ECO出撃す(1)
最初の惨劇は深い木立ちの中で起こった。
おんたけ檜の森公園は、名が示す通り、御嶽山を仰ぐ場所に拓かれたキャンプ場である。幾つかあった候補の中から柿崎荘太がここを選んだ理由は、ひとえに「空いていたから」という一点に尽きる。他の予約が入っておらず、実質的な貸し切り状態になるかもしれないと聞いて、一も二もなく週末の利用を申し込んだ。大型連休が終わったとはいえ、こんな穴場はそうそう見つかるものではない。
キャンプには三人の友人を誘った。いずれも大学のサークルの仲間だ。そのうちの一人、ひとつ下の後輩にあたる綿貫千絵は柿崎の交際相手でもある。
柿崎はこのキャンプの間に、千絵にペアリングを贈るつもりでいた――と言うよりもむしろ、そのためにキャンプの計画を立てたと言った方が実情に近い。彼女の誕生日は半年ほども先であり、他にうまい口実もなかった。とにかく日常から切り離された状況が欲しかったのだ。慕ってくれている年下の子に対して何を臆病な、とは自分でも思うのだが、こういうことには慎重なくらいがちょうどいい、というのもまた柿崎の持論なのだった。
結果的に、策を弄したことが奏効した。千絵の右手の薬指では今、自分がしているのと同じ指輪が光っている。
星明かりを映した川辺で二人きり。砂利の上に並んで座り、とりとめのない話に花を咲かせていたとき、それは唐突に始まった。
「いたっ」
千絵が両耳を押さえて呻いた。
「どうした?」
「嫌な音……キーンって、聞こえません?」
何も聞こえてなどこない。
ただの耳鳴りじゃないのか? ――まずその可能性を疑ったが、高校までバンドをやっていたという千絵が音に対して人一倍敏感であることを柿崎は勿論知っている。そういやおれ最近耳かきしてないな、そんなことを思い、
突き上げるような振動が来た。
今度の音は柿崎にもはっきりと聞こえた。そう遠くない距離で何かが爆ぜた音だった。
半ば茫然自失の体で、音のした方角へと向き直る。
いかんせん夜の山である。光源と呼べるものは僅かに欠けた月しかなく、密度の濃い林冠に遮られて肝心なものは何も見えない。それでも必死に目を凝らすと、濛々たる煙が舞い上がっていることと、どうやら火が燃えているわけではなく砂埃や土煙の類らしいことが見て取れた。
「あれ、テント張ったあたりじゃないですか……?」
そのひと言を理解するのにしばらくかかった。
怯えた表情を浮かべる千絵を引き寄せ、早足で森の中を戻る。一歩ごとに胸のざわつきが音量を増し、まるで繋いだ手から不安が伝染してくるかのような錯覚すら感じて、彼女を置き去りにして走り出さないだけの堪え性が備わっていたことに自分でも驚く。
そして、戻ったそこには、あるべきものがなかった。
テントが消えている。
二人の仲間の姿も見当たらない。
いや――まったく痕跡がないわけではない。掘り返されたように荒れ果てた地面と、巨大な陥没。柿崎は千絵から離れて陥没のふちへとにじり寄り、おそるおそる覗き込んだ。
「松田ぁ! 栗原ーっ!」
陥没の内部は真っ黒な闇に閉ざされ、深さを推し測ることはできない。ここに落ちることは即ち死ぬことだ。二人は穴の底に横たわってなどいない、そう信じるしかない。
「――先輩、こっち来てっ……」
渇いた喉から振り絞ったような千絵の声、
「何か見つかったか!?」
「こんなの、」
千絵が土をかき分けて摘み上げたそれは、一見して用途を想像できない布切れであった。どちらかと言えば薄手で、色は辺りの暗さのために判然としない。断面のほつれが激しく、大きな力によって無理やり引きちぎられた痕だろうと窺えた。
受け取ろうと右手を伸ばし、生地を掴み取った柿崎の指に、ぐしゃりと濡れそぼった感触が走った。
「わっ」
思わず取り落とす。目の高さに持ち上げた手を広げてみると、透明な液体が指の間で糸を引いた。
「きったねえ。なんて臭いだ……」
あまりに悪臭が強いせいで、それがどんな臭いであるのか、嗅いだ瞬間にはわからなかった。十秒おいていわゆる獣臭さだと気付く。水洗いする前の肉の臭いを何倍にも濃縮すれば、ちょうどこんな感じになるかもしれない。
石鹸で洗っても取れるかどうか。
顔をしかめつつ、足元の布切れへと目を戻す。
落とした際にひっくり返ったのだろう、先ほどまでは見えていなかった面がこちらに表を向けていた。その面に模様が入っている。よく知っている模様だった。途中から破れてしまってはいるが、見紛うはずはなかった。
松田のパーカーにプリントされていた、スポーツブランド「alynx」のロゴマークに違いなかった。
木々の合間から吹き込む風の音に、震えるほどの恐怖を感じた。
「――今すぐ山を下りよう」
途端、千絵の視線が非難めいた色合いを帯びた。二人を置き去りにするのか。険しい顔にそう書いてある。
その通りだよ、と柿崎は胸の内で居直る。言い出しっぺとしての責任があるのは自分とて百も承知だ。しかし、それを投げ出すのが薄情だとも異常だとも思わない。普通でないのはこの状況の方なのだ。
「麓に交番があったろ。あそこに相談して、」
ちゃんとした捜索隊を出してもらった方がいい。そう口にしようとした、まさに寸前のことだった。
突然、目の前の地面が噴き上がった。
隆起した土砂に持ち上げられ、柿崎はひとたまりもなくバランスを崩した。一〇メートル近くも滑り落ち、樹にぶつかってようやく止まる。打った背中をさすりながら、かぶりを振って視界の霞を払おうとする。
鼻先に、ペットボトルほどの大きさの白い何かが降ってくる。
重く湿った音をたてて土の上を転がったその白い何かに、どうにか明瞭さを取り戻した両目を向ける。
手だった。
人間の、手だった。
夜に閉ざされた森の中にあって、人膚の白さはひどく目立った。手首から後ろが無くなっている。五本の指が虚空を掻くように開かれている。
薬指の根元に、見覚えのあるリングが嵌まっている。
「……千絵?」
枝葉の隙間から差し込む月が、いっそう翳ったように思う。
遥かな高みから風が吹きつけてくる。掌にこびりついた液体と同じ臭いをしている。いやに生温い。五月の山に吹く風は、もっと冷たくなければおかしい。
柿崎は、そっと背後を振り仰いだ。
牙の並んだ口が、頭上から凄まじい速さで迫ってきた。
◇ ◇ ◇
『――お早うございます。きょう未明、長野県西部を震源とするマグニチュード五の地震が発生し、震度四の揺れが観測されました。映像は付近のキャンプ場の様子です。宿泊していた大学生四人が行方不明となっており、』
『――深夜より甲信地方から東海地方にかけて発生している群発地震ですが、つい先ほどにも震度三の揺れが観測され、未だ予断を許さない状況が続いています。気象庁の発表によりますと、御嶽山の火山活動が活発化しているおそれがあり、現在調査を進めて……』
『――えー、只今新たな情報が入ってきました。地球保護機構、ECOの戦闘機が二機、王滝村郊外に着陸した模様です。近隣の地区には昨夜から怪獣注意報が出ていましたが、その詳しい内容は発表されておらず、住民の方々の間に不安が』
『――の時間ですが、予定を変更して緊急特別番組をお送り致します。度重なる異常気象、怪獣の出現……果たして地球の将来に何が訪れようとしているのでしょうか? 環境激変の謎を追うため、さまざまな分野の有識者をゲストとしてスタジオにお招きし、徹底討論して参りたいと思います。コメンテーターは社会評論家の早稲谷健一氏、災害アナリストの韮崎修氏、超常現象研究家の桂俊章氏。そしてなんと、この場にはいらっしゃいませんが、国際環境NGO「CARL」のリリー・ハモンド代表ともビデオ通話が繋がっております。司会進行はわたくし榎戸史郎と、北乃すみれアナウンサーが務めさせていただきます』
◇ ◇ ◇
メディアや世間が混乱とともに事態を注視する一方、ECOはかなり早い段階で原因の特定を終えていた。
観測衛星〈フギン‐δ〉の磁気センサーは、最初の地震の発生時刻を二時二十七分と記録している。揺れは〇四秒から十六秒までの十二秒間続き、震源は王滝村の地下およそ十五キロメートル。液状化現象の発生がごく狭い範囲ながらも認められ、二万から三百万ヘルツの振動波が地表に漏れ出していたこともわかっている。そもそも粗い映像データは土煙の濃さも災いして何が何やらの有様だったが、巨大生物の影らしきものを辛うじて捉えており、その体長は五〇メートルを決して下らないと推測された。
この十二秒間の記録を、フギン‐δは関東総合基地へと転送した。SSSCの藤代隊長のもとに第一報が届いたのは二時三十三分のことだ。コマンドルームに駆けつけた四十一分には、既に警戒レベルは第二種まで上がっていて、現地周辺には注意報が飛んでいた。
それから朝にかけて八回の地震があった。
フギン‐δは律儀に仕事をこなした。震源は南へ向かって移動しているように見え、正体が怪獣であることに最早疑いの余地はないと思われた。
藤代は、壁いっぱいを覆う大型モニターから視線を剥がした。
隈の浮いた顔で部屋じゅうを見回す。どいつもこいつも自分とそう違わない面をしている。官邸、国交省、気象庁、自衛隊、警察――各方面との連携を図るために夜を徹して調整を続けた、その副産物であった。
――若い頃はこのくらい平気だったんだがな……。
苦笑しながら手元のECOPADに目を落とすと、デジタル数字が「八時五五分」を示していた。作戦開始まで五分を切っている。
藤代は笑みを引っ込め、再び顔を上げた。
コマンドルームは多数のオペレーターを収容する広いホールだ。モニターから遠い席ほど高い位置にあるという立体的な構造をしていて、最奥の列には参謀陣のシートが並んでいる。
そして、参謀たちの真ん中に座す壮年の男――彼こそが、ECO日本支部を統括する長官、榊弦一郎その人である。
榊の顔にもやはり疲れが見え隠れするが、両の眼だけは爛々と火を灯している。互いの目線が交錯すると、榊は力強く首を縦に振ってよこした。
藤代は頷きを返して、モニターへと向き直った。傍らのシートのバックレストに手を置き、
「佐倉隊員、現場と繋いでくれ」
「はい」
佐倉ほのかがキーを叩くと、モニター左に四つのサブウィンドウが開いた。ECOPADの内蔵カメラを通して、それぞれ持ち主の顔が映し出される。
「SSSC‐2」が周防副長。
「SSSC‐3」が山吹隊員。
「SSSC‐4」が桐島隊員。
「SSSC‐6」が和泉隊員だ。
彼らは最後に揺れが観測された地点の付近で待機している。人里から外れているのは不幸中の幸いと言うべきだろう。キャンプ場では犠牲者が出たのだ。つまり、今度の怪獣に人を避ける習性があるとは考えられない。
藤代は、ほのかの端末に接続されたマイクを掴みあげた。
「総員、作戦の最終確認だ。周防副長、状況に変化は?」
『ありませんね』
4WD型特殊車両〈スヴィー〉の運転席で、周防はきっぱりと断言した。
『震源が移動した形跡、それと侵食元素。どちらも今のところ、少なくともここからは検知できません。もっとも、地下深くがどうなってるかなんて分かったもんじゃないですけど』
「地上に出て人間を襲うやつだ、意味もなしに深く潜ったりはしないだろう。手順は変更なしでいくぞ」
『了解』
「――地中探査レーダーの用意は?」
これには山吹が答えた。
『一号機、照射準備OKです』
戦闘攻撃機〈レーベン〉のコクピットで、山吹はまさに計器類のチェックを済ませていた。ヘルメットを装着しているため表情はわからないが、声を聞く限り、気負ったところはなさそうだった。
「注意しろよ。お前のポジションが一番危険だ」
怪獣とどう戦うにせよ、まず土の中から引きずり出さないことには話にならない。だがレーダーの高周波を浴びせられた怪獣は、興奮していきなり攻撃してくるかもしれない。
『俺を誰だと思ってるんです?』
山吹はしかし、不敵な調子でそう言った。
『どれだけデカいか知らねえが、モグラなんぞに後れは取りません。すぐに釣り上げて片づけてやりますよ』
「頼んだ。――桐島隊員、和泉隊員。バックアップ態勢は整っているな?」
同じくレーベンに搭乗した和泉が応じる、
『二号機、問題ありません』
後部座席でガンナーを務める桐島唯が、
『いつでも行けます』
「よし……」
藤代は、もう一度だけ自らのECOPADに目をやった。
ちょうどその瞬間、デジタル数字が「九時〇〇分」に変わった。
息を吸う、
「――現時刻をもって怪獣殲滅作戦を発動する!」
声はコマンドルーム全体に響いた。
「SSSC、行動を開始せよ!」
モニターから了解の唱和が返り、コマンドルームに刺々しい空気が満ちる。
ECOの長い一日は、こうして始まった。