柳氏のNPOの取引記録に西湘アグリの名前はなかった。……が、西湘アグリ側が持っていた在庫表のデータと、春に神奈川県警経由で押収した現物の数とが合わんらしい」
「どこかの段階で液肥が盗まれて、最終的に恭哉の手に渡った……そういうシナリオが濃厚ってことですね」
「そうなるな。おそらく小柳氏は事情を知らず、個人として液肥を購入したのだろう。彼に液肥の試供品を流したのが何者なのか、いま情報部が探っているところだ」
ここが攻めどころだ。和泉は即座に返した。
「それ以上探る必要はありません」
「どういうことだ?」
「誰が犯人なのか、俺には目星がついてるんです」
「なに……?」
藤代が眉をひそめる。
「――本題というのは、つまり、それに関連する話か?」
「はい」
意図を推し量ろうとするかのような藤代の眼光。無理もなかった。部下が事件から立ち直っていると信じたからこそ彼はここまで話してくれたのだろうが、自分が口にした一言は、その確信を揺るがせるだけの威力を持っていたに違いない。
しかし、こちらも退けない。
予知夢で見た光景を現実のものとしないためには、大いなる冬の終わりが訪れる前に仕掛けなければならないのだ。もう時間が残されていない。
「……以前、桐島隊員が話していたよ。おまえが真っ向から視線をぶつけてくるときは、絶対に意見を曲げないときだとな」
藤代は隊長席に腰掛けると、顎をしゃくって和泉にも座るようにと促す。
「おまえの言うことだ、何か根拠があるんだろう? ――詳しく聞かせろ」
◇ ◇ ◇
SSSCの課業は八時から始まる。
その時刻ちょうどに周防昌毅副長が顔を見せたとき、他のメンバーは既に全員揃ってデスクに座っていた。
隊長である藤代を除けば、ブリーフィングルームはフリーアドレスだ。最奥に藤代が座る隊長席。その両隣の席に山吹遼隊員と佐倉ほのか隊員がついていて、山吹の隣には和泉が、佐倉ほのかの隣には桐島唯隊員が陣取っている。
最も手前、ひとつだけ残った空席に腰を下ろした周防は、室内に満ちる微妙な緊張感を敏感に感じ取ったようだった。
和泉が復帰してきたことの影響だろう――周防はそのように解釈したらしい。それは実際正しい。朝一番に顔を合わせたときの藤代がそうであったように、唯も山吹も佐倉ほのかも、和泉がどれほど復調しているのかを推し量ろうとしている。
周防は和泉を見るなりメガネの奥の双眸を細めた。つとめて普段どおりの声音で、
「久しぶりだね、和泉くん。村のことは慰めの言葉もないが、心からお悔やみ申し上げるよ」
「いえ。皆さんにはご心配おかけしました」
直後、藤代の厳かな声が響いた。
「――全員、聞け」
この時点で、これから和泉が切り出そうとしている話の内容を知っているのは藤代だけだ。
余計な情報を入れずに聞いてもらうほうが、信用してもらいやすいはずだった。
「本日から和泉隊員が隊務に復帰することとなった。ついては、和泉隊員から挨拶も兼ねて話があるそうだ」
一同の注目が集まるのを感じながら、和泉はひとつ深呼吸して席を立つ。
「――まずは繰り返しになりますが、ご心配おかけしました」
頭を下げる、
「隊務にも配慮いただいて本当に感謝しています。――俺がいない間の捜査の進捗については、さっき隊長から聞きました。西湘アグリの液肥が関係していたそうですね」
「……残念ながら、そうだ。やはりあのとき警察任せにせず、多少強引にでもわたしたちが捜査を主導するべきだったのかもしれない」
忌々しげに応じたのは唯だ。彼女は管轄こそ違えど元警官であるし、バミューが芦ノ湖に出現した際に液肥の存在を突き止めた張本人でもある。それだけに、今回の件に対しては思うところが大きいのだろう。
しかし、唯が悔恨する必要はないのだ。
なぜならば――
「結果は変わらなかったと思います」
「なぜだ? 現状、液肥は警察から流出した可能性が最も高いんだぞ」
「ええ。でも問題は、どこから流出したかじゃなくて、誰が流出させたかです」
「それはそうだが……」
「押収した薬品を横流しするルートとして、恭哉は普通選ばれないでしょう。売ったところでたいした額にならないんですから」
大量に盗んでNPOのほうに流したのであればまだ理解はできる。だが、今回の取引相手は小柳個人であったというのが現状の見立てだ。
「ってことは……」
佐倉ほのかが眉根を寄せる。
「黒幕がいる、って言いたいわけ?」
「はい。横流しの犯人は、その取引自体で利益を得ようとしているわけじゃなかった。そいつに金を握らせて動かした人間が、他にいるんです」
「――何のためにだ?」
佐倉ほのかの向かい側の席から声があがる。山吹だ。なにかと意見の合わないことが多かった山吹だが、今、彼の語調に否定的な響きは含まれていない。
「もちろん、寒原村をもう一度汚染するためです」
和泉は内心の憤りを堪えながら断じる。
ただ怪獣を誕生させるためなら、標的は誰でもよかったはずだ。わざわざ小柳を狙ったのは、村の再興を阻みたかったからに決まっていた。
「事件の黒幕にとって寒原村は、レキウムを研究するために都合のいい実験場だった。村が復興して本格的に民間人が移住してきたら、大手を振って実験やデータ収集を行うことはできなくなります。――だから、寒原村は『呪われた場所』でなくてはならなかった」
全員の顔色が変わった。
当然だ。
――警察でなくECOが捜査していても、液肥の横流しは行われた。
――横流しを行ったのは実行犯に過ぎず、黒幕が他にいる。
――黒幕の目的は、レキウムの研究を行うこと。
和泉の主張を紡ぎ合わせれば、自ずとたった一つの結論に辿り着くしかない。
周防が口を開いた。
「和泉くん。つまり君は、ECOの中に黒幕がいると言いたいのかね?」
「はい」
たぶん彼は、全員の疑問を代弁したつもりでいるはずだ。
――ようやくここまで来た。
和泉は周防の目を見据え、決然と口にした。
「犯人は、あなたですよ――周防副長」