鬼途(2)
結論を言えば、唯は正しかった。
盛南大橋を越えてタワーマンションの並ぶエリアを横目で見送ると、左手に盛岡駅を、右手に白塗りのトラス橋を臨む交差点に差しかかる。トラス橋――開運橋と命名されているらしい――を渡ったハウンドは、ややあって正面にアーケードの商店街を迎えた。
赤信号に捕まって停止したハウンドの車中で、唯が言った。
「この先が大通・菜園。いわゆる繁華街、あるいは歓楽街だな」
「じゃあ、ここが街の中心なわけですか」
「ここというよりは、ここを含めた一帯、と言ったほうが正確だろうな。駅はさっき見たとおりの場所だし、官庁街はさらに向こうだから」
「はあ……ところで桐島隊員、繁華街の名前、もう一度いいですか?」
「? 大通だが?」
聞き間違いかと思ったが、やはりそうではなかったらしい。
和泉は商店街の入口をまじまじと見つめる。
たしかに信号機の真上に「大通三丁目」という表示が掲げられているし、現に多くの人が出入りしていることからして、実際賑わってもいるようだ。唯にからかわれているわけではない、それはわかる。わかるが――
「一車線、しかも一方通行じゃないですか」
両脇をアーケードに固められた道路は、ただでさえ狭いうえに駐車スペースと自転車レーンのおかげで尚のこと窮屈に見える。
「だから言ってるじゃないか、市街には古くからある道が多いって。大通って名前の由来はわたしも知らないが、たぶんあくまでも商業の中心って意味だろう」
「交通の軸ってわけじゃない、と?」
「歩いて回るぶんには逆にいいぞ。向かい側にどういう店があるのか分かるし、気になったらすぐ渡れるからな」
信号が青に変わる。
唯はハンドルを左方向に回転させた。さっきから出していたウインカーに従ってハウンドが左折し、ビルの間を抜けてビジネス街に出る。片側二車線。言うまでもなく、先程の「大通」よりもずっと幅が広い。
「中央通りだ。交通網という意味では、メインストリートはこっちだな。この道をまっすぐ進むと官庁街に行ける」
「じゃあ、そのなかに警察署があるわけですね」
「そういうことだ」
ハウンドはそのまま「中央通り」を直進して、やがて突き当たりに辿り着いた。目の前に市役所。その隣にそびえるのが、目的地である警察署だった。
署内を歩く間、警官とすれ違うたびに会釈を交わした。
もちろん和泉も頭を下げたが、視線を集めていたのは明らかに唯だ。何度か声をかけられさえした。どの者も親近感、あるいは敬意のこもった眼差しを唯に送っていたことから察するに、彼女の前職での活躍ぶりは相当なものだったのだろう。
――まあ、そうでなきゃ隊長の目に留まらないよな。
傍らで感心混じりの納得を覚えながら、和泉は唯の後ろについて、ちょうど開け放たれていた刑事課の扉を潜った。
途端、がっしりとした体つきの男がこちらに気づいて近寄ってきた。
「おお、桐島! しばらくぶりだな。元気そうじゃないか」
「先輩もお変わりなく」
すると、この壮年の男が情報提供者の八重樫剛というわけだ。
手土産の袋――サービスエリアでまんじゅうの箱を買っていた――を八重樫に渡した唯が、彼のくたびれたスーツを一瞥した。正確にはその奥に隠された、おそらくはバストバンドで固定されているであろう彼の胴を。
「その様子だと、怪我は重くないようですね」
八重樫は大声を出さずに笑った。
「肋骨の一本や二本で寝込むほどヤワじゃねえさ。痛むことは痛むから現場で捕り物するのは無理だが、書類仕事くらいならこなせる。――ところで桐島、」
物珍しげな視線が和泉を捉える、
「そっちの若いのは、もしやおまえの後輩か?」
和泉はぺこりと頭を下げ、右手を差し出して、
「ECO日本支部、SSSCの和泉眞と申します。桐島隊員の補佐をやりつつ、捜査のいろはを勉強させてもらってます」
ほおお、と八重樫は目を瞠る。
「桐島に教えた身としちゃあ感慨深いもんがあるな。――岩手県警、刑事一課の八重樫剛だ。よろしくな」
気安い調子で名乗った八重樫が、しっかりと手を握り返してくる。
シャツの袖から覗く逞しい腕。さすがに刑事と言うべきか、日頃からよく鍛えていることが窺えた。
この八重樫ですら、キメンジャには敵わなかったのだ。
そう意識すると、なぜ唯と自分の二人が送り出されたのか改めて理解できる。いつものペアという見方もできなくはないが、今回に関しては別の事情も汲まれているはずだ。
各々がまったく異なる分野のエキスパートであるSSSCのメンバーのうち、対異生体白兵戦術の資格を有しているのは二人。それが唯と自分なのだ。
「では先輩。捜査状況について窺いたいのですが、担当刑事はどちらに?」
唯が本題を切り出すと、八重樫は鷹揚に頷いて、
「何時間か前、おまえらんとこの隊長さんからウチの本部に連絡が入ったみたいでな。上から協力するように言われてんだ」
「え。先輩が担当なんですか? 怪我人でしょう」
「まあそうなんだが。ただなあ……担当もなにも、連続傷害だと認定したときにはもう、おまえらに引き継ぐって決まっちまってたから、結局おれが一番事情通なのよ。個別の事件では地域課のやつらが動いたのもあるしな」
「……なるほど」
和泉がついていけずにいると、唯が「先輩は刑事課に転属する前、地域課にいたんだ」と説明してくれた。どうやらかつての唯も地域課勤務だったようで、八重樫から薫陶を受けたというのはその頃のことであるらしい。
別室にでも移動するのかと思ったが、八重樫は窓の外へと視線を投げた。
「ちと早いが、飯でも食いながらにしようぜ」
季節は秋。北国の夕方の空は暗い。
「例の店でいいよな?」
「大通のですね」
相変わらずだなと言わんばかりに口元を緩めて、唯は快諾した。
が、直後、その唇が「あ」の形に固まる。
「――そうだ。先輩、食事の前にもう一つ用事を片付けておきたいので、あとでまた落ち合いましょう。二〇時で大丈夫ですか?」
八重樫は眉を小刻みに上下させた。
「構わねえよ。あれだろ、二世と会ってくるんだろ?」
「ええ」
和泉はまたしても頭の上に疑問符を浮かべる。
――二世?
八重樫と一旦別れ、警察署を出た。
再びハウンドに乗る前、唯が自身のスマートフォンで何処かへと電話をかけていた。そうだろうと思ってはいたが、案の定「もう一つの用事」とは土壇場での思いつきだったようだ。
「アポ取れました?」
「ああ」
中央通りを逆方面に向かって走る。交差点を折れて拡幅工事中の区間を通り過ぎ、大学前の通りを抜けて国道を横切る。山に食い入ってゆくようにして坂道を登ると、少しも行かないうちにレトロな佇まいの郵便局が見える。そこを目印に角を曲がれば、大きな池を中心として整備された公園に辿り着く。
言葉にするとずいぶん走ったように思えるが、実際にかかった時間はせいぜい十分と少しだ。
都市と自然との距離が近いんだな、と和泉は地図を眺めながらおぼろげに察する。ただでさえ面積の小さい平地が三本もの河川によって分割されている――そういう地形の為せる業なのだろう。
ハウンドは公園の駐車場に停まった。運転席から唯が降りるのに続いて、和泉も助手席を立つ。
まわりは住宅街のようだ。
それだけに、池のほとりに建つ学園の校舎は目立った。
「高校、ですか」
「私立聖陵女子高等学校。わたしの母校だ」
へえ、と思ったのも束の間、和泉はふと、
「――じゃあ、俺はここで待ってるほうがいいですね」
「うん? どうしてだ?」
「どうもこうも……女子校なんでしょう?」
唯がきょとんとした表情を浮かべる。一拍の間をおいて和泉の言う意味を理解した唯は、はあっ、とこれ見よがしに溜め息をついて、
「あのな、たしかによく勘違いされるんだが、女子校だからって全面的に男子禁制ってわけじゃないぞ。男の職員だってちゃんといる」
そうなのか。知らなかった。
「だったらついて行っても大丈夫ですね」
和泉はあっさりと発言を撤回する。
ところがその瞬間、気のせいか、唯の表情が「しまった」といった具合に引きつったように見えた。
「――? どうしました?」
「あ……いや、その……べつに無理に来いとは言わんぞ」
「えっ? いやいや行きますよ。ただ待ってたって仕方ないし」
「そ、そうか。そうだな……」
やはりどこか様子がおかしい。
和泉は眉をひそめ、ひとまず話題を切り替えようとして、
「ところで、高校にどういう用事があるんです?」
さっきから気になっていたことを尋ねた。
――二世と会ってくるんだろ?
警察署での八重樫とのやりとりが思い出される。
二世、とは何を意味するのだろうか。
流れから言って一世は唯以外にあり得ないのだが、どう考えても彼女は高校生の子供がいるような年齢ではあるまい。だいいち、唯に旦那や子供がいるなどという話を、和泉は一度として聞いたことがなかった。
話題の転換が功を奏したらしい。唯は落ち着きを取り戻して、
「ここのなぎなた部に有望な後輩がいてな」
和泉の思考を知ってか知らずか、そのように説明した。
「武道や格闘技の経験者が被害に遭っているなら、巻き込まれるかもしれない。キメンジャの噂について探りを入れがてら、注意を促しておきたいんだ」
――なるほど。そういう「二世」か。
それであれば話はわかる。要はマラドーナ二世とかネクスト・ジョーダンみたいなもので、かつてのスターを思わせる才能豊かな新鋭に贈られる称号、ということだろう。
改めて、この地での唯の勇名が窺い知れる。
「何と言うか、さすがですね。一世がすごくなきゃその後輩の子だって二世とは呼ばれてないでしょう」
「……その呼び方なんだがな」
唯の表情が曇る。
「本人の前では避けてやってくれ。ちょっと……難しい時期だから」
ゆるい坂を上がって、校門へと近づいてゆく。
武道場の扉を開けると、稽古中の女子たちの掛け声が出迎えてくれた。
防具に身を包んだ生徒が五人、型稽古に励んでいる。その傍ら、彼女たちを見守る位置に立っているのが、聖陵女子高校なぎなた部の顧問、杉戸ゆかり教諭であるとのことだった。
唯と和泉の姿を認めるなり、杉戸が号令をかけた。
「――全員、稽古やめ!」
虚空に打ち込まれるなぎなたが、一斉にぴたりと動きを止める。
唯と和泉が武道場の奥までやって来るのを待ってから、杉戸は居並ぶ生徒たちを見回した。
「最近市内で起きている通り魔事件のことは皆も知っていますね?」
五人の少女がめいめいに頷く。
和泉はそのうちの一人に目を留める。できるだけ気にしないように振る舞いたかったのだが、楓山というらしい――垂にそう書いてある――その少女は、一人だけ面を外しておらずどうしても目立った。
「今日はその件で、ECOの方がお話に来ています。……えー、つまりですね、今日の桐島さんはOGとしてではなく仕事として来ているわけですしご同僚の方だっていらっしゃるわけです。楓山さん面を取りなさい失礼でしょう」
「イヤですうっ!!」
わんわんと響くような大声、
「私、お姉様に合わせる顔がないんですっ!!」
――お姉様?
状況からして、該当者は一人しかいない。
和泉は唯へと視線を滑らせた。
唯は俯いていた。顔面を掌で覆って何やらぶつぶつとボヤいている。口元が「やっぱり連れてくるんじゃなかった」と動いているように見えて、あれはもしかしなくても自分のことを言っているんだろうなと和泉は思う。
「……あー、先生?」
咳払い。唯が顔を上げる、
「わたしたちは気にしないので、ひとまず話を進めさせてください。――和泉も、構わないな?」
声音こそ徹頭徹尾なごやかだったが、和泉に向けられた切れ長の目が「何も訊くな」と語っていた。圧力がすごい。
「……ええ、まあ……」
「よし」
唯は深く頷くと、立ち位置を譲った杉戸に代わって生徒たちの前に進み出る。一本結いにした後ろ髪が揺れて、意外なほど細いうなじが覗いた。和泉の網膜に焼きつく、朱く色づいた肌。
唯が語ったのは通り一遍の注意喚起と、情報提供の要請だ。わたしたちECOが通り魔事件の捜査に入ることになった。これは犯人が人間ではないかもしれないということで、いつどこに現れるか現段階では予測できない。できるだけ外で一人にならないよう心がけてほしいし、もし何か知っていることや気になることがあったらECOの窓口に通報してほしい。
いやに事務的な口調だった。
普段の唯なら、もっと穏やかな声音で話すはずだった。
唐突な気まずさに襲われて、和泉は唯の背中から目を逸らす。行き場を求めて彷徨った目線が、壁にかかった額縁と、そこに収まった写真を捉えた。
写っているのは唯だ。ここに在学していた頃なのだろう、道着と防具を身につけた姿で、トロフィーを持って笑顔を浮かべている。
なるほど。自分が彼女の立場だったら、たしかに仕事仲間にはあまり見られたくない場所かもしれない。
――けど……。
正直なところ、来て正解だったというのが和泉の本音だ。
なぎなた部の生徒たちは、いずれも唯をまっすぐに見つめ、彼女の話に聞き入っている。その眼差しに、多くの人々が見せてきたようなECO隊員への忌避感は微塵もない。
唯の後輩でよかったと、つくづく思う。
――それにしても。
面を被ったままの「楓山」が、否応にも目を引いた。
唯に合わせる顔がないと叫んでいた少女がいったい何をやらかしたのか、和泉は今、とてつもなく気になって仕方ない。
もとより大きな期待はしていなかったが、なぎなた部の生徒たちから寄せられた情報は案の定、どれもネットを漂う噂のレベルに留まった。
曰く、強者を求める武人の亡霊の仕業だ、とか。
宇宙人が伝承を隠れ蓑にしているに違いない、とか。
伝説の悪鬼「羅刹」が蘇ったのだ、とか。
そういえば出発前、佐倉隊員が「SNSの都市伝説クラスタがお祭り状態になっている」と言っていた。生徒たちの話の出所も、おそらくは元を辿ればそういう界隈に行き着くのだろう。
壁際に佇む和泉の視線の先では、話を聞かせてもらった対価のつもりか、唯が四人の女子生徒に対して指導を施している。後輩たちと接しているうちに平常心を取り戻したのだろう、表情が柔らかい。
やがてひと区切りついたのか、唯は各々に言葉をかけて輪から離れた。杉戸教諭に頭を下げると、手持ち無沙汰にしていた和泉のところへと歩み寄ってくる。
「さて、そろそろ行くぞ。渋滞に捕まってはかなわん」
壁の時計が十九時を指していた。
八重樫刑事との約束は二十時だ。まさか一時間もあって遅れることはあるまいとも思うのだが、橋よりこちら側の市街に隘路が多いことは見てきたとおりの事実で、退勤ラッシュに巻き込まれるおそれがないとは言い切れない。
ただ、和泉にはどうしても放っておけないことがあった。
「桐島隊員」
「なんだ?」
「楓山さん……でしたっけ。あの子に声をかけなくていいんですか?」
唯が今の今まで教えていた生徒の数は四人。
いつの間にか、あの「楓山」という生徒がいなくなっているのだ。
そういえば、自分たちがキメンジャについての都市伝説を蒐集していた頃にはもう、彼女の姿はなかった気がする。そのときはトイレにでも行ったのかと深く気に留めなかったが、今に至るまで帰ってこないというのは流石におかしい。
――私、お姉様に合わせる顔がないんですっ!!
楓山が全員の前で言い放ったセリフからすると、デリケートな事情があるのかもしれない。
もっとも――それにしては、当の「お姉様」の態度がやけに淡泊なのだが。
「もちろん会っていくとも」
「だったら……」
「武道場で待っていたって、あの子は戻ってこないだろうさ。なんでも、わたしに『合わせる顔がない』ようだからな」
つまり、こっちから捜しに行くということか。
「あの子、どう言ったらいいのか……けっこう思い詰めてそうな感じでしたけど。何かやっちゃったんですか、桐島隊員に?」
「ぜんぜん覚えがないな」
「でも現に『合わせる顔がない』って」
「まあ、そうなんだが……」
やれやれ、と言わんばかりの溜め息。
「何かをしたんじゃなくて、何もしてないからという理屈なんだろう」
「理由の心当たり自体はあるんですね」
「一応な。わたしは気にしてないっていうのに、思い込みの激しいやつだよ」
唯は小さく肩をすくめ、武道場の出入口に向かって歩き出した。こうなると、和泉はもうついていくことしかできない。杉戸教諭と四人の生徒に会釈して、唯の後に続く。
「ところで、心当たりがあるのは楓山さんの行き先もですか? あてもなく捜し回ってたら八重樫さんとの約束に遅れかねませんけど」
「大丈夫だ。それについてもアテがある」
唯は振り返りもせず、武道場を出るなり道を外れた。
武道場のすぐ隣には体育館がある。が、武道場の出入口は私道に面した一つのみなので、施設どうしが通路で繋がっているということはない。
というわけで、そのスペースには体育館の裏口がぽつんと存在するだけだ。学校そのものが坂の半ばに建てられているからだろう、裏口の扉は高い位置にあり、地面と扉との間をセメント造りの小さな階段が結んでいる。
その階段が視界に入ったとき、和泉は唯が正しかったことを知った。
体育館の閉じた扉の前、階段の踊り場にあたる場所に、道着姿の女の子が独りで座り込んでいたのだ。
「――紅葉」
唯の呼びかけに、少女はびくりと肩をふるわせた。
無理もない。
あれだけ頑なに脱ぐことを拒んでいた頭の防具を、彼女はまさに今、唯の目の前で外してしまっているのだから。
「お、お姉様!? どうしてここが……」
「わたしはOGだぞ。この時間、この場所に誰も来ないことくらい知ってるさ。わけありの奴がよく溜まり場として使ってることもな」
懐かしそうに目を細めながら、唯は階段の下に立つ。
楓山が背にする体育館からは、練習中の運動部員の声や、床に落ちるボールの音が絶えず漏れ聞こえてきている。
が、なにせこちら側は裏口である。普段は使用されていないのだろう、扉は閉め切られており、下を塞がれた楓山にはもう逃げ場がない。
「せっかく帰ってきてみたら、かわいい後輩はわたしに会いたくないと言う。紅葉はわたしのことが嫌いになったのか?」
――うわ。
唯があえて意地の悪い言葉選びをする様子を、和泉はいかにも珍しいと感じながら見守る。
学校に足を踏み入れてからというもの、基地での唯からは想像のつかない姿をやたらと目にしている気がする。
「そ、そんな、まさか! 滅相もありませんっ!」
ひとたまりもなかった。
楓山はかわいそうなほどに慌てふためいて、
「お姉様は私の憧れです! 嫌いになるなんてあり得ないことです!」
「しかし、さっきは顔も見せてくれなかったじゃないか」
「い、いえ、ですからそれは――」
「つれないぞ。わたしは悲しい」
「うううう……」
がっくりとうなだれる楓山。そんなに長いやりとりではなかったのに、もはや二人の力関係は部外者である和泉の目にも明らかだ。
すると、唯がふっと表情を緩めた。
そろそろ勘弁してやるか、という声が聞こえてくるかのようだった。
「おまえが気にしているのは、夏の大会のことだろう?」
「……はい。期待してくださっていたのは分かっていたのに、私、出場することすらできませんでしたから」
和泉が事情を察せずにいると、唯が振り返って簡単に説明してくれた。
要するに、この楓山紅葉という少女こそが、八重樫刑事の口にしていた期待の新星なのだ。
高い身長と確かな技巧を併せ持つ唯に対して、小柄ながらもパワフルな打ち込みを得意とする楓山。戦い方は正反対だが、それにもかかわらず楓山が「桐島唯の再来」と囁かれるのは、ひとえに才能の絶対量において比べ物になるのが唯くらいしかいないためらしい。
その唯はかつて全国を獲った。楓山に栄光の再演が望まれるのも、無理からぬことだと言っていい。
ところが、注目を集めながら大会に乗り込もうとした矢先、彼女は重い夏風邪に罹ってしまい欠場を余儀なくされた――というのが、事の顚末なのだそうだ。
「なるほど、そういうことか。なぎなたの団体戦って五人ですもんね。ギリギリの人数なんですね、ここ」
「まあ、ギリギリだからこそ、団体戦は初めから申し込んでいなかったはずだがな。うちは昔からやる気のある奴だけが個人戦に出るスタイルだった。例外はわたしが卒業したあと二年か三年の間くらいの、部員が多かった時代だけだ」
そして唯は、しょげ込む楓山に向き直る。
「なあ紅葉。まわりの期待を背負うってことが難しいのは、わたしにもわかる」
「……っ!」
楓山が顔を上げた。
「――でもな、大会に出られなかったことで、誰かおまえを責めたか?」
「いいえ、面と向かっては……ですけどそれは、」
「内心がっかりさせた、と思うか? だったら切り替えて来年頑張ればいい。わたしが勝ったのだって三年生のときだぞ」
それにだ、と唯はつけ加える。
「おまえがわたしに、その……憧れてくれるのは嬉しいが、おまえ自身がそこに縛られるのはよくない」
「でも、私はお姉様みたいになりたくて――」
「それは紅葉の気持ちなんだろう? だったら『自分は自分のやりたいようにやる、まわりが同じ気持ちかどうかなんて関係ない』って構えておかなきゃ損だ」
和泉の脳裏に、ハウンドの車内で聞きかじった唯の昔話が蘇った。
――みんな学生が頑張るところを見るのが好きなのさ。
いま楓山が感じている重圧は、学生だった頃の唯を振り回したのと同質のものなのだろう。それだけに唯の台詞は重い。
「みんな紅葉の才能に惚れてるんだ。ちょっと一回ダメだったからって見損なったりはしない。惚れた弱みがあるからな」
楓山はしばらく押し黙った。
たっぷり十秒を使って唯の言葉を受け止めた後、彼女はぽつりと、
「……お姉様もですか?」
「もちろん、わたしもに決まっている」
秋の北東北の十九時は暗い。空にはすっかり月が昇っていて、あたりを照らすのは体育館と武道場の窓から漏れる光だけだ。
互いの姿がわかる程度の薄闇の中で、楓山がふらりと腰を浮かせる。
「――お、」
ツリ目がちの双眸に、みるみるうちに涙が盛り上がった。
「お゛姉゛様゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
体育館内の運動部員たちも、武道場にいる杉戸教諭やなぎなた部の女子たちも、ひょっとしたら何事かと思ったかもしれない。
ほとんど体当たりに近い勢いで、楓山が唯の胸へと飛び込んだ。
ふうっ、と笑い混じりの息をついて唯は夜空を仰ぎ、楓山の小さな背中をぽんぽんと叩く。涙と鼻水でECOの制服を濡らされてもなお、唯は自らの後継者を優しく抱きしめ続けていた。