まぼろしの故郷(1)
十一月ともなれば北国でなくとも肌寒い。
冬用ウェアを新調してきたのは正解だった――バイクに跨って冷たい山風を受けながら、和泉眞はそんな思いを噛みしめた。
ゴーグルの向こう側に広がる景色は、ずいぶん前から変化らしい変化をやめている。あたりに人家らしき建物はなく、ただ鬱蒼と茂った木々が延々と続くのみ。沿道を歩く者はおらず、ときおりすれ違うダンプやトラックを別にすれば対向車すら来ない始末だ。
峠に差しかかって、和泉は減速しながら車体を傾けた。カーブを曲がりきってしばらく走ると、左手に看板が見えてくる。
――寒原村、この先四キロメートル。
辛うじてそう読めた。看板には欠けている角もあれば穴のあいた箇所もある。塗装もすっかり色褪せていて、修繕されないまま過ぎ去った月日の長さが窺えた。
無理もない。
寒原村は、もう十五年も前に打ち捨てられているのだ。
――七・一七。
和泉の脳裏に村の最後の光景が浮かんだ。黄昏色に輝く霧の中から、凝るようにして実体を現した巨大な影。のちにECOによって「ゲルミル」とコードネームを振られることとなるその怪獣は、口から噴き出す火炎で家屋を焼き払い、体から放散する侵食元素で土地を汚染し尽くしてしまった。
――そして、俺は初めてキリエスと出会った。
燃えさかる空と大地の狭間でこちらを見下ろす銀色の巨人。
あれこそが今の自分――ECO隊員にしてキリエスの依り代、和泉眞の原風景なのだと思う。寒原村が終わった日にこそ、自分の運命が廻り始めたのだ。皮肉なものと言うほかない。
「……っと、この道だったな」
前方。村の跡地へと続く分岐が見えた。和泉は回想を断ち切り、バイクの車体を隘路にねじ込む。
道脇のガードレールが赤褐色の錆に食われつつある。やはり放置されて久しいものと見て取れるが、路面そのものには新しく補修を施した痕跡があった。先刻からときおり見かける資材搬入車も、この道を通って往復しているのだろう。
そう――資材の出入りが行われている。
侵食係数が基準値を下回った二年前を境に、あたり一帯は特別環境管理区域の指定を外された。以来、NPOやボランティアを主力として復興活動が進められているのだ。
その活動の最初の成果が、ちょうど出ようとしている。
成果を指し示すものは、バイクのリアボックスに収納したザックの中にしまわれている。
慰霊式典への入場チケットである。
つい先週に落成したばかりだという資料館で、明日、災害の犠牲者を偲ぶ集会が開かれる予定なのだ。
――いつか故郷に向き合うときが来たら、
沖縄で異星の少女から受け取った助言が胸に蘇った。キャリル・メロ・ネリヤカナヤ。星を再建するという夢を語って地球を去っていった彼女は、いまごろ愛機とともに星間宇宙を航行している最中だろうか。
「自分の心に正直になれば、後悔しない……か」
つくづく金言だったとしか言いようがない。
避難先で生活するようになってからというもの、故郷に関わることからずっと逃げてきた。復興作業が始まったという知らせが舞い込んでも、自分のやるべきことは他にあるはずだと無視した。意識してのことか無意識の要請だったのかは自分でもわからない。もはや何をしたところで失われた命が帰ってくることはないのだと理解していたからかもしれないし、あるいはそのことを直視したくなかったからかもしれない。
だが、魂を鎮めるために祈ることくらいは、できる。
和泉はアクセルを回し、バイクを制限速度いっぱいまで加速させた。
◇ ◇ ◇
「――そもそも、」
東京湾の洋上にそびえる人工島、ECO関東総合基地の中核部。コマンドルームと直結したブリーフィングスペースで佐倉ほのかが問いを発したとき、藤代啓吾はちょうど使い捨てのカップにコーヒーを注ぎ終えたところだった。
「どうして管理区域指定を外すことになっちゃったんです? 有害物質とか放射能ならリスクが高いか低いか判断もできるだろうけど、侵食元素ってぶっちゃけあんまり詳しくわかってないですよね。危ないんじゃ?」
「研究セクションのやつらが聞いたら泣くぞ」
藤代はコーヒーを一口飲んで苦笑、
「まあ、簡単に言えば政治筋からの働きかけだな。元を辿れば被災者からの要求だ、現実に侵食係数が無害なレベルまで落ちている以上、撥ね除け続けるのはどのみち難しかったろう」
「ありゃ……当時そんなことになってたんですか、こっち」
佐倉ほのかはときおり、日本について「こっち」という表現を選ぶことがある。これは彼女が米国育ちであるためだ。
二年前、エイリアンによるサイバーテロへの対策として専門家を欲していた藤代は、シリコンバレーに勇名を轟かせていた「Cherry Blossom」なるハッカーと接触した。それが佐倉ほのかだった。
寒原村を巡る議論が盛り上がっていた時期は、佐倉ほのかの身辺がECOへの入隊のために慌ただしくなっていた頃と重なる。彼女にしてみれば「そんなニュースに注意を払う暇はなかった」といったところか。
「あのとき下手に粘っていたら、世論が『ECOへの分担金の供出を留保しろ』という方向に振れていた可能性もある。落としどころとしては無難な線だった……と、考えなければならん」
「そのわりには隊長、納得してない感じですけど」
「……一度レキウム汚染された地域が無害レベルまで自然回復するというのは、前例がないからな」
納得していないという言い方は正確ではない。事実としてレキウムは観測されなかったのだ。被災者が故郷への帰還を求める気持ちを否定することなどできないし、管理区域指定の解除という結論は実に妥当というほかあるまい。
が――安心すべきでない、とも思う。
その証拠に、復興支援団体のベースに外国人が頻繁に出入りしているという事実があるのだ。
管理区域がECOの管轄であることを思えば、これはまったく偶然ではない。そこが管理区域でなくなれば、ECOは排外的に権限を行使できなくなり、各国お抱えの研究チームが大手を振って歩き回れるようになるからだ。
集まってきた研究者の中には、農作物や野生動物の調査はもちろん、作業に勤しむ人々の健康データを記録している者もいる。
これから何かが起こるかもしれない――そういう想定をしているのは、藤代や参謀本部ばかりではない。
「なるほどー……ところで隊長」
「何だ?」
「イズミンは慰霊式だとして、副長のお休みはなんでです?」
「知らん。休暇をとる理由なんて詮索するものでもないからな。休み明けに本人に訊くといい」
「えー? でもイズミンのは知ってたじゃないですか」
「あいつは自分から言ってきただけだ」
SSSCは現在、二人を欠いている。
手薄と言えば手薄だが、そう深刻な問題にはなるまいと藤代は踏んでいた。足を使っての捜査活動ならば唯がいるし、パイロットのファーストチョイスは山吹だ。作戦立案は自分がすればいい。周防と和泉の穴を埋めることは充分にできると考えて、彼らの休暇申請をそのまま通したのだった。
「二日間かぁ。ひょっとして副長も寒原村だったり?」
「まさか……」
藤代は否定しかけて、あながちあり得ない話でもないことに気づく。
宇宙人との交信を専門分野としながら、古代生物や地域史についての知見をさらりと披露してのけるのが周防昌毅である。あれほど興味の範囲の広い男であれば、侵食元素を調査しようと、イベントにかこつけて自ら寒原村に足を運んでも不思議ではない。
「――まぁ、無いですよねー」
佐倉ほのかが冗談めかして笑う。
「もし一緒に行くならイズミンがそう言ってますもんね」
「……それもそうだな」
そのとき、壁にかかった時計が十五時十分を指した。
休憩の終わりの時刻であった。
「さて、無駄話はやめだ。仕事に戻るぞ」
「はーい」
佐倉ほのかの軽い返事を聞きながら、藤代は自身のタブレット端末のディスプレイに目を落とす。
映し出されているのは、シールドミサイルの本格導入を検討するための書類だ。今まであの武器を実戦で使用した部隊はSSSCをおいてほかにない。どんな意見を出すのであれ、責任は重大だった。
自動ドアが開いて山吹と唯が戻ってきた。藤代は顔を上げ、山吹をデスクの前に招き寄せた。
◇ ◇ ◇
資料館の脇の駐車場にバイクを停めた。
人工物が数えるほどしか見当たらない作りかけの村で、真新しい資料館はひときわ目立った。こんなに立派な建物は焼ける前の村にはなかったよな、と和泉は複雑な思いに浸る。
もっとも厳密には、ここはまだ「資料館」とは呼べない。
展示するべき資料が纏まりきっていないからだ。
封鎖を解くにあたって、ECOは機密性に乏しい写真、および危険性のない遺留品を何点か放出した。そして現在、眼前の建物に収まっている物品はそれらが九割を占めるのだという。
災害があったのは十五年前。
しかし、復興が始まったのは二年前だ。
そもそも侵食汚染によってあらゆる活動が阻まれていた地域である。資料を整理したり編纂したりするよりも、先にやるべきことなどいくらでもあった。
和泉は資料館になる予定の施設を離れ、村の中を散策してゆく。
当たり前のことではあるが、風景はかつての姿とは様変わりしている。さっきの資料館(仮)を除けば建っているのはプレハブ造りの仮設住宅がほとんどで、道路すらまともに敷かれていない箇所がそこかしこに存在している。豊かだった緑は汚染が濃かった時期に根こそぎ枯れてしまったに違いない、村に入る手前から木立が疎らになりはじめていた。この近辺まで来るともう、後から植林されたぶんが僅かに育っているだけだ。
しかし、体が覚えているものはある。
村の入口から距離にして三キロメートルほどだろうか。和泉は立ち止まり、ざっと左から右へ視線を走らせる。
「ここに学校があったっけ」
学校に通っていた期間は実を言えばそこまで長くもない。怪獣が現れた当時、和泉は八歳だ。三年生の一学期が終わる間際のことだった。
それでも、思い出は数え切れない。
教室で会う面々といえば普段からご近所どうし付き合いのある連中で、互いの家に遊びに行ってそのまま飯を食ってくるような仲だった。毎日朝から晩まで傍にいたようなものだ。瞼を閉じて意識を過去に飛ばせば、彼らの顔を蘇らせることはたやすい――が、和泉はとうの昔にその種の行為をやめていた。
思い出せば会いたくなる。
何人がこの世に残っているのかなど、知りたくもない。
「……瓦礫、まだ片付いてないんだな」
怪獣によって踏み壊された校舎の残骸だろう。鉄筋の飛び出したコンクリートの塊やガラスの欠片が、和泉の目の前で山のように積み上がっていた。
和泉は屈み込んだ。
何かを考えたわけではない。目的があったわけでもなく、ただ瓦礫を拾ってみようと思ったのだ。
指がセメントの破片に触れる直前、後ろに気配が立った。
「――なかなか人手が足りなくてね」
投げかけられたのは男の声だ。
和泉は腰を上げて振り返り、
「あ……」
相手の顔を視界に収めた瞬間、目を瞠っていた。
衝撃を受けたのはむこうも同じだったらしい。二十代半ばほどのその男は、腫れぼったい一重の眼を真ん丸に見開く。
「おまえさん、眞か?」
「恭哉!?」
懐かしい顔であった。
十五年の時を経て成長してはいるが、確かに残る面影を見過ごせるはずもない。もう何年も思い出さないようにしていた顔の一つに間違いなかった。
「生きてたのか!」
「そっちこそ。久しぶりだなあ、眞!」
どちらからともなく自然に手が伸びた。小柳恭哉――かつて教室を共にした仲間の一人と、和泉は固く握手を交わす。