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鬼途(1)

挿絵(By みてみん)



 実を言えば、八重樫(やえがし)(つよし)が警官を志したことに立派な理由は特にない。


 中学生の頃に初めて剣道に触れ、以来ずっと竹刀を握ってきた。これからも腕を磨き続けたいと考えたとき、警察で働くという道が、他のどんな進路よりもすんなりと自分の前に立ち現れた。ただそれだけのことだった。


 そんな八重樫も、もう三十二歳になる。


 現状これといって体力の衰えは感じていないが、まわりの話を聞いていると、自分もそう遠くないうちに下り坂へ差しかかるのだろうと思わされた。


 今年に入ってから早朝の走り込みを日課と定めたのも、そのような焦りがあってのことだ。


 ――そろそろ一息入れるか。


 八重樫は無人のベンチの横で足を止めた。


 首に回していたタオルを取る。汗を拭い、今度は腰のポーチから水筒を引っ張り出した。中身は水道水だ。一気に喉へと流し込む。


「……ん?」


 再び走り出そうと前を向いた瞬間、八重樫はあることに気づいて眉をひそめた。


 朝霧の向こうで、人の影が揺れている。


 ――珍しいな。


 川は街の都心部を横切るように流れている。川岸に整備された遊歩道も当然、相応に往来はある。


 が、それはあくまでも日中ならの話だ。


 もう少し空が明るんでからであればジョギングや犬の散歩に勤しむ市民の姿も見られるだろうが、流石にこの時間に誰かと行き会ったことは、八重樫の記憶する限りでは一度もない。


 さてはお仲間が増えたか。


 八重樫はそう考えて、霧の中へと挨拶を投げた。


「おはようございます! ウォーキングですか? お互い朝っぱらから精が出ますな――」


 返答の代わりに、からん、と乾いた音。


 白い靄の中から、何やら細長いものが転がり出てきた。それは地面を転がって、八重樫の靴に当たって止まった。


 八重樫は、その物体をよく知っていた。


「竹刀……?」


 何となしに拾い上げる。


 その途端、初めて人影が声を発した。


「構えろ」


 男とも女とも判断のつかない、ひどく嗄れた声だった。


「おぬしが腕に覚えのある者ならば――」


 気づけば、あたりの霧はいつの間にか晴れつつあった。白いヴェールが薄れるにつれて、影しか見えなかった声の主の姿があらわになってゆく。


 赤いレインコートに身を包んだ小柄な人間。だがその顔を目の当たりにした瞬間、八重樫は絶句した。


 ()()()()()


 まっすぐこちらを睨み据える不動の眼、大きく裂けた口。そして何よりも目立つ、耳の上から伸びる二本の角。


 八重樫の行く手に立ち塞がるその人物は、木彫りの鬼の面を被っていたのだ。


「な……何なんだ、あんた」


 鬼面の怪人は答えない。


 レインコートの背中には竹刀がもう一本、古めかしい紐で雑に括りつけられている。怪人が手を伸ばして力を込めると、ぶち、と音を立てて紐がちぎれ、風に乗って川のほうへと流れていった。


 怪人が、竹刀を正眼に握った。


「――我と、闘え」


 鬼の面に彫られた眼が妖しげに光る。


 次の瞬間、怪人が有無を言わせぬ速さで踏み込んできた。



     ◇ ◇ ◇



「――この一件を皮切りに、同様の事件が立て続けに起こっているそうです」


 ECO日本支部、関東総合基地コマンドルーム。ブリーフィングスペースのモニターに資料を表示させて、桐島(きりしま)(ゆい)は事件の情報をそのようにまとめた。


「剣道、柔道、空手、ボクシング……被害者はいずれも武道や格闘技の経験者です。どのケースでも、自分の最も得意とする形で決闘を挑まれ、怪我を負わされてるということでした」


 昨日の夜、唯のもとには一本の電話が入っていた。


 電話の主は八重樫剛。唯にとっては警官時代の先輩にあたる。気さくで老若男女に慕われる好人物だが、その八重樫から、故郷の街で連続通り魔事件が発生していると相談があったのだ。


 ――不覚にも肋骨をやられちまった。


 ――もっとも、万全の状態なら捕まえられたのかって訊かれたら、それもそれで自信がないんだよな。


 ――あの逃げ足は、ちょっと人間業とは思えなかった。


 八重樫はそう言って、ECOに協力を求めてきたのだった。


「わたしたちが介入するべき案件だと考えます」


「現職の警察官か。信用できる筋だな」


 顔を並べた仲間たちの中で、ひときわ体格に恵まれた男性隊員――山吹(やまぶき)(りょう)がいち早く同意を示した。


 ただしこの発言は、いかにも彼らしい着眼点から出されたものでもある。険のとれたような態度を見せることの多くなった山吹だが、目撃者のステータスを信憑性の根拠に置きたがる癖は未だ抜けない。


「エイリアンの仕業って感じでもないですけど……得体の知れない相手には違いないんだし、俺も動くべきだと思います。捕まえてみて人間だったら警察に引き渡せばいいわけですし」


 と、反対側の席に座る青年――和泉(いずみ)(しん)隊員も後を押す。


 ずいぶん関係が和らいだものだった。唯は山吹と和泉を交互に見やり、束の間、感慨に耽った。


 彼らが水と油であると見抜けなかったことに、唯はこの半年、たびたび頭を痛めさせられてきた。最終的に和泉を採ると決めたのは隊長だが、推薦したのは自分だ。二人がブリーフィングや訓練で小競り合いを演じるたびに割って入るようにしてきたのは、言い出しっぺとしての責任感からでもある。


 ところが最近、状況が微妙に変わった。


 議論をするにせよ組手をやるにせよ、二人が以前ほどヒートアップしなくなったのだ。


 どんな心境の変化があったのであれ、喜ばしいことには違いない――もっとも今回に関しては、そもそも意見が一致していて揉める要素がないからだろうが。


「ん~」


 その和泉の隣から、場違いに可愛らしいハミング。


「SNSをざっと浚った感じ、たしかに都市伝説界隈がお祭り状態になってるよ。『人妖(じんよう)キメンジャ』だって。鬼面はわかるけどジャってどっからきたのかな?」


 タブレット片手に小さく唇を尖らせるのは、佐倉(さくら)ほのか隊員だ。高校生で通りそうなほど幼い容貌の乙女だが、もちろん立派に成人している。


 ちょうど今がそうであるように、佐倉ほのかは会議中だろうとお構いなしにデバイスを弄ることがある。彼女が入ってきた当初は唯も面食らったものだったが、本人曰く「気になったらすぐ調べるほうが能率いいでしょ?」ということらしい。こうした正論をそのまま許容するのは、SSSCという部隊の文化だ。


「方言に『じゃ』の響きが多いと聞いたことがあるから、そこからじゃないかね。あるいは普通に『者』かもしれんけど」


 ほのかの疑問に反応したのは、学者然とした風貌の男――周防(すおう)昌毅(まさき)副長。学者然もなにも事実として前職は研究者なのだが、どうしてか胡散臭い印象を拭えないというのが唯の偽らざる本音だ。これ見よがしにかけた伊達メガネのせいかもしれない。


 その伊達メガネのフレームを指でくいっと上げながら、周防は興味深そうに身を乗り出した。


「まあ名前はさておき、盛岡で鬼というのは穏やかじゃないね」


「どういうことです?」


 和泉が首を捻る。


「盛岡は岩手の県都だろう? あそこには『不来方(こずかた)』という旧称があってね、たしか『鬼が二度と来ない方角』みたいな意味だったはずなんだが……桐島くん、合ってるかな?」


「ええ、間違いありません」


 唯は首肯して和泉に向き直り、


「昔、人里を荒らし回っていた鬼を神様が捕らえ、二度と里に踏み入らないことを約束させた。その約束の証として、鬼は岩に手形を刻んだ――という話が、岩手という県名の由来だと伝えられているんだ」


「じゃあ、怪人が鬼に扮しているのは……」


「正体が何であれ、伝説を意識してのことだと思う」


 鬼の実在を信じる市民は多くない。


 しかし、ECO隊員として数々の怪事件に関わってきた唯は、所詮単なる作り話であろうと断じる気にはなれなかった。


 そのとき、咳払いが聞こえた。


「――調査を行うことに異論のある者はいないな?」


 空気が瞬時に引き締まる。唯を含めてバリエーション豊かな人材の揃う場にあって、ひときわ大きな存在感を放つこの壮年の男こそ、SSSCを取り纏める指揮官、藤代(ふじしろ)啓吾(けいご)隊長である。


「よし。では決定だな」


 これ以上議論を重ねる必要はないと、全員の顔が語っていた。


「桐島・和泉両隊員は〈ハウンド〉で盛岡に移動。現地入りした後は、土地勘のある桐島隊員が調査を主導するように。岩手県警には私から正式に話を通しておく」


「了解です」


 コネクションを活かして自由に動け、という意味だと唯は解釈する。


「周防副長と佐倉隊員は情報の収集。山吹隊員は……レーベンを飛ばすことになるかは分からんが、念のためだ、スクランブルに備えて待機してくれ」


 めいめいが頷く。


「質問がなければ解散とするが……」


 そのとき、和泉が手を挙げた。


「調査が明日以降にも及びそうな場合は?」


「その場合……というより、そうなる可能性のほうが高いだろうな。私か周防に報告を入れて手近なホテルを取れ」


「わかりました」


「戻ってきたら経費精算を忘れるなよ」


 結局、他のメンバーから質問は出なかった。


 解散の号令を聞き届けると、唯は和泉を引き連れて、特捜車両〈ハウンド〉の待つ車庫へと向かった。




 関東総合基地の地下からはシークレットトンネルが伸びていて、全国各地の拠点へと移動できるようになっている。民間人は言うに及ばず、正規隊員であっても利用できる者の限られる道なので、その「限られた人間」にしてみれば、地上を走るよりも速く車を飛ばすことができる。


 あくまでも理論上は。


 なにしろシークレットトンネルは地下道である。景色ときたら実にいかめしいもので、コンクリートの壁面とオレンジに光る照明だけが延々と続く。こんなところを長時間走ったら眠くなって逆に危ないし、何よりつまらん――というのが唯の私見だ。


 そういうわけで現在、ハウンドはシークレットトンネル内ではなく、東北道を北に向かって突っ走っている。


「ハウンドにも自動運転機能があれば便利なんですけどね」


 四時間ほど走ったあたりで、ハンドルを握る和泉がぼやいた。盛岡南ICで高速を下りる予定だが、そこまではさらに三時間ほどを要する。


「そう言うな、ハッキングされたら目も当てられないんだから。――次のサービスエリアで昼にしよう。後の運転はわたしがやる」


「俺もまだ大丈夫ですよ?」


「いや、市内に入るからな。慣れてるわたしのほうがいい」


 戦時中に空襲の被害がさほどなかった関係で、盛岡の都心部には古い道路網があちこちに残されている。そもそもが入り組んでいるうえに、交通量に比して車線が足りないから、渋滞することは茶飯事だ。あまつさえ市民の多くが自転車での移動を好むものだから、車の肩身は尚のこと狭い。悪いことは言わない、地理を知ってる人間に任せるほうが賢明だぞ。


 唯がそのように説明すると、和泉はすっかり納得して、


「そういえば桐島隊員、岩手の出身だったんですね」


「ん? 知らなかったか?」


 唯としては特に隠しているつもりもなかったのだ。しかし、言われてみれば教えていなかったような気もする。訊かれなかったからだ。


「これでも一応、騒がれてた時期もあったんだがな」


「ああ、なぎなたの……動画サイトにインカレの決勝の映像ありましたよ。インハイも獲ってるんですよね、めちゃめちゃすごいじゃないですか」


「映像見たなら、わたしの母校が岩手だってことはわかっただろう?」


「地元まで岩手とは限らないかなと」


「なるほど、それはそうだ」


 窓の外、流れてゆく高速道路の標識を何となしに眺めながら、唯は過ぎ去った日々について思索を巡らせる。


 インカレを制したのは七年前、インターハイまで遡れば九年も前だ。いみじくも和泉の言葉が浮き彫りにしたように、あの頃の記録はネットを漂う動画の中くらいにしか残されていないかもしれない。


 とすると、親しい者以外で自分のことを覚えているのは同世代以上の大人、それも武道への関心が高い人種に限られるのだろう。たとえば警察関係者とか。


 そのこと自体はありがたい。


 スポットライトを浴びることが嫌いなわけではないが、当時の世間からの注目ぶりは、一介の学生に過ぎなかった自分にとっては手に余る名声でしかなかった。


「大学を中退したのが、君が動画で見た大会の少し後だな」


「中退……それで警察の採用試験を?」


「社会に出てしまえば周りも静かになるだろうと思ったんだ。実際だいぶましになったよ。要するに、みんな学生が頑張るところを見るのが好きなのさ」


 フロントガラスに目をやると、行く手にサービスエリアが見えてきていた。和泉が車線変更をかけ、速度を緩めはじめる。


 ――そう、学生だったのは昔の話だ。


 唯は助手席のドアに肘をかけ、左の頬に拳を埋める。


 たまの帰省に乗じて後輩に指導を施したりはするものの、自分でなぎなたを握る機会はめっきり減った。今更ECOの仕事を放り出して選手権に乗り込むつもりもない。事実上、競技者としての桐島唯は引退したようなものである。


 それでも、八重樫から受け取った情報によれば、通り魔は明らかに武道経験者に狙いを絞っているのだ。


 ――成り行き次第では、昔の自分を恃むことになるかもしれんな。


 ハウンドが停車するのと同時、唯はひそかに覚悟を決めた。



     ◇ ◇ ◇



 打ち合わせに従って、和泉はハンドルを唯に明け渡した。


 ナビの予測は概ね正確だったと言える。盛岡南ICへと差しかかったのは三時間と五分ほど走った後のことで、高速道路を下りたハウンドは国道四六号線に沿って市街地へと向かった。


 窓の外の景色が、一面の田んぼからロードサイド店舗の群れへと変わる。


 建物も新しければ道もかなり新しい。


 分離帯を挟んだ副道の脇、歩道に併設された自転車専用レーンの上で、スポーツウェアに身を包んだ男がロードバイクのペダルを漕いでいる様子が見える。


 ロードバイクを追い越してゆくハウンドの助手席に座りながら、和泉は聞いていた話との印象の違いに頭を捻った。


「なんだ、道路広いじゃないですか。もしかして桐島隊員、単に運転したかっただけなんじゃないですか?」


 普通に言ってくれれば代わったのに――和泉は軽く笑みをこぼす。


「わかってないな」


 唯は呆れたような反応、


「このあたりは最近になってから再開発された界隈なんだ。もともとの市街地が車に優しくないなんてことは市だって承知していたから、区画整理するとき道路もしっかり整備したんだよ」


「ああ……たしかに小綺麗というか、どっちかといえば郊外型の店が集まってますね。いかにも『自家用車で来てね』って感じの」


「ターミナル駅からアクセスできる新市街という位置づけではあるんだが……なんせ川で隔てられいるからな、郊外と言ってもそう的外れじゃない気はする。市の中心は今でも橋の向こうさ」


「川に、橋ですか」


「雫石川と盛南大橋(せいなんおおはし)。そこを越えたら駅前で、わたしたちの目的地はさらにもう一つ、北上川を越えた先にある警察署だ」


 ――盛南大橋。


 和泉はその固有名詞に引っかかりを覚えた。


 ブリーフィングの際、モニターに表示されていた資料の中に、そんな名前が記述されていたと記憶している。


「そういえば、二件目の事件ってその橋の高架下でしたよね?」


 果たして唯は、表情を変えずに肯定した。


「空手家が被害に遭ったやつだな」


 第一の事件があってから三日後の、二十三時を過ぎた頃のことだ。空手の指導員をしている男性が、橋のたもとを通りかかったとき、鬼の面を被ったレインコートの人物に襲撃された――という話だった。


「近隣は住宅地だ。開いてる店は通り沿いのコンビニくらいで、その明かりも現場からは少し離れてる。夜中じゃ目撃者がいなくても無理はない」


「住宅地なら、むしろ誰か出てきそうなもんでは?」


「あそこの高架下は除雪車が並んでたり、資材のフレコンが積まれてたりして、見通しがよくないんだ。窓からちょっと覗いた程度ではまず気付かん。よほど大声で騒げば別かもしれんが」


「そうですか……ううん」


 和泉はECOPADに目を落として唸る。


 ダウンロードした資料を読む限り、この連続傷害事件はいずれも人通りの薄れる時間帯を狙って起こされている。


「捜査、難航するかもしれませんね」


 しかし、唯はこれには同意しなかった。


「わたしはそうは思わん」


「何故です?」


「キメンジャが狙う相手はハッキリしている」


「武道や格闘技の熟練者ですか? ――あ」


 察しがついた。


 唯の横顔は相変わらず涼やかで、心の裡を読み取ることは難しい。


 それでも、彼女がどんな方法で捜査に臨もうとしているのかは、彼女自身の経歴を考えればあまりにも明白であった。


「囮作戦ですか」


「君から学ぶところもあるというわけだ。もっとも、わたしは一人で事にあたるほど無謀じゃないけどな」


 唯の口角が不敵に吊り上がる。


「囮役はわたし。敵が現れたら二人で挟み撃ちにして確保だ」


「了解です」


 大きな交差点に出た。左右の岐路に目もくれず、ハウンドは青く灯った信号機の下をまっすぐに潜り抜けてゆく。

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