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銀色の来訪者(4)

 諳んじるような響きが理屈をたやすく超越した。


 何の抵抗もなかった。女の子の発した言葉は、ぞっとするほど自然に和泉の胃の腑に落ちてきた。


 目覚めの時――その意味は、怪獣の出現を知らせる警鐘以外ではあり得ない。


「やっぱりそうなんだな。あれが、また……」


 和泉の口元が不意に緩み、多分に諦めの混じった、死刑を言い渡された被告人そのものの笑みが浮かぶ。


 推測が当たっていると聞かされて、これっぽっちも嬉しくないのは初めてかもしれなかった。最悪の想像が現実のものになろうとしている。「七・一七」のときと同じ怪獣が出てくるなら、取れる手段は幾つもないのだ。


 すぐにでも引き返さなければならない。


 SSSCの二人には短髪がとっくに報告してくれているだろうが、絶望的に証拠が足りない。女の子が幽霊だろうと異星人だろうと、この際構っている場合ではない。


 一緒に来てくれ、と言おうとした。


 言いかけたその口が、中途半端に開かれたまま止まった。


 雪原が琥珀色に染まっていた。


 夕暮れの色をした光が地面から滲み出てくる様がはっきりと見えた。汚染末期における侵食拡大現象。レキウムが飽和濃度に到達、被汚染物が汚染源へと転化、周囲空間に対して侵食元素の放射を開始。防災総研(ウプサラ)が編纂した教本にはそんなプロセスが記されているし、一度だけではあるが実際に目にしたこともある。


 呑まれたが最後、命はない。


 和泉の心が呼吸することをやめ、体が機械のように動いた。ほとんど反射と言ってもよい速さで右手が女の子を引き寄せようとし、左手が腰の後ろに括りつけてある防護マスクへと伸びて、


 ぎくりと身を固くした。


 違和感。右手が小さな掌に重なっている。氷点下の気温の中、そこだけが人肌の温もりに包まれている感覚はある。


 が、まるで霞でも掴んでいるかのように、何の感触も伝わってはこなかった。


 そして、空を切ったのは右手だけではなかった。


 防護マスクが消えている。


 バックパックに入れたまま忘れてきたのではない。万一の事態に備えて計測器と防護マスクは必ず身につけておく規則だったし、出発前に所持していることを確認しさえした。ここに来るまでに落としてしまったのだ。枝に引っかかったか岩と擦れたか、括り紐が切れる原因などいくらでも思いつく。


 しかし、後悔なら地獄でするべきだ。時間が惜しい。即座に頭を切り替え、改めて女の子に目を留めた、その視線が釘付けになった。


「大丈夫」


 女の子が静かに微笑んでいた。


「この程度の瘴気に蝕まれる私ではないわ」


 睫毛を伏せたその面持ちは柔らかく、しかしどこか物憂げにも見える。


 せいぜい十四か十五ほどであろう年の頃に似合わぬ、ひどく大人びた表情。それがどうしてか胸を衝いた。


 ――何で、そんな悲しそうな顔をする?


 ――知りたい。


 ――いや、俺は知っている……?


 うまく言葉にできなかった。不明瞭なことがあまりに多すぎる。和泉の懊悩を見抜いているのかいないのか、女の子は調子の変わらぬ口ぶりで話し続ける。


「あなたも死なない。あなたには――」


「和泉訓練生っ!」


 唐突に、鋭い声が割り込んだ。


 和泉は背後を振り返る。林から飛び出してきた人物の顔はフルフェイスヘルメットに覆われていて判らなかったが、声には聞き覚えがあった。


「桐島隊員! どうしてここへ?」


 やはり、動揺が尾を引いていたと思われる。これほど間の抜けた質問もそうはない。


「君の靴跡を辿ってきたんだ。まったく、君は普段からこうなのか? 勝手な行動は慎んでもらいたい」


 唯は一気にまくしたて、和泉の手に黒い物体を押し付けた。防護マスクだった。いかにも雪を払ったあとといった具合の水滴がついている。


 和泉は礼を述べようとし、唯の苛立ちの気配を察してやめた。防護マスクを装着して頭を下げると、唯もそれ以上は責めなかった。


 深々と溜息をついて一言、


「――で、子供を見たというのは確かか?」


「――は?」


 ついまじまじと唯の目を覗き込むが、バイザー越しの眼光に冗談めいた色は微塵もない。


「確かも何も、ここに……」


 いるじゃないですか――そう続けようとし、ある可能性に考えが至って口をつぐんだ。


 桐島隊員には、女の子が見えていない。


 女の子が生身の人間でないとすれば、予想すべきではあったのかもしれない。もちろん好ましいことではなかった。異変の正体を語ってもらう計画はこれで水泡に帰した。仮にこの場で女の子の実在を主張したところで、事態の急変を前に錯乱したと思われるのがオチだろう。


「事実を報告してくれ。捜索するにせよ撤収するにせよ、この状況では一つの認識の誤りが命取りになる」


 和泉は唇を引き結ぶ。閉じた口の中で言葉を揉む。背中に注がれる女の子の凝視を感じる。


 口を開く。


「間違いありません」


 覚悟が決まる。


「女の子です。白いワンピースを着ていました。この山の異変について重要な情報を握っているようでした」


「重要な情報?」


「もうすぐ怪獣が現れる、と」


 洗いざらいぶちまけた。心臓が早鐘を打つ。勝算の薄い賭けでしかなかったが、どのみちこれ以外の選択肢は採り得ない。


 あの女の子が何者なのか、どうして自分を呼んだのか、彼女を見ると胸が締め付けられるような感傷を覚えるのは何故なのか――知りたいことが山ほどあるのだ。そのためにもここでは引けない。女の子の言動はいちいち迂遠ではあったが、少なくとも出鱈目を述べているようには思えなかった。その真摯さに応えられないのなら、謎はこの先もずっと謎のままであるに決まっていた。


 見つめ合ったまま一秒が経ち、二秒が過ぎた。


 唯が目を逸らし、ECOPADの電源を入れた。


「こちら桐島。和泉訓練生と合流しました。わたしはこのまま捜索を続けますので、副長は訓練生を管理区域外まで誘導して下さい。それと麓の自治体に避難勧告を。――いえ、和泉訓練生はわたしに同行させます。この状況で単独行動させる方が危険でしょう」


 通信を切り、憮然としたような口調で、


「……これでいいんだな?」


 まだ半信半疑といった様子ではある。が、充分だった。こいつの言うことなら試してみる価値はある、くらいには信用してくれていることが、今はひたすらにありがたい。


 ――これでいいんだろ?


 和泉は女の子に視線を投げた。女の子は首肯し、また口元を綻ばせた。




 橙色に光る濃霧の中を、女の子の後について歩いた。


 導かれる果てに辿り着いたそこは、地下へと続く長い長い洞窟だった。



     ◇ ◇ ◇



 ひとまず、洞内が暗闇と無縁であったのは幸いと言えた。唯のタクティカルベストのポーチには懐中電灯も納まっていたが、いかんせん小型に過ぎ、とても隅々まで照らすことはできなかったろう。それほど広大な洞窟であった。


 もっとも、侵食元素が充満していることの裏返しには違いない。唯は計測器に目を落とす。デジタル数字が「九六・八」を示していた。


 ――やはり、何かがいる。


 奥に行くにつれて数値が高くなってきている。異変の元凶に迫っているのだ、という実感があった。洞窟内がいくら逃げ場のない空間だとはいえ、これほどまでの侵食係数の大きさは、この深部に汚染源がある以外には説明のつけようがない。


 前を歩く和泉の背中を見る。


 潮時かもしれない。


 和泉の着ているアカデミー仕様の隊服には正規隊員のものと同様、耐NBC機能が備わっている。それは確かだ。しかし、彼の頭部を守っているのが緊急用の防護マスクとフードに過ぎないことを思えば長居は避けるべきだった。SSSCの最新鋭装備に防護されている自分はともかくとして、和泉がこのまま進んでいくのにはリスクが伴う。


「――なあ、」


 声は岩肌への反響を繰り返し、魔物の唸りとなって曲がりくねった穴の底へと消えてゆく。


「白い服の少女とやらは、まだ見えているのか?」


「え」


 ひどく意外そうな声、


「わからいでか。君、さっきから立ち止まってはきょろきょろしたり、急に方向を変えたり、何もないところに向かって頷いたり。端から見たら異常だぞ。幽霊とでも会話してるか、そうでなければ頭がおかしい奴にしか見えん」


「……あの。信じてくれてるんですかそれ」


「これでも元警官でな。霊や妖怪は見えなくても、人を観察するのは得意なつもりだ。君は嘘をついてもいなければ、正気をなくしてもいない」


 正直なところ、最初に聞いたときはまさかと思いもした。幽霊との接触はさすがに専門外だ。しかし、唯はそういったものの存在を殊更に否定しているわけではなかったし、和泉の態度から嘘偽りの臭いは嗅ぎ取れなかった。こういうときの感覚には従った方がいい――これまでの経験がそう忠告してくれていた。


「まあ、わたしが自分で確かめられないというのは気に食わんが――いや違う、こんな話がしたいんじゃない」


 再び計測器を見る。九九・三。


「つまり、その少女は保護対象ではないわけだろう?」


「自分でそう言っていました」


「だったら、」


「戻って準備して再調査とかできるなら、ぜひそっちに乗り換えたいところですけど。そんな猶予はもうないでしょう」


 和泉はこちらを一顧だにせず、多くを語ろうともしない。その口ぶりには「この役目は誰にも譲らない」と決めてかかっているような、断固たる響きが備わっている。


 唯は、喉まで出かかっていた撤収の提案を飲み込んだ。


「そうだな。君の言う通りだ」


 本音を言えば和泉だけでも下山させたい。が、異変は既に最終段階を迎えている。汚染源が怪獣であるならばその出現は時間の問題に過ぎず、怪獣について何事かを知っているのは白いワンピースの少女であり、和泉がいなければ少女とコンタクトすることができない。


「――それにしても深い。二キロくらいは歩いたはずだが」


「入口との高低差もけっこうありますよ。大雑把に計算して、たぶん今で五〇メートルくらいかな……測量図ではここまでの規模じゃなかったですよね?」


「岩盤が侵食元素にやられたか、怪獣が直接掘ったか、だな。どちらにせよ怪獣が原因であることには変わりない」


「皆はどこまで退避したと思います?」


「M9を越えた頃だろう。余計なことは考えず目の前に集中しろ」


 周防との連絡はもう十分以上前から取れなくなっていた。この深度では衛星からの電波が届かず、ECOPADの通信機能が使えないためだ。気にならないわけではないが、あちらのことは周防に任せるしかない。


 岐路に出た。


 和泉が足を止め、目を凝らすような仕草をする。少女の幻が見えたか、和泉は左を選択しようとした。


 そして、事態は急激に進行した。


 まず、強い縦揺れが洞窟を襲った。唯はたたらを踏んで、しかし堪えきれずにバランスを崩し、


「……っ!」


 偶然にも目に入った計測器の表示が「一〇六・四」から「一三四・一」に変わった。


 どん、と胸のあたりに衝撃を感じた。


 勢いよく尻餅をつき、唯は呻きながら顔を上げる。和泉に突き飛ばされたことと、右の道に弾き出されたことを理解して眉を顰める。激しくなる一方の揺れに邪魔されて立ち上がれず、


「和泉訓練生、どういうつもり――」


 そのとき、和泉の体は左側の道にあった。唯を突き飛ばした反動でそちらに流れたのだろう。


 唯の手の中で、計測器が「二〇五・七」を刻んだ。


 濁流のごとく押し寄せた死の光が、和泉を丸呑みにするのが見えた。


 咄嗟に伸ばした指のすぐ先を、落ちてきた岩が掠めた。


 直前、硬い地盤を割って鱗を纏った影がせり上がってきたように思う。震動と粉塵と燃えるような光に遮られて正体を見極めるどころではなく、意思とは関係なく叫びが漏れ、轟音にかき消されて自分の耳にすら届かず萎む。


 土くれに全身をもみくちゃにされ、何度も体が回転した。上下がどちらで自分がどんな姿勢でいるのかもわからない。途絶えそうになる意識を繋ぎ止めるだけで精一杯だった。


 やがて静かになった。

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