まぼろしの故郷(4)
村にひとつしかない診療所は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
小柳は今、診察室のカーテンの奥のベッドに寝かされている。
先程からひっきりなしに防護服を纏った男女が出たり入ったりしている。その中に、廊下の長椅子に腰を沈める和泉に気を払おうとした者はいなかった。
あの人たちの何割が医者じゃなくて研究者なんだろう――和泉は漠然とそんなことを考える。村を実験場にされているような気がして好きになれなかったが、今となっては彼らの存在に頼もしさすら感じる。
「……いや、違う。そうじゃないだろ俺……!」
和泉は、胸によぎった安堵をもぎ取って捨てた。
研究者たちの本国にある施設なら期待も持てよう。だが、ここにはセーフティレベルの高いエアロックもなければ、最新鋭の素粒子観測設備があるわけでもない。いかに彼らが優秀でも、持ち運びサイズのレキウム計測器で解明できることなど知れている。
「せめて大きな病院に運べれば……」
「――それは不可能だろうね」
唐突に診察室の扉が開き、防護服に身を包んだ男が姿を見せた。
なぜ相手が男だとわかったのかといえば、声に聞き覚えがあったからだ。和泉は思わず腰を浮かせた。
「副長!?」
「やあ。奇遇……というわけでもないか」
男がフードと防毒マスクを外す。マスクの下から現れた顔は、やはり和泉の想像したとおり、SSSC副長・周防昌毅その人のものであった。
「なんで副長がこんなところに……」
「ここの研究員とはよく連絡を取り合う仲なんだよ。僕だって侵食元素については詳しく知りたいからね。こうやって実際に来ることだって初めてじゃない」
初耳だ。
とはいえ、そのことを追及している場合ではないともわかっている。自分が寒原村の出身であることは隊の誰もが知っている事実だ。副長にも自分の前でおいそれと村の話をしないデリカシーがあったということだろう。
「その……病院に運ぶのが不可能、というのは?」
「場所と天候の問題だよ」
これまで周防の口から出たことのない神妙な声音、
「まず場所だけど、この村、電波が通じないだろう?」
和泉は首肯する。スマートフォンは所持しているが、村に入ってからというものアンテナは一本も立っておらず、実質的にちょっとかさばるデジタル時計と化している。
ここまで電波が届いているものといえば、せいぜいアナログのラジオくらいのものだろう。
「でも、固定電話ならありますよ。バラックの恭哉の部屋でも見たし、この診療所にだって――」
「使えないんだ。実際試したけど繋がらなかった」
「どうしてです?」
「大雨のせいかもしれない。……もっとも、仮に断線してるわけじゃなかったとしても、この天気じゃドクターヘリを飛ばすのだって難しいだろうがね。救急車を呼ぼうにも――」
そこで周防は言葉を切り、防護服のポケットに手を突っ込んだ。
取り出されたのはポータブルラジオだ。
厚手の手袋に邪魔されて細かな操作ができないのだろう、周防は指先でスイッチを入れようとして二度失敗した。爪を立てるようにして押し込まれた三度目が功を奏し、次の瞬間、スピーカーからニュース音声がこぼれた。
『――今朝から降り続いている大雨の影響により、旧寒原村へ続く県道五二六号にて土砂崩れが発生しました。死者・負傷者は出ていませんが、村内には復興作業中のNPO職員や本日行われる予定の慰霊式典の参加者が留まっており、帰宅困難となるおそれが懸念されて――』
周防は無言でスイッチを切った。
ゆるゆると首を振って、
「この通りの有様だ。連絡は繋がらない、繋がったとしてもこの村に助けを呼べる手段がない。雨がやむまで、ここは陸の孤島というわけさ」
「そんな……!」
周防が悪いわけではない。そんなことは百も和泉とて百も承知だったが、食ってかからずにはいられなかった。もうすぐ恭哉の活動にひとつの成果が出るのだ。こんな道半ばで彼の命を諦めていいはずがない。
何かないのか。
何か――
「ECOPADは?」
答えを求めて彷徨った思考がひとつの可能性を拾い上げた。
「実に言いにくいんだが……」
が、苦し紛れの思いつきが周防の閃きを促すことはなかったらしい。
「君と同様、僕も今日は一介の研究者として来ているんだよ。ECOPADは基地のロッカーの中だ」
「……そう、ですか」
「気の毒だが、友人なら覚悟はしておいたほうがいい。――ひとまずは容態も落ち着いてるから、会っていったらどうだね」
いま会っておかなければ心残りになる。
そんな意味を言外に滲ませて、周防は歩み去っていった。
診察室は実に質素なつくりだった。
都市の大病院や基地のメディカルセンターと比べるほうがどうかしている。頭ではわかっているが、事が侵食汚染とあってはそんな納得には塵ほどの価値もない。ここの設備では治療を試みるどころか、汚染を閉じ込めておくことすらできやしない――見れば見るほどそう痛感させられる。
和泉は、ベッド脇の壁にかかった装置に目をやった。レキウム計測器。研究者の誰かか、もしくは周防が持ち込んだに違いない。
侵食係数、四七・三。
ひとまず容態が落ち着いているという周防の言葉に嘘はなかったようだ。黄昏色の光は収まっている。もちろん、通常ではありえないほど高い数値には違いないのだが。
そのとき、シーツに包まれた小柳が身動きをした。
「恭哉っ!」
「その声……和泉か……?」
「ああ、俺だ! 苦しくないか? 寒気は!?」
小柳が声を頼りにしたのは、こちらが防護服を着ているせいだと思った。頭部はヘルメットにすっぽり覆われていて、外からはゴーグル越しに両眼が見える程度だ。
しかし、次に小柳が発した言葉を耳にして、和泉は眉をひそめた。
「走るなよ、危ねえって……」
「……恭哉?」
「タク……ケン……キッカ、ツバキ、シン……なあ、待ってくれよ、オレを置いていかないでくれ……」
表情が凍りついてゆくのが自分でもわかった。
タク――宇都木拓郎。
ケン――葛本健人。
キッカ――内山菊花。
ツバキ――福田椿。
それらは全て、いなくなってしまった者たちの名前だった。
小柳は、傍らに立つ和泉の声を聞いていない。
彼の耳に届いているのは、十五年前の災害で喪われてしまったかつての友人たちの囁きだ。彼ら四人に和泉と小柳を加えれば六人になる。村の学校で机を並べていた、六人の仲間に。
怖気が身体じゅうを駆け巡った。和泉は掴みかかるように叫んだ。
「ダメだ、行くな恭哉! そこにいるのは俺じゃない! 皆だっておまえに来てほしいだなんて思っちゃいないぞ!」
小柳が目を開ける。
瞼の下から現れた眼が、黄昏色の輝きを宿している。
「ケン、ツバキ……あんま近づくなよ……川、そのへん、深い……」
渇ききった唇から、掠れるような呟きが漏れはじめた。
「――光? ああ……そうだよ、蛍、だ……水がきれいなところでしか……見られないん、だとさ」
和泉はもはや言葉もなかった。
「この村が、きれいだって……こと、かって? ――ああ……そうだよ、そのとおりだシン……オレは、この……村、を――」
耳を塞げと狂ったように感情が叫び、しかし手がそうすることを拒否していた。小柳のうわごとを一字一句たりとも聞き逃してはならないと、心ではなく体が知っているのかもしれなかった。
――ふざけるな!
認めない。認めるわけにはいかない。
今こそが彼の声を聞く最後の機会だということなど、絶対に――!
立ち上がる。
懐に手を伸ばし、バイフレスターを引き抜いて、
「――眞、だめよ!」
白い細腕に止められた。
ナエだった。
もちろん、実体を持たない少女に取りすがられたところで障害になりはしない。和泉がその気になればバイフレスターを掲げるのは容易いことだ。振りほどく必要さえない。
できなかった。
「どうして止めるんだよ!?」
激情が喉から迸った。
「ヘリや救急車が来れないっていうんなら、俺がキリエスに変身して街まで運べばいいだろ!? 街にはもっと設備の整った病院があるんだ、そこでなら――」
そこでなら。
和泉の言葉が詰まった。頭の中がすうっと冷えて、その先を口に出すことがどうしてもできなくなった。
しかし、ナエは容赦してなどくれなかった。
「そこでなら何ができるというの? ……手遅れよ。街に連れて行ったら、逆に犠牲者が増える」
「見殺しにしろって言うのか!?」
「――私だって!」
ナエが顔を上げた。鳶色の髪が激しく揺れて、露わになった相貌にまっすぐ睨み返された和泉は思わず怯む。
ナエの瞳が潤んでいた。彼女がこんなにも感情を見せることは今までになかった。
「私だって、彼が瘴気に呑まれるところなんて見たくはないわよ。けれど、ここまで冒されてしまっていては、もう手の施しようがない」
――ここは私にとっても大切な場所だから。
バラック小屋で彼女が発した台詞を、和泉はやはり問い質しておくべきだったのだろう。機は逸した。和泉にもナエにも、昨夜のことを蒸し返す余裕はすでにない。
そのとき、小柳の呟きが絶叫に変わった。
「――いけない!」
ナエが高々と腕を掲げ、蒼い光の障壁を発現させる。
次の瞬間、爆風が吹き荒れた。
壁にヒビが入り、天井が砕ける。黄昏色の光の波に灼き尽くされる視界の中で、和泉はレキウム計測器の数値が「八二・四」に跳ね上がるのを垣間見る。
――最後まで、誰一人として気づくことはなかった。
小柳が寝ていたベッドの裏、和泉からは完全な死角となる位置に、小さな機械が仕掛けられていたことに。
当然、その機械がこの部屋の音声をリアルタイムで外部へと送信していたことなど、和泉もナエも知る由がなかった。