その名はキリエス(5)
藤代の語った作戦の概要はこうだ。
まず、山吹隊員が戦闘機からナパーム弾と自走爆雷を投下し、怪植物――コードネーム「バミュー」を焼却する。山林への飛び火には最大限注意を払うが、万一の際には輸送機で出撃した周防副長が消火剤を散布して延焼を食い止めるものとされた。いずれにせよ、バミューの全焼が確認された後には消火活動を行わねばならない。
周防にはもう一つ、特殊潜航艇ウェイバー9を運ぶという任務が課せられた。怪異の存在が明るみに出た今、もはや藤代に遠慮はない。事態の収束を長引かせるつもりはないとばかりに、使えるライドメカをフルに使いきる構えである。
もっとも、ウェイバー9は攻撃のために投入するのではない。バミューを倒してもレキウムが消滅するわけではないからだ。汚染の拡散を防ぐため、バミューの残骸を回収するのがウェイバー9の役目だった。
作戦開始は一三時〇〇分。
その時が来たら、和泉は唯とともにウェイバー9に乗り込み、水中へと潜っていくことになる。
操縦訓練は受けたが、本物を動かすのは初めてだ。
若干の緊張を覚えながらも「了解」と返して通信を切る。顔を上げ、霧の奥にそびえ立つ奇樹に目を戻した。
目を戻そうとした。
桟橋の上に、女の子がいた。
白いワンピース姿の華奢な背中。見紛うはずがなかった。奥多摩の山中で出会った、あの幽霊のような女の子だった。
キャンバスに描かれた絵画のようだった。
あるいは、本当に別の世界に迷い込んだのかもしれなかった。
網膜の裏に燃え立つような黄昏色がちらつく。それは「七・一七」の空の色であり、冬の奥多摩を染め抜いた光の色であり、和泉の夢に幾度となく現れた、壮絶なまでの激情の色だ。
我に返ったときには、女の子のそばまで歩み寄っていた。
「逃げないと危ないぞ。――といっても、君は承知の上なんだろうな」
鳶色の髪を揺らし、女の子が振り返る。
「私は戦うために来た」
それだけで、和泉の訊きたかったことが一つ消えた。
――やっぱり、君があの銀色の巨人なんだな。
そんな気がしてはいた。女の子の浮世離れした雰囲気は、記憶の中の巨人にどこか通じるものがあった。
女の子は少し首を傾げて、
「キリエスの意思こそが、私の存在そのものだから」
「キリエス……? 巨人の名前か」
相対する全てを断ち切るような鋭利さを持ちながら、限りなく澄みわたるような清らかさをも感じさせる、不思議な響きだった。
しかし、巨人のイメージにはよく馴染んだ。
「今、世界は大いなる冬の只中にあるわ」
唐突に、女の子はそう口にした。
「やがては黄昏に沈みゆく……その運命を変えるのがキリエスの使命。けれど、遂げるためには協力者が要る」
「それが俺?」
女の子がこくりと頷く。
「眞、あなたは選ばれたの」
どう反応すればいいのか掴みかねた。
――大いなる冬とは何だ?
――黄昏とは、世界が滅ぶという意味か?
新たな疑問が渦を巻く。とはいえ、晴らしたいのはそんな謎ではなかった。他の何をおいても聞いておかねばならないことを、和泉は正面からぶつけた。
「どうして俺なんだ?」
「それは――」
ほんの一瞬、女の子は狼狽えるようなそぶりを見せた。人形のように整った顔立ちに、儚げな憂いが去来したのが分かった。
女の子は、それ以上の弱みを見せなかった。
怜悧な眼差しが和泉を射抜く。形のよい唇が動き、
「あなたが、死を恐れないからよ」
急所に刺さる一言だった。
心の底から納得した。
女の子の語り口は相変わらずいちいち遠回しで、正直、咄嗟には意図を理解しづらい。だが最後の言葉だけは――銀色の巨人が自分を選んだ理由だけは、一片の曇りなしに信じられた。
不意に、女の子が湖へと視線を戻して、
「――あれは、あなたたちが考えているような大きいだけの花ではないわ。瘴気によって生まれたものはキリエスが討つ。そのためにも……」
和泉は、先回りして告げた。
「協力するよ」
女の子は、驚かなかった。
あなたの中には私がいる――奥多摩で死の淵に立ったとき、和泉は女の子の囁きを確かに聴いた。彼女がキリエスであるというのなら、和泉の選択などとうに知っていたのだろう。
答えは出ているのだ。十五年も前に。
「どうすれば君を手伝える?」
「幻視したとおり、バイフレスターを天にかざして」
――バイフレスター?
聞き慣れない言葉に眉をひそめたが、幻視という単語の方には心当たりがあった。夢の中の自分はどうやって変身していたのだったか。
懐から短剣状の物体を取り出す。
柄を握る右手に力を籠め、はたと気付いて、
「もう一つだけ、いいかな」
「なに?」
「君のことは何て呼んだらいいんだ? キリエスっていうのは、あくまで巨人の名前なんだろ」
女の子は、思いがけないことを訊かれたといったふうに目を瞬かせた。
ほんの僅かな間があって、
「ナエ……とでも名乗っておこうかしら」
「わかった。よろしく、ナエ」
和泉は今度こそバイフレスターを掲げた。
叫ぶ。
「キリエス――――ッ!」
バイフレスターから解き放たれた光が、和泉の視界を染め抜いた。
意識が蒼に溶けてゆく。
小さな温もりが自分に寄り添い、指を絡めてくる感触があった。ナエだと感覚的に理解する。自我の境界が混ざりあい、自分が「和泉眞」なのか「ナエ」であるのか区別できなくなった。
虹の橋を駆け上がり、人智の及ばぬ神聖へと至り、
刹那、
頭蓋の内側で苦痛が暴れた。
耳元で怒鳴られたときの痺れにも似ていたが、そんな生易しいものではなかった。身体的な息苦しさすら覚えて思考の乱れを抑えることができず、
(なんだ、これ!)
答えは頭の中から聞こえた。
ナエの声であった。
(この場所で命を絶たれた生き物たちの思念よ。キリエスの霊感は彷徨える魂の叫びを捉える。それを人間の感覚に変換すると、聴覚に落とし込まれるようね)
つまり、魚たちの霊魂の声なき悲鳴であるらしい。言語の形を成していないことも、物理的な音なのかどうかさえ判然としないことも、それならば確かに説明はつくのかもしれない。
これでは戦うどころではない。
(どうしたらいい!?)
(心を鎮めて、キリエスと同調しなさい)
(そんなこと言われても――)
(変質を受け入れるの。今のあなたは和泉眞ではなく、キリエスなのだから)
ナエの穏やかな声音に諭されながら、きつく瞑目する。
もとより固執するような己など持ち合わせていない。和泉眞をやめる。そんなことで克服できるなら、何者に変わることだって受け入れられると思った。
――俺は、俺でなくていい。
そして、決定的な変容が起こった。
視覚聴覚嗅覚触覚味覚、どれにも当てはまらない全く未知の感覚がひらく。これがキリエスの霊感なのか。形の合わないものを強引に捻じ込まれるような痛みは失せ、魂を魂として、まるで生まれたときからそうしていたかのような自然さをもって知覚する。
両の眼に光が灯る。
空と地上が視界いっぱいに映し出される。
一瞬の浮遊感に包まれ、直後、落ちる勢いのままに着水した。爆発めいた大音響。衝撃が湖を揺るがせる。生じた高波が桟橋を砕き、岸壁に繋ぎ止められていたレンタルボートの群れを呑み込んだ。
(もっと集中して)
手足の指の先にまで思念を伸ばす。
意識が満ち、五体のすべてに制御が及んだ。
豪雨のような水飛沫を浴びながら、二つの足で湖底を踏みしめ、沈めていた腰をゆっくりと上げてゆく。
「――ゼェヤッ!」
立ち込める白い霧の中、二つの影が対峙する。
(……でかいな)
遠目から眺めていたときは今一つ分かりにくかったが、こうして正面から相対してみると、バミューの大きさがよく理解できた。樹高は身長四〇メートルとなったこちらが首を反らして見上げるほどもあり、横幅は両腕を広げても抱えきれないほど太い。水面下でどうなっているのかは想像するのもおぞましかった。これほどの巨花だ、湖全域に根を張って養分を吸い上げているに違いない。
と、バミューに動きがあった。
血のように赤い蕾が、意思を持つかのごとく開いては閉じる。その色が紫がかった淡紅色に変化する。花弁の内側には乱杭歯のような棘がびっしりと並んでいて、さながら獲物に食らいつかんとするワニの顎を思わせた。
(来るわ)
迫ってきた顎を辛うじてかわし、キリエスは前に出た。
そのまま幹に拳を見舞う。しかし、樹皮の堅い守りに阻まれたのか、バミューに効いた様子はなかった。
(手に光を纏わせて打つの。心臓から送り出された血が、動脈を通って流れ込むのをイメージして)
(――こうか!)
胸の結晶体がひときわ強く輝きを放つ。体の青い紋様をなぞって光が走り、篭手のように発達した手首の器官へと集束した。凄まじいエネルギーが漲る。
ふたたび拳を固め、力の限りに突き出した。
「ゼェエアッ!」
打ち据えた箇所で光が爆ぜた。
衝撃に幹が、枝葉がぎしぎしと震え、バミューが激しく体を揺らした。まるで神経が通っているかのような動物じみた反応だ。なるほどナエの言うとおり、ただ大きいだけの植物ではない。
決着を急ごうと手刀を構え、エネルギーを注ぎ、
(いけない!)
頭上で花弁が口を広げた。
マッチを擦ったような臭気が漂い、キリエスの顔面めがけて粉塵が吹きつけられた。視界が黄色く塗り潰される。
(花粉!? 硫黄ガスに乗せて噴射したのか!)
キリエスは怯み、水に足を取られながら後ずさる。花粉の色はもっぱら硫黄によるものらしく、侵食係数はさほどでもない。だが、バミューの狙いは別のところにあった。
突如として水面が爆ぜ、蔓が飛び出した。
「ムッ――!?」
左右の腕が、胴が、首が、蛇のごとくに絡みついてきた蔓によって締め上げられた。水の底では隆起した根に足をとられる。引きちぎろうともがいたが、変異した植物組織は存外に強靭で、多少の抵抗ではびくともしない。
蔓の先端が一斉に割れ開いた。
何だ? ――訝るよりも早く、蔓の割れ目から黄緑色の粘液が迸り、キリエスの全身に浴びせかけられた。
「グアァッ」
粘液に触れた箇所で、炙られるような熱感が弾けた。
(強酸の……溶解樹液……!)
皮膚を溶かされているのだと気付いて、本能的な危険を感じた。痛みと嫌悪に身をよじるが、拘束が緩む気配はいっこうになく、焦りばかりが募ってゆく。
と、体の奥底で何かが跳ねた。
ドクン、ドクン――動悸にも似た感覚に突き上げられ、精一杯の力を振り絞って首を動かす。
胸の中心の結晶体が、点滅を繰り返していた。
(まずいわね)
ナエの念話にも切迫した調子が滲む。
(活動限界が近いわ。高次元存在であるキリエスがこの世界に顕現していられる時間は、あなたたちの単位で数えればせいぜい一八〇秒程度しかない。それを超えてしまうと……)
その先は聞くまでもなかった。
体感でわかる。約三分という限界を超過したとき、キリエスは二度と再び立ち上がる力を失ってしまうに違いなかった。
戦い始めてから二分は経過したはずだ。猶予はない。
(ちょっと荒っぽくなるけど、いいか?)
(あなたに任せる)
賭けに出る覚悟を、決めた。
「コォオォォォッ……」
精神力をかき集めて血流のイメージを作る。
四肢に光を送り込み、臨界まで凝縮し、
「ゼェエヤアァァ――――ッ!」
咆哮とともに、一気にエネルギーを逆流させた。
滑らかな銀色の肌を蒼いスパークが走り抜け、身体の至るところで火花と衝撃が炸裂する。粘液が蒸発し、蔓や根がバラバラにちぎれ飛び、破片が水音を立てて沈んでいった。
煙と蒸気を昇らせながら、キリエスがゆっくりと構え直す。荒々しく上下する肩と、明滅を続ける胸の結晶体がエネルギーの減衰を訴えかけてはいたが、双眸の輝きは未だ失われていない。
一方、手足の大半を失ったバミューの傷は深刻だった。くの字に折った巨体から血のような樹液を撒き散らし、切れ切れに花粉を吐き出している。
それでもバミューはあがこうとした。残った蔓をかき集めて水面から持ち上げ、身を守るように壁を作った。
致命の隙だった。
キリエスは両腕を十字に組んだ。
撃ち放たれた光線がバミューめがけて殺到し、緑の防壁をあっさりと貫通した。蒼い奔流はバミューの穢れた体組織を浸透して行き渡り、湖底に張った根までもを粉々に吹き飛ばした。
瀑布を逆さまにしたような水柱がキリエスの姿を覆い隠す。湖がもとの静けさを取り戻す頃、銀色の巨躯は跡形もなく消えていた。
変身が解けるや否や、和泉は湖に放り出された。息も絶え絶えに岸まで泳ぎ、文句の一つも言ってやろうと周囲を見回したが、ナエの姿はどこにもなかった。
「ったく……もうちょっと親切に下ろしてくれたって」
思わず悪態をついたとき、目の前にハウンドが停車した。
フロントガラス越しにもこちらが濡れていることは見て取れたらしい。唯はぴくりと顔を引き攣らせ、乗れ、とジェスチャーで示した。
助手席に座った和泉を一瞥して、
「GPSの反応が湖の上だったから、もしかしてとは思ったが……」
「投げ出されたんですよ」
まだ少し機嫌を損ねていた和泉はむっつりと返し、岸壁の方を指差して、
「桟橋が壊れてるでしょう?」
それで納得したのか、唯は追及してはこなかった。
和泉は空を見る。輸送機の影はない。
このまましばらく待機か――そう思ったのも束の間、唯は躊躇なくギアを入れ、ハウンドを発進させた。ナビには基地までの経路が表示されている。
「いいんですか? バミューの残骸は……」
「副長が回収するそうだ。無駄足はつまらないとさ」
「あー……」
いかにも言いそうなことだと思う。
「キリエスの光線、きれいにバミューだけ爆発させましたからね。そりゃ消火剤の出番はないか」
途端、唯が眉根を寄せた。
「キリエス?」
――しまった!
冷や汗が噴き出た。
「例の巨人のコードネームか? いつの間に決まったんだ?」
「いや、決まったというか……」
必死に考えを巡らせる。自分の身に起こったことをありのままに説明するのはさすがに憚られるが、なにしろ相手は唯である。下手な嘘は絶対にまずい。
「つまり、その……聞いたんです」
「誰に」
「白い服を着た女の子ですよ。ほら、前にも話したじゃないですか」
「君が奥多摩で見たという幽霊か。また現れたのか?」
「バミューと戦いに来たと言っていました。彼女が消えた後、巨人――キリエスが現れたんです」
ふむ、と唯は唸った。
「その少女が巨人の正体なのかもしれんな」
和泉は相槌を打とうとしたが、出てきたのは派手なくしゃみだった。
唯が呆れたように笑い、エアコンの温度を上げた。
◇ ◇ ◇
後日、西湘アグリの役員と県議員とが贈収賄の容疑で逮捕された。便宜を失った会社を多額の損害賠償が吹き飛ばしたが、それはまた別の話である。