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銀色の来訪者(3)

 猛獣に出くわすことも、怪植物に行く手を阻まれることもなかった。


 日が中天を過ぎる頃、一行は観測点M10での作業を済ませた。この後は小休止をはさみ、夜が来るまでに七合目の地点まで回り終える予定だ。


 調査した観測点は現時点で四つ。どこも似たような状態であった。ここに至って土壌の変質を疑う声が同期生の中からも聞こえ始めたので、和泉は彼らと情報を交換しつつ、一度考えをまとめることにした。


 人垣に見守られながら、和泉は採取した土に計測器を近づける。侵食係数三二・四ノルダル。どよめきが起こった。


「なんだこりゃ! こんな高い数値初めて見るぞ」


「草が萎れるわけだな。このままじゃ残った樹も全滅だ」


「そんなことより、まず私たちは大丈夫なの? 防護マスクをつけた方がいいんじゃない?」


 皆が動揺するのも無理はない。明らかに異常な測定値が出ていた。もしこれが大気中から検出された数値であったなら、防護マスクなしでの活動はたしかに自殺行為と言えるだろう。


「大気中の反応は幾つだった?」


「二・六だけど……」


「それなら二、三日過ごすくらいは問題ないはずだ。だいいち、必要ならつけろって指示が出てるさ」


 そもそも侵食症において最も注意すべきは呼吸ではなく、汚染物質が肌や衣服に付着することの方である。今回の場合は地面だが、和泉らが着込んでいる隊服は耐NBCコーティングされた化学繊維で作られているし、グローブやブーツの合成皮革にも同様の処理が施されている。長期にわたって山中に留まりさえしなければ人体への影響は抑えられるはずで、現にSSSCの二人が何も言ってこない以上まだ心配すべき水準ではないのだ、と事も無げに和泉は語る。


 半分は周囲の不安をかき消すためだが、もう半分は自分に落ち着けと言い聞かせるためだ。この場の誰よりも悪い想定をしているという感覚があった――おそらくは周防副長や桐島隊員よりも。


 踏み固めた雪の上にブルーシートを敷いて座り、慎重な手つきでビンを傾ける。バックパックからルーペを取り出し、シートにこぼれた土を覗き込む。


「おい、眞……よせって」


 汚染の塊を外に出したことで非難めいた声があがるが、足元すべてに侵食が広がっているのでは今更気を付けたところで仕方がないし、直接触りでもしない限りはすぐにどうなるという話でもない。和泉はダニの死骸と枯れ草の切れ端が混じっているのを発見するや、おもむろに顔を上げて、


「――誰か、森に入ってから生き物を見たか? 直接じゃなくても、足跡とか糞とか」


 全員、すぐには答えを返すことができなかった。誰もが言葉に詰まった一瞬、葉擦れの音すら聞こえないほどの静寂が訪れ、ただでさえ低い気温がさらに下がったように感じられた。


「……いや、言われてみりゃあ、見てねえが……」


 一人が恐る恐るといった体で声をあげた。沈黙に耐えかねてのことであるのは誰の耳にも明らかだったが、それを指摘する余裕のある者はいなかった。


 ――他は? 和泉が視線で促すと、思案げに腕組みしていた髭面の訓練生がぴくりと反応した。ゆっくりと噛み砕くような調子で、


「……まず、気配がしないんだよな。冬だからヘビやカエルなんかを見ないのは分かるとしても、鳥の鳴き声ひとつ聞こえてこないってのは流石におかしいだろ? で、いろいろ探してみたんだが――」


 髭面はそこで言葉を切り、和泉に向かって標本袋を投げてよこした。入っているのはスギの球果である。落ちていたものを拾ったのか、湿り気のある土で汚れている。


「ついばんだような痕があるよな? それは雪の下から掘り出したもんだ。他にも……こっちはたぶん鹿の仕業だと思うんだが、幹を齧った痕とか、枝が踏み折られてるところが何箇所かあった」


「雪に足跡は?」


「なかった。というか、どの傷も昨日今日でついた感じじゃなかったしな。ありゃ少なくともひと月は経ってる」


 奥多摩で雪が積もり始めたのは先月の初旬だ。髭面の話は、その時点で既に土壌汚染の影響が地上に及んでいたことを意味する。


「私たちも、静かすぎるって気はしてた」


 代わって口を開いたのは眼鏡をかけた短髪の女生徒。彼女を中心とするグループはM9地点の調査途中から視点を変えたらしく、樹のうろを覗き込んだり石をひっくり返したりしている様子を和泉も度々目にしていた。


「最初は餌が減ってるのかもって思った。でも、そんな単純な話じゃなさそう。虫でもいないか探してみたんだけど――ああ、思い出しただけで気味が悪い」


 短髪の目にいかなる感情が表れているかは偏光レンズに遮られて読めないが、その顔は心なしか青い。彼女と組んでいた数名も表情を硬く強張らせている。不穏な想像が現実味を増していくのを自覚しつつ、和泉は尋ねた。


「何かいたのか?」


「クモとかダンゴムシ、クワガタやらカミキリムシやらの幼虫に……まあ、いたことはいたよ。ただ……」


「ただ?」


「みんな死んでたの。異様なのは、どの死骸もやけにきれいで、まるでついさっき死んだみたいだったけど……だけど、死んだのはきっと何日も前。そのくらい干からびてて……」


 ――やっぱりか。


「ありがとう。大体わかった」


 和泉はうつむき、ぶちまけた土をかき集めてビンに詰め直してゆく。想像はもう確信に変わっていた。


「微生物が全滅してるんだ。だから死骸や落ち葉が分解されないし、養分が足りなくなって植物も弱る。そうしてる間にもどんどん発生する侵食元素(レキウム)に蝕まれていくから、鳥や獣が住めない環境になるまでには二ヶ月とかからない。雪が積もってきた頃には、山はとっくにもぬけの殻だったんだと思う」


 これとよく似た状態を目にしたことが過去に一度だけある。じわりと嫌な汗が滲み、鼓動が乱れるのを感じた。きつく瞑目し、あふれ返りそうになる灼熱の記憶を抑え込もうとしたが、努力は実を結ばなかった。


 あのときもそうだった。


 花がしおれ、木々の葉が色を失い、動物たちは何処かへと去り、気づけば村を囲む山々は死に絶えていた。そして最後には、すべてが炎に呑まれて消えていったのだ。


 再び髭面の声、


「眞、どう見る? おまえの考えを聞かせてくれ。原因は何で、ここでいったい何が起ころうとしてるんだ?」


 言うべきか否か。和泉は長くは迷わなかった。


 呼吸を整え、顔を上げる。


「――『七・一七』」


 その名前には、時間を止める魔力があった。


「もし今日起これば、『一・一六』だ」


 誰も二の句を継げない。愕然とした表情のまま凍りついている。尋ねた髭面とて、よもや和泉がそこまでの事態を思い描いているとは予想だにしていなかったに違いない。


 全員の頭の中で、漠然としていた不安がはっきりとした恐怖に形を変えようとしていた。


「ひとまず、SSSCの人たちに報告してくるよ」


 和泉はそう告げて腰を上げる。短髪が慌てたように、


「いま話すの? 取り合ってもらえる?」


 和泉は肩をすくめる。


「どうかな」


 なにしろ事が事だ。いち訓練生の推測にまともに耳を傾けてくれるかどうかは、正直微妙なところではある。


 しかし、望みがないわけでもない。


 M7で挨拶を交わした女性隊員――桐島唯。彼女は自分と同様、得体の知れない危機感を覚えているふしがあった。信じてくれるかはともかく、最低でも話は聞いてもらえるだろう。


「言うだけ言ってみるさ。後手に回ったら取り返しがつかないんだ」


 どのみち本当に怪獣が現れれば、もはや自分たちの手に負えるスケールの問題ではなくなるのだ。収拾にあたるのがSSSCである以上、早いうちから情報を共有しておいて困ることはあるまい。


 唯を探そうと視線を巡らせた、まさにその瞬間のことだった。


 ぎくり、と一際高く心臓が跳ねた。急速に意識が研ぎ澄まされ、踏み出そうとしていた足が唐突に止まった。


 錯覚ではない。視界の隅を何かがよぎった。


 ホルスターのロックを解除し、そっと銃把に手をかける。


 振り返る。


 そして、それを見た。



 ――女の、子?



 眼前には相も変わらず、雪化粧を纏った針葉樹林が広がっている。どの樹も水分とともに吸い上げた侵食元素にやられて墨を塗ったように黒ずんでいるが、汚染の度合いとしてはまだ軽微なのか、樹皮を覆った苔がしぶとく生き残っている。そのうちの一本、和泉らの位置からはやや離れたところの、やはり苔むした幹の陰に、果たしていつからそこにいたのか、女の子が寄り添うようにして佇んでいる。


 白いワンピースを着ている。


 じっとこちらを見つめている。


 まるで状況を呑み込めず、和泉は呆けたようにその場に立ち尽くした。たっぷり五秒はそうしていたように思う。訝しんだ短髪が和泉の視線を辿ろうとしたのと、女の子が身を翻したのが同時だった。


 女の子の背中が遠ざかっていくのを、為すすべもなく見送った。


 短髪の気遣わしげな声に、現実へと引き戻された。


「――ねえ、ちょっと和泉くん、聞いてる?」


 曖昧な返事しかできない。


「どうしたのいきなり。ぼうっとしちゃって、まさか具合でも悪い?」


「いや……それより、見たか?」


 短髪が眉をひそめる。顔に「見たって何を?」と書いてある。


 そこでようやく、和泉の脳ミソが息を吹き返した。


「大変だ」


 体じゅうから血の気が引いた。


「ごめん。やらなきゃならないことができた。さっきの話、俺の代わりに報告しといてくれ」


 和泉はそう言い置いて、木立ちの合間に身を躍らせた。既に女の子は見えなくなっていたが、走り去った方向は覚えている。


「ちょっと! どこ行くつもり!?」


 短髪の焦った声が後ろから追い縋ってくるが、生憎と悠長に説明している暇はない。負けじと叫び返す。


「むこうに子供がいたんだ! 保護しないと!」


 何が何だかわからないといった面持ちの友人たちをその場に残し、和泉は全速力で冬の山道を駆け上ってゆく。相手は子供の足、しかも決して動きやすい恰好ではなかった。そんなに離されてはいないだろう。追いつけるはずだ。


 こころなしか、頬を叩く冷気が徐々に強まってきている。防寒着の入ったバックパックを置いてきてしまったのは失敗だったかもしれない。が、物を考えるにはちょうどよかった。


 解せないことが幾つもある。


 首から下を一切露出していない自分ですら寒さを覚える気温の中、あの女の子はなぜ平気でノースリーブの服を着ていられるのか。


 日に日に苛烈になりゆくECOの警備網が一介の少女に掻い潜られ、管理区域の只中まで進入を許したのはなぜか。


 そして、何よりの疑問。女の子を見た瞬間、どこか郷愁めいた衝動が胸裏を灼いたのはなぜなのか。


 左右に目を配る。


 いた。


 右斜め前、三〇メートルばかり先の木の向こうに、ワンピースの白い生地が引っ込んだのが辛うじて見えた。


「待って! ここは危険――」


 ところが、和泉がそこに回り込んだとき、女の子の姿は既になかった。俄かには信じられず息が震えた。一秒たりとも目は逸らさなかったのだ。幹に遮られていたとはいえ、おかしな動きがあれば間違いなくわかったはずだ。


 背筋をうそ寒い感触が這い上る。


 夢や幻を見ていたのではない、と思う。この程度で参るほどやわではないつもりだったし、侵食元素に神経をやられたのであればそれこそ幻覚を見るどころでは済むまい。女の子が確かに一人いて、今も林のどこかに隠れているのだという認識に関して、和泉には絶対の自信がある。


 だが、女の子が本当に保護しなければならない対象なのかという点においては、その自信は揺らぎかけていた。人間は忽然と消えたりなどしない。だとすれば、あるいは――


 あるいは、冬山をさまよう幽霊の類かもしれない。


 和泉は胸ポケットをまさぐり、さほど期待せずに通信機のスイッチを入れた。恐れは的中した。ノイズまみれの音声が途切れ途切れに聞こえるばかりで、意味のある言葉は到底拾えそうにない。侵食が進んで磁場が攪乱されているためだ。通信衛星を介する正隊員のECOPADは生きているだろうが、無いものをねだっても仕方がない。


 自分がやるしかない。その状況に変わりはなかった。


 あたりを見回す。


 ゆるやかな斜面に立つ樹の、和泉が手を伸ばしてようやく指先が触れるか触れないかという高さから、大きな枝が伸びている。ほとんど真横に張り出したその枝の上に、女の子は腰掛けていた。


 こちらが気付いたと見るや、女の子はふわりと浮かぶように飛び降り、まったく体重を感じさせずに着地した。そのまま踵を返して走ってゆく。


 追跡は困難をきわめた。女の子はこちらの目の届く場所に現れては、近づくと幻のように消えてしまう。行けども行けども景色は変わり映えのしないスギ林で、しかし増してゆく雪の深みに一歩ごとに体力を奪われ、それでも和泉は山の奥へ奥へと踏み入ってゆく。


 岩まじりの尾根道を通過した。


 涸れた小川らしき溝をひと跳びで渡った。


 へし折れて横倒しになった太い幹を乗り越えた。


 女の子についていくうち、一つはっきりしたことがある。和泉は何度となく女の子を見失ったが、彼女はそのたびに姿を現して居場所を教えてくれた。逃げようと思えばいくらでもできたはずだ。そうしなかったということは、つまり、彼女には逃げ切る気がないのだ。


 ――俺を連れて行こうとしている。


 そのことはもはや疑いようがなかった。どこへ誘われているのかは想像がつかず、深追いは危険かもしれなかったが、不思議と肚は決まっていた。あの女の子は異変について何か知っているのかもしれない。ここまで来たら後には引けない。


 視界が開けた。


 唐突に林が途切れ、雪原が広がっていた。


 女の子は、今度は消えるつもりはないようだった。和泉は雪原の真ん中に進み出ると、小さな背中から三歩ほどの距離を保って立ち止まった。


「君、どうやってここまで来れたんだ?」


 できるだけ穏やかに訊くよう努めながらも、和泉は警戒を解かずに相手を観察した。剥き出しの肩は寒さに震えてもいなければ、息切れを起こして上下してもいない。あり得ないことだ。


 もとより明快に答えてもらえるとは思っていなかったが、やはり女の子は黙りこくったままだった。和泉はさらに尋ねる。


「ここに何かあるのか?」


 女の子が初めて反応した。


 一切の音を立てずにこちらを振り返った女の子の、冴え冴えとした双眸と視線が交錯した瞬間、和泉の頭を鋭い衝撃が貫いた。


 既視感、というのが最も近い。最初に女の子を発見したときと同じ感覚。遠い記憶の彼方で幽かに引っかかるものがあったような気もするが、それが何なのかを探り当てることがどうしてもできない。


 ――どこかで、会ったことがある……?


 わずかに残った冷静な部分が、そんなわけがない、と抵抗した。


 淡い輝きを帯びたような白い肌、不規則に揺らめいて見える長い鳶色の髪――知り合いかどうか以前に、眼前の少女は、やはり浮世と隔絶した存在であるように思えた。


「君は、誰なんだ? どうして俺を……」


「――急いで」


 結局、女の子の口から疑問が晴らされることはなかった。


 彼女は透き通った音色の声で、凛然と宣告した。


「目覚めの時は、近い」

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