鳥が来た(1)
暗い灰色の雲が連綿と空を覆っていた。
漆黒の機体色をもつレーベンは、夜間飛行においては極端に目立たない。新調した機体のコクピットで、山吹遼はひとりレーダーに視線を落とす。
二つの光点が空域を離脱してゆく。
F-15Jイーグル。
山吹にとっては懐かしい、航空自衛隊の所属機だ。
日本領空に近づく飛行物体を察知してスクランブルした彼らが、「相手は航空機ではない」と結論づけた。その結果、新しい相棒の調整を終えたばかりの山吹が発進する運びとなったのだった。
雲海に潜む謎の飛翔体は、三つめの光点として今もレーダーに記されている。
「コマンドルーム、こちら山吹。自衛隊機から状況の引き継ぎを完了した。これより目標に接近する」
山吹は機体を傾けて、キャノピーの向こうを睨み据えた。
雲の奥、巨大な影が透けて見える。
が、光量もなければ雲も分厚い。たしかに何かが飛んでいることはわかるが、その正体を見極めることができない。
山吹は念のため、対異文明用IFFを作動させた。空自が航空機でないと判断した以上、異星人の円盤ということはあるまい。しかし、自力で飛行できる知的生命体の可能性は未だ残されている。もしそうなら、素数の知識を応用して電波を返してくるはずだ。
だが、やはりと言うべきか、いくら待っても返答はなかった。
「――山吹だ。コマンドルーム、威嚇射撃をしていいか」
『はいはーい、コマンドルームよりブッキー隊員へ。たった今、藤代隊長から発砲許可出たよ』
ECOPADから場違いに脳天気な声が響いた。
いかにECOが通常の軍組織でないとはいえ、ここまで自由な振る舞いをするのは佐倉ほのかくらいのものだ。彼女が来たばかりの頃は辟易させられた山吹だが、最近では随分と慣れていた――諦めたとも言うが。
「……ブッキーはやめろ」
呼び方にだけは抗議しておく。
山吹はレーベンを加速させて雲中の飛翔体に追いすがると、機銃のトリガーに指をかけた。
突然、雲が激しく波打った。
灰色の海がうねり、大きなものがせり上がってくる。あまりにもサイズが非現実的すぎて、それが何であるかを認識するのに幾許かの間が必要だった。
翼だ。
巨大な鳥の翼がはばたいているのだ。
「――コマンドルーム!」
応答を待たずに捲し立てる。
「目標を視認した。怪獣だ。攻撃許可を!」
ECOPADの画面の中で、佐倉ほのかが即座に後方を振り返る。数秒のやりとりの後、彼女はこちらに向き直って親指を立てた。
『攻撃許可、出たよ!』
「了解。――二〇ミリ機関砲、発射!」
機首に備え付けられた四つの砲門、その内側の二門が猛回転する。タングステンのシャワーが敵影めがけて撒き散らされ、黒雲の隠れ蓑を引き裂いてゆく。
あらわになった鳥の姿に目を凝らしたとき、肌の粟立つような感覚が山吹の頭をかき乱した。
「あいつは……まさか!」
神経を集中し、ひとつひとつの特徴を執拗なまでに確かめてゆく。
全体のシルエットとしてはコンドルに近い。体長はこちらの倍を上回り、翼開長に至っては百メートルを下るまい。おそらく体色は濃いブラウンで、首のまわりを輪状に取り巻く白い体毛だけが、闇の中で際立って見える。
――間違いねえ。
自分は、この鳥を知っている。
一切の迷いなく、指がミサイルのトリガーにかかる。機銃やレーザーで殺しきれる敵ではないと、山吹の記憶が告げていた。
「短射程ミサイル、発――」
引き金を絞ろうとしたとき、怪鳥が金切り声をあげた。
首元の白いリングが光ったように思えた。
「――ちいっ!」
山吹が本能で操縦桿を倒した次の瞬間、あたりが二度、三度と閃光に包まれ、鋭い音が空域全体を揺るがした。
稲妻が迸ったのだ。
マヌーバを行うのが半秒遅かったら、レーベンごと雷に焼かれていたことだろう。
山吹が再び標的に目を戻したとき、視界には一面の雲しかなかった。すぐさまレーダーに目を移すが、雷のせいか機材の不備か、画面は沈黙していた。
雷鳴だけが唸り続けていた。
悪態とともにコンソールを殴りつけた山吹の唇が、地獄の底から響くかのような呻きを漏らす。
「来やがったな、首輪付き……!」
◇ ◇ ◇
「――山吹遼、ただいま帰投しました」
「ご苦労。災難だったな。整備班には私からもチェックを密にするよう要望しておこう」
「お願いします」
和泉眞の予想に反して、帰ってきた山吹にさほど不機嫌な様子はなかった。直情的な山吹のこと、愚痴の三つや四つは吐き散らすだろうと思っていたのだ。
ブリーフィングスペースの椅子にどっかりと腰を落とした山吹は、それきり神妙な顔つきで二つの眼だけをぎらつかせ、デスクの白い天板を見つめてしばらく黙りこくっていた。
そして、藤代隊長から報告を求められた瞬間、固く結んでいた口をおもむろに開き、
「隊長、敵はコルドラーです」
たった一言で、部屋じゅうに静寂を呼び込んだ。
「確かか?」
「この目で確認しました。映像も撮ってますから、解析に回してもらえればハッキリするでしょう」
山吹は制服のポケットからUSBを取り出すと、腕を伸ばしてデスクの中央に置いた。彼の言葉のとおりなら、レーベンのカメラで撮影した映像データが収められているのだろう。
「ふむ……佐倉隊員、頼めるか?」
「夜更かしは乙女の敵なんですけどねー……でもまあ、一大事かもしんないですからね」
藤代の面持ちに峻厳な色が差し、佐倉ほのかが身を乗り出してUSBを手繰り寄せる。二人だけではない。周防副長はメガネのブリッジに指を当てながら何やら考えごとを始め、桐島隊員も表情を硬くしている。
コルドラー。
山吹が口にしたコードネームは、それだけの重みを有しているのだ。
「改めて説明するまでもないとは思うが――」
藤代が一同を見回す。
「四年前、ECOはコルドラーの駆除に失敗している。そのときの初動の遅れに対する反省から結成された部隊が、我々SSSCだ」
日本支部の隊員なら誰でも知っている話だった。和泉もアカデミーの教本で読んだことがある。それでなくとも当時はテレビや新聞でも大々的に取り上げられていたから、覚えている者が数多くいるに違いなかった。
「奴が現れたというなら、今度こそ我々は勝たねばならん。私はこの件について司令と協議する。佐倉隊員は映像の解析、他の者は別命あるまで基地内で待機するように。――周防、もし私が戻るまでに事態が動いたら知らせてくれ」
「了解!」
ほどなくして、基地は緊急警戒態勢に入った。
和泉は制服の上からタクティカルベストを着込み、ヘルメットを引っ掴んで格納庫に向かおうとする。山吹の機体がメンテナンス中である今、敵が再び現れたら出撃するのは自分だ。
コルドラーについて尋ねようと山吹を捜した和泉の目が、自動扉の向こうに去ろうとする背中を捉えた。
「……?」
様子がおかしかった。
かつて討てなかった怪獣が今度の相手であることの意味は、自分も含めて全員が重く受け止めている。しかし、山吹から漂う物々しい空気は、他のメンバーの緊張とはどこか性格を異にするものだ。
「山吹隊員!」
漠然とした違和感に突き動かされて、和泉は後を追おうとした。
だが、和泉が扉を潜ったときには既に遅く、山吹の姿は通路の曲がり角の先へと消えていた。
「――山吹隊員、ここにいたんですか」
食堂と仮眠室と資料室を遍路して悉く空振り、レーベンの格納庫を訪れてやっと山吹を発見した。
整備士が三人がかりで点検を行っている漆黒の機体。山吹はそのコクピットに収まって、先のフライトで不調をきたしたというレーダーを弄り回している。
「手伝いましょうか?」
「いらねえよ。直ったからな」
ぶっきらぼうな物言いはいつものことだ。手元を覗き込んでみると、たしかにレーダーは正常に動いていた。
「修理できるんですね」
「なわけあるか。もともと故障したわけじゃなく、磁場で一時的に麻痺してただけなんだとよ」
電装系の防護を強化せにゃならん、と山吹はぼやく。
「コルドラーを倒すために、ですよね?」
「そうだ」
「どんな相手なのか教えてくれませんか。もし今コルドラーが来たら、迎撃に出るのは俺でしょう」
和泉がそう口にした途端、山吹の表情が変わった。初めて和泉を向いた眼光は険しく、底冷えするほどの威圧感を放っている。
「話を聞いてなかったのか? コルドラーが発生させる磁場を無効化するには、防護を強化する必要があるんだ。おまえの二号機をこれから整備するより、もう作業を進めてる俺の一号機のほうが早く済む」
「いや、でも、山吹隊員はスクランブルから戻ったばかりじゃないですか。少し休んだほうが……」
「このくらいで参るほどヤワじゃねえよ。だいたい、おまえこそ訓練に復帰したばかりだろうが。勘が鈍ったまま出たってまた墜とされるのがオチだ」
――やっぱり、どこか様子がおかしい。
ブリーフィングルームでいやに物静かな振る舞いを見せたかと思えば、今度はこれだ。山吹の態度と言葉には、まるで「この仕事は他の奴には渡さない」と心に決めているかのような頑固さがある。
和泉の疑惑が確信に変わる。
山吹は、コルドラーについて何かを知っている。
「どうしてそこまで拘るんです?」
無言、
「四年前にコルドラーが現れたとき、何かあったんじゃないですか?」
「……話すことはねえよ」
言ったきり山吹は機材へと目を戻し、再び調整に取りかかった。黙って手を動かし続ける山吹の横顔は、はっきりとした拒絶の色に染まっている。
今はとても聞き出せそうにない。
和泉はそれ以上の会話を諦めてタラップを下りると、自分の機体のコクピットへ向かった。
操縦席に腰を落ち着けて、ECOPADを取り出す。特異生物のデータベースにアクセスし、コードネーム「コルドラー」で検索をかける。
「一応、出現記録だけでもチェックしておかないとな……」
一件のヒット。
タップしてみると、立川駅前の高架線を蹴散らさんとする巨鳥の画像がクローズアップされた。やはり日付は四年前の八月で、写真には「推定体長は三十五メートルほどで、翼開長は百メートルに達する」という意味の注釈が添えられている。
この写真が撮影される前に、コルドラーは自衛隊のイーグルと交戦し、その火砲をものともせずに防衛線を突破したのだ。
「ひょっとしてあの人、この編隊にいたのか?」
山吹は空自の出身だという。SSSCがこの事件以後に作られた部隊である以上、当時の彼はまだ自衛官だったはずだ。
パイロットが死んだという情報はない。しかし、もしも山吹が戦いに参加していたのなら、リベンジに燃えていてもそう不思議ではないだろう。
「――なんだ、敵の研究か?」
すぐ近くから声がした。
和泉はECOPADから顔を上げる。振り返ると、桐島唯が後部座席に乗り込んできていた。
「ええ、そんなところです」
和泉が答えると、唯は「いい心がけだ」と薄く微笑む。
「その意気だぞ。空で勝てるように頑張れ」
「……ほんとすみません、いつも」
そこを突かれると和泉には返す言葉がない。三ヶ月前の長野でも先月の沖縄でも、一度も被弾しなかった山吹とは対照的に、自分は唯を同乗させたまま撃ち落とされてしまっている。
唯はこちらを責めようとはしない。その心遣いが自分には勿体ないと思う。沖縄のときは入院することになってひどく心配をかけてしまったが、自分が脱出し損ねたのは変身するための演技だったし、負傷したのは墜落のせいではなくキリエスのダメージのフィードバックをもらったためだ。
同じ機体に乗っていても、被る危険の度合いは自分と唯では釣り合わない。わざと当たりにいっているわけでないとはいえ、彼女の命ばかりを危機に晒しているような気が、どうしても――
「あ痛っ」
突然、後ろ髪を引っ張られた。
「謝るなよ。それとも君、わたしがつまらん嫌味を言いに来たとでも思うのか?」
「そういうわけじゃありませんが……」
「わたしは今回、情報のファクトチェックに回る」
俄に信じられなかった。
「――ええ?」
パイロットとガンナーを和泉がひとりで担当するということである。
それは構わない。唯を巻き添えにしなくて済むぶん気が楽だし、場合によってはレーベンを飛行させたままキリエスになることもできそうだ。
しかし、あれほど自分を目の届くところに置きたがってきた唯がそんなことを言うとは、いったいどういう風の吹き回しなのか。
「副長から話があってな。わたしか君のどちらかをコマンドルームに残したいそうだ」
「あぁ、そういうことですか」
納得。
「だったら桐島隊員のほうがいいですね」
さほど難しい話ではない。
そもそも四年前にECOが対応を誤ったのは、目撃情報に対する判断ミスが原因だとされている。司令部の人員を厚くしておきたいと考えるのは自然だ。
その点、唯は和泉と比べて調査慣れしているし、勘も鋭く、そして戦闘機の操縦が不得手だった。
唯の右手がようやく和泉の髪を手放す、
「だろう? だから、戦いになったら山吹隊員と君が頼りだ。うまく二人で協力してくれ」
和泉はうなじの上のあたりを擦りながら、
「そうしたいのは山々なんですけどね」
「なんだ、何かあったのか?」
唯が柳眉をひそめる。またか、と言わんばかりの表情。
「あったというか、ありそうというか……山吹隊員って、いつ頃ECOに来たんです?」
「わたしより一年先と聞いているから、四年前だが……なるほど、例の事件と関わりがあるんじゃないかって話か」
「ええ、いつにもましてピリピリしてる気がして」
「それには同感だ。しかし、あの人はあまり自分のことを話さないからな」
その言葉を聞いて、和泉は己の想像が当たっているという確信を深めた。観察力に優れる唯までが山吹の変化を感じているのだ。間違いあるまい。
「まあ、無事に仕事が終わってからなら話してくれるんじゃないか?」
「ですかねえ……」
と、ECOPADが震えた。
二人が同時にそれぞれのデバイスを覗いた。通信ウィンドウが開き、藤代の顔が映し出される。
『各員、そのまま聞いてくれ』
SSSC-2からSSSC-6までの全員が回線を開いたことを確認すると、藤代はおもむろに切り出した。
『参謀本部との協議の結果、対コルドラーを前提に動くことに決まった』
若干の間、
『自衛隊や気象庁と連携しつつ、しばらくの間は基地全体をあげて第三種警戒態勢を維持する。敵の居所がわからん現状では、我々SSSCが単独で監視を続けることは困難だからな』
『要するに、ローテーションを組むわけですね?』
質問したのは周防だ。藤代は身振りで肯定し、当面の警戒を気科――気象科学局の略称である――と空戦隊とで行うことを告げた。
『周防副長、それと山吹、桐島、和泉の各隊員は明日……いや、とっくに今日だな、一日休んでコンディションを整えるように。佐倉隊員もデータ解析が終わりしだい上がってくれ』
きわめて妥当な指示だと和泉は思った。コルドラーを捕捉できるタイミングが分からない以上、基地に留まる意味は小さい。
了解。返事をしようとした。
「――隊長」
低い声が、二重に聞こえた。片方はECOPADのスピーカーから響いたもの、もう片方は直接耳に入ってきたものであり、どちらも同じ人間の声であった。
『山吹隊員、どうした?』
「その一日のうちにコルドラーが出現した場合は、どうなりますか」
サブウィンドウに映る目が据わっていた。
『無論、空戦隊で抑えることになるな。可能ならば撃破するが……』
「不可能だったら?」
ぴくり、と藤代の眉が動く。
『……人口密集地への飛来を防ぎつつ、発信機を撃ち込む』
「奴は攻撃の際、強力な磁場を作ります。発信機じゃトレースできなくなるかも」
藤代は一瞬考えるそぶりを見せた。そういえば、レーダーを麻痺させたのがコルドラーの生んだ磁場であったことは、藤代にとっては初めて耳にする情報だ。
しかし、これについては和泉にも見解があった。
「攻撃の際なら問題ないんじゃないですか? トレースできなくなるってことは、こっちと交戦してる最中ってことですよね」
『――そのとおりだな』
藤代があっさりと頷く。
『いずれにせよ我々の出番は明日以降だ。万全な状態で臨めるよう英気を養ってくれ。いいな?』
つまるところ、休めという命令なのだ。今度はさすがの山吹も異論を唱えず、通信は終わった。
ECOPADをホルダーに戻そうとした和泉の視界の隅に、自機のコクピットから飛び下りる山吹の姿が映った。山吹は勢いよくタラップを下り、大股で格納庫を横切って、そのまま出入口へと向かってゆく。
「山吹隊員! どこへ行くんです?」
「帰ろうにも、こんな時間じゃ電車も動いてねえだろ。仮眠室だよ」
一切こちらを顧みずに答えて、またしても山吹は去っていく。もはやどんな言葉も無駄だった。呼び止めたのが仮に和泉でなく唯であっても、山吹はそれ以上喋ってはくれなかったろう。
通路の薄闇に溶ける背中の残像が、いつまでも視界にこびりついていた。