代替人間(1)
視界いっぱいの群青を、漆黒の鳥となって駆ける。
操縦席に備え付けられたディスプレイに、海面すれすれを飛ぶ円盤の光学映像が表示されている。その画面が激しく波打ち、たちまちのうちに暗転するのを見て、和泉眞はいっそう気を引き締めた。
「和泉よりコマンドルーム。間もなく対象と接触します」
声は果たして届いたのかどうか。微妙なタイミングだった。通信をオンにした途端スピーカーがノイズを吐きはじめ、言い終える頃には雑音に支配されていた。
円盤が撒き散らす怪電波のせいだ。
これがためにECOは初動対応をしくじった。国立天文台から「不審な飛行物体あり」との通報が入ったとき、人工衛星による監視の網はとうに掻い潜られた後であり、円盤は太平洋側から日本に向かって近づいているところだったのだ。
――何が目的だ?
円盤が来るであろう方角の空を睨みながら、和泉は対異文明用のIFFを起動させた。暗号化されたメッセージを電波に乗せて発信するという仕組みで、メッセージは素数の知識を応用することで解読できる。われわれはこの惑星に文明共同体を有する知的種族であり、あなたがたと対話する用意があります――。
回答はない。念のため周波数を切り替えて同じことを試したが、やはり結果は変わらなかった。
ECMの権化のような相手である。もとより無駄と知りつつの行動ではあった。そもそもジャミングでカモフラージュしながら侵入してくる時点で、友好的に振舞うつもりがあるとは思えない。
ややあって、空の一点に影が生まれた。
ぐっと操縦桿を引いてレーベンを上昇させる。間もなく、遥か下方を円盤が素通りしていった。和泉は大きく旋回してその後を追う。
あちらが速度を抑えていることはすぐにわかった。心の中で警戒のレベルを一段階上げる。素直に応援を待つべきか。
和泉の迷いは一瞬しかもたなかった。
行く手に町が見え、そして円盤がスピードを上げた。
虚を衝かれた。あちらはレーダーに映らず、光学的な手段でなければ捕捉できない。観測衛星との通信を封じられている以上、目視圏外に出られてしまったら打つ手なしだ。
和泉は即座にオーグメンタを作動させ、距離を開けられまいとする。身の毛もよだつ勢いで減っていく燃料。大洗上空で加速をはじめたレーベンは、霞ケ浦を突っ切ろうかというときに水蒸気の雲を突き破り、柏に差し掛かったあたりでスーパークルーズに移行した。
そこから東京に到達するまで一分とかからなかった。
その一分もない時間のうちに、和泉はさらに幾通りものパターンで必死に交信を試みた。が、電波はそもそも届かず、発光や発煙を用いた信号にも円盤は返答をよこさなかった。
――仕方ない。
和泉は苦々しいものを感じながら、操縦桿のトリガーボタンのカバーを跳ね上げた。
まだ日の沈まない時刻である。多量の情報が飛び交う東京都心にとって、電波妨害によるインフラの麻痺は下手な破壊活動よりも遥かに深刻な脅威となりうる。既に影響が出ているだろう。決断するしかない。
高度を下げるとともにオーグメンタに再点火。噛み合わせた奥歯が軋みをあげる。間合いが一気に縮まる。
トリガーにかけた指を押し込もうとした。
円盤が、稲妻のように消えた。
物理法則をまるで無視した急制動。
後ろをとられた――そのことを理解した和泉はとっさに操縦桿を倒し、ラダーペダルを蹴りつけた。レーベンはよく反応した。体じゅうの血が一斉に片寄る感覚とともに、機体が強引極まるターンで左へ逃げた。
半瞬前までレーベンがいた空間をビームが焼き貫いた。
ふっ、と荒い息をつく。
これで判った。こいつは敵だ。
はっきりとスイッチが切り替わる。やむを得ないとはいえ、敵意が明らかでない相手を撃ち落とすことには抵抗があった。しかし今、ためらう理由はなくなったのだ。
和泉はそのまま旋回を保ち、円盤がふたたびレーベンを追い抜く瞬間を待った。むこうの運動性がこちらを凌駕している以上賭けには違いなかったが、やる価値はあると踏んでいた。もし敵がさっきの魔法を無制限に使えるのなら、速力で撒こうとはせずに、最初から空戦に持ち込んできたはずだからだ。
まさしく読みどおりだった。
円盤は減速しきれず、レーベンの前方へと滑り出た。
近い。和泉は油断をしない。すばやく機体を制御して旋回方向を反転させる。敵もこちらの狙いを察したか、真逆の軌道をとって食らいついてくる。
航跡が絡み合い、二重螺旋を描くように伸びてゆく。
カラスとUFOが踊る。
四度目の交差を終えたとき、和泉は背中を見せて逃げる番だった。射掛けられる火線をかわしながら、首を反らして円盤に目を凝らし続ける。いつまた馬鹿げた機動を繰り出してくるか知れない。絶対に振り切られてはならず、持久戦に引きずり込まれてもならない。
次で勝負に出よう。和泉はそう決めた。
そして、五度目の交差が起こった。
仕掛けた。
猛然と切り返した機首の先に、ただ青空だけが広がっていた。
確かに押し出してやったはずの敵がいない。
何があったかなど考えるまでもない。あの常軌を逸した機動。反重力フィールドと慣性コントロールなくしては為し得ない悪魔の業。そうくるだろうと思ってはいた。ここぞの場面のために温存している可能性は和泉とて覚悟の上だったし、それをした相手が必ずこちらの背後上方に占位することもわかっていた。
和泉は、残りの燃料をオーグメンタにぶち込んだ。
舵を限界まで引き起こす。レーベンの頭が天を仰ぎ、炎の尾を引きながら、流れる綿雲めがけてぐんぐんと上昇してゆく。円盤が加速して追い縋ってくる。むこうもここで決着をつける肚だ。抜け目なく旋回の内側に留まって、ビームの照準を合わせている。
軸線が重なる寸前、和泉は横転を打った。
放たれたビームが空を切った。
内と外が入れ替わる。曲芸じみたマヌーバが空振りに終わった今、もはや円盤は旋回半径を狭めることができない。形勢不利を悟ったか、脇目も振らずに降下して離脱にかかる。
レーベンの黒翼が、太陽を背にして翻る。
和泉は機首を下げて突撃した。視界の中で急速に大きくなる円盤の姿。外す方が難しいほどの距離まで迫ったとき、和泉はついにトリガーを絞った。
「いけっ!」
自由電子レーザー砲が空域を薙いだ。
ふた筋の光条が、円盤の滑らかな装甲を射抜いた。小さな爆発が起こり、撒き散らされた金属片が太陽に照らされてきらきらと輝いた。
円盤が煙を噴いて墜落してゆくのを見届けて、和泉はレーベンを水平飛行に復帰させた。コクピット内の機材に目をやる。妨害電波は無事に止まったらしく、ディスプレイの表示が元通りになっていた。
『――お疲れ、イズミン。大丈夫だった?』
声とともにウィンドウが開き、佐倉ほのか隊員の顔が映った。連絡が早いのは助かるが、共通回線で「イズミン」はやめてほしい。
「……まあ、なんとか無事です。あと一回なら離着陸できそうなので、墜落地点の状況を確認してから帰投しようと思うんですが」
『OK。こっちからも処理班が向かったよ。三〇分もあれば着くだろうから、引き継ぎ終わったら戻ってきて』
よくも悪くも佐倉隊員は虚飾をしない。事態の収束が確定するまで気を抜くべきではないにもかかわらず、口調からはやりきった感じが透けていて、表情はいかにも肩の荷が下りたといったふうだ。
和泉は苦笑混じりにヘルメットの下で片眉を上げる。
「了解。――佐倉隊員もお疲れ様です」
無線の電波が乱されていたとはいっても、有線通信を介して避難命令を発したり、インターネットを使って警戒を促したりと、できることはいくらでもあった。自分も生きるか死ぬかの局面だったが、彼女も彼女なりに濃密な時間を乗り切ったという気分なのだろう。
「さて、と」
通信を切って、円盤の落ちた地上を見やる。
まだ残骸が燃えているのか、黒煙が風にたなびいている。幸い工場が集積している区画からは外れており、大規模な火災には発展していないようだった。
少し視線を動かせば、東京ドームの白い天蓋が目に飛び込んでくる。
――文京か。
あたりには大学や公園など、広い敷地を有する施設が多い。レーベンを駐機させる場所には困るまい。
和泉はノズルを下に向け、ゆっくりと降りていった。
小学校のグラウンドにレーベンを着陸させ、応対に現れた職員への挨拶を手短に済ませると、和泉は足早に校門を潜り抜けた。
立ち昇る黒煙を目印にして走る。
街道沿いにこそ立派なオフィスやマンションが並ぶものの、道路を一本渡ると民家ばかりの景観が広がる。よく見ればどの家も洒落た造りをしていて、それなりに裕福な層が住んでいると推測できた。なんとなしに居心地の悪さを感じる。自分には縁のないところだ。
狭い路地を抜け、反対側の通りに出た。
やはりと言うべきか、墜落地点では騒ぎが起きていた。既に野次馬が集まっていたのだ。各々スマートフォンやデジタルカメラを手にして、円盤が突っ込んだ建設現場のフェンスの奥へと向けている。
「ここは立入禁止です! 近づかないでください!」
群衆の中から警官の声が漏れ聞こえてくる。しきりに退去を呼びかけているが、その語調からはどこか戸惑いが感じられた。ことUFOに関しては警察も素人とそう変わりはない。それを分かっているからなのか、野次馬たちはいっこうに警官の言葉を聞き入れようとしない。
――佐倉隊員が見たら怒りそうだな……。
当然ながら、避難命令はまだ解除されていない。だというのにこうなるのでは、人々に危険を知らせるべく八方手を尽くしたであろう彼女もやりきれまい。
だが、すべては前触れなく始まり、あっという間に終わったのだ。警報が皆に知れ渡るにはあまりにも時間が足りなかったし、運良く知ることのできた者もシェルターから離れた場所にいては避難のしようがなかった。そんな状況で手持ちの電子機器がちょうど息を吹き返したら、脅威が去ったものと思い込んでしまってもさほど不思議ではない……のかもしれない。
そう自分を納得させることにする。
和泉は二度の咳払いの後、すうっと息を吸い込んで、
「皆さん、下がってください!!」
瞬間、どよめきが引き潮のように静まった。
脳天を打ち抜かんばかりの声量を浴びて、群衆が一人、また一人と振り返る。注がれる何十個もの視線。多くは和泉より年下か同年代くらいの若者だが、なかには四〇代も半ばを過ぎようかという主婦らしき姿もある。
和泉は居並ぶ顔をぐるりと見回し、堂々と口を開いた。
「この地区には怪獣警報が発令されています。我々が皆さんの安全を確保するまで、然るべき場所にて今しばらくお待ちください。――通していただけますか」
ECOの制服は効果覿面だった。気まずそうな沈黙とともに人垣が割れる。開いたその道を進んで、和泉は円盤の残骸へと近づいてゆく。
「これだもんなECOは。いつもいつも隠し事ばかり……」
「余計なこと言うな。目ぇつけられたらヤバいぞ」
途中、そんな会話が聞こえてきた。思わず表情が硬くなる。
――まるでこっちが悪者だ。
突如降って湧いた非日常に興味を惹かれ、一線を踏み越えた者が命を落とした例は幾つもある。しかし、野次馬たちの心配はそこにはない。いま彼らが恐れているのは、保護や機密保持といった名目で身柄を拘束されることの方なのだ。
「べつに取って食ったりしないんだけどなあ……」
賞賛が欲しくて仕事をしているわけではない。とはいえECOの活動はもっと理解を得られてもいいはずだよな、と和泉はちょっと傷つきながら思う。
「お疲れ様です」
奥まで辿り着き、二人の警官に歩み寄る。
「ECO日本支部、戦略特捜隊の和泉です。現場保存へのご協力ありがとうございました」
「いえ。……お一人で?」
「あとから処理班が来ます。それまでは自分が」
中年の警官は頷き、部下を残して和泉をフェンスの内側へと招き入れた。
「工事現場ですか。何が建つんです?」
「FMラジオの放送局だそうです。もっとも、こうまで壊れては工期どおりには建たないでしょうがね」
建設中の施設は骨組みの段階であったらしい。形を留めている部分を見るに三階建てほどの慎ましやかなビルだが、駐車場の予定地と合わせた敷地面積はなかなかのものだ。スタジオだけでなく本社機能も兼ねる造りなのだろう。
その右半分が、円盤によって抉り取られていた。
「たしかに……これは酷い」
損壊している箇所の鉄筋は蝋細工のように捻じ曲がり、もはや建物を支える役には立ちそうにない。骨組みの全体が大きく歪んでしまっており、ラジオ局の社屋というよりは、このまま前衛芸術として発表するのだと紹介された方がまだしも信じられそうな有様だ。補修で済むレベルを完全に超えている。
一方の円盤はと言えば、こちらもこちらで無残な格好を晒していた。鈍く光沢を放っていた外装は焼け焦げ、何の役割を果たしていたのかも分からぬ機械の部品がそこかしこに散乱している。
つい先刻までドッグファイトを繰り広げていたのが嘘のようだった。木っ端微塵に砕けたその様は、墜落の衝撃がいかに大きかったかを雄弁に物語っている。
乗っていたのが何者であれ、これではまず生きてはいまい。
「――藤代隊長、応答願います」
ECOPADを手に取り、ふたたびコマンドルームとの回線を繋ぐ。返事はすぐに来た。
『藤代だ。状況は?』
「円盤はビルの建設予定地に落下、大破しています。民間人に死傷者は出ていないようですが……」
『エイリアンの死体は確認できるか?』
藤代の双眸がいつになく剣呑な色を帯びていた。
円盤がどのような目的で訪れたのかは今となっては知るべくもないが、その行動に鑑みて、地球や人類への害意があったことは否定しがたい。そういう相手に対しては、藤代は一切の手心を加えないことで知られる。
侵略者の攻撃艦隊を「蒸気の海」の藻屑と変えたヒギヌス戦線。東南アジアの小国の紛争に介入し、裏で糸を引く宇宙商人を捕らえたファナン‐ガマ停戦。いずれもアカデミーの教科書に載るほど有名な話である。
つまり、藤代啓吾という男は対異星人戦のスペシャリストなのだ。
初動が致命的に遅れたにもかかわらず和泉機の発進が間に合ったのも、藤代がぎりぎりのところで通常部隊の指揮に割って入ったからだった。
「死体は……見える範囲には無いですね」
捜し物をするには瓦礫をどかす必要があるが、とても一人でやれる作業ではない。処理班に期待するしかない。
『無人機だった可能性はあると思うか?』
この問いには確信をもって答えることができた。首を横に振って、
「それは無いかと。急制動や方向転換を連続で行えなかったのは、乗員に負担がかかりすぎるからでしょう。コイツが無人機なら墜ちてたのは俺の方ですよ」
『今、誰かと一緒か?』
「警察のかたがいます。……隊長?」
藤代の面持ちがみるみるうちに険しさを増した。つられるように和泉も眉をひそめる。隊長はいったい何に気付いたのか。
そして、時間がどろりと濁った。
『離れろ!』
藤代が血相を変えて一喝した。直後にECOPADの画面がノイズに塗れ、和泉とコマンドルームを結んでいた回線が断ち切られた。
(――眞、後ろよ!)
頭のなかに直接響く鋭い声。和泉がその意味を掴むより早く、目の前の景色が陽炎のように揺らぐ。
虚空から滲み出るように現れた少女がつま先からふわりと降り立ち、真っ白なワンピースの裾が翻った。少女――ナエは和泉に向かって掌をかざし、怜悧なまなざしに力をこめた。
銃声が轟いた。
和泉には何が起こったのかわからない。わからないが、ただならぬ事態が進行していることだけは疑う余地がなかった。本能に突き動かされた身体が、飛び退って背後へと向き直る。
そこに、冗談のような光景があった。
銃弾が宙に静止していた。
波打つ光が障壁となって、弾を空中に縫い止めているのだ。
ナエが腕を下ろすと、光の盾は霧散した。三八口径の銃弾が重力に引かれ、甲高い音とともに地面を転がる。
遮るもののなくなった和泉の視界に、拳銃を構えた警官の姿が飛び込んできた。真新しい硝煙を燻らせる銃口が、まっすぐ和泉の心臓へと伸びている。
肌が粟立った。
認識がようやく現実に追いついた。
「おまえ、人間じゃないな! 正体を現せ!」
和泉はECOガンを抜き撃った。
警官が短く呻き、もんどりうって倒れる。血の溢れる腹部を押さえながらしばらくの間もがき、やがて動かなくなった。
和泉はゆっくりとにじり寄ったが、その警戒は杞憂に終わった。警官の体が崩壊を始めたのだ。湿り気のある耳障りな音をたてながら溶けてゆく。赤かった血はたちまち緑に変色し、肉や骨はどろどろとした白灰色のゲルとなった。
あとに残ったのは警官の衣服と装備一式、そして人の形に広がった粘液だまりだけだった。
和泉はしゃがみ込むと、グローブをはめた手で粘液を掬い取った。親指と人差し指のあいだに緑がかった糸が引かれる。不快な感触だが、臭いはない。
「人間に寄生……いや、擬態していたのか……?」
成分を調べるまでもない。これが人体の組織に由来するものだとは到底思えない。エイリアンが人間に化けていたと考える方がずっと自然だ。
和泉の首筋を冷や汗が伝った。
危ないところだった。会話すら交わしておきながら、欠片ほどの違和感も見出せなかったのだ。
電波妨害と擬態。どちらも人間社会に混乱をもたらしうる能力だ。こんな奴が世に放たれていようものなら、地球はそれと気づかぬうちに乗っ取られてしまったかもしれない。ここで阻止できたのは幸いというほかない。
「ナエ――」
君のおかげで助かった。そう言おうとした。
しかし、少女の姿はいつもどおり忽然と消えていた。
佐倉隊員の見立てどおり、処理班はすぐに着いた。
白一色の防護衣を纏った隊員が、ぐったりとした警官を二人がかりで連行してゆく。白いバンの扉が閉まるのを、和泉は重石を抱えたような気分で見つめた。
若い方の警官は、銃声を聞きつけるなり現場に踏み込んできた。そのときの反応から察するに、エイリアンはさぞ巧妙に彼の上司を模していたに違いない。和泉と処理班の面々は、錯乱した警官を取り押さえるために鎮静剤を使わねばならなかった。
ただ、実のところ、若い警官の心配は無用だ。
都内にはECOと提携している病院が幾つかある。警官にはひとまず検査を受けてもらうが、元凶であるエイリアンがすでに死亡済みなのだから、さほど面倒な事態にはなるまい。検査は何事もなく終わり、彼は心身のケアを施されたのち解放される。それはいい。
問題は、エイリアンが化けていた中年警官の方だ。
エイリアンの死骸が溶けても、服と装備はそのままだった。ということは、本物の中年警官が身に着けていた本物の服と装備だったのだろう。何もかもを奪った後、エイリアンが中年警官をどうしたのかは断言できないが、生かしておく理由もなかったはずだ。消し炭にしたのかもしれないし、養分として吸収したのかもしれないし、あるいは意外と瓦礫の下に隠してあるのかもしれない。
――でも……いつ擬態したんだ?
当然、そこが気になってくる。
円盤が墜ちてから和泉が駆けつけるまでの空白の時間。それが最も可能性の高いところだが、エイリアンの能力しだいでは別のタイミングもありえた。なにしろ和泉はフェンスを潜ってからはずっと警官に背を向けていたし、藤代と通信している間は意識もしていなかったのだ。
自分がもっと警戒していれば、もしかしたら――。
そこから先の思考を、和泉は首を振って捻じ切った。答えを解き明かせば犠牲になった命が還ってくるというわけでもない。それにどのみち、今となっては真相は永遠に闇の中だ。
「…………」
瞑目する。キリエスに変身していない今、死せる魂の嘆きは聴こえない。せめて遺体が見つかってくれるよう祈りながら、和泉はそっと両手を合わせた。
瞬間、ECOPADが激しく震えた。
『――和泉隊員っ!』
ものすごく焦れた調子の声が飛び込んできた。ECOPADを手に取って画面を見ると、ポップアップしたウィンドウに、黒髪の女性隊員――桐島唯の顔が映った。
唯はこちらを見るなり微かに表情を和らげたが、すぐさま口元を引き結んだ。いやに視線がきつい。怒っているらしい。
和泉はおそるおそる、
「き、桐島隊員? びっくりさせないでくださいよ」
『びっくりしたのはこっちだっ! 無事だったなら早く連絡をよこせ。君がやられたんじゃないかと思って、みんな肝を冷やしたんだぞ』
――あ。
和泉は銃撃されたときの状況を思い出す。
ちょうど今そうであるように、回線が繋がっている只中だったのだ。エイリアンの擬態を見抜いた藤代隊長が警告を発し、その叫びが届いたか否かもわからぬうちに和泉との通信が断たれた――というのが、コマンドルームに詰めていた全員の認識であるはずだ。
画面越しに睨み据えてくる唯の、刃物のような目つき。
それ以上の言葉は不要だった。頭が下がった。
「すみません。何て言うかその、いきなりいろいろあったんで、自分でも気持ちが追いつかなくって」
『……で、怪我はないんだな?』
「全然」
ナエが守ってくれなければ心臓を撃ち抜かれていた、というのが実際のところだが、正直に話す必要もあるまい。
『敵は仕留めたのか?』
「射殺しました。いま処理班が死骸を回収してます」
『ならいいが』
唯は長い睫毛を伏せ、これ見よがしに溜め息をつく。
『やっぱり今度からは必ずわたしも連れていけ。ただでさえ君は少し危なっかしいところがあるんだからな』
「……俺ってそんなイメージです?」
唯の返事はにべもなかった。
『自分の胸に手を当てて考えてみろ』
「ひどいなあ……」
苦笑が漏れたが、反論する気は起きない。唯と知り合ってからというもの、彼女には格好のつかないところを見られてばかりだ。
『とにかく帰ってこい。君の仕事は終わったんだ』
「そうですね。じゃあ、基地で」
ECOPADを胴回りのポーチにしまい込む。
あたりを見回せば、人影は随分とまばらになっていた。和泉が呼びかけた時点で野次馬たちの腰は相当に引けていたし、とどめとばかりに銃声が聞こえてきたのでは逃げ去ってしまうのも道理と言える。通行人がときおり興味を引かれて立ち止まりはするものの、作業しているのがECOだと知るや否や足早に離れていくのだった。
まあ、変に首を突っ込まれるよりはマシだ。
和泉はそう結論づけた。
処理班にはすでに手持ちの情報を伝えてある。作業が始まれば、人々が元の生活を取り戻すまでには一日とかかるまい。ここで自分にできることはもうない。
踵を返そうとした。
「……ん?」
ブーツの裏が何かに触れた。
拾い上げて靴跡をはたき落とす。
「パスケース、か」
ウサギをあしらった浅黄色のカバー。ひっくり返してみると、透明シートの窓から切符代わりの電子マネーカードが覗いた。通学定期の印字があるから、落としたのは学生なのだろう。
開けてみると、予想どおり学生証が見つかった。
――京珠高校二年、柚木芽衣子。
顔写真が載っている。見覚えのない相手であることは一見してわかった。先刻まで雁首を並べていた野次馬たちの中に、この少女は間違いなく居なかった。
たまたま通りかかって落とした、ということか。
無い話じゃないな、と思う。銃声がしたとき起こったであろうパニックに巻き込まれたのなら、和泉だって落し物くらいするかもしれない。
「さて、どうしたもんかな」
もちろん、いちばん簡単なのは交番に預けてしまうことだ。
しかし、警官に扮した敵に撃たれたばかりであるという事実が、結局はブレーキになった。いま交番に残っている者を警戒する意味はない。そう頭では理解していても、心理的な抵抗は如何ともしがたい。
――自分で届けよう。
せっかく顔も名前も判ってるんだし。近くを捜してみて会えないようなら、学校に届けておけば本人の手元まで返るはずだ。
和泉はパスケースを胸ポケットに入れ、墜落地点を後にした。