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鬼途(5)

 学校の許可を取り付けるのは難しい話ではなかった。


 借りた鍵で更衣室に入り、端のロッカーを開ける。このロッカーは空で、唯が指導に来たときを除いては扉が開くこともない。いつ来ても埃ひとつ落ちていない掃除の徹底ぶりを目の当たりにするたび、唯は後輩たちの眼差しを意識して気分を新たにさせられる。


 ――そう、だから、わたしがやらねばならない。


 キメンジャと直に相見えたとき、これは自分の仕事だと確信した。


 自分が幕を引くべきだ。和泉ではなく。


 夜気が肌に沁みた。


 道着を纏って防具を身につけ、面を引っ提げて武道場に出た。


「――学校関係者は警備員含めて避難させましたよ」


 和泉が歩み寄ってくる。顔つきが冴えない。


「本当にいいんですか? やっぱり二人がかりのほうが、」


「何度も言わせるな。君は立ち会ってくれればそれでいい。万一わたしが敗れたら、そのときは後始末を頼む」


「後始末って……」


「わたしを狙っているのは取り憑かれている人間のほう――奴自身が明かしたことだ。わたしを倒したあとは好き放題に暴れるだろうし、そうなったら止められるのは君しかいない」


 何かが人間に乗り移っている――そう断言したのは和泉だ。およそ科学的とは呼べない主張。自分がそんな見立てを根拠にして理屈を組み立てていることに、唯はとっくに気づいている。


「――なあ、和泉隊員」


「はい?」


「キメンジャを操っているもの……鬼の存在を見破ったのは、いつぞや君が言っていた幽霊の少女か?」


「……そう、ですけど」


「貴重な情報をくれてありがとうと言いたいところだが、どうもわたしは霊感とやらに欠けるみたいでな、その子が見えん。桐島唯が感謝していたと君から伝えておいてくれ」


 守り神のようなものだろうか――漠然とそんなことを考える。


 真相は自分にはわからない。和泉に聞いても要領を得ないあたり、当の彼にもよくわかっていないのかもしれない。


 しかし、少女がキリエスの正体であるならば、羅刹を打ち破る鍵は和泉をおいてほかにない。なにしろ少女と通じ合えるのは和泉だけであり、鬼を調伏できるのは神様しかいないのだから。


「初めて会ったときもそうでしたけど……」


 和泉はなぜか、緊張がほどけたような表情を見せた。


「桐島隊員ってこういう話、普通に信じてくれるんですね」


「君が大まじめに言うからだ。――さあ、しばらく下がっていろ。時間だ」


 壁にしつらえられた時計が零時を指した。


 薙刀を手にして武道場の中央へと進み出る唯の、鋭く絞られた眼光が向かう先。


 開け放たれた扉を潜って、キメンジャが再び現れた。


「一対一、という約束の筈だが?」


 いかにも不平を鳴らしているような台詞だが、こちらに向かって近づいてくるキメンジャに、足を緩める気配はまったくない。


 二人まとめてかかってこい、と全身の闘気が語っていた。


 目的の達成を前にして血が沸き立っているのかもしれない。徹底して目撃者を作ろうとしなかったこれまでと違って、キメンジャはなりふり構わず事を仕上げにかかろうとしている。


「彼は立会人だ」


 誘いには乗らない。


 唯は和泉に手振りで指示し、壁際まで下がらせる。


「貴様の相手はわたしがするさ」


「ふん。よかろう」


 レインコートの袖のあたりで闇が凝る。空間に生じた渦から木製の薙刀を引き抜いて、キメンジャはいよいよ唯と正対した。


 唯は面を被り、細く長く内息しながら構えを取る。


 八相に対するは中段。ちょうど神社での構図が再現された格好だ。互いに昼の続きをやろうと考えているのは明白であり、ただ和泉の存在だけが二人の意識から締め出されてゆく。


 痛いほどの静寂が張り詰めた直後、


「――往くぞ」


 落雷のごとき震脚とともに、キメンジャが動いた。


 床から返った反発力を前進のために使い切り、触れただけでも身が砕けそうな勢いで一足に迫る。半身から逆の半身へと流れるように入れ替わり、まさに体のすべてを活用した打ち込みが唯の肩口を(ひし)がんと抉り込まれた。


 ――轟!


 空気を割って振るわれた鬼人の一閃は、しかし標的を捉えず。


「防具のぶん加減するつもりだが――」


「ぬゥおアッ!」


 上体の撥条を使って旋転したキメンジャが、声だけを頼りに左斜め後方へと二の太刀を放った。体軸は乱れ、薙ぎ払いを打ったのは左の腕のただ一本。型もへったくれもあったものではないが、人体の限界を超えた膂力で振り抜かれた薙刀の切っ先は、受けに回った相手の手首から先を粉々にできる破壊力を秘めている。


 破壊力は、秘められたまま虚空に溶けて消えた。


 キメンジャが宙に描いた弧の僅かに外。流水のように舞いを踏んだ唯が、構えを下段に移して万全の姿勢を整えている。


「ッェエイ!」


 乾いた打撃音。


 唯の握る薙刀の先端、物打ちと呼ばれる部分がキメンジャの脛を打ち据えた。衝撃を骨に浸透させた確かな手応えを感じながら、唯は再び遠ざかって構え直す。


「――相手がおまえでは、わたしも大して余裕がなくてな。怪我をする前に目を覚ましてくれないか」


「……? 何を言っている?」


 片膝をついていたキメンジャが立ち上がる。その仕草は慎重というよりも緩慢だ。操られている人間の体を慮った一撃だったが、しばし動きを鈍らせる程度の効果はありそうだと唯は思う。


 キメンジャの問いに答えるつもりはない。


 もっと正確に言うならば、キメンジャと話すつもりもない。


 唯は、相手の躰を刺し貫くように叫んだ。


「わたしの声を聴け、――紅葉!」


 キメンジャが、止まった。


 まるで稲妻にでも打たれたかのように、一切の身動きが停止した。


「羅刹の都合などわたしだって詳しくは知らん。証書もなければ鬼の手形だってもう残ってはいないからな、今さら調べようもない。だが、奴がこの街に足を踏み入れるために、おまえを利用したんだということは状況を見ればわかる」


 口を回せば頭も回る。三ツ石の伝説、紅葉がインターハイを欠場したこと、「お姉様に合わせる顔がないんですっ!!」、通り魔事件が起こり始めた時期、キメンジャが姿を見せた時間帯、紅葉がここ最近体の不調を訴えていたこと――得てきた手がかりを唯の脳細胞が繋ぎ合わせ、一本の筋へと紡ぎ上げてゆく。


「タネが割れれば簡単な話だ。羅刹はおまえが学校に行っている時間を避けて体を乗っ取っていた。だから平日には夜中と早朝にしか現れなかった。……ばかなやつめ、鬼に付け入られるほど思い詰めるくらいなら、電話のひとつもくれればよかったものを」


「何を語るかと思えば、小癪な……その口を閉じろ!」


 再起動。キメンジャが仕掛けてきた。


 脚の痺れが尾を曳いているのだろう、人妖の体捌きからはこれまでのような精彩が失われている。腕の振りだけで放たれた胴払いを避けた唯は、一気に運足(うんそく)して相手の懐へと滑り込んだ。


 二撃目がくる前に柄を合わせて得物を封じる。むろん力では敵うまい。しかし今の唯はもう、力で対抗しようとは考えていない。


「紅葉ッ!!」


 鬼面に隠された顔を見据えて喝破する。


「これ以上、おまえの心と体を好きにさせるなッ!!」


「ぐ……ぬうウゥうぅうッ……!』


 キメンジャがよろめいた。


 決定的な隙だ。


 唯は間合いを切り、鋭い引き面を打ち下ろした。


「ィイヤァッ!」


 裂帛の気合、そして風を断つ音。想いを乗せて放たれた薙刀が、木彫りの仮面に触れるか触れないかという位置でぴたりと静止する。


 衝撃に揺さぶられなどしなかったはずの鬼面が、落ちた。


「――目が覚めたか、紅葉?」


 面の下から現れた相貌は、やはり予想したとおりで。


「お、姉……様……?」


 紅葉は唇の内側でむにゃむにゃと呟く。眼は半ば閉じていて、本当にたった今まで眠っていたかのようだった。


 握りしめていた古い薙刀が、煙のように消失してゆく。


 やがて眼前の唯が夢の住人でないことに気づいたらしい。紅葉はぐるりと周囲を見回した後、己の首から下に視線を向けてひどく驚いた表情を浮かべた。


「えっ……赤いレインコートに、鬼の面……って、この格好!」


「そうだ。おまえは鬼に操られていた」


 これで一件落着か――唯は溜め息、


「まったく……変に我慢なんかせず、会いたいなら素直にそう言え。ターゲットがわたしだったから良かったものの、他の人間だったら本当に四肢を折られていたところだぞ」


「四肢を? ……あの、何のお話です?」


「わたしの手足を使い物にならなくして動けないようにすればおまえの願いが叶う、とか言っていたぞ、羅刹は」


「んな゛っ――!?」


 紅葉の顔が見るも鮮やかに青ざめる。


 わなわなと肩が震えて、


「私の体を使って、よくもお姉様にそんなことをぉっ!!」


 爆発した。


「いや、おまえの声ではなかったけどな――」


「失礼! お借りします!」


 紅葉は唯の手から薙刀を奪い取って振りかぶり、


「そりゃお姉様に会いたいっていうのが本音でしたし! 昔みたいに一緒の時間も欲しかったですけど! あんたにそれを頼んだ覚えはねーし、そんな叶え方なんて真っ平御免なんですよっ!!」


 ふと見ると、壁際で戦いの趨勢を見守っていた和泉が表情を引きつらせていた。同感だ、自分だってそう違わない顔をしているだろうと唯は思う。紅葉とは長い付き合いだが、彼女がこんなにも怒りを露わにするところを今までに目にした記憶がない。


 紅葉は、鬼の面めがけて全力で薙刀を打ちつけた。


 が――


「っ!?」


 自在に薙刀を操る腕前、狙いを過つはずのない距離。にもかかわらず、紅葉の一撃は床を叩くに終わった。


 鬼の面がひとりでに浮かび上がったからだ。


(こと)()らずか。だが、もう遅い』


 武道場に響いた声は、これまで紅葉の口を借りて発せられていた、あの地獄から聞こえてくるかのような嗄れ声だった。


『礼を言うぞ小娘……手形が消えたとはいえ、忌々しい三ツ石の結界が健在のままでは、この地に近づくことはできなかった。おぬしのような負の想念を抱えた人間の心に、我が魂を忍び込ませることこそが、我が身が今一度現世(うつしよ)に転じるための只一つの(みち)だったのだ!』


 妖気としか表現できない不可視の重圧が迸る。唯は紅葉の手を引っ張ると、自ら前に出て彼女を背中に庇った。


 ただならぬことが起きようとしている――そう察するには充分すぎた。


『すでに充分な力は得た。――復活の(とき)だ!』


 眼を禍々しく光らせた鬼面が、哄笑しながら遠ざかる。天井近くに並ぶ窓ガラスの一枚を突き破って、裏山の起伏の向こうへと消えるのが見えた。


 大地が縦に揺れた。


「桐島隊員! その子を頼みます!」


 和泉が矢のような速さで飛び出してゆく。



     ◇ ◇ ◇



 盛岡は自然と街とが隣接する都市である。


 鬼が巨大な実体を現した場所は木々の生い茂る山林だが、そこから十歩も斜面を下れば住宅地は目と鼻の先だ。家屋に被害が出ることは避けられそうになく、真夜中という時間帯も悪い。続々と通りに飛び出してくる人々の中には子供を背負った者や老人の手を引く者が少なからず見受けられ、すばやい避難は到底望めないものと思われた。


 ――結局こうなるか……。


 人波に逆らって和泉は走り、無人となった林道へと飛び込む。


「ったく、人騒がせな妖怪め……!」


 舌打ちまじりに独白して懐を探る。指が硬いものに触れるなり引き抜けば、手中には短剣を象った形状の神具、バイフレスターが握られる。


(ナエ、いけるか?)


(問題……ない)


 丸一日も経たないうちに回復しきるわけがないとは思っていたが、やはりナエの声には苦痛が見え隠れしていた。


 ――あまり負担をかけられないな。


 幸いなことに、変身してから食らったダメージを請け負うのは自分だ。キリエスの力が体になじんできたことの証左かもしれない。


(きついなら無理しないで俺に任せてくれ。キリエスになる感覚にもけっこう慣れてきたとこなんだ、一人でもやってみせる)


(……そう、ね。無理するなだなんてあなたに言われるのは癪だけれど……今の私では足手まといかもしれない)


 ナエが傍らに姿を見せた。


 輝く肌とワンピースの白さが夜の林道ではよく目立つ。光の粒子の流出は止まっていたが、腕や脚には未だ痛々しいヒビが刻まれたままだ。


「眞、必ず活動限界までには戻りなさい。機械人形と戦ったときみたいな真似は、あなたのためにならない」


「わかってる。三分で仇をとってくる」


 ナエの言う機械人形とはティマリウスのことに違いない。たしかにあのとき、自分は限界を超えてキリエスの力を行使し続け、あわやというところまで消耗してしまった。


 同じ轍は踏まない。


 和泉はバイフレスターを掲げ、叫んだ。


「キリエスッ!」


 蒼い光が和泉を包む。体が輝きの中に融けていき、感覚が拡張した。最初はあれほど苦しめられた魂の声にもとうに慣れ、何の痛みも感じない。虹の階梯を駆け上がった意識が次元の壁を突破して、和泉はキリエスと一つになる。


「――ゼアッ!」


 銀の巨人が、街を背にして着地した。


 悪鬼――ラセツが歩みを止める。


『おぬしは……何者だ?』


 キリエスは無言のまま右腕から光の刃を伸長させる。話す気がないとは言わないが、この姿の声帯には人語を発する機能がないのだ。


 ――俺はお前の敵だ。


 意思を乗せて眼光を飛ばすと、鬼は低く嗤って、


『なるほど。――然らば斬るッ!』


 腰に提げた得物に手をかけた。錆に覆われた鞘を払って抜き放たれたのは、凶悪な曲線を描く肉厚の刃。


 ラセツが蛮刀を高く振りかぶり、地を蹴った。


『ぬゥン!』


「ハアッ!」


 縦一文字に落ちてきた刀を、キリエスは光の剣で受け止める。散り爆ぜる火花が目前に近づき、パワー勝負の不利を悟ったところで腹に膝。予測していなかったタイミングで衝撃が出現し、キリエスは後方へと大きく跳ね飛ばされた。


「クッ……!」


 とっさの判断で足元へとエナジーを送る。夜を裂く光の翼が踵より展開、ぎりぎりのところで姿勢を制御したキリエスは、民家を避けて地に足を下ろすことに成功した。


 が、そこにラセツが切り込んだ。


 苛烈な踏み込みに地面が噴き上がる。もはや人間の体を借りる必要がないのだと否応なしに思い知らされる。伝説は蘇ったのだ――完全に実体を得るところまで。


 土煙を割って蛮刀が迫り、キリエスは危ういところで刃を合わせた。押し込まれる前に力を逃がす。途端、筋骨隆々たるラセツの体がぎゅるりと一回転して、片手での横薙ぎに変化した二の太刀が視界の外から跳ね飛んできた。


 屈んで前転。斬撃の直下を潜った。


 ――強い……!


 振り返ってラセツと睨み合いながら、キリエスは構えを取って隙を消す。変身前の体であれば汗の一つも流していたかもしれない。


 三ツ石の言い伝えに名を刻む悪鬼、ラセツ。里の人間では手に負えず、神様に出張ってもらわなければならなかった理由がよくわかる。堂々たる体軀から繰り出される蛮刀の一撃は山をも穿ち、鋼のごとき筋肉に鎧われた肉体は生半可な打撃を通すまい。


『ふん。その程度か』


 鬼が嗤う。


 直後、大地を揺るがす踏み込みからの突撃が来た。隙がなければ力で押し潰してやると言わんばかりの強引な攻めに、キリエスの反応が一歩遅れる。


『霊格はおぬしの方が高いようだが……我が名が千年の長きにわたって伝えられてきたこの地においては、我の力が上回るようだな!』


「グ、ウゥッ……!」


 キリエスの光剣に鍔はない。が、打ち合わせた得物の深いところで押し合う様は「鍔迫り合い」そのものであり、キリエスにとっては最も持ち込まれてはならなかった形でもある。


 鬼の剛腕にいっそうの力がこもり、銀の頸に死が宛がわれようとした。


 そのとき、眼下の坂道を駆け上がってくる人影があった。


「キリエスぅぅぅ――っ!」


 影は二つ。喉も裂けよと絶叫したのは楓山紅葉で、傍らには唯の姿もある。


 目を疑った。


 こんなところに紅葉を連れてくるなんて唯は何を考えているのか。戸惑いがよぎったとき、二人がまったく同時に叫んだ。


「引き打てえッ!」


「がんばれぇぇぇッ!」


 飾り羽根のごときキリエスの耳は、ふたつの言葉をたしかに捉えた。


 ドクン、と胸部の結晶体が大きく鼓動。絞り出されたエナジーが身体の紋様に沿って移動し、足へと流れ込む。


 右足に粘りを利かせたまま、左足で踏み切った。


 ただし――後方に。


『何ィっ!?』


 ラセツが勢い余ってつんのめる。


 キリエスは今度こそ前に出る。がら空きになった胴に狙いを定めて、すれ違いざまに光刃を振り抜いた。


『馬鹿、な……!』


 ずるり、と。


 ラセツの上半身が腰から滑り落ちた。


 真っ二つになった肉体が、地面に落ちるより先に夜色の霞へと変じる。断末魔の残響を置き土産として、霞は南西に描かれた稜線の彼方に去っていった。


 後で聞いた話だが、かつて巨石に手形を押した羅刹鬼は、南昌山(なんしょうざん)の方角へと逃げたらしい。


 伝説は蘇ったわけだ――そっくりそのまま。



     ◇ ◇ ◇



「――本っっ当に、ご迷惑をおかけしました!」


 駅裏のビジネスホテルのロビーで、紅葉は一同の前で頭を下げた。


 ここで言う「一同」とは唯と和泉、それと八重樫を合わせた三名を意味する。唯としては紅葉と八重樫を会わせるのは良くない気もしたのだが、紅葉はどうしても見送りに来ると譲らなかったし、八重樫には水くさいことを言うんじゃねえと笑い飛ばされて、結局断りきれず現在に至る。


「私のせいでとんでもないことに……」


「いやいや。妖怪に取り憑かれるなんて気をつけてどうにかなるこっちゃねえ。謝る必要はないさ、楓山さんにとっても災難だったんだから」


 それだけに、八重樫の性格は救いだった。快癒していない身でありながら、怪我の原因を作ってしまった紅葉に対しても、別段思うところはないらしい。この理解の早さというか、ある種の潔さはつくづく尊敬に値する。


「考えてみりゃ、おれも伝説の生き証人になれたわけだしな。これはこれで貴重な体験ってやつだろ、なあ桐島?」


 彼はそう言って、また大声を出さずに笑うのだ。


「――だそうだ、紅葉」


「はあ……ありがとうございます」


 紅葉は腑に落ちない様子だ。市内をあれだけ騒がせておきながらお咎めなしというのが釈然としないのだという。


 が、本人がどう感じようと、罪のないところに罰はない。


 八重樫が語ったとおり、紅葉とて超常の存在に翻弄された被害者なのだ。彼女は故意に鬼を頼ったわけでもなければ、自らの意思で通り魔を行っていたわけでもない。すべては超常の存在が引き起こしたことであり、そいつはキリエスによって裁かれた。事件は解決したのである。


「さあ、過ぎたことはいいから前を向け。来年のインターハイで優勝するんだろう?」


「そう……ですね」


「大丈夫だ。おまえが本当は強い子だということは、わたしがよく知っている。二度と羅刹を呼び込んだりはしないさ」


「っ……はい!」


 紅葉が顔を上げる、


「でも、時々はお話させてくださいね! 電話させていただきますから! なんならメッセージアプリの使い方もお教えしますし!」


「あー、うん、わかったわかった。電話でも何でもかけてこい」


 やった、と紅葉が飛び跳ねる。


 和泉と八重樫が噴き出すように笑う。唯は気恥ずかしさに唇を曲げるが、もとの溌剌とした調子を取り戻そうとしている紅葉にやめろと言う気にもなれなかった。


 ――まあ、いいか。


 あとで佐倉隊員にでもアプリの使い方を聞いておこうと思う。




 ところで。


 ハウンドに乗って盛岡を発つ直前、紅葉が和泉に歩み寄って何事か囁いたのを唯は目にしたのであるが――


 和泉によれば、それは「宣戦布告」だったらしい。


「お姉様の隣の椅子はしばらく預けておきます、いずれ奪い返しに行くので首を洗って待っててください、だそうですよ」


「……あいつめ……」


 もう何度目かもわからぬ溜め息が漏れた。


 ECOの戦力は将来にわたって安泰なのかもしれなかった。

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