その名はキリエス(4)
神奈川県警と直接の関わりを持ったことはない。それでも、唯の名前と顔は実にあっさりと通用した。
幼少の頃から嗜んできた武道でインハイとインカレを制したことは、唯にしてみれば過去の栄光でしかない。良いことばかりではなかった。世間からの注目は煩わしかったし、知人の数は自分の意思を離れて増えていった。そうした日々が今になって黄門様の印籠に化けるのだから、世の中何がどう転ぶか分からないものだ。
奥の席に座っていた中年の男は小椋と名乗った。小田原署の地域課に勤める警部補で、この合同調査委の警察側の責任者だという。小椋もまた、唯の名前に聞き覚えがあるという一人であった。
小椋はパーテーションで区切られた隅のスペースに唯を案内した。会議机が二つ向かい合わせに並んでいる。外部の人間との打ち合わせはそこで行っているらしかった。
「――正直なところ、」
唯が調査の進展について問うと、小椋はいかにも難しそうに唇を曲げた。
「我々がやっているのは湖まわりの警備とか、町民やマスコミへの対応が主でしてな。お話しできることはあまりない。作業そのものは保健所から来てる人たちの方が手馴れているんです」
「では、調査の主導権は自治体にあると?」
「なにしろ事件性がありません。一次報告書はご覧に?」
「酸素不足が原因とのことでしたね」
表向きは、と内心で付け加える。
実際、あのレポートには唯も違和感を覚えていた。初めに結論が決まっており、それと辻褄の合う数値だけを選んで記載することで、読む者が深刻な印象を抱かないように作られたもの、という気がするのだ。
「現状、他の要因が見当たらないんですよ。これがもし塩素の濃度が高いとか、毒物が混入していたとかであったのなら、何者かによる犯行という線も出てくるとこなんでしょうが……」
死骸の鰓や消化管から有害物質は検出されず、感染症の疑いもなし。大半が口を開けて死んでいたことからも酸欠の可能性が高いんだそうです、と小椋は語る。
「隅々まで調べ終わっているんですか?」
「いやいや、まさか。湖尻方面は手つかずです。この通りでかい湖ですから、来週いっぱいまで時間をかけます」
死骸を片づけながらの作業だ。そんなところだろうと思ってはいた。
「つまり、未調査の水域から何か見つかる可能性も?」
「否定できませんな。だいたい、どうして酸素が減ったのやら……。ひょっとするとあなた方の領分なのかもしれません」
唯は言葉を交わしながら慎重に相手を観察する。山吹や和泉の言うように情報を秘匿しているのなら、動揺の片鱗くらいは見え隠れするかもしれない――そう期待してのことだったが、小椋は顔つきを変えもしなければ声に緊張を含ませもしなかった。
――どっちだ?
本当に後ろ暗いものがないのか、はたまた表に出さないだけなのか。唯の勘は前者だと告げる。だがそれでは、一次報告書の不自然さという謎が残る。
警察は実作業に携わっていない、と小椋は言った。
その言葉が真実だとすれば、疑うべきは――
「……なるほど。参考になりました」
唯は一礼して席を立った。ここには警官しかいない。これ以上話を聞いても時間を無駄にするだけだろう。
「もう行かれるんですか? あと一時間もすれば保健所の人たちもこっちに顔を見せますよ。なんなら連絡して急がせますが」
小椋の視線が追ってくる。唯は迷わなかった。
「それには及びません」
たとえば風評への懸念。町民の混乱や噂の拡散を防ぐためにひとまずのオチをつけようとした、といった意図での隠蔽ならまだ可愛げもある。
しかし、仮にも合同で調査チームを組んでいるはずの警察にまで情報を明かしていないとなれば、そこには理由があるはずだった。会って問い詰めたところで保健所――要するに県の職員は「仰る通りです、実のところ我々も異常に気付いてはいますが、公にしたくない都合があるのですよ」とは白状すまい。
「よろしいんですか?」
「仕事の邪魔をしてはいけませんし、連れを待たせていますから」
水質についての正確なデータなら和泉が採取しているところだ。わざわざこの場に留まることはない。
「ご協力ありがとうございました。わたしたちで力になれることがありましたら、こちらの番号までご連絡ください」
唯は連絡先を小椋に伝え、部屋を後にした。
ホテルの自動ドアを通ったとき、見計らったかのようなタイミングでECOPADに着信があった。こちらの位置はコマンドルームからでもGPSでモニターできる。唯が外に出たことを知って連絡してきたのだろう。
回線を開くと、唯が応答を返すより早く佐倉ほのかの声が飛び込んできた。
『唯さん唯さん、いま通信だいじょうぶ?』
およそ勤務中とは思えない砕けた口調。ほのかが配属されてきたときには軽く衝撃を受けたものだが、慣れてしまえばこれも一種の人当たりの良さだと思えてくる。藤代隊長もこういったことを口うるさく咎めるタイプではなかったし、周防副長に至っては本人があれだ。山吹隊員がそれとなく苦言を呈したことはあったようだが、結局は「まあいいか」というところに落ち着いたのか、最近ではすっかり黙認していた。
「構わないぞ。ちょうど調査委への挨拶も済んだ」
『どんな様子だった?』
「まだ警察関係者しかいなくてな。あまり有力な情報は聞けなかった。どうも、警察と県との連携がうまくいってない……というか、県側が腹に一物抱えているのかもしれない」
『県が?』
「確証はない。何となくそう感じただけだ」
『――ふうん。だったら当たりかな。あたし、唯さんの何となくが外れたの見たことないし』
それから数秒の間、ほのかは沈黙した。
胃に堪える沈黙だった。
間違いない。賭けたっていい。「SOUND ONLY」の文字列が表示された省電力モードのECOPADの画面の向こうで、ほのかの少女のような顔には、まさに悪魔のような笑みが貼り付いているはずだ。
『じゃ、別の角度から攻めてみますか』
県庁のサーバーに侵入して怪しいファイルを引っこ抜いてみる、とでも言い出すのではないかと思った。
違法な捜査は控えろといつも言われているだろう――唯がそう釘を刺すと、ほのかは「人聞き悪いなあ」と笑って、
『隊長の指示ですってば』
「どんな」
『芦ノ湖のまわりで他に変わったことがなかったかどうか、ここ一か月以内に絞って調べろって。口コミの方がダイレクトに情報拾えるってことで、SNSとか掲示板の書き込みとか漁ってたら――あったの』
元箱根の外れにバラ園がある、とほのかは言った。
バラ園といっても観光スポットとしてはさほど有名ではなく、研究目的での栽培や保存、品種改良などを行う、どちらかといえば学術的な性格の強い施設であるらしい。
そこが盗難に遭った。
「盗難って……何が盗まれたんだ?」
『サンショウバラの木だって』
唯は眉をひそめた。
「花や枝ではなく、木を丸ごと?」
『らしいよ』
サンショウバラといえば木立性の自生種だ。通報される危険を冒してまで私有地から盗む奴などいるだろうか。
百歩譲ってそこに目をつぶるとしても、育っていれば五メートルの高さにはなる木をどうやって持ち去ったというのか。
「いつ盗まれたかは書かれていたか?」
『十日前だね。話を総合するに、一晩で魔法みたいに消えたみたいなんだよねぇ。不審なトラックを見たって人もいないし……』
唯は「SOUND ONLY」を見つめたまま考える。
任務は湖で発生した大量死の調査だ。盗難の犯人捜しではない。
しかし、遠く離れた点と点が信じがたいような線で結ばれるのは、自分が身を置く世界では決して珍しいことではない。
「――わかった。地図をくれ」
『送ったよ。これでなにか出てきたら、隠してた連中、芋づる式に捕まえられるんじゃないかな。そうなったら唯さんお手柄だね』
おどけた調子で大事を口にするほのかと反対に、唯の心は重くなった。人間による犯罪が裏に潜んでいるというのは、到底愉快な想定とは言えないのだ。
しかし、ほのかは正しかった。
不可解な盗難。不可解な大量死。のどかな町で立て続けに騒動が起こったなら、関連を疑うのがECOにおける定石だ。
バラ園の管理人は三十代半ばと思しき女性で、名を茅野といった。色白で鼻すじの通った美しい顔立ちだが、今は疲れからか目元に隈が浮いており、病的な印象を与える風貌となっている。
盗難について話を聞かせてほしいと唯が頼むと、茅野はどこかほっとしたような表情を見せた。
「警察には届け出たんですが、捜査していただくことは難しいようで……今度の湖の騒ぎで町全体がそれどころではなくなってしまいましたし、いよいよ諦めかけていたんです」
茅野の証言は、ほのかの持ってきた情報とほぼ一致していた。もちろん異なるところも無いではなかった。サンショウバラ一本が被害に遭ったのではなく、同じ区画で栽培していた蔓バラ数本も同時に消えていたと茅野は語った。
「こちらがバラの植えてあった温室です」
唯は現場を見るなり、人の手による犯行の難しさを悟った。
温室の作りはごく一般的なガラス張りだ。通路の両脇に大小のプランターが並び、色とりどりのバラが花を咲かせている。サンショウバラは四方を取り囲むようにして植えられており、温室の壁を緑色に染めていた。
その列が、ある一角で途切れている。
すぐ後ろのガラスが派手に割れていて、いかにも応急処置といったようにアクリル板で補強されている。透明なアクリル板越しにコンクリート製のブロック塀が見え、やはり穴が開いているとわかる。
そして、穴を潜った先に道はない。
塀の向こうは急な斜面になっていて、斜面を下りればあとはもう、芦ノ湖の碧い水面に転がり落ちるのみだった。
「……念のため伺います。監視カメラなどは?」
茅野は天井を指さした。
「あそこに設置してありました」
「してあった?」
「バラがなくなった夜に壊されてしまって……ええと、たしかそこの隅に片してあったと思います」
唯は視線を移して、
「なんだ、これは……」
思わず呻き、近寄って破片を拾い上げた。
機械の残骸であることは辛うじて見て取れる。しかし、異様な有様であった。原型を留めないほどに叩き壊されているのみならず、強酸でも浴びせられたかのように溶解しているのだ。
ふたたびバラの植わっていたあたりの土に目をやって、何かが埋まっていることに気が付いた。
地面に挿して使うタイプの肥料だろう。底が膨らんだ容器を振ってみると、液体の跳ねる音がした。遮光のためか容器自体が黒く塗られていて、中身の色はわからない。
「珍しい形のアンプルですね」
「ああ、その液肥ですか。製造元の西湘アグリさんとは付き合いが長くて、開発に協力したりもするんです。それは発売前に回してもらった試供品ですが、今は普通にお店で買えますよ。入れ物の色と形は変更になったみたいですけど」
「ふむ……頂いてもいいですか?」
「ええ、もうそこに挿していても仕方ないですし」
唯はアンプルを制服のポケットにしまい込んだ。
頭の中では既に、これまでに得られた情報が一本の線に繋がりつつある。愉快な想像ではなかった。
正午が近づいていた。
ECOPADに警報が走り、第一種警戒態勢が発令されたことを伝えてきた。自分はまだ報告をあげていない。とすれば、和泉が何かを掴んだのだ。
――和泉は湖水を調べていた。
気付いた瞬間、唯は血相を変えてECOPADを起動した。
◇ ◇ ◇
貸しボート屋のオヤジに礼を言われた。湖がこんな状態では客は来ない。県やECOのお役人さんが借りていってくれるのは助かる――どうやらそんな話らしい。安全が確認されるまでは一般人による航行は禁止だ。それでなくとも魚が浮いてから既に三日、怖いもの見たさで訪れる者もめっきり少なくなり、周辺はどこもかしこも閑古鳥が鳴いていた。
途中、オヤジは奇妙なことを口走った。
――兄ちゃん、鼻上げって言ってわかるか?
和泉のいた養護施設では金魚を飼っていたので、よく知っていた。水替えや餌やりが和泉の仕事だったからだろう、和泉が水槽に近づくと、金魚たちは水面近くに顔を出して口をぱくつかせたものだ。
和泉が頷くと、オヤジは遠くを見るような目つきで、ぼやくような口ぶりでこう語った。
――先週からだったかね、ちょくちょく見かけるようになってた。てっきり虫でも食ってるんだと思ってたんだけども、今にして思えば、ありゃ苦しがってたんだなあ……。
そのとき、和泉はふと、足元が小刻みに揺れているのを感じて動きを止めた。オヤジと顔を見合わせ、即座に二人で身を屈める。揺れは時とともに激しくなった。柱が軋み、天井からぱらぱらと埃が落ち、壁に立てかけてあった手漕ぎボート用の木製の櫂が甲高い音とともに倒れた。
振動と轟音が極限に達した瞬間、外で一段と大きな水柱があがった。噴き上がった水があたり一面に滝のごとくに降り注ぐ。
「――何だ!?」
ECOPADが鳴り、唯の声が響いた。
『和泉隊員っ! 無事か!?』
負けじと大声で返す。
「もう岸に上がってます!」
『安全距離まで下がって待機しろ!』
和泉は即座にオヤジを立たせ、店を飛び出した。オヤジの背を押しながら走る。ホテルの玄関から従業員が逃げてゆくのが見えた。調査本部に詰めていたのであろう警官たちがそれに続く。
『相手の正体が判った。わたしたちの管轄だ!』
背後を振り返った和泉は、白い霧を巻き上げて荒れる湖の中心に、塔のごとくに聳える威容を目の当たりにした。
『敵は植物――怪獣化した植物だ!』
それは湖底に太く根を張り、幾重にも絡み合う蔓によって水上に編み上げられた、天を衝くほどに巨大なバラの姿をしていた。
オヤジを先に逃がし、和泉はひとり巨花を睨む。
ひときわ大きな真紅の蕾が「頭」にあたるのだとすれば、支える幹は「胴」となる。何十本もの茎や蔓が縒り合わさって途方もない太さに達した「胴」は、どうやら中心に樹木を内包しているようだった。幹には「手」も生えている。ノコギリ状の縁をもつ、左右一枚ずつの分厚い葉だ。
霧に包まれた湖と、奇怪な薔薇。眼前の光景にはあまりにも現実感がなく、まるで幻想の世界に迷い込んだかのような錯覚すら起こしそうになる。
『――液肥のアンプル?』
ECOPADからの声で我に返った。
『盗まれたバラに使われていたもの、という意味かね?』
『はい。僅かですが中身も残っていました』
周防と唯だった。個別の直通回線ではない、隊のメンバー全員に繋がる共通チャンネルで話している。
『最近売り出された製品と同じものだそうです』
『同じ、とは?』
『試供品なんです。メーカーと直接つき合いがあるとのことで、市場に流通する前に回してもらったんだとか』
町内のバラ園が十日前に盗難届を出していたという情報をほのかが掴み、唯が赴いて手がかりを回収した――つまりはそんな話らしい。
「バラ園……」
十日前に忽然と消えたバラ。
先週から見られたという魚の鼻上げ。
三日前の朝に湖面を埋め尽くした大量の死骸。
そして今、異変の正体としてついに屹立した巨大植物。
すべての出来事がパズルのピースのように連結されてゆく。この地で何が起こったのかは、もはや考えるまでもなく明らかだ。
和泉の答えを肯定するかのように、唯は緊迫した声音で告げた。
『侵食元素反応が出ました。〇・八二ノルダル』
やっぱりそうか――和泉は苦虫を噛み潰す。
盲点だった。そもそも湖水が汚染されていたわけではないのなら、いくら水質を調べたところで原因がわかるはずもない。
こみあげる徒労感を堪えながら、二人の会話に割り込んだ。
「侵食元素を溜め込んだバラが集まって一個の生命単位を作った……それが湖の養分を吸って成長したのが、奴の正体ってことですか」
『湖底では光合成もできんだろうからな。あれほど巨大な植物が呼吸をしていたのでは、酸素が減って当然だ』
こちらに負けず劣らずの仏頂面で唯が応じる。
『肥料のメーカーの西湘アグリは、このあたりでは有力な会社だと聞くが……事実を知っていて隠蔽を図ったのなら、とんでもないことだ!』
憤懣やるかたないといった様子で吐き捨てる唯に、和泉は深い共感を覚える。こんなものは怪獣災害ではない。人災だ。
液肥のメーカーが不祥事の発覚を恐れたことと、最終的に調査委が工作を行ったこと。途中いかなるルートを経由したのであれ、この二点はもう覆るまい。
『まあ、たしかに金の流れを追ってみたくはあるね』
周防だけが、熱量のない口ぶりを保っていた。
『でも、桐島くんの読みが正しければ、警察に圧力がかかっているわけじゃないんだろう? そちらの捜査は彼らに任せてしまっても良いのではないかな』
唯がむっと言葉に詰まる。震える息遣いに込められた怒りがECOPAD越しにも伝わってくる。
唯に味方したい心情は大いにある。しかし周防の言う通り、ここは割り切らねばならない場面だった。責任の所在は後でいかようにでも追及できるが、怪植物を放置して生じる損失は物理的にも経済的にも計り知れない。
もっとも、和泉が口を挿む必要はなかった。
『無論、それが筋でしょう。帰ったら文書にまとめます』
事も無げに、とまではいかない。それでも唯はたぎる義憤を嚥下して、浅い溜め息とともに自ら軌道を修正してみせた。
――見習わなきゃな……。
山吹隊員との口論が思い起こされ、和泉はひそかに恥じ入った。唯に比べれば自分などまだまだ青い。
『で、作戦の方針は?』
『馬鹿げたサイズとはいえ植物は植物だ。火器が有効だろうね』
『相手は湖から水分を吸い上げているんですよ?』
『いくらなんでもナパーム弾と機雷で燃やせないってことはなかろう。まさかそんなところで除草剤を撒くわけにもいかんし』
楽観的なようでいて理に適った見立てだ。幸いにしてと言うべきか、怪植物は湖のど真ん中にいる。ピンポイントで攻撃を仕掛ければ、四方を囲む山々への被害は抑えられるかもしれない。
『決まりだな』
画面の向こう、周防の後ろで藤代隊長が腰を上げるのが見えた。
『第四種警戒態勢を発令する! これより怪植物をバミューと呼称。SSSCの戦力をもって殲滅にあたる!』