代替人間(3)
「つまり、オトコと会ってたせいで待ち合わせに遅れた、と?」
芽衣子がECO隊員と再会してから別れるまでのおよそ三十分間を、香原桃華はそのように総括した。物は言いようとはこのことだが、端的にまとめると確かにそういう話ではあって、事情がどうあれ桃華を待ちぼうけさせてしまったことには違いない。朝に「そっちこそ遅れるな」と見栄を切っておきながらこの体たらく。桃華が機嫌を損ねるのも無理はなく、芽衣子としては謝るしかない。
「――あたしというものがありながら」
「……あなたというものはありません」
前言撤回。ぜんぜん怒っていない――というか、面白がっているらしい。
「からかわないでよ。こっちは本当に悪かったと思ってるのに」
「あはは! いやー、だってさあ、まさか芽衣子から男の人の話が出てくるなんて想像もしなかったからさ。あんた奥手なんだからチャンス逃しちゃダメだぞー?」
「チャンスって。むこうはそんなつもりで連絡先教えてくれたんじゃないよ」
芽衣子は手の中のスマホに目を落とす。
SNSのアプリを開き、フレンドの一覧を表示すれば、さほど長くもないリストの一番上にそのアカウントは現れる。家族と親戚と親しい知人の名前ばかりが並ぶなかで、馴染みのないユーザーネームがたった一つ異彩を放って見える。
和泉眞。
何かあったらメッセージを送ってほしい、しばらくの間は区内のウィークリーマンションに滞在しているから呼んでくれればすぐに行ける――たしか彼はそんな内容のことを言っていたと思う。どう返したのか覚えていない。ただスマホの画面を見つめながら、そのとき初めて知った青年の名前を頭のなかで反芻するのが精一杯だった。
「『むこうは』……ねぇ?」
どこか意味ありげな響きを含んだ桃華の声で我に返った。
視線を戻した先に、にんまりと口元をにやけさせた友人の顔があった。
「な、なに?」
「じゃあ、やっぱりあんたは満更でもないわけだ?」
「――っ! 桃華ーっ!」
うひゃあ怖い、と桃華がわざとらしく首を竦め、一秒後には我慢しきれずけらけらと笑い声をたてはじめる。こうなっては殊勝な気分もどこへやらで、芽衣子はむうっと頬を膨らませた。赤面しているのが自分でもわかった。桃華といい今朝の母といい、どうして私の周りの人たちは私を弄るのが好きなのだろう。
歩調を早めて桃華の先に立つ。せめて形だけでもへそを曲げたふうに見せたかったが、画材を抱えながらの移動はなかなかの重労働で、思うほど速くはならないことが少しだけ悔しい。
「――あのさ、」
学校隣の緑地の、土を盛って造られた小さな丘に登った。頂上の東屋に陣取って、木のテーブルの上に荷物を下ろしたところで、桃華が不意に口をひらいた。
「変わったことがないか、って訊いてきたんだよね、ECOの人」
「うん」
「最近変わったことっていったら、やっぱりあの事?」
桃華の言う「あの事」が何を指しているのかは考えずともわかった。
芽衣子はイーゼルを立てながら、
「うん……夜遅くに町をうろついてる人たちがいる、って和泉さんに話したよ」
それは、ここ数日のうちに伝染病のように広まった噂話だ。
否、噂話というのは正確ではない。すでに何人分もの目撃証言が区内のあらゆる交番に届けられていると聞くし、動画サイトにアップロードされていた映像は芽衣子も目にした。手ブレはひどいし明るさも編集されていない、いかにも素人が急いで撮ったような作りではあったけれど、真夜中の住宅地を複数の人間が徘徊していることだけは疑いようがなかった。
「こっちの町会ではきょう回覧板が出てたけど、桃華のところもそうなの?」
「そんな感じだねぇ。っていうか、あたし直接見たよ」
「うそ! いつ?」
「昨日。テレビで映画のシリーズ一挙放送やってたから観てたんだけど、気付いたら夜中の二時でさ。飲み物でも買おうかなって外に出たら、やたらと人と行き会うんだよね。なるほどこれかと思ったよ」
「なるほど……じゃないよ! トラブルとかなかったの!?」
予想だにしなかった言葉に度肝を抜かれ、芽衣子は食ってかかるような勢いで身を乗り出した。桃華はよく冗談めかして物を言う。しかし芽衣子の知る限り、まったくの作り話で人を欺いたことは過去になかった。桃華が見たと言うならば、やはり彼女は不審者の集まりを間近で見たのだ。
ふだんの芽衣子からは想像もつかない剣幕に驚いたのだろう、桃華は芽衣子が迫ったぶんだけ体を反らして固まっている。足元に視線を移してみれば、茶々丸までが呆気にとられてじっと芽衣子を見上げていた。
寄せ返す波のように、落ち着きが芽衣子のなかに戻ってきた。
「――気をつけなきゃダメだよ、最近物騒なんだから。そんな時間に出歩いてるなんて絶対まともな人たちじゃないよ」
「いや、あたしも出歩いてたんだからね?」
性格おとなしいわりに結構言うよねあんた――桃華はそう苦笑してから、
「まあ……異様な雰囲気ではあったし、できるだけ誰とも目ぇ合わせないようにして、一番近い自販機でジュース買ってさっさと帰ったわ。どいつもこいつもスマホ持って耳にイヤホン突っ込んでんの。画面は人によって見てたり見てなかったりだったから、たぶんラジオか何かの配信なんだとは思うけど……」
興味本位で動画など再生したせいかもしれない。桃華の語る状況が具体的なイメージとなって芽衣子の脳裏に溢れた。
たとえば月のない夜更け、芽衣子は家路を辿っている。あたりの車通りはもう何時間も前に途絶えており、照明のついている家も見当たらない。ぽつぽつと並んだ街灯だけが一面の暗闇に光を投げかけていて、ときおりその光に向かって羽虫が体当たりする音が聞こえてくる。芽衣子はふと、前方の街灯がスポットライトのように人影を浮かび上がらせていることに気付く。年端もいかぬ子供が耳からイヤホンを垂らし、こちらに背を向けて立っているのだ。芽衣子は足早に立ち去ろうとする。なぜか体が動かない。突然「ばつん」と音がして街灯の電気が落ち、子供が手に持ったスマートフォンだけがぼうっと光を放って見える。子供がゆっくりと振り返る。バックライトに照らされた不自然なほど白い貌が、うつろな表情を張りつけたまま滑るように近づいて
「――でも、実際のところは分かんないよね」
桃華の声が不気味な空想を断ち切ってくれた。
「蓋を開けてみたら事実は全然大したことなくって、実はみんなゲームやってただけ、とか普通にありえるしね。ほら、町中歩いてモンスターとかアイテムとか探すスマホゲー流行ったじゃん? ああいうののプレーヤーなのかもしんないよ」
「どうかなぁ……」
「ずっと画面見て操作してなきゃダメってもんでもないらしいし。って、言ってたらなんだかホントにしょうもないオチのような気がしてきたな」
それはちょっと楽観的すぎるんじゃなかろうか、と芽衣子は首をかしげる。
が、これだけ噂になっていて目撃者だっているにもかかわらず、警察が動いている様子がないのはたしかに不自然ではないかという気もする。案外、桃華の言うことが当たっているのかもしれない。
「――そんなことより、手が止まってるけど?」
「あ」
すっかりお喋りに夢中になっていた。
芽衣子は慌てて鞄を開けると、画材を卓上に並べはじめる。話し込んでいるうちに日が暮れてしまっては勿体ないし、コンクールまでに絵を完成させることもできない。
「わんことはあたしが遊んでてあげるから、さっさと取り掛かっちゃいな」
「うん、そうする」
キャンバスから古新聞を剥がし、しっかりとイーゼルに固定する。
「前から訊きたかったんだけどさ」
「なに?」
「その絵、なんでそんな描き方にしたの?」
茶々丸を抱きあげた桃華がキャンバスへと視線を投げてきた。そこには彩色はおろか、まだ陰影すらつけられていない段階のデッサンが描き出されている。
緑の茂る並木道の絵だ。
遠くで手招きする男性と、彼のいる少し手前で小さくこちらへ振り返る女性。そして、二人の方に向かって走り出そうとする若い娘。我ながら月並みなモチーフを選んだものだと芽衣子は思っているが、桃華が目を付けたのはその構図である。
アングルが極端に低いのだ。
画の奥にいる父と母も、近くにいる娘の後ろ姿も見切れてはおらず、それぞれの姿がちゃんと判るように描かれてはいる。しかし、親子三人を描くだけであれば、ほとんど地面すれすれから見上げるような構図にする必要はないはずだ――というのが桃華の言い分なのだった。
「この絵は、親子三人だけの絵じゃないから」
桃華の腕の中を見つめながら、芽衣子はそう説明した。
「――ああ、そっか」
桃華は茶々丸を地面におろすと、今度は自分がしゃがみ込む。
「こういうことね?」
「うん」
「あんたらしくて面白いじゃん。あたしは好きだよ」
「ありがと」
家族の歩み。それが、芽衣子がこの絵につけた題名だ。
自分の存在を主張するかのように、茶々丸がワンと一つ吠えた。耳がぴったりと頭にくっついている。その表情がどこか得意げに見えて、芽衣子と桃華はどちらからともなく笑う。
◇ ◇ ◇
沈みゆく太陽がビルの群れの合間を赤々と染めていた。
和泉はECOPADの時刻表示に目をやる。十八時四十五分。思っていたよりも遅い時間になっていたことに少し驚き、和泉は調査を切り上げることにした。
六月が終わろうとしている。
最近ではすっかり日が長くなった。もうすぐ夏も本番を迎えるのだ。一年のうちで世間が最も活気づく時期と言えるのだろうが、その訪れを歓迎する気にはなれそうにない。夏という季節にも夕暮れの空にも碌な思い出がなかった。
「和泉よりコマンドルーム。今から拠点に戻ります」
『はいはーい』
ECOPADから能天気な声。佐倉ほのかだ。
『町の様子はどんな感じ?』
「平和そのものです。少なくとも日が出ているうちは」
『つまり、情報どおりなわけね。勝負は夜か』
深夜に区内を徘徊している集団がいる、とのタレコミが基地の窓口に入ったのは一昨日のことで、電話の主は文京区内に住む老婦人だったという。役所も警察も対応してくれる気配すらなく、このままでは不安で眠れないから何とかECOで調べてくれないか、というわけだ。べつに珍しい話ではない。こうした的外れな通報はこれまでにも週にいっぺんくらいはあって、そのたびに受話器を取った隊員がにこやかな応対で受け流し続けてきたのだ。しかし今回は事情が違った。ほんの十日前に宇宙船が落ちたばかりの地区とあっては、百戦錬磨の広報部といえど無視することはできなかったらしい。
かくして情報はSSSCのもとへ届けられ、作戦会議が開かれた。
藤代隊長としては、初手から単独行動のリスクを冒すことは避けたかったようではある。が、もしも先日のエイリアンが生き残っていて町に潜伏しているのだとすれば、敵の恐ろしさを身をもって学んだ和泉以外に適任者がいないことも動かしがたい事実であった。あれほど高度な擬態能力をもつ敵に複数人であたるほうが無謀――そう論じたのは他でもない和泉自身だ。我ながら筋の通った主張だったと和泉は思っている。ただ一人、唯だけは不満げな面を浮かべていたが。
そういえばあの人「次からは必ず自分も連れていけ」って言ってたっけ。
後が怖い気もするが、藤代隊長がうまくフォローしてくれていることを祈ってひとまず脇に置いておく。今は捜査が先だ。
「そっちでは何かわかりましたか?」
ほのかが「よくぞ訊いてくれました」という顔をする。
『文京区内におかしな電波が飛び交ってる。どこの通信キャリアの周波数帯からも外れてて、ほかの電子機器に干渉するほどの出力じゃなくて、交信してる時間帯は毎日決まって午前一時から三時のあいだ』
「……発信源は?」
『場所は常に移動していて、でも文京区の外には絶対に出ない。数は……複数としか言いようがないかな。最初に観測されたのが五日前で、この時点ではそんなに多いって感じじゃなかったみたい。そこから日が経つごとに、倍々ゲームでトラフィックが増え続けてる』
和泉は、肌の上を虫が這ったかのような疼きを感じた。
町で集めた証言によれば、徘徊者が現れたのも五日前の夜からだという。
『で、ここからが重要なんだけど――イズミンが撃墜した円盤、ラジオ局の建設現場に落ちたじゃない?』
やはりその話になるか。和泉は表情を曇らせて、
「あそこなら今朝見ました」
『どうだった?』
「もう営業をはじめてましたよ。二階建てのプレハブオフィスを仮スタジオにして。関係者から事情を聞けないかと思って敷地の入口で待ってみたんですが……」
『空振りに終わったと』
「まあ、そんなところです」
犬に絡まれて張り込みどころではなくなってしまった、と白状する必要もあるまい。
『じゃあ、この情報はイズミン知らないか』
「何です?」
『その仮スタジオができたのが、ちょうど五日前らしいの』
呼吸が止まった。
『オープン即日に放送を聴くための専用アプリをリリースしてる。このアプリを入れるまでがまたえらく手間でねぇ……普通のストアからはインストールできないようになってて、公式ウェブサイトから会員登録して、個別の会員ページにログインして初めてダウンロードできる仕組みになってるんだ』
「それは……不自然なのでは? むしろ積極的に宣伝して人を呼び込まなきゃいけない時期でしょうに、そんな客を絞るような真似をするっていうのは……」
『でしょ? これは変だぞと思って、プログラムを解析してみたら――』
和泉は「どうやってダウンロードしたんですか」と言いかけ、会話の相手が佐倉ほのかであることの意味に気づいて口を噤んだ。
ほのかは一介のオペレーターではなく、SSSCの電子情報戦担当者なのだ。
まさか正規の手順を踏んでアプリを入手したはずはなかったし、先の怪電波の話にしたって素直に電話会社に問い合わせたのではあるまい。いくらECOPADの通信が強力に迷彩されているとはいっても外部からの盗聴を百パーセント防ぎきれる保証はなく、迂闊な質問は蛇のいる藪を棒でつつき回す行為に等しい。
『ラジオを受信する機能とは全然関係なく、バックグラウンドで電波を送受信できる設定になってた。波長からして夜中の怪電波の正体はこれ。――どう思う?』
どうもこうもあるかと思った。
住民を不安がらせている連中が何者で、どういう目的でほっつき歩いているのかはわからないが、状況がこうもぴったりと符合する以上、今度の件にあのラジオ局が一枚噛んでいるのは間違いない。
「夜にもう一度行ってみます。場合によっては突入します」
頷いたほのかが後方を振り返り、何事かを告げた。藤代隊長に確認をとっているのだろう。二言、三言のやりとりを終えて再びこちらへ向き直ると、ほのかは右手でOKのサインを作ってよこした。
『隊長から許可出たよ。もし電波障害が起こって十分経っても解消しなかったら、陸戦隊の三個小隊を動かして文京区一帯を封鎖、制圧するって』
とんでもないことを口にしながら、ほのかの語気は普段と少しも変わらない。
和泉は、本気で三個を投入する用意が隊長にはあるのだと確信した。
「それには及びません。俺だけで片づけられるよう努力しますよ」
柚木芽衣子の姿が脳裏をよぎった。初めて会ったとき恐怖に縮こまっていた彼女は、円盤墜落の衝撃から立ち直りつつある町とともに、日々の営みを取り返そうとしているふうに見えた。
だが、あの子はきっと知らないだろう。
ECOが陸戦隊を動員すれば、円盤騒ぎのときとは比較にならない混乱が巻き起こるであろうことを。
飼い犬――茶々丸といったか――を連れたままシェルターに入れば、殺気立った他の避難者たちから凶器のような言葉を一斉に浴びせられるであろうことを。
そうした場面を想像するだけで、和泉の心は抉られるように痛んだ。藤代隊長の決意はたぶん妥当なのだろう。そう理解はしていても、できるならそのカードを切ってほしくはない、というのが和泉の偽らざる気持ちだ。
しかし、ほのかの反応は芳しいものではなかった。
『――イズミンさ、ちょっと肩の力抜いた方がいいな』
「え……」
『そんな怖い顔してたら、ツキが逃げる』
その一言を最後に通信が切れた。和泉はECOPADを覗き込んだまま立ち尽くす。真っ黒になったディスプレイに目を凝らすと、自分の顔が反射して見える。
ほのかの言った通り、画面には、これが自分かと驚くほどの険しい顔が映り込んでいる。