代替人間(2)
予想に反して、捜し人はあっけなく見つかった。
墜落現場のあった交差点から路地に入り、住宅地を抜けて都道に出て、そのまま道なりに北上すると民間用の避難シェルターが口を開ける。大人の足で十五分ほどの行程なのだが、その最初の二分が経つか経たないかというところで、和泉は小さな公園の脇に差しかかった。
戸建とアパートに囲まれた、本当にささやかな空間である。樹と花壇とベンチの他には申し訳程度の砂場があるばかりで、すべり台やブランコはおろか動物の形をしたスプリングすら置かれていない。たとえ警報発令下でなくともここで子供たちが遊ぶかどうかは疑わしく、公園と言うよりは「空地」と「緑道」の合いの子みたいな印象を受ける。
そこに、女子高生がいた。
高校生だと判断できるのは、彼女が通学鞄を持っているからだ。ベンチに座ったまま鞄を両手で抱きかかえ、突っ伏すように深々と顔をうずめている。腕の間から鞄の黒い生地が覗いていて、金色のインクで校章がプリントされている。両目とも二・〇の和泉の視力は、約五メートルの距離をものともせず、校章の真ん中に「高」の文字が象られていることを見て取った。見覚えのある模様であった。それも、ごく最近。
掌中のパスケースを開けて、収まっている学生証と少女の鞄とを見比べる。
――ビンゴ。
案の定、記された校章の意匠は一致する。
声をかけよう、と和泉は決めた。少女が顔を伏せているため本人かどうかまでは分からないが、違ったら違ったでECO隊員としての立場から避難を促してやればいい。事件がほぼ片付いているとはいえ、まだ一応は避難命令が継続している状況なのだ。我ながら今更だとは思うが。
車止めのポールをよけて公園に入り、少女の前まで歩み寄った。
「君、ちょっといいかな?」
「っ!?」
少女は、気の毒なほど過敏な反応を見せた。
和泉としては無造作に近づいたつもりだったのだ。しかし、あたかも外界を拒絶するかのごとく身体を丸めていた少女には、やはり和泉の足音はこれっぽっちも聞こえていなかったのだろう。ブラウスに包まれた細い肩がびくっと跳ね、鞄にうずめられていた小さな顔が勢いよく頭上を振り仰いだ。
呼びかけられて初めて他人の存在に気付いた、そんな驚きに見開かれた目がまっすぐに和泉を向く。小動物を思わせるくりくりとした瞳。普通にしていれば親しみやすい印象を与えるチャームポイントなのだろうが、今は頼りなさげな光が揺れていて、緊張からか面差しも硬い。怯えさせてしまっただろうか。
ともあれ、学生証に載っている写真と同じ相貌には違いなかった。
つまり、目の前にいるこの少女こそがパスケースの持ち主、柚木芽衣子だ。
「驚かせてごめん。この通り、怪しい者じゃない」
和泉が柔和な笑みを作ると、少女――芽衣子の顔色に安堵の気配が滲んだ。
もっとも、それは和泉の努力というよりも、ECOの隊員服による効果の方が大きかったかもしれない。嫌われ者でも公的機関である。いかに世間の風が冷たかろうと、身分の保証という点に限ってはこれほど強力なカードも珍しい。
「現場の前でこれを拾ったもんだから。君の落とし物だろ?」
「えっ? ――あ!」
和泉がパスケースを差し出すと、芽衣子は慌てて鞄の中を探り、
「……ほんとだ。ありがとうございます、わざわざ届けてくれるなんて」
「いや、君を見つけられたのはたまたまだから気にしないで。……というか、中身を勝手に確かめさせてもらっちゃったから、むしろ謝らないといけないな」
「それこそ気にしないでください。見られて困るものは入れてませんでしたし」
芽衣子は立ち上がってパスケースを受け取り、ぺこりとお辞儀をする。
その仕草に、和泉はどことなく違和感を覚えた。
まずは腰を浮かせる瞬間、次に頭を下げる際のほんの一瞬、芽衣子の所作と表情につきまとった一抹のぎこちなさ。隠そうとしたものが隠しきれずに顔を覗かせてしまった、という感じだった。
まるで、何かを必死にこらえるような――
「もしかして、どこか怪我してる?」
どこか、というのは実のところかなり白々しい言い草である。アカデミーの頃から怪我とお友達の日常を送ってきた和泉にとって、相手が体のどこを庇いながら動いているのかを察するのは決して難しい作業ではない。芽衣子の立ち姿。その体重のかけ方から、痛めたのは右足だろうと既にあたりをつけていた。
こちらの視線に気づいたか、芽衣子は手品でも見たかのように目を丸くして、
「すごい。そういうのわかるんですね。漫画みたい」
「まあ、仕事柄ね。――転んだの?」
「あのUFOが墜ちた工事現場の前を通りかかったんですけど、人とぶつかっちゃって。たぶんパスケースもそのときに落としたんだと思います」
「……やっぱり騒ぎになってたか」
「大きな音が二回して、そこからは正直あんまり覚えてないです。みんな悲鳴をあげて走り出して、いきなり後ろから誰かに押されて。とにかく逃げなきゃって思って、この公園まで……」
こんどは和泉が頬を引き攣らせる番だった。円盤を撃ち落としたのも自分なら、パニックの発端となった二つの銃声も片方は自分が放ったものだ。
「よかったら見せて。応急処置くらいなら俺にもできる」
芽衣子は慌てたようにわたわたと両手を振る。
「そんな、何から何まで悪いですよ」
「でも、警報が解除されるまでにはもう暫くかかるよ。病院に行っても誰もいないし、シェルターまで歩けるくらい平気なんだったら、そもそもここでじっとしてなんかいなかっただろ?」
最初に座っていたときのアルマジロのような格好が思い出された。
慣れ親しんだ学校からの帰り道は、今日に限っては悪夢そのものだったはずだ。突然スマホが通じなくなり、空で戦闘機とUFOがドッグファイトをおっ始め、挙句の果てには銃声を耳にしたうえ群衆のパニックに巻き込まれた。一刻も早く一歩でも遠く、恐ろしい非日常から離れてしまいたかったことだろう。だがそうすることは適わなかった。
たった数分で世界が反転してしまい、自分ひとりだけが取り残されてしまったとしたら、その心細さは如何ばかりか。ECOの隊員服を前にして慄くどころか気を緩めるような仕草を見せたのも、きっとそういう理由に違いない。
やはり図星であったらしい。芽衣子は長い沈黙の末に、
「……そう、ですね……」
まだ遠慮がちに、しかし観念したように再びベンチに腰をおろした。おっかなびっくりといった様子でローファーから足を引き抜き、黒いソックスに手を伸ばして、ためらうような手つきで引き下げてゆく。
「じゃあ……お願いします」
虫も殺さぬような顔立ちにありありと困惑が浮かんでいるのを垣間見て、少し強引だったかな、と和泉は内心で省みた。こちらとしてはささやかな罪滅ぼしのつもりだったが、芽衣子の側からすれば自分は見ず知らずの男なのであって、いくら場合が場合とはいっても素足を晒すことに何の抵抗も覚えないはずがない。実際危ない絵面と言える――和泉がECOの隊員服姿でなかったら通報待ったなし、という類の。
おかしな考えを頭から締め出した。妙な不安を与えたくない。
「捻挫だね。そこまで酷くはなさそうだ」
瑞々しい白さのきれいな足だ。それだけに足首の腫れは目立った。
そっと触れてみると、赤みが差した箇所が微かに熱を持っていた。無理をして公園まで急いだのが祟ったのか、内出血が起きている。とはいえすぐに処置すれば痣になることは防げそうだし、後遺症が残ることもないだろう。
和泉はタクティカルベストのポーチから医療キットを取り出すと、瞬間冷却材の袋を叩いて布で包み、細い足首に押し当てた。びくりと脚が震える。感覚が麻痺してくる頃を見計らって湿布を貼り、包帯でぐるぐると固定して「よし」と一言、
「こんなところかな。変に負担をかけたりしなければ一週間くらいで痛みはなくなると思う。でも、後でちゃんと医者に診てもらって」
「は、はい……」
芽衣子は神妙な顔でおずおずと頷く。
彼女が包帯で膨らんだ足にソックスとローファーを履き直すのを見届けた和泉は、医療キットをポーチにしまうと、立ち上がって手を差し伸べた。
「その足じゃ一人で歩くの不便だろうし、家まで送るよ」
「え……いいんですか?」
「いいも何も、怪我人を置き去りにできないよ。いまさらシェルターに連れてく意味もないしね。――だからまあ、最後までお節介を通させてくれると嬉しい」
最後の一言をつけ加えるのには勇気が要った。
和泉の脳裏をよぎるのは、野次馬たちが囁いたECOに対しての不信感だ。あれが市民の一般的な反応であるなら、この少女だって本音の部分では自分と関わりたくはないだろう。断られたら素直に引き下がろう、と心の中で決めていた。
しばし芽衣子は呆気にとられたように目を瞬かせた。そして口元に手を当てて、
「――ふふっ」
抑えた声で、しかしはっきりと笑みをこぼした。
「ありがとう、ございます」
芽衣子が手を伸ばし、和泉の差し出した右手を取る。
和泉は頬を緩めずにはいられなかった。
賞賛がほしくて仕事をしているわけではない。感謝されたいのとも違う。誰かに尽くすのは見返りを求めてのことではない。その気持ちに偽りはないと、和泉は今でも自信をもって言うことができる。
それでも、触れ合う掌から伝わる温かさは、確かにまた一つの現実なのだった。
◇ ◇ ◇
柚木芽衣子の一日は頬っぺたを舐める舌の感触から始まる。
茶々丸は柴犬で、オスで、芽依子の十歳の誕生日に柚木家へとやってきた。今年で七年のつき合いになる。生来の性格ゆえか、それとも両親との約束を守って自分で世話をしてきた芽衣子の献身の甲斐あってのことなのか、実によく懐いてくれており、毎朝芽衣子の部屋まで起こしにやってきてくれるのだ。
「んー……おはよ。いつもありがとうね」
腕を回して抱き寄せても、小麦色をした柔らかな毛並みに顔を擦りつけても、茶々丸は抵抗らしい抵抗をしない。くすぐったそうな身じろぎが演技であることは明らかで、尻尾がぶんぶんと激しく振れていた。
時計に目をやると、針が七時ぴったりを指していた。
「行こっか、茶々丸」
階段を下りる間、茶々丸はぴったりと後ろをついてきた。心配してくれているのかもしれない。右の足首を挫いてから十日。応急処置をしてくれたECO隊員の見立ては正しかったようで、二、三日前からはもうほとんど痛まなくなっている。とはいえ若干の違和感がまだあって、近所の整形外科医の診断によれば、完治までにはさらに十日ほどを要するらしい。
洗面所の扉を開けると、ジャージ姿の父がヒゲを剃っている最中だった。父には起き抜けに町内をウォーキングしてくるという習慣がある。健康的で結構なことだと感心する一方、外に出るなら身だしなみを整えてからにしてほしいとも娘としては思うのだが、近所づきあいというものに無頓着なところのある父は「誰もそこまで気にしちゃおらんだろ」と放言して頑なに譲らない。
「おはよ、お父さん」
「おう、休みにしちゃ早いな。どっか行くのか」
芽衣子は父の横に並び、自分の歯ブラシを手に取りつつ、
「学校」
「なんでまた。創立記念日なんだろ」
芽衣子は頷く。片手で歯磨き粉のチューブを絞る、中身が残り少ない、
「コンクールに出す絵、私だけちょっと遅れてて」
なんとか充分な量を絞り出すことに成功した。歯ブラシを咥えて、
「茶々丸のお散歩もしなきゃだし、帰りは夕方になるかな」
「――お散歩ってお前、茶々丸を学校に連れてく気か?」
「校門の外で待っててもらうから大丈夫だよ。美術室まで画材取りに行くだけだし、その間は友達に見ててもらうから。私、絵は外で描くほうが好きなの」
「よく知らんけど、油絵って外でも描けるもんなのか」
「描けるよ。でも今日は下描きまでにしとく」
父は「ふうん」と相槌を打った。こういうときの父はこちらの話をわかったようでわかっていない。
「まあ、あんま無理すんなよ。足まだ治りきってないんだから」
そう言い置いて、父はシェービング剤を洗い落とし、洗面所を出て行った。
芽衣子は歯磨きと洗顔と髪のセットを済ませ、ふたたび自分の部屋に戻った。下着を替えて、いつもの学校指定のブラウスとスカートに手を伸ばそうとして思いとどまる。
創立記念日だから休み、なのだ。
つまり暦の上ではきょうは平日なのであって、制服で出歩いていては不良と間違えられてしまうかもしれない。
少し迷い、結局は私服を引っ張り出した。リボンつきのジャケットと膝丈のフレアスカート。去年友人に薦められて買ったまではよかったが、なんとなく着る機会を逸したまま季節が変わってしまい、タンスの肥やしと化していた代物だ。せっかくだからこれで行ってみようか――。
鏡の前に立ってみる。他人のチョイスであるせいか、やはり見慣れない装いの自分が映る。
けれど、そんなに悪くはないと思う。
「茶々丸、どうかな?」
もちろん答えが返るはずもない。わしわしと頭を撫でてやる。
と、スマートフォンがSNSアプリの通知音を奏でた。
『とーか:起きた? 九時に校門前だからね! ――10秒前』
「……気が早いなぁ」
約束の時刻まではまだ一時間と半分もある。今日は茶々丸と一緒だから電車には乗れないが、いくら徒歩でもさすがにそこまではかからないし、そもそも寝起きについて言うなら心配なのはむしろ桃華の方だ。
『芽衣子:今起きたとこ。そっちこそ遅れないでよ? ――現在』
返信を打つと、間髪入れずに画像が送られてきた。満面の笑顔で親指を立てる人物がコミカルなタッチで描かれている。芽衣子は小さく噴き出してスマホを鞄に収めた。
あらためて部屋を出る。
リビングに入ると、母が朝食の準備をしているところだった。スーツに着替えた父がテーブルについて、新聞の一面を眺めている。その正面から片付いた食器を下げながら、エプロン姿の母はこちらに気付いて目を丸くした。
「おはよう。――どうしたのそんな気合入った格好で。デート?」
「もう、違うってば。友達と出かけるだけ」
思わず苦笑が漏れた。母のこういったからかいは今に始まったことではないので、芽衣子もいちいち大げさに反応したりはしない。とはいえこの服装を「絶対あんたに似合うから!」と薦めてきたのが当の友達――香原桃華であるのも事実で、捉えようによっては母の冗談もあながち見当違いとは言い切れないのだった。
茶々丸が山盛りのドッグフードと格闘しはじめるのを見届けて、芽衣子も自分の席に座る。
朝だろうとお構いなしにハイペースで食う父と比べるまでもなく、芽衣子の胃袋は奥ゆかしい。今日も今日とて皿の上にはトーストとハムエッグと少量のサラダだけしか載らず、そんな様子を見た母は「誰に似たのかしらねえ」などとしきりに首を傾げている。
「もうちょっと食べられればもう少しは大きく……」
「よけいなお世話」
牛乳を飲み干した芽衣子の手元で、空になった瓶がわざとらしい音をたてた。
そのとき、さっきから黙々と新聞をめくっていた父が顔を上げて、
「――そうだ母さん、きょう帰り遅くなるの言ってたっけか」
「ええ?」
母はふきんで手を拭きながら、
「初耳ですよ。どうしたんです、まだ忙しい時期じゃないんでしょう?」
「や、うちの常務が定年でな。送迎会があるんだ」
みるみるうちに母が表情を曇らせ、その理由に心当たりのある芽衣子も自ずと語調を強める。
「また飲み会ですか。ほどほどにしてくださいよ、あなたお酒そんなに強くないんだから」
「お父さん、この前も酔って終電逃してお母さんに迎えに来てもらったでしょ。お母さんだって朝早いんだからダメだよああいうの」
一気に肩身の狭くなった父は唇をへの字に曲げて、
「だって出席して飲まないわけにいかんだろ。――まあ、今日は気をつける」
飲みかけだったコーヒーを啜ってカップを置き、
「じゃあ行ってくるぞ」
言うが早いか席を立ち、そそくさと逃げるように出勤していった。
玄関のむこうに消える背中に「いってらっしゃい」と声をかけ、ふと芽衣子はテレビの時刻表示に目をやる。七時五十五分。
「私もそろそろ出ようかな。――茶々丸、行くよ」
芽衣子がトーストの最後のひときれを口に放り込むのと同時、茶々丸も自分の食事を平らげたようだった。口の端についた食べかすを舐め取って、芽衣子の足元に駆け寄ってくる。
「――あ、芽衣子!」
ブーツを履いたところで、背後から母の声が追いかけてきた。
「なに?」
「ついでにお隣に回覧板回してきてちょうだい!」
下駄箱に立てかけてあった回覧板をつかんで外に出る。茶々丸の首輪にリードを取りつけ、歩調をそろえて足を踏み出す。この頃は暖かくなってきた。頭上を仰げばどこまでも青が広がっている。月初めに梅雨入りしたのが嘘だと思えるような、雲ひとつない晴れ空だ。今年の夏もきっと暑くなるのだろう。
うーん、と芽衣子は青天に向かって伸びをする。左手には町内会の回覧板。紺色をしたバインダーに挟まった紙には、素っ気ない字体でこんな見出しがプリントされている。
『深夜徘徊への注意喚起について』
街道に出ると、せわしく行き交う車の音が芽衣子を迎えた。
慣れ親しんだいつもの町だ。
十日経てばどんな騒ぎも遠い過去になるのか、界隈はすっかり日々の営みを取り戻していた。瓦礫が山と積みあがっていることもなければ、壁のように密集した野次馬の群れが道を詰まらせていたりもしない。大規模電波障害もUFO墜落も最初からなかったかのように、コンクリートの臭いが立ちのぼってきそうな真新しい路面の上を、ビジネススーツや学生服に身を包んだ男女がそしらぬ顔で歩き過ぎてゆく。
ウゥ、と足元から小さな唸り声。
芽衣子は茶々丸に目を向けようとして、自分の顔がこわばっていることに初めて気づいた。
頬に手を当てて無理やりにほぐす。
失敗だった。騒動に巻き込まれた次の日からは別の道を選んでいたのに、ついつい馴染みの通学ルートを来てしまった。茶々丸と一緒だから気が緩んだのかもしれない。いや、もちろん茶々丸は何も悪くないし、あんな事件はそうそう何度も起こるものじゃないんだろうけど――。
気にしすぎだと分かっていても、一度意識してしまうと駄目だった。
今にも空が翳って、彼方から宇宙船が突っ込んでくるのではないかと妄想した。
するり、と手の内側を擦る感触。
リードが抜けたと気付いたときには遅かった。茶々丸が勢いよく駆け出し、そのこと自体にも意表をつかれて後を追うのがさらに遅れた。茶々丸が芽衣子のそばを離れようとすることは滅多にないのだ。犬に綱をつけるのは単純にそれがお散歩のマナーだからで、本当のところを言えば茶々丸はどこにも行ったりしないし、ましてや見知らぬ誰かに吠えかかったりなど絶対にしない――そう思っていた。
ところが今、まさにそのようなことが起きている。
プレハブ造りになってしまったラジオ局の駐車場の植え込みの前で、茶々丸はあろうことか何の関係もない青年を困らせはじめた。いったい何が面白いのか、駐車場と歩道との境目に立っていた青年のまわりをきゃんきゃん吠えながら飛び跳ねて回る。
右足のケガのことなど一瞬で頭から蒸発した。芽衣子は血相を変えて走り寄ると、ほとんどしがみつくようにして茶々丸を青年から引き離した。
「ごめんなさい! 私が目を離したばっかりに……!」
茶々丸が再び逃げないようしっかり両腕で抱きしめながら、芽衣子は深々と頭を下げる。相手のジャケットの黒とシャツの白、デニムの深い青――色だけが視界を順番に流れていった。慌てすぎていて、顔などろくに見てもいなかった。
怒鳴られても仕方ないと思っていた。
意外にも、穏やかな調子の声が降ってきた。
「――顔上げて。俺なら大丈夫だから」
聞き覚えのある声だった。
顔を上げた。
「ええっと……柚木さん、だったよね。また会うなんて奇遇だね」
パスケースと右足の恩人は、そう言ってにこりと笑う。
さして幅広でもない歩道で立ち話はよくない。そういう理由で場所を移した先は、ほんの二、三分ばかり歩いたところに佇む小さな公園であった。途中立ち寄った自動販売機の前で、青年は何か奢ろうかと提案してきたが、そればかりは好意と知りつつも断固として拒否した。迷惑をかけてしまった挙句に飲み物まで奢ってもらうというのは、芽衣子の常識ではあってはならないことだ。
結局、彼は無糖の缶コーヒーを、自分はオレンジジュースを各々の小銭で買った。
十日前と同じベンチに、今度はふたりと一匹で並んで座る。
公園は静かなものだった。自分たちのほかには誰の姿もなく、街道を走る車の音も実際の距離以上に遠く感じる。気の早いセミの「じじじ」という鳴き声だけが、ぽっかりと空いた町の隙間を埋めるかのように響いている。
芽衣子はジュースの缶に口をつけたまま、密かに目だけを動かして青年を見た。
「――あの、本当にすみません。いつもはおとなしい子なんですけど……」
青年はコーヒーを持っていない方の手を振って、
「いいって。そりゃまあびっくりはしたけど、珍しいものも見れたし」
「珍しいもの?」
「いや、こっちの話」
思い出し笑いを噛み殺すような表情を浮かべて、青年は茶々丸にむかって手を差し伸ばす。また茶々丸が吠えだすのではないかと芽衣子は気が気でなかったが、幸いなことに茶々丸は嫌がるそぶりを見せなかった。青年の掌にごしごしと鼻を擦り付け、どういう心境の変化があったのか、くいっと顎を持ち上げてみせる。
「俺は怖くないってわかってくれたみたいだ。賢い犬だね」
青年が茶々丸の喉を撫でるのを、芽衣子は安心半分拍子抜け半分で見つめる。
「この子の名前は?」
「茶々丸です。毛が茶色いから」
「なるほど、わかりやすいな。――やっぱり犬っていいもんだね。俺、動物っていえば金魚くらいしか飼ったことなくてさあ、こうやって触ったり抱いたりできる生き物に昔から憧れてたんだ。お手」
よろしくな茶々丸くん、と青年は馬鹿丁寧にあいさつをする。よその犬を相手にしているとは思えない真剣な口ぶりと、褐色の毛並みを撫でまわす無邪気な仕草とのギャップがおかしくて、芽衣子はこらえきれずに小さく笑みをこぼす。
ジュースを口に含み、ふたたび青年へと視線を戻した。
目が合った。
「――っ」
発作でも起こしたかのように、芽衣子はものすごい勢いで目を逸らした。
自らの心臓の音を感じる。
こころの中にいるもう一人の自分が、ふだんの私ではあり得ない行動だな、と囁きかけてくる。自分はわりと人見知りをする方だと思っていた。男の人と隣り合って言葉を交わしているというだけでも信じられないのに、その相手が名前も知らない大人だなんて考えるだけでも気が遠くなる。なんだかとてもいけないことをしているような――、
「足、もう平気?」
思考が泡のように弾けた。
「あ――はい、おかげさまで。応急処置が良かったんだって整形外科の先生が言ってました」
「そっか、ならいいんだ。さっき走ってたからちょっと心配になってさ」
「大丈夫です。また痛み出したりもしてないので」
ふしぎな人だった。
初めて会ったときから、年上らしい余裕を見せる男ではあった。落ち着いていると言い換えてもいい。その一方で、彼の気遣いの裏側にはまるで壊れ物でも扱うかのような、ある種の陰のようなものが見え隠れする。実はナイーブな性格なのかと思えば、茶々丸とのスキンシップを楽しむ表情は青空のように晴れやかで、見た目より子供っぽい人なのかも、という気もする。
唐突に、疑問が湧いた。
「隊員さん、今日はどうしてこちらに?」
今日の彼は私服を着ている。
しかし、こんな住宅地に私用で訪れたはずはなかった。知り合いがいるのであれば話は別だが、青年がこのあたりの地理に詳しくないことは以前家まで送ってもらったときに確認済みだ。
あの日UFOが落ちた現場の前で、彼は何をしていたのだろう。
「詳しくは話せない」と青年は言う。「でも、君にも訊きたいことがある」
どこかからセミの声が聴こえ続けている。
「それはもちろん、わかることなら答えます、けど」
「最近、この町で変わったことはない?」