銀色の来訪者(2)
かつては瑞々しさに溢れていた奥多摩の地も、今やひっそりと静まり返り、登山客で賑わっていた頃の面影はない。急峻な山々を取り囲むように鉄条網が張り巡らされ、正面ゲート前には「特別環境管理区域」の標示が掲げられている。街道に沿ってこれ見よがしに仕掛けられた監視カメラや、周辺を徘徊するパトロール隊が近づく者を威圧し、奥へ立ち入らせないよう万全の態勢を敷いている。
不法投棄を企てる悪徳業者ですら林に踏み入ろうとはしない昨今、豊かな自然を守ろうといった意図ではまさかない。たとえば植生の異常、あるいは野生動物の奇形化――前世紀から報告されてきた異変の数々は、悪夢の「七・一七」において、ついに怪獣を呼び覚ますまでに至った。森はどんな危険が潜むかもわからぬ魔境なのだ。この一帯で具体的な被害が出たという記録は現在までのところないが、環境の変動がなおも進行し続けていることは確かだった。
「観測点M7、レキウム反応検出を確認。侵食係数一・九ノルダル。前回の計測より〇・二の増加です」
ゲートを越えて木立ちに分け入り、四〇〇メートルほど斜面を登ったところで、桐島唯は最初の報告を聞いた。気温は零度を割っていた。かじかむ手で枝葉や樹皮を採集してゆく訓練生グループの様子を眺め、唯はひそかに溜息をつく。
「動きが硬いですね」
「仕方ないさ。たとえ正隊員だってここじゃあ気は抜けないだろう」
言葉と裏腹に警戒の色をおくびにも出さず、周防昌毅副長が目を細めた。この人はいつもこうだ。唯は再び嘆息するが、なるほど彼の言う通り、訓練生たちのぎこちなさは寒さのせいばかりではないのだろう。
国土の七割を山林地帯が占める日本において、地球保護機構――ECOのミッションエリアといえば大抵は山か海である。年に四度行われる指定管理区域の実地調査は地味ながらも代表的な職務の一つで、これに訓練生を随伴させてナマの現場を体験させるプログラムをアカデミーでは「特生調査野外演習」と呼ぶ。演習と名が付いても実務の一端には違いなく、運が悪ければ怪植物の毒にやられるかもしれないし、未知の猛獣に襲われて命を落とすかもしれない。
「それに、ほら」
周防が右方を示した。そういえば、彼の視線は随分前からある一点に固定されている。指された先を辿った唯の目に、幹の黒ずんだスギの木と、その根元にしゃがみ込んで手を動かしている青年の姿が映った。
「来た甲斐はあったと思うよ、僕は」
胸元に振動を感じ、唯はタクティカルベストのポーチを開けた。ECOPADを取り出してみれば、周防からデータファイルが送られてきていた。
「これは……彼についての資料ですか?」
「まあ開いてみたまえ」
言葉に従ってPADを操作し、ファイルの中身を画面上にぶちまけた瞬間、我知らず目を瞠っていた。十段階で評価される成績はほとんどの科目で八より上。入学二年目の後期にエンバレー奨学制度の対象となり、三年目で特選科への進級を果たす。何より壮観なのはずらりと並んだ資格の数々で、中でも「特生分類技能二級」と「対異生体白兵戦術初段」は正規の隊員でさえ取得に苦しむ代物である。
唯はアカデミーの出ではない。だがここまでの経歴ともなれば、この訓練生の能力を把握するのにカリキュラムの知識など必要ない。とんでもない奴がいたものだと素直に思う。
「ほら、有望なのもいるもんだろう」
「……この資料はどこから?」
「是非見てもらいたい生徒がいる、って竹内教官が寄越してきた。首席間違いなしの逸材だそうだ。こっちは青田買いに来たわけじゃないんだけどねえ」
幾つもの傷痕に覆われた四十がらみの男の顔が唯の脳裏をよぎった。竹内勇三はアカデミーの実技教官で、今回の演習の責任者でもある。若い頃は気科の調査隊にいたらしく、修羅場を潜ってきた者特有の風格を持っていた。現場を知っている良い教官、という印象だった。
興味が湧いた。
まっすぐ青年に歩み寄り、声をかけた。
「君、少しいいか」
「――はい」
青年がすっくと立ち上がる。唯も女性としては上背のある方だが、さすがに相手の方が少しばかり高い。こちらに向き直ったその顔立ちは際立った特徴こそないものの精悍で、装備ごしにも分かる引き締まった体躯と相俟って、ある種の凄みを青年に与えている。
「戦略特捜隊の桐島唯だ。和泉訓練生だな?」
唯が右手を差し出すと、青年は気後れするでもなくグローブを外した。鍛えられた厚みのある手が露わになる。
「第十三期訓練生、和泉眞です。よろしくお願いします」
握手を交わし、青年――和泉は鋭い双眸をかすかに和らげて一礼した。淀みない所作だった。およそ新人らしからぬ隙の無さだが、そんな振舞いが既に板についている。
竹内教官が推すわけだ。
唯は感心を覚えつつ、和泉の作業の跡に目を向けた。
他の多くの訓練生と同じくサンプル採取の最中らしい。足元に転がっているT字状の器具は小型のハンドオーガーであり、その横の透明なビンには掘り起こして間もないのであろう土が詰まっている。
目の付け所がいいな、と思った。自分でもそうする。もちろん樹木の汚染度も基本的な指標には違いないが、あたりの様子を見る限り、優先すべきは地面の下だ。
「微生物相が気になるか」
はい、と和泉は首肯して、落ち着いた声でこう言った。
「土壌汚染の可能性があります」
「――根拠は?」
「植生、特に草本層が減退しています。前回までの観測データからすると、この被覆率の落ち方は不自然です」
話す内容とは反対に頭上へと移っていく和泉の視線を追いながら、唯は秋季の調査報告書を思い出す。観測点M7からM9までの林床は隙間なく緑に覆われていたはずだ。しかし今、目立つのはうっすら雪をかぶった高木ばかりで、これまで調査隊を手こずらせてきた藪は著しく密度を減らしている。
秋季調査からはたったの三ヶ月しか経っていない。気温や日照時間の変化も多少は影響しているのだろうが、それらが最大の要因でないのは明白であった。
「汚染源は分析してみないことには何とも。ただ、幹の変色のしかたを見る限り、気流や雨に運ばれてきたわけではなさそうです。地中の生態バランスを調べればおそらく何か掴めるんじゃないかと」
「わたしも同じ考えだよ。実際、他の地域でこんな現象は起きていない。樹皮や葉をいくら持ち帰ったところで原因には辿り着かんさ」
「あれはあれで役に立つんですけどね」
「まあな。経過観察のために来ているのも確かだ」
この頃にはもう、和泉の力を試してやろうという気持ちは唯の頭から消えていた。彼は本物だ。精緻な観察眼もさることながら、特に好感を覚えたのは、自ら異変の原因を探り解決しようとする姿勢だった。素質だけではこうはいかない。
もう少し意見を交わしたかったが、時間を浪費すべきでもなかった。日没までに行程の三分の一は消化しておきたい。
「さて……悪いな。手を止めさせてしまった」
「大丈夫です。そろそろ移動ですか?」
「ああ。結論を出すには早い。続きはまた後で話そう」
唯は返事を待たず、周防のところに戻ろうと背を向けた。
薄い唇からこの日三度めの溜息が漏れた。和泉眞。たしかに期待できるだろう。それを喜べる状況ならどんなに良かったことか。
森には依然、息苦しくすらある無音が垂れ込めている。
その静けさを意識すればするほど、逆に唯の胸中はざわついた。何かが起ころうとしている――そんな確信にも似た予感によって。